レコードの逆回転

柚子

第一話

 冬休みが明けた日、シドはジミーの学校に転校してきた。色白で黒髪のシドはどことなく不健康そうだが、その白い顔は吸血鬼とか、そういう類のものを彷彿とさせながらも端整で美しかった。シドはジミーの隣の席になったが、ジミーが「よろしく」と言ってもシドは黙って少し頷くだけで、目を伏せてしまった。シドは無口で、話しかけても最低限のことしか答えない。あまり目を合わせようともしないし、自分から何かを尋ねるようなこともしない。成績はすこぶるよかったし忘れ物は絶対にしなかったが、遅刻や早退が多かった。一体どこで何をしているのか。何を考えているのか。そういう得体の知れなさからくる怖さが、シドを包んでいた。授業中、ふと横を見たジミーはシドの横顔のこけた頬や光に透けそうな肌にギョッとすることがある。シドは少し不気味で、また神秘的とも言えなくもない不思議な雰囲気を纏っていた。

 だから、ジミーはシドが虫や動物の死骸を集めているという噂を聞いても、あまり驚かなかった。

「それで、シドはその死骸で何をしてるっていうんだ?」

 その噂の発信源のジョンは、ジミーにそう聞かれて口を尖らせた。

「知らねぇよ、んなこと。気持ち悪い奴だから気をつけろよってことさ」

「なんで俺がそんなに気をつけなきゃいけないんだよ?」

「お前の家、あいつの近くだろ」

「え?」

 なんだ、知らないのかよ、とジョンは小馬鹿にしたように鼻で笑って、シドの家の住所を口にした。それによると、ジミーの家のはす向かいの二軒先が、シドの家だということだった。そこは昔貴族が住んでいたとかいないとかいう噂のある大きな屋敷で、五、六年前に空き家になっていたはずだった。

「あそこ、人が住んでるように見えなかったけど」

「でも、そういう話だぜ」

 ふーん、とジミーは適当に返事をした。薄ら笑いを浮かべたジョンから目をそらして、窓の外に向ける。そこへちょうど、シドが遅刻して登校してくるのが見えた。

「死骸集めてから登校かな」

 ジョンが歩いてくるシドを笑って指差した。そのとき、声など聞こえるはずもないのに、ふとシドは顔を上げてこちらを見上げた。ジョンはその高慢ちきな表情を一瞬こわばらせ、ジミーの方を向いた。ジミーはその気配を感じながら、シドを見つめ返した。決して睨んでいるのではないのに、何か強い気迫で迫ってくるような、シドの目。今にも雪が降りそうな暗い空の下、その顔だけが妙に白く明るく見えた。


* * *


 家に帰る途中、ジミーはシドの屋敷の前で足を止めた。昔、空き家になったばかりの頃、この家に忍び込んだことがある。黴くさく埃っぽかったが、作りはなかなか立派で、螺旋階段のある四階建ての屋敷だった。

外から屋敷を見渡すと、一番上の階の端の部屋が目に留まった。ジミーが昔屋敷に忍び込んだとき、物置のようにされていた部屋だ。古い絵画や彫刻など、今考えればそれなりに価値がありそうなものがたくさん置いてあったことを思い出して、ジミーは少し悔しく思った——もしそれを売っていたら、ギターくらいは買えたかもしれない——ジミーの頭の隅を、そんな考えがよぎる。

 シドの部屋はどこだろう。あの四階の隅の部屋だろうか。変わり者のシドなら、あんな部屋に住んでいるかもしれない。あの部屋からは、確か海が見える——

 そんなことを考えながら屋敷を見上げていると、その四階の端の部屋からギターの音が聞こえてきた。曲は分からないが、すごくうまいのは確かだ。それに、今まで聴いたことのないような音だ。くぐもって、柔らかいけど、芯のあるギターの音。シドだろうか……? ジミーはギターにあこがれていた。それも、もう何年も。今は父親の古びたウクレレを弾いているが、いつかはきれいなアコースティックギターを手に入れるのが彼の夢だった。

 屋敷から聞こえてくるギターの音に、ジミーは興味をひかれた。どんなレコードでも、あんな音は聴いたことがない。曲自体は長調で明るいのに物悲しい音。アンバランスと言えばアンバランスだが、そのギターの技術と相まって、そのアンバランスさまでを一つの作品としているような雰囲気だ。あれはシドだろうか。シドはギターなんか弾くように思えないが、でも、あのシドの雰囲気は、このギターとよく似ているようにもジミーには思えた。強く、美しく、光に溶けてなくなってしまいそうな……

 ギターの音に呼び寄せられるように、ジミーは屋敷の敷地に一歩踏み入れた。あれを弾いているのがシドだったら——シドだったら? シドだったらどうするというのだろう。なんて言うつもりなんだろう。それでもジミーは、ゆっくりと屋敷の入り口の扉に近付いていた。とにかく、もっと近くであれが聴きたい、そう思い始めていた。ギターはジミーの夢だった。そうだ、それで、もしあれがシドだったら、ギターを弾かせてもらおう。ジミーはシドの噂や昼間の冷たい目を思い出して、何度も引き返そうかとも思った。でも——

 ジミーは玄関に立って、ライオンのドアノッカーを握って三回、扉をノックした。

随分長い時間のように感じた数十秒が過ぎて、誰かがゆっくりと歩いてくる音——木の床を固い靴で叩くような足音が聞こえてきた。ジミーは唾をのんで少し身構える。シドか、シドの家族か……どっちにしろ、うまくシドの家に上がり込めるようには思えなかった。

 そして、ギィと蝶番の軋む音がして、ゆっくりと扉が開いた。

 出てきたのは若い女性だった。シドと同じ黒髪に、灰色の瞳だ。母親ではない……妹のようにも見えるし、姉という気もする。ジミーが何も言わないでいると、その人はジミーの制服を見て、

「シドのお友達?」

と尋ねた。ここはイエスと言うべきか、それとも……?

「……そ、そうです」

 咄嗟にそう答えると、彼女はにっこり笑って「どうぞ」とジミーを中に促した。


「私はアン。シドの姉よ」

 応接間にジミーを案内してお茶の準備をしながら、彼女はそう名乗った。てきぱきと動くアンは、本当にシドと血が繋がっているのだろうか、というくらい溌剌として生き生きしていた。

「転校先で、もう友達ができたなんて。シドには珍しいことだわ」

 ジミーの前にケーキと紅茶を並べて、アンは「シドを呼んでくる」と応接間を出て行ってしまった。嬉しそうなアンを見ていると、ジミーは心が痛んだ。シドとジミーは友達でもないのに、嘘をついて勝手に上がり込んでしまった……。ジミーは急に、シドの家の、わざわざ応接間なんかに通してもらったことを、申し訳なく思った。シドとは席が隣なだけなのに……

 そんなことを考えているうちに、シドが螺旋階段を降りてくるのが目の端に映った。ジミーは慌ててシドの方を振り向いて、少し驚いたその顔に、弱々しく手を振って笑いかけてみた。

「何の用?」

 いつもよりいくらか感情のこもったような声で、シドがそう言った。怪訝そうな顔をしている。ジミーは言葉が見つからずに、しばらくシドの顔を見つめた。て言おうかなんて、ジミーは全然考えていなかったのだ。

「……ギターの音がしたから、気になって」

 シドは黙ったままジミーを見つめた。その感情のこもらない冷淡な目に映った自分が自分を見つめ返すのを見ながら、ジミーは深い後悔に襲われた。ああ、なんでシドの家なんか訪ねてしまったのだろう。人見知りのくせに、今までロクに関わったことのないクラスメイトにギターの話をしようなんて、無理な話じゃないか。ジミーは自分を責めながら、立ったままのシドを見つめる。灰色の瞳が真っすぐ突き刺さって来る。

「あれを弾いてたの、君?」

 やっとのことで言葉を紡ぎ出すが、シドはだからなんだ、とでも言いたげな表情で黙ったままだ。

「あの、すごく上手だなぁってさ」

 ジミーがそう言うと、シドの表情が少し軽くなった。ひそめた眉が少しだけ下がる。

「あの、それでさ」

 ジミーは大きく深呼吸した。

「俺にギター、教えてくれない?」

 シドは大きく目を見開いた。そんな質問をされるとは、想定外だったようだ。

「だ、駄目ならいいんだけどさ」

 ジミーはシドを上目遣いで見つめた。シドの表情からは、何も読み取れない。

「……いいよ」

 しばらくの沈黙の後、シドがゆっくり口を開いた。

「本当に!?」

 ジミーは勢いよくソファから立ち上がった。紅茶のカップが揺れて、ジミーは慌ててそれを手に取る——まさか、本当にオッケーが出るとは思わなかった。あの音を近くで聴いて、しかもギターを教えてもらえるなんて。願ったり叶ったりだ。シドの噂はまだ気になったが、今はそんなことは問題でないように思えた。

「部屋に来いよ。ギターは二本持ってるんだ」

 シドはそう言って、ジミーに手招きした。ジミーは紅茶とケーキを持って、シドの後に続く。なんだ、案外普通のやつじゃないか——ジミーはそんな風に思って、少しほっとした。


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