第3話 据え膳
エンナがモンスターを殲滅し終えたところで疲れてぶっ倒れた彼女を回収して村に戻った。村の中心、お祭り騒ぎの後片付けが行われている広場で私とエンナと村長その他の村の衆数人が焚火を囲んでいる。因みにマルタは私の膝枕で寝ている。火に照らされる寝顔も可愛い。ホント可愛いなこの幼女は。
私の膝ですうすう寝息を立てているマルタの可愛さは筆舌に尽くしがたいところだが、それでも敢えて語り散らかしたいところ、ではあるがここは冷静になって話をまとめるとしよう。今回のモンスターの大群による襲撃についての話だ。
髭のパパ、もとい、ピルゲル村長曰く、こんなことは初めてらしい。モンスターが群れで村を襲いに来るなんてことは今までになかったし、そもそもあんな規模の大群は生まれて初めて見た、と。
「見ての通り貧しい村です。まあ西の地に暮らす我らの民族はどこもだいたいそうでしょうが。大した蓄えもないし戦う用意もない。あの魔物どもに襲われていたらと思うとぞっとしますよ。ありがとう、エンナさん」
「いやいやいいってことよ。こっちとしてもお得意様を失わずに済んだしね」
寝っ転がって適当なことを言うエンナ。この女、なんて図太いんだ。
エンナ曰く、あの規模の大群は帝国全土を旅した彼女でさえ見たことがないらしい。しかしつい最近、行商人仲間から似たような話を聞いていたとのこと。だがそれもあまりに突飛だということでほら話程度に思っていたようだ。
私はてっきりエンナがドラゴンを威嚇したこととかモンスターを乱獲したこととかその肉を私がこの村に持ち込んだことが原因じゃないかと考えていたのだが
「それでどうしてモンスターが群れで襲ってくるってんだい?」
「いやほら、復讐というか報復にでも来たんじゃないかと」
「奴らにそこまでの知恵はないよ。それに竜だって別に威嚇しちゃいないさ」
「そうなんですか?」
「ああ。あの道を通ると必ず竜が一体やってきて火を噴くんでね、こっちも同じように火を噴いてやるとどういうわけか通してくれるのさ。挨拶みたいなもんじゃないかい?」
とのことだった。言うだけ言うとエンナは村長と与太話を始めてしまった。
正直その辺のことはどうでもいい。一番の関心はこの幼女――。
「気になりますか? マルタのことが」
いつの間にか私の横に女性が一人、座っている。……美人だ。
「初めまして。マルタの母です。シグと申します。娘がお世話になりましたね」
そう言って私の膝の上のマルタをひょいと抱き上げて自分の膝の上に座らせてしまった。私の膝から母の膝へ、そんな大移動でもマルタは起きない。先の戦闘といい、神経が太いのかもしれない。一方の私は膝に残るマルタの頬っぺたの感触が消えていくのに名残惜しさを感じずにはいられない。
嗚呼、ぷにぷにだった。
マルタの母、シグは口ひげ村長パパとは違ってマルタとよく似ている。端正な顔立ち、紅い瞳、髪に至っては色も髪型もマルタとそっくりだ。ギリギリ結べないくらいの長さ。マルタも成長したらこの人みたいになるんだろうか。それはかなり見てみたい。
「あなたがフロイトさんね。驚いたでしょう? この子の力を見て」
「ええ、はい、とても。あの……この子は一体……」
膝の上から幼女がいなくなってしまったこととその母親がどことなく飄々としていることに若干動揺して要領を得ない質問をしてしまった私。シグはそんな私の顔を見て微笑むと視線を落とし、彼女の膝の上で座って眠りこけている娘の頭を撫でながら語り始めた。
「生まれつき魔力の強い人っているでしょう? まあ魔力が高いって言ったり多いって言ったり人によっていろいろだけど。そういう人って普通の人みたいに体を強くするだけじゃなくて特別な力が使えるでしょ、エンナさんみたいに。マルタもそうなんです。生まれたときからとても強い魔力を持っていました」
「ではマルタもエンナと同じで火を操ったりできる、と?」
さっき見たあの特大威力の火炎放射はそういうこと……なのか?
「いいえ。この子は、人の魔法を強化できるんです。人が放った魔法の威力、効果を何倍にも増幅させることが出来る。それがこの子の力、この子だけの特別な力です」
慈愛に満ちた柔らかな微笑みに「でも」の一言が陰りを与える。
「でも、この子は、この子一人では何もできないんですよ。体の強化も人並みです。これだけの魔力があればエンナさんのように辺りを飛び回るくらい簡単なはずなんですけど。人の魔法の強化が出来る以外は普通の、年相応の女の子です。私にはそれが心配で。だって身に余る力は身を亡ぼすものでしょう?」
「そうですね……でもマルタちゃんはそのなんと言うか、年相応というよりは中身が大人びてるというか、しっかりしてるというか、かしこいっていうか――」
「このくらいの歳の子はそんなものですよ! ただ魔力が強いだけです!」
ええ、そこで怒るのか? でも、ぷんぷん! みたいな擬音が聞こえてきそうな怒り方だ。可愛いところまでそっくりな母娘。
「へえ……その、魔力のあるなしって分かるものなんですか?」
「普通はは分かりませんよ。でもマルタやエンナさんほど魔力が強ければ何となく分かります。あなただって感じるでしょう?」
「え……っとまあそうですね。はは。というか、エンナってそんなにすごいんですか?」
「すごいなんてもんじゃありませんよ、あんなに魔力の強い人、そうはいません。魔力だけならマルタには及びませんが、魔法ならエンナさんの右に出る人はいないんじゃないかしら。炎の行商人、と言えば我々の土地では知らぬ者はいない筈です。我々は皆あの人に大きな恩義がありますからね。帝国でもさぞ有名なはずですよ」
「そう、ですか? 帝国を旅していた時にはそんな風には見えなかったですけど――」
「そりゃアンタを拾ってからは辺境ばかり回ってたからね。無理もないさ。ここを出たら次はデカい街に行くからね、私の有名っぷりに腰抜かすんじゃないよ?」
いきなり私の隣にドカッと座って肩に手を回し自慢話をぶっこんできたエンナ。酒臭い。まったく、酒の席で政治と宗教と過去の武勇伝は御法度だって知らないのか? あれ、政治と宗教と野球の話だったか?
「やめてくださいよエンナ。ああほらちょっとお酒かかっちゃったじゃないですか。それよりどういいうことなんですか、ここは帝国領の西端だって言ってませんでしたっけ? マルタが違うって言ってましたよ。それどころかむしろ王国領だみたいなことも言ってましたけど――」
一瞬、静まり返る。ピルゲル村長もシグさんもデリカシーの無さそうなエンナまでみんながみんな決まりの悪そうな顔をしている。
これはあれか? かの有名な『あれ? 俺また何かやっちゃいました?』ってやつか?
「まあ、その辺の話はいろいろややこしいんだ。また、おいおいな。フロイト」
へらへら笑って茶を濁すエンナ。
「さあ、みんなそろそろお開きだ。片付けも済んだようだし、解散!」
パン! と手を叩いて場を締めるピルゲル。散開する村の衆。
なるほどしまった、これは政治の話だったか。
不意にシグさんが笑った。
「エンナさんも立派になりましたね。彼女、今でこそああですが昔は違ったんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、昔はもっと――貴女みたいにとても可愛らしいお嬢さんでした」
●
翌朝、私とエンナは早朝、村の人間に叩き起こされた。なんでも近隣の村に王国の使者が訪れているとのこと。やはり、見つかるといろいろと都合が悪いということで私たちは早々に西の地を経つ運びとなった。
マルタの姿が見えなかったので尋ねてみると、今回の旅には同行しないらしい。そもそもここに来た目的はマルタを送り届けることにあった、ということだった。
眠い目をこすりながら「ばいばい」してくれるマルタ。可愛い。絶対また会いたい。
「心配しなくてもどうせまたすぐ一緒に旅することになるよ」とはエンナの言である。
私たちは村長一家に手厚く見送られながら村を後にした。帝国領に戻り、昨晩エンナの言っていた通り大きな街を目指す。
道中も街のような村のような集落に立ち寄って商売をして歩いたのだが、行く先々でエンナが今日はこれを売ってこいあれを売ってこいと言うのでしぶしぶ例の要領で売りさばいていたから私たちの懐は日に日に暖まる一方だ。ぼろ儲け。
またエンナの言う通り、目的地の大きな街に近づくにつれてエンナの事を知っている人間が確かに多く見受けられるようになった。「炎の行商人」なんて通り名もどうやら本当らしい。それになんだか私たちの馬車だけ異様に速い。まるで別の乗り物だ。
ひょっとするとエンナは本当にすごいやつなのかもしれない。
「やっと気づいたかい? アンタ、アタシに拾われて幸運だったろ? もっとありがたがっても罰は当たらないと思うんだけどねえ」
確かにそれはとてもラッキーなことだったけど……それはそれでやはり異世界特有のご都合主義と言うか、恣意的なものを感じて癇に障る。出来過ぎている。非力な私ではあるが、それでも何者かに意図して導かれているんじゃないか、なんて思うほどに出来過ぎだ。
……この話はやめにしよう、気がめいって仕方がない。話を変えよう。
「それより西の地の事、そろそろ教えてくれませんか? あそこは結局なんなんですか?」
「ああ、まあそうだね。いいよ、教えてやる」
なんだ、教えてくれるのか。もっと渋ると思ってたんだが。
「あそこはもともと帝国領でも王国領でもないんだよ」
まあ、それは見れば何となく分かる。帝国とはあまりに人も土地も違い過ぎる。民族的に同一とは思えない。しかし王国でもない、とは意外だ。
「帝国の人間とも王国の人間とも違う、一つの独立した民族なのさ」
ほう、私は西の地の人々が民族的には王国と同じ人種なんじゃないかと思っていたが予想が外れてしまった。そういや私はまだ王国の人間を目にしたことがないな。
「ちょっと前に王国の人間が西の地に攻め入ってきたことがあってね、あまりにも無茶苦茶するんでアタシがちょいと出張って追い返してやっとんだよ」
まあエンナなら対人戦闘もお手の物だろうとは思っていたがまさか本当に経験済みとは……しかもその文脈だと軍隊相手にってことだろう。
私の隣、馬車の御者席に座るエンナ。揺れる髪の隙間から顔の火傷の痕が覗いていた。
末恐ろしい女だ。
「それ以来あそこで王国が目立ってドンパチすることはなくなったんだけどね、今でもたまに使節をよこしては領有を主張してるわけよ」
「へえ。でもあそこはもとも国じゃなかったんでしょう? じゃあ言ったもん勝ちっていうか……少なくとも帝国領ではない筈です。なのに何故あそこは帝国領の西端だなんて言うんです?」
「それに関しちゃ西の地も一枚岩じゃなくてね。見た通り貧しい土地だ。大国の庇護下に入るのはやぶさかじゃないらしいんだけど、王国につくか帝国につくかで割れてるんだよ。
アタシはつくなら帝国についた方がいいと思ってるんだけどね。北の王国にも行ったことはあるが、ありゃあきっとあいつらの肌に合わないよ。放任主義の帝国の方がまだましさ。それにほら、帝国領ならアタシが自由に商売できるしね!」
ふーん。……待てよ、じゃあ結局エンナはあそこが帝国領だって勝手に主張してるだけじゃないか? かたや王国が領有を主張する土地だというのに、それに真っ向からけんかを売ってるのか。しかも個人で。どれだけのことをしてるのか分かってるのか? やっぱりバカなんじゃないか? この女。
そんなかんじで、私の中のエンナの評価が上がったり下がっったりしながら目的地であるデカい街に着いたのであった。
●
デカい街って。なんだそれは。
「名前はないんですか? 町の名前は」
「ん? あるよ、あるに決まってるじゃないか」
何を言ってるんだいアンタは、と言わんばかりの顔で言うエンナ。名前があるなら先に言ってくれ。自分が向かっている場所が「デカい街」なの名前のある街なのかでは全く違う。なんというか気の持ちようが雲泥の差だ。
「実はアタシの故郷なんだけどね。えっとなんだったかな~名前」
自分の故郷の名前も覚えてないのか……ここがテンプレ異世界なら容赦なくステータスを更新するところだ。エンナのちりょくが2さがった/エンナのひょうかが3さがった。
「えっと確か、尊大? そん、い――偉大……なる……ああそうそう偉大なる。えー、『偉大なる恐怖帝の血筋より分かれしハインルッヒ家が賜りその七代目当主アルベーダが治める領の都アルべダリア――誉有る帝国の首都に最も近い――』だったな。どうだい、立派な名前だろう?」
「……何ですかそれは」
「なにって、この街の名前だよ」
「長い!」
そして説明的すぎる。今日日そんな説明的な名前してるのコンビニの弁当とラノベくらいだぞ。どういいう出自の街なのかよく分かる。しかもなんだ、街の名前にサブタイトルがくっついてるじゃないか。
「そりゃあここら辺の領主が住んでる街だからね。帝国の首都にも近いよ」
「そんなことは言わなくても分かりますよ」
「まあ長いんで普段はみんなアルべダリアとだけ呼んでるよ」
呼ばないのか……呼んであげないのか、きっとその領主のアルべーダさんとやらが頑張って考えてつけた名前だろうに……不憫だな、アルべーダさん。
私は先ほど不当に下げたエンナのステータスと評価をこっそり戻しつつ、顔も知らない領主に勝手に同情しながら街に入る。今までに訪れた街とは違って門があって守衛も配備されていた。街に入るのに検問でもあるんじゃないかと思ったがそこは流石と言うべきかなんとエンナの顔パスだった。これでもう疑いようもなくエンナは有名人だと認めざるを得ない。馬車の荷台に隠れていた私は門を離れてしばらくしたところで御者席で手綱を引くエンナの隣に座った。
「久しぶりだねえ、戻ってくるのも。帝国のデカい街はさ、街の中をデカい川が流れてるもんなんだよ。後で連れてってやるからね。まずアタシの実家に行くけどいいかい?」
「実家⁉ 実家があるんですか⁉」
「驚くことじゃないだろう……アタシだって人の子だよ」
「ああ、そ、そうですか。……そうですよね。すみません」
「まったく……そら、初めての大都会だろ? 実家に着くまでしばらく街の様子でも眺めてなこの田舎娘」
大都会と、エンナはそう言った。確かにこれまでの街とは比べ物にならない都市らしい都市だ。お約束の円形城塞都市。門だってあるし建物の数も質も大違い。他の街は木造建築を主とした素朴な雰囲気だったがこの街、アルべダリアの景観はそれらとは一線を画すものだ。木材、石材、土を使い分けて正に適材適所といった具合の建築様式。道はどこも整備され所々石畳で舗装されている道まである。平野の真っただ中にある街なので急な勾配は存在しないのだがそれでも街を一望できそうな背の高い建造物が確認できる、街の中心へ行けば行くほど建物は密集しており、宿屋なり怪しげな家屋なり露店なりが散見されるようになる。
私は今まで巡ってきた辺境の街を「典型的な中世ヨーロッパ風異世界の街」だと思っていたが、このアルべタリアは同じ中世でも数世紀ほど先に進んでいる印象がある。そもそも一口に中世と言ったってヨーロッパにおけるその時代区分は約千年ほどの非常に長い期間を表すことになる。アルべタリアはその様子から見るに恐らく中世後期のヨーロッパに相当する程度には文明が発展していると思われるが、その他辺境は多少下駄を履かせてもせいぜい中世盛期程度。同じ国家でここまで差が生まれるものだろうか。
それに加えてこの街、妙に活気がない。これまでになく発展した街であることには変わりないのだが往来は人通りが少なくどこか閑散としている。稀に見る通行人は殆どがどこかやつれているし、路地に目をやればしばしば生きているのかさえ分からない人影を見ることもある。かと思えば昼間からよって暴れているらしい男を見ることもあった。
なんというか、陰のある街だ。
「エンナ、この街はいつもこんな感じなんですか?」
またふわっとした質問になってしまったが。
「いや、そんなことはないよ。そりゃあちょっと前に戦争があってここも随分荒れたからね。宿無しや飲んだくれ程度なら以前もいたさ。でもここまでじゃなかった。前より酷くなってるね」
そう答えるエンナは怪訝な顔をしている。
「何かあったんでしょうか……」
するとエンナは「フン」と鼻先であきれ気味に笑った。
「何もありゃしないんだよ。ただちょっと――」
彼女は少し間をおいて眼だけで辺りを見回した後、声のトーンを下げてこう続けた。
「ただちょっと、領主がろくでなしなだけだよ」
●
何となく険悪な雰囲気の漂う街をしばらく馬車で流した末、エンナの実家にたどり着いた。敷地をぐるっと一周囲む柵、大きな門扉、その奥に佇む立派な左右対称四階建ての建物となんかいろいろの小屋、庭の芝生は青く、綺麗な噴水があって――そう、豪邸だ。
こんな絵に描いたような豪邸が存在するなんて……。
ほれぼれする豪邸っぷりに唖然としているとどこからともなくメイドさんが二人やってきて門を開けてくれた。エンナは馬車を敷地内に乗り入れるとひょいっと飛び降りた。私もとりあえずそれに倣う。
おっと、意外と高いな。着地でよろけてしまった。
さて、いざお邪魔しようと玄関の方を見たらそれがとても遠い。更に玄関に至る道の両脇には執事とメイドが十数人控えているではないか。
すごい! これ見たことあるやつだ! あそこ通る時、お帰りなさいませご主人様っていうんでしょ⁉
使用人一同「お帰りなさいませ、お嬢様!」
「プッ――クッフフフフフ!」
吹き出さずにはいられなかった。
「ああ? なに笑ってるんだい?」
「だって……クスッ……『お嬢様』って……ハ、アハハハ!」
「――――! ったく! このバカ! …………そんなに笑わなくてもいいだろ?」
「いえいえ笑い足りないくらいです――フフッ!」
「んんんん……」
エンナのこんなにばつの悪そうな顔は初めて見る。笑い過ぎて涙ですこしかすんで見えるのがもったいないな。
玄関のドアが開きいよいよ家の中にお邪魔すると中身まで然り絵に描いたお屋敷だった。吹き抜けになっているエントランスホールの中心から二階へ続く幅広い階段が伸び、途中で二股に別れてぐるりと左右に曲がり廊下へと繋がっている。階段の手すりも何だかよく分からないが凝ったモチーフの装飾が施されているし、床は大理石っぽいし、照明はシャンデリアだ。壁にはいかにも名画っぽい絵が飾ってあり、その近くには壺っぽいものが据えてあったりしておいそれとは近づけない雰囲気を醸し出している。これらはきっととんでもなく高価な品に違いない。きっとそうだ。
豪邸のいかにも豪邸らしい雰囲気にのまれ気後れしてただただ挙動不審でいると二階から足音と共に声が聞こえた。
「エンナ! お帰りなさい、今回は随分と長かったっすね! 気分はどうっすか? 怪我はない? 西の皆さんは息災で?」
エンナの姿を目にとめるなり軽薄にぺらぺら話し始めたこの男、細身でエンナより背が高く赤毛、褐色とまではいかないが帝国の人間にしては少々浅黒い肌、すぐにエンナの親類だと分かった。見れば見る程、エンナとどことなく似ている。違うところと言えば服装ぐらいだ。旅装束のエンナと違ってこの男は豪邸に似つかわしいこぎれいな格好をしている。父親……には見えない。もっと若く見える。年はエンナとさほど変わらぬと見た。
「アマリオ! いい加減使用人たちにアタシをお嬢様呼ばわりさせるのは止めとくれよ! 客人に笑われちまっただろ!」
「え~だって可愛いじゃないっすかお嬢様。で、お客様ってのはそちらのお嬢さんで?」
アマリオ、と呼ばれたその男は口に似合わぬ落ち着き払った所作で中央の階段を下りて私たちの前までやってきた。
「ったく……。こいつはフロイトだ。訳有って一緒に旅してる。てか、拾った」
拾ったて。そんな猫みたいな。
「フロイト、こいつはアマリオ。見た通りの伊達男だけど一応アタシの弟だよ」
ほう、弟か。兄弟だろうとは思っていたが。エンナの世話焼きも姉である故ということなら納得だ。
「はじめまして、フロイトと申します。彼女には大変お世話に――どうかしましたか?」
アマリオは自己紹介する私を見つめて戸惑ったような表情で固まっている。
「ああ――いえ。その、失礼ですが、フルネームは?」
ああ、なるほど。そういえばそうだった。この世界、とくに帝国にはフルネームを重視する妙な風潮があったな。
「えっと、これがフルネームなんです。フロイト。名をフロ、姓をイトと申します」
「ああ、ああそうでしたか、北方の。これは失礼。――ん? するともしや男性……いやとてもそうは……ぐぅぁ! 痛ッテ!」
じろじろと私を見るアマリオ君。ここでエンナが彼の頭をゴスッ殴りつけて私をグイッと抱き寄せた。ちょうどエンナお姉ちゃんの胸に私の顔が押し当てられる。
どうしよう! 柔らかくて、デカい!
「このバカ、女の体をじろじろ見るもんじゃないよ! 男みたいなのは名前だけだ」
「っとこれはいけねぇ、美人だったもんでつい。えっとフロイトさん。俺はアマリオ。アマリオール・テットラト・テストライト・ジーグント、っす。アマリオと呼んでくれて結構っすよ。エンナの弟っす」
「はあ、よろしくお願いします」
はいはい、よろしくっす。とすっかり元の軽い男に戻ってしまった。
ところでエンナ、意外と胸があるのは分かったからそろそろ離してくれてもいいんじゃないか? いや私はこのままでも構わないんだけど。
思えば元の世界では仕事一筋だったからな、ようやく一区切りついてこれからだって時にこちらの世界に来てしまったものだから、この新触感、手放し難い。
「留守中、大事なかったかい? 街は随分荒れちまってたみたいだけど」
「ええ、そこは使用人たちもうまくやりくりするなりしてくれているっすよ。特に目をつけられるようなこともなく平和でした……と言いたいところっすけど、あのバカ領主のせいで景気は悪くなる一方っすね。ちらほら街の金持ちが身に覚えのない罪でしょっ引かれたなんて噂も聞きますし、こりゃ時間の問題かもしれないっす」
「ハァーったくあのクソ領主は……タチが悪いったらありゃしないね」
「ところで、今回の稼ぎはいかほどで?」
「ん? ああそれなら、ほら……おーい! こっちに持ってきとくれ!」
エンナはようやく私を離してパンパンと手を鳴らした。その合図で使用人数人が木箱と袋をいくつか抱えてやってくる。そしていつのまにか別の使用人が私たちの目の前に運んできていたテーブルの上にその箱と袋をドサっと。またドサッと。次々置いていく。みるみるうちに積みあがるはこの類。最後に福をドサッとし終えたところでエンナは自慢げに語りだした。
「銅貨たくさん、銀貨いっぱい、金貨もいつもより多めにときた。数えるのが面倒だったよ」
「げえ……こんなに……一体いくらあるんすか?」
「数えるのが面倒だったって言ったろ?」
「……ということは?」
「数えてないよ!」
潔く言い切った。
「はあ⁉ どこの世界に自分の儲けを数えない商人がいるんすか! ちゃんとやって下さいよ、管理するこっちの身にもなれってもんすよ!」
いや全くその通りなんだが、確かにこの量の貨幣を私とエンナの二人で数えるのは骨が折れる。それくらいの量があるのだ。主に、私のおかげで。勿論、不本意ではあるが。
「いいじゃないか別に! いつもの十倍は下らない……と思う! となるとこいつをまとめて家の資産に計上する手間も十倍だ。この際かなり儲かったってことでいいだろう?」
「よくありませんよ! そりゃ稼ぐんぶんには問題ないっすけど、稼いだら稼いだでアホ領主に眼をつけられない様に分けて保管したり税金ブンどられないようにいろいろ工夫しなくちゃいけないんすから!」
アマリオ君、ただのチャラ男みたいな見た目でなんだか財務顧問みたいなことを言う。金の管理が出来る系の人間なのか? ちょっと仲良くできそうだ。
「またお前は小難しい話ばっかり……分かったよ。金の事はお前に任せてるんだ、言う通りにしてやるよ。で? どうすればいいんだい? みんなで数えるかい?」
「いや、流石にこの量を一度に数えるのは億劫っすね。仕方ないんで一度両替してきてもらえますか?」
「なんだい、結局銀行けばはなっからアタシが数える必要ないじゃないのさ」
「あんたが商売の度に逐一計算しとけば銀行に行く必要なんて無かったんすよ! 銀行だってそれなりにリスクがあるんすからね」
「ああはいはい分かった分かった! それじゃ行ってくるよ」
エンナはしぶしぶといった様子で近くの使用人数人に命じて銀行へ行く準備を始めた。せっかくおろした金銀銅貨の詰まった箱もまた馬車へ積み直しだ。
「いいっすか、ちゃんと分けて別々のところで少しづつ両替するんすよ? 一度にやると目立つっすからね?」
「わ~かってるよほんとにもう。それじゃあフロイト、そいうワケだからアタシはちょっと出てくるけど、アンタは自分の家だと思ってゆっくりしてていいからね」
「ええ、お言葉に甘えて」
「ご心配なく、姉上。このアマリオがしっかりエスコートさせて頂くっすよ。フロイトさん、先ずは屋敷の案内でもいかがっすか?」
「はい。お願いします、アマリオ君」
「アマリオ、お前――手ぇ出すんじゃないよ」
何言ってんだ。
「何言ってんすか」
おお、これが以心伝心か、他人とは思えないな。
「いいから! とにかく手を出すんじゃないよ!」
「心配しなくても手なんて出しゃあしないっすよ」
む? その言い方、それはそれで引っかかるんだけど。
「……アタシのだからな! その、客は!」
そういい捨ててエンナはずかずかと玄関から出ていった。
「すんませんね、フロイトさん。エンナはああ見えて初心なんすよ」
だからどうした。それより君のさっきの発言の方が気になるぞ。
「では、案内するっすよ。先ずはこっちっす」
私は手招きされるがままアマリオ君についていく。ついていくのだが。やっぱり君さっきの発言は一体どういうつもりかね、と問いただしたい気持ちでいっぱいである。
ああ釈然としない釈然としない。全然釈然としないぞ。
●
アマリオ君は屋敷中を歩き回りながら案内してくれた。メイドなり執事なりに任せれば済むものをわざわざ自ら案内してくれるとは、流石伊達男と言うべきか。しかしまあなかなかどうして悪い気はしないものだ。エンナと同じ赤色の髪で、パッと見は短髪なのだが襟足だけ伸ばして後ろで結んでいる。服はもちろん靴まで手入れが行き届いているようだ。
エンナは粗暴な格好なものの結構な美人なのだが、弟のほうは小奇麗でこの容貌。対照的ではあるが美男美女姉弟だ。この容姿で気立て善しの大金持ち、さぞおモテになることでしょう。
「ここが台所でここから先は使用人たちの部屋、お手洗いと浴場はあっちの角を曲がった突き当りにあるっすよ。
俺とエンナの部屋は二階にあるっす。まあエンナは部屋にいないことの方が多いっすけど、俺は大体いつも部屋にいるっすねえ。客間もその近くにあるんで何かあったら遠慮せず俺に言ってくれていいっすからね。
二階上がるにはエントランスの階段を使ってもいいっすけど、実はこっちの方にも階段があるんで、今回はこちらから。で、階段を登ってすぐのこの部屋、食事はここっす。もう少ししたら夕飯時っすね。エンナが帰ってきたらお知らせしますんでその時はこちらに。
さてここが客間っす。しばらく好きに使ってもらって構わないっすよ、ご入用の物があれば、そうっすね、執事に頼むのが間違いないっす。メイドでも構わないっすけど、たまにただ可愛いだけのメイドとか女癖の悪いメイドがいるんでギャンブルがお好きなら試してみるのもいいっすけどね。さてさて、なにかご質問は?」
私の荷物(といっても旅の間に揃えた必要最低限のも)がいつの間にか運び込まれている部屋に通された。随分上等な部屋――に見える。大きくてふかふかのベッド、広い窓にはカーテン床には絨毯、統一感のある家具一式は化粧台から正式名称がよく分からないなんなら用途もよく分からないものまでそろっている。この部屋で金属バットを持って素振りでもしようというならいささか慎重になるところだが、美少女一人の寝室兼プライベート空間としては適切で申し分ない広さだ。ちょっとしたお嬢様気分である。
よくってよ! なんてね。
で、何か質問は? ときたか。個人的にはそのただ可愛いだけのメイドやら女癖の悪いメイドやらについての委細を根掘り葉掘り訊きたいところだが、そしてアマリオ君もそこに食いついて欲しそうにしている――ように見えるが、残念ながらそれよりも他に訊くべきことがある。
「ご両親はいらっしゃらないんですか?」
そう、父でも母でもなんなら祖父祖母でもいい。「実家」というなら居るんじゃないのか? この家ではまだ見ていない。
「ああ、両親すか? いませんよ。この屋敷に住んでるのは俺とエンナと住み込みの使用人だけっす」
「……それって」
「ええ……二年前に……」
「それは……」
「海外出張に行ったっす」
「お約束ですか⁉」
思わず声に出てしまった。
こんな綺麗にテンプレを踏襲されたら仕方ないだろ。やっぱりここは創作物の世界なんじゃないだろうな? 私が古式ゆかしい芸風だったらとズッコケているところだぞ。
「アハハ! 冗談すよ、二年前から諸事情で家を空けていますが健在っすよ。海外出張じゃないっすけどね。まあうちの親どものことは気になさらなくて結構かと。取るに足らない事情っすから」
この男……ここはひとつきちんと言ってておくか。
「そうでしたか、ご両親にもご挨拶をと思ったので残念です。でもアマリオ君、そういう冗談は良くありませんよ。一瞬地雷を踏みぬいたかと思って焦ったじゃないですか。もうやめてくださいね、分かりましたか?」
ズイっと。結構な身長差に臆することもなく間合いを詰めて、詰め寄って、下から見上げる形にはなるがこの軽薄な青年の眼をしっかりと見つめて飽くまで物腰は柔らかく懇切丁寧に、それでいて憤りは伝わる程度の絶妙な語気でのお説教。
どうだまいったか。ごめんなさいと言え。
とどめに「んん」と息巻いて見せる。
「あっはは。これは敵わないっすね。参りましたごめんなさいっす以後気を付けるっすよ」
「分かればよろしいです。……うん」
しまった、客人にしては少し図々しかったかな? いや馴れ馴れしかったかもしれない。というか距離が近すぎる。離れよう。
ささっと、平静を装ってアマリオから離れる。これは少し決まりが悪いな、なにか話題を変えなくては。ええとこんなときは、そうだ。
「ところでアマリオ君」
「はい、なんすか?」
「早速ですけど、お風呂をお借りしてもいいですか?」
●
カポーン。というのはいつの頃からかお風呂で良く用いられる擬音だが、このどこか気の抜けた語感は確かに湯船につかっている時の心地によく合う。鹿威しの音という説もあるが他説によれば、浴場という独特のエコーがかかる空間において風呂桶の類が床なり浴槽の淵なりにあたってなる音がもととなってこの擬音が生まれたそうだ。エコーとはつまり音の反響のことで山彦のアレだと思って差し支えないのだが、基本的に広い空間であればあるほど気持ちよく鳴ってくれるものだ。であれば、この家のお風呂はまっことカポーンって感じだ。広く、心地よい。
こうして湯船に浸かっている間はこの上なく気にくわないこの異世界のことも,それ故に悩ましい今後の身の振り方も,私の平穏を脅かす問題は一応一切を放り投げることができる。
根本的な解決にならないと理解してはいてもこの蜜には抗いがたい。それに1日のうち高々數十分くらいそういう時間があってもいいだろう。それもほぼ一ヶ月ぶりなのだから今くらいこの甘露を浴びるほど,というか浸かるほど存分に味あわせてほしい。行商の旅程では水浴びか,よくて体を拭くくらいしかできなかったもの。よもや湯船に浸かれる日が来るとは、僥倖である。
「湯加減はどうっすか?」
アマリオの声だ。浴室のすぐ外にいるらしい。
「ええ,極楽です。天にも登る気持ちですよ」
「それは良かったっす。のぼせてホントに昇天しないでくださいね。それと、何かお忘れじゃないっすか?」
なんだ、忘れ物か? はて。——あ。
「……着替えですか?」
「正解っす。ここ、置いとくっすよ」
咄嗟に入浴を敢行したもんだから、うっかりしていた。いやはや。
「わざわざありがとうござ——」
いや待て。いやはや、ではない。
「……アマリオ君、その着替えってもしかして君が持ってきたんですか?」
「ん? そうっすよ。ああ、いいっすよ気にしなくって。お安い御用っすから」
「——! ……!! 君はどうしてそう……」
デリカシーが無いんですか? といいかけてやめた。呆れて物も言えない。
「……メイドに運ばせれば良かったんじゃ無いんですか?」
「いやあ、ほら言ったでしょ。女癖の悪いメイドがいるって。ちょっと心配だったもんっすから。そのメイド、つい最近以前の奉公先で雇い主の——」
「それでも! 君は——」
また言いかけて、やめた。
「……いいえ、なんでもありません。着替え,ありがとうございます」
君は男で、
ブクプクプク、と口元まで湯船に沈めてみる。
言いかけてやめた先は私の地雷かもしれなかった。
私は——なんだというのだろうか。美少女だ、なんてな。
「そうそう、エンナが帰ってるっすよ。上がったら一度部屋に来るようにと言ってたっす。その後で夕食にしましょうね」
●
入浴を終え部屋に戻るとエンナがいた。『部屋』というのは私の部屋の方だったか。
「来たかい。アマリオが悪かったね、いつもはもっとまともなはずなんだけど。ちゃんとお灸を据えといたよ」
「それはそれは。それで、何か用ですか?」
「いや、大したことじゃ無いんだけど、髪が濡れたままってのは良くないと思ってね」
まあ確かに。今までは結構ほったらかしだったけど。
「座んな、乾かすのは得意なんだ」
胸の前で両手を上向きに構えてボッと炎を出してみせるエンナ。
……大丈夫かぁ? 火だるまにされてアフロヘア―になったりしないだろうな?
少々不安を抱きながらエンナの言う通り、彼女の前に置かれた椅子に座って、怖いので目をつぶる。やがてじんわりと暖かい程度の熱をうなじに感じた。
「心配しなくても燃やしゃあしないよ」
「よかった。火を使うときはいつも加減してなさそうだったので、ひょっとしてできないんじゃないか思ってましたよ」
目を瞑ったまま答える。
「はあ……たまに口を開いたかと思えばやっぱり減らず口だよ。少しは見た目通り可愛いことの一つや二つ言ってみたらどうなのさ」
口数が少ないのに『減らず口』というのも変なかんじだが。
「私ってそんなに無口ですか?」
「こっちが喋りかけなきゃ滅多に喋らないいだろ。いっつも何考えてんだい?」
「まあ……いろいろと。エンナこそ、いきなり髪を乾かしてやるなんてどういう風の吹き回しですか? いつもは濡れたままだったのに」
「さっきも言ったろ? 濡れたままにしてたらせっかくの黒髪が痛んじまう。旅の間はそう構ってやれなかったけど、いい機会だし今日からはちゃんとしなってことだよ。そら、乾いた。結んでやるよ」
そういうとこちらの返事も待たずに私の髪をささっと後ろで縛って「いい加減目を開けな」と、背中をポンとたたく。
傍にあった化粧台の鏡に私の姿が映っている。
うわ~――ポニーテールだ。こんなに髪が長かったのか、私は。
横を向いて首を傾けたりして新しく生えた尻尾を鏡に映してみたり触ってみたりしてみる。肩のあたりまであった髪を束ねたものなので比較的短い尻尾だ。今まで隠れていた白い首元が露わになって、少しスース―する。
「同じ髪型だけど、文句言ううんじゃないよ。アタシはこれしかできないんだ」
そういえばそうだ、エンナもポニーテールだ。でも、
「同じじゃないですよ。貴女のほうが長いですし、結び目ももう少し高いです」
「はあ? 全く、たまには素直になったらどうなんだい」
今のは随分可愛らしいセリフのつもりだったんだけどな。
「ところで、話ってのはもう一つあるんだよ」
「今度は何です?」
私がそう訊くとエンナはにやにやと笑みを浮かべながらおもむろに床に置いてあった木箱を化粧台の上にドチャッと置いた。ドチャ? 木箱らしからぬ効果音だ。
不審がる私に「開けてみな」と促すエンナ。恐る恐る箱を開ける。
箱の中には、ぎっしりと金貨が。
「これまで働いた分の給料だよ。アンタのおかげで今回はだいぶ稼いだからね、小難しいことは面倒だし山分けだ。好きに使いな」
労働には対価が支払われる……忘れていた。
それからエンナとアマリオと私の三人で夕食をとり、談笑し、疲れもたまってるだろうからと早めに就寝した。
●
夢を見た。
異世界なんてものは所詮現実に適応できなかった人間が作り出した都合のいい幻想だ。
可視化された量的な能力値、信頼できる良き隣人、クエスト達成で得られる確実な報酬、世の理から外れた異端の力、神の寵愛――現世で手に入れることの叶わないそういったものへの夢、憧れ、願望を狭い枠の中に思いのまままき散らして眺め、挙句自らをその箱庭に投影して悦に入っている。
醜く、浅ましい理想郷。敗者たちのあまりに幼稚で見るに堪えない精神をありありと映し出した世界だ。そんなものに囚われている限り己を取り巻く状況は悪化の一途を辿るより他はない。
如何に魅惑的で、如何に心地よくとも、甘えてはいけないのだ。
実現するはずもない理想に取り憑かれた人間に待っているのは、皮肉にもそこから著しく乖離した現実とその果て無き没落である。
私はこのことを身に染みてよく理解している。
昔の夢を見た。
私が小学校に入学すると、母は私と弟を連れて家を出た。
もともと母一人で三人を養っていたのが二人になったのだから生活は以前よりマシになっていたと思う。
母は相変わらず働き詰めではあったが父と暮らしていた頃のような暴力に苛まれることはなくなったしそれなりに安定した生活を送っていた。
小学校では、「母子家庭で少し貧乏な家の子」として過ごし、子供特有のコミュニティでは冷遇され、まあそれなりに劣等感を抱えていた。
多少辛い目に合うことも人よりは多かったはずだが、それでも父親がいたころのあの生活よりは幾分よいと感じていた。
中学校に上がると世の中の大体の流れを把握し、自分の目の前に何本のレールが敷かれ、それぞれがどこへどのように繋がっているのかが分かった。
中学生の分際で世の中を分かった気になって何を生意気な、と思う者もいるかもしれないがそんなに大した話ではない。
ああ、みんな中学を卒業したら高校に行くのか。
高卒で就職する人間と進学する人間に別れるのか。
いい大学を出た人間がいい職につくんだ。
そして金を稼いで世の中の上の方に立つんだな。
――と言うことをぼんやりと理解した、程度のことである。
どれを選ぶのが最善か、分かり切っているじゃないか。そりゃ選択の権利を賭けた競争はあるが、なんてことはない、勝てばいいだけだろう。
そう考えるに至って以降、私は確実に勝ち続け、正解を選択し続けた。
高校は有数の進学校に入学。大学受験でも問題なく勝利を掴み、文句のつけようもない高学歴を完成させた。
一流企業に就職しても私のするべきことは変わらなかった。
これまで通り。然るべき順序で、然るべき手段を用いて結果を出す。眼前のレールは出世コースで間違いない。後は登れるところまで登り詰めるだけだ。富と社会的地位を手に入れる。成功者になる。勝ち組。
私は意気揚々と順風満帆な道を歩み始めた。
母が死んだのはそんな矢先の出来事である。
過労死だった。
思えば中学を卒業して高校から家を出て以来、母とまともに言葉を交わした記憶があまりない。それどころか母について、家族についてじっくり考えたことが一度でもあっただろうか。いや、家を出てからそんなことは考えもしなかった。一度もだ。
家族と言えば――弟。ああそうだ弟だ。弟がいた。あのころあいつはどうしていたんだろうか。
母の訃報を受けて久しぶりに実家に帰った私はもちろん弟とも会っていた。
離婚したとはいえ前妻の不幸となれば、流石に父もいるかもしれないと実は少し期待していたがそんなことはなかった。
実家にいたのは弟と僅かばかりの親族のみ。
しかし、そんな状況にあっても必要な事務的会話を除けばやはり、弟とも会話をした記憶がない。弟と不仲であったわけではないし、母の死に打ちひしがれていたわけでも、私が特別に冷徹な人間だというワケでもない。母の死に対しては当然悲しさを感じていた。
ただ、余裕がなかったことは間違いない
故人の息子、しかも社会人で母子家庭で長男と言うことで通夜、葬式を始めとする一連の法事の段取りを任されていた。入社したての会社も無理を言って休んで来たのでそのフォローも必要だった。
ここで躓くわけにはいかなかった。
山のようにあるタスクを片付けることに躍起になっていた私は母のために涙の1つでも流してやれていただろうか。正直自信がない。
●
目が覚めると何やら屋敷の外で声がする。朝のまどろみを邪魔されて若干不機嫌になりつつも、どうもただ事ではなさそうなので気になって様子を見に玄関から外へ出てみると、エンナとアマリオ君と知らない男が一名、朝っぱらから言い争いを繰り広げていた。
聞けばこの男、エンナの行商人仲間でアマリオ君の親友らしい。強面のスキンヘッドでガタイがよいので世が世ならいかにも……といった風貌だが街から街への移動が命がけのこの世界では、本来こういう男こそが典型的な行商人なんだろう。
そんなタフガイの彼はどういうわけか肩で息をしている。まさか伊達男のアマリオ君と取っ組み合いの末、というワケではないだろう。
いや、エンナと取っ組み合いならあり得るな。などと想像していたが、残念ながら(?)そうではなかった。
話を要約するとこういうことだそうで。
このタフガイの生まれ故郷がこの街から半日ほどの距離にあるらしいのだが、そこが先日モンスターの群れに襲われた。かろうじて全滅は免れたものの、街の被害は甚大で食料、医療品その他復興用の物資もろもろが不足している。このままでは街の存亡に関わるので、大至急大量の物資を運ぶ手伝いをして欲しい。
対するエンナ、アマリオ君陣営の意見はこうだ。『そんな危ない橋渡れるか』。
自分たちが加勢したところで街一つ分の物資には到底及ばない。何度も往復する必要があるり、街を襲ったモンスターの群れがまだ近くにいる可能性が高いので当然リスクもある。くら腕自慢のエンナとはいえ、一人でモンスターの群れを相手取って何往復も大量の物資を運搬するのは無理がある、ということだ。
「親友の頼みを無碍にするのは心苦しいっすけどね……。この街だって最近悪政続きで景気が悪い。そもそもそれだけの物資を調達する金はあるんすか?」
「それは……」と返答に困るタフガイ。沈黙する一同。
…………ふむ。
「……その魔物だかモンスターだかの群れはどれくらいの規模なんですか?」
沈黙を破ったのが私、という事実に面食らった様子のエンナをよそにアマリオ君が答える。
「百や二百は下らない、下手したら五百近いらしいっす」
「西で見た大群よりは少ないはずです。エンナ。その数を、一度だけ、食い止めることはできますか?」
「まあ、全滅させるってなると話は別だが、足止めするくらいならなんとか……」
「それなら結構です。この街に他の行商人はどれくらいいますか?」
「そりゃこれっだけの人口っすからね、探せばいくらでも見つかるはずっす。ただ……そのほとんどが失業してるっすけどね。なにせ不景気で。うちぐらい繁盛してるところは珍しいっすよ。行商人連中から物資を得ようなんてとても……」
「いいえ、その必要はありません。むしろ失業者なら尚の事結構です。もう一つ、帝国の首都ってどんな感じですか?」
「帝都ならここと比較しても段違いに栄えてるっす。あそこは不景気とは無縁っすね」
「そうですか……」
この世界のことは気に食わない。異世界なんてクソくらえだ。だからこの世界に迎合した生き方もお断りだ。
だから今のこの境遇も正直、心から嬉しいと言っては嘘になる。
転生早々最強の行商人に拾われたり、素人目にも分かるほど文明が未発達だったり、大金持ちの家に厄介になれたり、いきなり大金を得たり、まるで私の大嫌いな異世界が、他の誰でもなく、私のために用意されていたみたいじゃないか。
そして極めつけに今回のこのイベント。そう、こんなものは最早イベントだ。私には分かる。このタフガイの故郷を救い、街の景気も回復させる方法が既に分かっている。そのための御膳立ても整っている。
イベントをこなせ、クリアしろ、先に進めと唆されているみたいな気がしてならないんだ。
分断された都市と都市。いびつなほどの文明差。戦闘特化の行商人という職業。帝国の首都に近い街。そこに溢れる失業者。手元には潤沢な資金。例え私に商才がなかったとしてもきっと分かったはずだ。
この世界でいかにももっともらしく未開拓なままになっている事業の存在に気づかないわけにはいかない。そこに踏み込むための条件もそろっている。そしてそのきっかけもまた、たった今私の前に転がり込んできたのだ。それも、こんな形で。
繰り返すが、私は異世界なんか大嫌いだ。大嫌いなんだけど。そこに住む人々のことは決して嫌いではない。少なくともここにいるエンナやアマリオ君のことは憎からず思っている。マルタやその家族だってそうだ。このスキンヘッドのタフガイのことも別に嫌いじゃない。
実に、本当に癪ではあるけれど、目の前で困っている人を、同じ世界のどこかで苦しんでいる人々を助けることが出来るなら、助けたいと思ってしまう。元の世界にいた頃はこんな事なかったのに。
やはり私は人が変わってしまったんだろうか?
「いいでしょう」
私は自らの言葉で再び長い沈黙を破る。
「ビジネスを始めましょう。さしあたってはエンナ、貴女を雇います」
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