第12話 帝位

「どういうことなのだ!」

 帝都帝国軍参謀本部会議室にアルベーダの怒号が響いた。

「リョーレ! 戦争に勝ったと思ったらこの報告はなんだ⁉ 偉大なる恐怖帝が戦死しただと? この作戦を申し出たのは貴様だったな、どう責任を取るつもりだ!」

 唾を飛ばすアルベーダ以下数名の王侯貴族たちがリョーレ将軍に詰め寄る。

「それだけではないぞ! なんだこれは……国庫が、帝国の蓄えがまるでもぬけの殻ではないか!」

「これでは国が回らない。凱旋した兵たちの褒賞どころか帝国軍そのものの維持すら難しいのではないか? どうなんだ将軍!」

 リョーレは神妙な顔で手を組み、大きく息を吐いて言った。

「……仰る通りであります。恐怖帝の戦死も資金の枯渇も全て戦争の長期化に起因するものであります。戦争の失敗は参謀である私の責任。このリョーレ、次期皇帝の命ずるままいかような処分でも甘んじて受ける所存であります」

 時期皇帝の命ずるまま。この言葉が王侯貴族たちにとっては目の上のこぶが取れた合図だった。

 皇帝が死んだ。それは間違いない。ならば必然、次の皇帝を立てる必要がある。今この場にいるのはいずれも帝位継承権を有する諸侯である。領主という肩書に甘んじてはいるが元を辿れば王家から別れた分家の末裔であり、立派に王の血筋だ。この混乱に乗じてあわよくば玉座を得ん、と誰もが思っていた。

 それがこうして一堂に会しているのだから当然多少乱暴な手段に出ることもやぶさかではないということで、参加者はそれぞれ私兵を待機させている。

そんな彼らにとって帝国軍とそれを事実上取り仕切っている将軍リョーレは邪魔で、真っ先にこのレースから排除したい存在だった。

 彼らは思惑通り、戦争責任を全てリョーレに押し付けて帝位争奪戦から降ろすことに成功したのだった。

「ふん……まあそういうことなら貴様の処分は置いておいて、先ずは早急に次の皇帝を決めねばなるまいな」

 アルベーダのにやけ声が場の空気をいやが応にも張り詰めさせる。不吉な沈黙を破って年老いた領主、ファイナスが口を開いた。

「本来であれば慎重を要する議題ですが、如何せん急を要する事態です。栄誉ある帝国としては帝位空白などもってのほかです。どうでしょう皆様方。推薦などございますか? ……或いは自薦でも」

 再びの沈黙。各人が出方をうかがっている。

 直接的な物言いは避けつつ、しかし確実に自分が次期皇帝となるような流れに持っていきたい。そういうギリギリを責めるチキンレースに躍起になっている。

 ただ一人を除いて。

「どうだろう、ここは吾輩が次期皇帝ということでよろしいのではないか?」

 この瞬間のアルベーダはチキンレース会場に投げ込まれた爆弾そのものだった。なにもかも台無しである。

「自慢ではないが我が領地はこのところ景気が良い。治安も良いし、実によく治められていると方々で評判でなあ! 此度の戦争にも特に貢献したことであるし、まあその吾輩の手腕を疲弊した帝国の再建に活かしてはどうかという提案なのだが――」

「ま、待たれよアルベーダ卿……いくらなんでも話が性急ではありませんかな。確かに貴公はこの場で最も王家に近い血筋であられる。自薦なさるということなら止めはするまいが、もっとよく協議しなくては」

他の貴族もこれに同調して「その通りです」「まあ落ち着いて」と口々にアルベーダを嗜める。しかしアルベーダは訊く耳持たず、顎を撫でながら言った。

「ああそれにほら、ゲシュタルト商会! 帝国全土で活動し、今や軍属にまでなったあの商会も我が領のものであるし、会長のフロイトは吾輩の下僕である。その上に立つ者ならやはり吾輩であるほうが何かと都合が良いのではないか?」

 アルベーダにとってはなんてことない“自分が皇帝に相応しい理由”の一つを語ったに過ぎないこの発言が結局、銅線に火をつけた。

「――ッ! アルベーダ! 貴様ぁ‼」

 今の今まで物腰の柔らかかったファイナスが拳を二度、強くテーブルに打ち付けると足音が響き、武装した兵士十余名が室内になだれ込んできた。それを察するや否や他の貴族も各々合図を送り待機させていた私兵を呼び寄せた。

 結果、参謀本部会議室でテーブルを囲むリョーレ将軍とアルベーダ以下四名の貴族をさらに三〇人弱の兵が取り囲む一触即発の修羅場が完成した。

「貴公らこの兵はどういうことだ!」「卿こそ!」「やはりそういう魂胆か……!」と互いに銃口を、或い剣のは切っ先を向けて声を荒げる領主たち。

 膠着状態に陥らぬうちに老人が言った。

「お三方、こうなってはもう流血は避けられまい。この場で生き残った一人が皇帝になる、というのも悪くはないがしかし私としてはそのような手段で帝位を手にするのはいささか気が引ける。そこで……ここは発端であるアルベーダ卿一人に消えてもらい、我々四人で改めて協議するというのはどうだろうか?」

「な、何ぃ⁉」

 狼狽するアルベーダをよそに三人の貴族たちはそれぞれ目配せをして合意が取れたとみるやすぐさま矛先をアルベーダに向けた。

「将軍、貴様は異存あるまいな?」

 老貴族はこの状況で尚腰かけたまま眉一つ動かさない将軍に問うた。

「私は先ほど申しあげた通り、次期皇帝の御意のままにあるのみであります。それ以外に申し上げることはございません」

「う……ぐ……き、貴様ら……! 吾輩を殺すと言うのか!」

「クク、身から出た錆と言うやつよな、アルベーダ卿」

 ファイナスが破顔して右手をゆっくり上げたそのとき、

「し――失礼します!」

 帝国軍の一兵卒が思惑渦巻く修羅場に分け入った。

「――なんなのだこんな時に」

 兵卒は苛立つ老貴族には目もくれず、足早にリョーレ将軍の元に歩み寄り耳打ちした。

 将軍は腰を上げ、襟を正して言った。

「皆さま、静粛に願います。間もなく次期皇帝がお見えになる」


    ○


「――王国に残した妻子が処刑されたと知ったのはそんな折だった」

 初老の男は私の方へ向き直る。

「以来、私は帝国軍人としてこの身を捧げることにしたのだ。偉大なる先帝に報い、その国を守るために」

 彼は言い聞かせるように、強くそう言った。少し笑って「年を取るとつい自分語りが過ぎるな」と続けた。

「しかしもう先帝はいません。帝位は恐怖帝のものです。恐怖帝の世は御覧の有様ではありませんか。北へ、王国へ戻ろうとは思わなかったのですか?」

「戻っても変わらんよ。言っただろう、王国は今も昔もひどい国だ。今となっては帝国も王国も大差ない。どちらも愚かな王の統べる国だ。

 祖国への思い、無き妻子への愛もあるが、それは帝国についても同じことだ。亡き先帝への敬愛がある。それだけが私を今の帝国に繋ぎ止めている」

 それだけなのだ、とまた窓の外を見て呟くように言った。

 

 思った通りだ。

 私は彼にすべてを明かすことにした。

「将軍、率直に申し上げます。北に、王国に商会の物資を流してもらいたい」

 将軍は窓の外を見たまま答えた。

「君が何を言っているのか、私には分からないのだが」

「あなたは妻子の情報を得られる程度には北との繋がりをお持ちのはず。違いますか?」

「だとしても、何故敵に塩を送るような真似をしなければならないのかね。私が王国に与する可能性は否定したつもりだったが。せっかく連れ戻した君を反逆罪でまた投獄したくはない。聞かなかったことにしよう」

 かれはいくらか語気を強めて言う。

 まだだ、ここで怯んではいられない。

「恐怖帝の眼とご趣味についてはご存知でしょう」

 リョーレ将軍は半身になって横目で私を見た。

「何故、君がそれを知っているのかね」

「何故かは問題ではないのです。皇帝は死体をご所望です。だから戦争を長引かせたい。戦況ははどうやらその意向に沿う形で動いている。ならばいっそ、とことん長引かせて絞れるだけ搾り取るのです。帝国からも王国からも」

 少し、間を空けて将軍が問う。

「搾り取って、どうしようというのかね? 根本的には何も変わらないだろう」

「ええ。ですからもう一つお願いがございます。絞れるだけ絞ったのち、頃合いを見て戦況の膠着を理由に皇帝を前線へ引きずり出してもらいたいのです。そこで私があの暗君を討ってみせましょう」

「あの眼は強力だ……出来るのかね?」

 リョーレは私の方を向いて問う。

「この命にかけて、必ず」

 本心からの言葉だ。

 私と彼との間に長い静寂が訪れ、そして、

「いいだろう。北の方にも話はつけておく。それから君にはすぐに前線に出てもらうことになるが問題ないかね」

「もちろん。ありがとうございます」

「最後に一つ訊きたい。――どうしてそこまでするのかね」

 どうして、か。

 私は伏し目で答えた。

「あなたと同じですよ。私は気に食わないのです。帝国も王国も、この世界すべてが。世界に反逆するでも迎合するでもない答えがこれなのですよ」

 私が転生者であることを知らないリョーレにとっては何のことだかいまいち分からないだろうに、それでも彼は少し微笑んで「そうか」と短く答えた。

 こうして私が全てを語り終えたあと、彼は言った。

「これで話は終わりだ。帰りたまえ」


    ●


「馬鹿な! 有り得ん……貴様が、貴様が次期皇帝だとでも言うのか? フロイト‼」

 アルベーダの怒声には心底うんざりだ。今更返事をする義理もない。

「商会長……もうお帰りとは、脱兎でもあるまいに随分と忙しない。

 しかしこれはどういうことですかな? 我々は今見ての通り少々取り込み中でな、くだらん余興なら後にしてもらいたい」

 窓がなく、昼でも仄暗い会議室で帝位継承権保持者とその私兵がテーブルを囲う。銃や剣を構えながら皆一様にこちらを見ている。

 まるで間抜けな絵画のようだ。

「余興ではありませんよ、私はいたって本気です」

 まあここまで表立って動くつもりではなかったのだが。

「――何をぬかすかと思えば、継承権を持たぬ貧相な名前の分際で!」

 ファイナス卿が嘲笑って言った。

「確かに、私に帝位継承権はありません。しかし、私には金がある」

「金? 金がなんだと言うんだ」

「ここにいる皆様の帝位継承権、すべて私が買い取らせていただきます」

 声の残響が短く、部屋の空気を震わせる。震えが治まって静まり返ったころ、老領主が噴き出すように言い始めた。

「売るわけがないだろう! 売る理由が一つもない! 『買います』と言えば『はいそうですか、どうぞ』と売ってもらえるとでも思っていたのか? ッハハハハ――」

「借金」笑いを遮るようにそう言った。何も分かっていない哀れなこの世界の住人は見ていられない。かえって自分が惨めになる。

「諸侯の皆さんは今回の戦争に大変よく協力して頂きました。帝国軍に対して人員や物資、馬匹を惜しみなく提供して下さったわけですが、その資金源をご存知ですか?」

「何が言いたい? 我々はそれぞれが一国一城の主。いくら出費がかさんだとはいえ首が回らなくなるほどの負債など生じる訳があるまい。すべて芝居だ。なあ? 諸君」

 そう呼びかけられた他三名の王侯貴族は気まずそうに押し黙ってしまった。

 当然だ。諸侯が商会から金を借用して人員や物資を調達。それを帝国軍が挑発して戦闘。その間戦争に参加する者たちの給料は帝国の国庫から支払われる。勿論商会にもだ。給料と言う形でなくても戦争によって活発になった物流は全て商会の仕事だ。さらに言えば最早戦争に必要不可欠な銃の製造は商会が一手に引き受けている。いたるところで商会に鐘が落ちる。

 この戦争は泥沼化した時点で金の流れが商会に収束するようになっていたのだから。

「まさか……あるのか? 借金が……しかし貴公らにはあっても私には無いはずだ! 長年の蓄えがあるのだ! それに借金がどうした! そんなものここでこの小娘を黙らせてしまえばよい! それだけの話ではないか!」

 ようやく狼狽を露わにしたファイナスが私に剣先を私に向け顎をしゃくって指図した。

 しかしもう彼の私兵は動かない。

「……戦争というものは可笑しいほどに金がかかるのです。軍を動かしたならそれが炎となって薪である己の身を焦がしていると思った方がよろしい。

 国へ帰ったら帳簿をよく見てみることです」

 右手を挙げる。一斉に、私兵たちの銃口を彼らの主である貴族たちに向けさせた。

「商会の馬車は脱兎を狩る獅子よりも速いのです。ここへ来る道すがら手始めに皆様の私財を差し押さえさせて頂きました。因みに私の麾下にあった部隊も含めて、帝国軍は参謀本部から一兵卒に至るまで全て購入済みです」

「帝国軍も……リョーレ貴様!」

 老人はいよいよ取り乱した。己に銃口を向ける私兵たちの引きつった顔も見えていないようだし、彼らまで買収する隙などなかったということまで考えが回らないらしい。

 将軍は私の横で直立不動だ。いつものように皺の濃い鉄面皮で静観していたが、私の目を一瞥して少しだけ動揺したように見えた。

 勘のいい男だ。

「将軍、煙草をお持ちですか?」

 リョーレは黙って葉巻を一本差し出した。

 火をつけ、ゆっくりと椅子に座って一喫することにした。

 私は揃いも揃って愉快な表情をしている貴族たちに向かってこう告げたのだった。

「さあ皆様方、私にこの国を売り払って頂きましょう」

 今日から私が帝国だ。


    ●


 終戦からあっという間に一年が経った。

 戦後処理は滞りなく進んだ。特に王国軍に食い荒らされた西の復興にはヒト、モノ、カネ、あらゆる資源を惜しみなく投入した。

 王国にもリョーレを通じて使節を派遣した。戦争に負け、加えて商会に搾り取られた王国は予想通り干物同然であり、金で簡単に堕ちた。事実上、帝国の属国と化した王国では王国軍の残党一部が抵抗を続けている以外に今のところ顕著な問題は無い。

 煙草に火をつけた。揺れる紫煙越しに書斎の天井を眺めながら、少し先のことをぼんやりと考えた。ふと視線を落とすと、さっきまでソファーに寝そべっていたマルタが立ち上がってこちらへ歩いてきた。

「たばこ、すいすぎだよ」

 椅子に座った私からは机越しにちょうど首から上だけが見える。

「マルタ……少し背が伸びましたね」

「もう」といって丸い頭がぴょこぴょこ跳ねた。トスン、トスンと音を立てながら白い髪を揺らし、頬っぺたを膨らませて跳ねている。

 可愛い。

 戸を叩く音がした。

「どうぞ」

「失礼します。ご機嫌麗しゅう皇帝陛下」

「……リョーレ、私は貴方を呼び捨てにするのでさえ気が引けると言っているでしょう」

「それも皇帝たる者の務めであります」

 これが嫌味ではなく本心からそう思っているのだから信じがたいし返事に困る。

相変わらずの仏頂面がそれに拍車をかけた。

「要件はなんですか、将軍」

「征西中の元帥閣下から、一度西へご足労願いたいとの連絡が御座いました」

「エンナから? 王国軍残党の討伐は彼女に一任しているはずですが」

「ではお断りいたしますか。……ところでお嬢様は随分と背がお伸びになられましたな」

 リョーレがマルタのことを言うなんて以外でしかなかった。思わずマルタを見る。

 ……確かに最近少し大きくなった気がしていたが、そんなに言うほどか? もしかして、ずっと一緒にいるから気付かなかった、とか?

「いえ、やっぱり行きます。過ぎに支度を」

「西に行くの?」

 マルタが尋ねた。

「ええ。ご両親のお墓詣りにも行きましょうね」

「うん」と答えるマルタが心なしか嬉しそうなのでつい口元が緩んだ。

 ふと見るとリョーレが私たちを見て不思議そうな顔をしていた。

「そうだ、将軍。貴方に一つ勅命を下しましょう」

「何なりと御意のままに」

「私が西へ行っている間ペットの世話をしてください。なに、二日おき肥溜にでも放ってやればそれでよいでしょう」

「……陛下。私は――」

 訝し気な彼の言葉を遮って私は言った。

「大丈夫です。これは私怨であって趣味ではない。もし貴方が私にあの暗君の影を見たなら、その時は躊躇なく私を撃てばいい。玉座は貴方のものです」

「いえ、決してそのようなことは……」

 その戸惑った顔が見たかった。満足だ。

「頼みましたよ。それではマルタ、行きましょうか」


    ○


 ペットというのは屋敷の地下牢で飼われていた。

「全く、人使いの荒い方だ。そうは思いませんかアルベーダ卿」

 リョーレは言いつけ通りペットの世話をしながら愚痴を漏らした。薄暗い地下牢には彼とペットの鳴き声がよく響いた。

「初めて会った時は貴公の下僕だったというのに今では皇帝だ。しかもなかなかどうしてよく治める。全く、恐れ入る。

 まあ先代の治世が酷かったというのもあるが、それを討ったのも彼女なのだから巷では賢帝だ、救国の英雄だと持て囃す声も少なくない。

 イト帝、賢帝イト、色々ありますが中でも私が特に気に入っている通称がありましてな。『少女傑』。かつての戦役で女傑と呼ばれた今の隻腕元帥、その弟子だったことから誰かがそう呼び始めたらしいですな。あの方に相応しい通り名です。

 これからしばらくは彼女の世が続く。帝国はますます発展するでしょうが――」

 皇帝のペットが肥溜の中でうごめいた。

 ペットには手足が無かった。生殖器も無く、凡そ突起と呼べるもののない胴体の先には同様に綺麗に丸められた頭がついている。耳と鼻は削がれ、目も潰してあった。頭髪の代わりに火傷痕が頭皮を覆っていた。

「私は貴方を見ると少々不安になるのですよ、アルベーダ卿」

 ペットがつぶれた喉で鳴いた。


    ○


 白状します。これは私と世界の関わりの話だったのです。

 私はこの世界が嫌いで、迎合は愚か拒絶も出来ない。だからもうこうするしか私には思いつかなかった。

 そのためにマルタを使ってしまった。彼女だけは利用したくなかった。何よりそれを悔やんでいます。赦されるとは思っていませんが、せめて私も同じように在ることを許して欲しいのです。

 背中にその印を刻みます。

 マルタの故郷、帝国軍西方方面軍本拠地のはずれ、マルタの両親が眠る場所である。今は簡易的な墓石があるだけだが将来的に慰霊碑が建てられる予定だ。

 どうしてもその前にここを訪れたかった。

 私は衣服をはだけ、墓石に背中を向けて祈りを捧げる。

 マルタの背中の刻印と寸違わない文様の刺青を入れた背中。きっと何の意味もない模様。私とマルタだけの印。

 私も願望の婢(はしため)だ。


「フロイト」不意にマルタが言った。

「私はフロイトがフロイトだからすきだよ」

「ええ。私もですよ」

 それを頼りにここまで来たんだ。

「行きましょうかマルタ」「うん」

 手をつないでエンナのもとに向かった・


    ●


 この異世界は夢だ。叶わぬ願いを反映した世界という意味でも夢だし、睡眠時に無意識によって脳が知覚させられる世界という意味でも夢だ。

 人生をやり直したいと願った私が死ぬ直前の長い長い一瞬に見ている幻かもしれない。

 仮にそうだとしよう。

 アマリオは転生した私の母だったが、では恐怖帝は誰だ。私は転生する前のアイツを知らなかったし逆もまた然りだ。不死身のメイド、メイは?

 私の夢に私の知らない者が存在する。何故。

 反証がある以上は前提が間違っている。おそらく、正しくはこうだ。


 これは私だけの夢じゃない。


 人に夢を見せる元凶は無意識だ。それは深く根本的な領域で人間個人個人の壁を超越して種としてのヒトの無意識となって集合する。

 だからこの世界には私以外にも転生者が存在する。夢見る人間が迷い込んでいる。

 材料があったから銃を作ったり、V字谷に一日で砦を築いたり、いかにも転生者のやりそうなことに心当たりがないわけじゃない。

 複数いる転生者の中には、もしかすると――。

 それなら、私がやりたいことは決まっている。

 王国にも餌を撒いた。そろそろ食いついて姿を見せてもおかしくはない。

 私はエンナの指定した通り、V字谷の要塞へマルタ共に赴いた。残念ながら悪趣味な広間の内装はそのままだ。

 かつて恐怖帝が腰かけた玉座に座り、小さな魔法使いと戯れていた。

 広間には人間の護衛を、後ろの隠し扉には魔物の護衛をつけている。ぬかりはない。


 前触れもなく広間の扉がゆっくりと開いた。乾いた臭いの薄暗い空間に蝶番の金属音が響く。大の男が数人がかりで開ける観音開きの重い扉を二本の細腕で押し開き、フードのついた外套を纏った人間が一人、広間に姿を現した。迷いない足取りで私の方へ歩くその腰には外套の下から一振りの剣が覗いている。

 大股で足音を響かせながらフードを外すと、顔の周りで切り揃えられた黒髪が広間の僅かな照明の光を弾いていた。

 黒い瞳で真っすぐこちらを睨み、私を捉える間合いから一歩隔てたところで立ち止まって外套を脱ぎ捨てた。

 白い肌に華奢な体躯の客人は約一年ぶりに遭う王国の少女であった。

 少女は剣を抜き、切っ先をまっすぐ私に振り向けて言い放った。


「我が名はアドラ、亡国の勇者イトアドラ! 魔王フロイト、これは宣戦布告だ!」


 ――魔王フロイト。

 その一節だけが広間に、頭に、胴に、うるさいほどに響いて反芻した。

 その一瞬だけは時間のあとさきを見失った。

 ふと我に帰ってようやく彼女の言葉を認識した。


 ああそうか。魔王。魔王か。私にピッタリじゃないか。

 それはいい。私は魔王でも構わない。

 その後だ。

 お前はそのあと何と言った?

 アドラ――勇者イトアドラ、とそう言ったのか?

 確かに待っていた。私という餌を撒き、糸を垂らし、獲物が食いつくのを待っていた。


 しかし――しかし違うのだ!

 私が狙っていた獲物はお前ではない!

 嗚呼! なんということだ……

 お前までこの世界に迷い込んでしまったのか!


 ――アドラ――――我が弟よ。

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少女傑イト 以医寝満 @EENEMAN

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