第2話 行商見習いフロイト

 とても臭い。

 なんだこの臭いは。寝起きに嗅ぐもんじゃないぞ、全く。

 それに寒い。寒くて臭い。最悪。

 こんな早くにたたき起こされて出発の支度を手伝わされるとは。

 そのくせあの女、アンタがいつまでも寝てるもんだから朝食は済ませちまったよ、なんて。早起きが過ぎる。ババアか。

 どう見ても二十台半ばくらいの見た目でババアて。何食ってんだ。人魚でも食ったのか。

 ……待て、この異世界には魔法があるんだ。人魚や不老不死だってあるかもしれない。ありそうで怖い。

 やめろこれ以上ファンタジーレベルを上げないでくれ、苦手なんだそういうの。

 あ~しかもより高位のファンタジーレベルクリ―チャーであるところのドラゴンがいる時点で人魚の存在する可能性がとても濃厚になってる気がする!

 いやだなあ。

「準備も出来たしそろそろ行くよ、フロイト」

「どこへ行くんです?」

「どこって街に決まってるだろう、行商人なんだから。アンタにも働いてもらうからね」

「ああ、まあ、そうですよね。あはは」

 あははって。笑って誤魔化してみたが次からはもっと上手い方法を考えておこう。

 横で「ふあぁ」と褐色幼女のマルタがあくびをしていた。


 当分の間、私が異世界転生していることは隠しておくことにした。打ち明けたところで状況が好転するとも思えないし現状維持が上策だ。

 というワケで謎の美少女フロイトは行商人エンナの見習いとしてしばらく彼女と共にあちこち旅をすることになった。

 彼女の商売は国中を転々として行く先々でモノを買う、売ると言うだけの単純なもので、私が従事するのもお代の計算だの軽い品物の整理だのの雑用だった。

 退屈に感じないと言えば嘘になるが今はこの状況を甘んじて受け入れるよりほかはない。それに、こうして旅をしていれば元の世界に戻る手がかりが得られるかもしれない。

 敏腕経営者として業界の風雲児との呼び声も高かったこの私が雑務要員なんて、と思って然るべきなのだが、存外この肩ひじ張らない日々も満更ではない。元の世界にいた頃からすると信じられない感覚だ。心に余裕が持てたのはいいことなのだろうが。

 やはり環境が変われば人も変わるということなのか……。


 環境の変化という点では、異世界転生なんてその最たるものだ。いきなり訳の分からない世界に投げ込まれるのだから。突発性をとっても変化量をとっても他に類を見ない。それだけの変化が個人に与える影響など予想も出来ないのだから、例え常軌を逸して変容してしまっても別段不思議ではない。

 さらに今の私は美少女だ。鏡に映るのは元の私とは似ても似つかぬ美少女。

 これが元の容姿のままに美少女と評されるなら普通の人間ガリバーが小人の国では巨人になったように、私は相対的美少女と化したことになるが、そうではない。私は絶対的美少女だ。

 環境が変われば人も変わるか?

 ここでいう“人”は人の心とか精神とか、要は内面のことだ。

 精神にとっては個人の肉体さえ環境となり得る。

 だからきっと

 “異世界の美少女”という環境に投じられた私の精神は変容しつつある。

 と言うことで間違いない。いくらか思い当たる節はある。

 ただでさえ、異世界なんて環境に辟易としてるのだから、頭の痛い話だ。

 やっぱり異世界なんて嫌いだ。どうしてそんなに毛嫌いするのか言えばばそれはまあ親の仇だからとか、異世界に親を殺されたからとかそんな感じだ。

 それに何より私が気に食わないのは“異世界転生”の特に主人公にオタク共自身の浅ましい願望が反映されていることだ。

 無双したいとかモテモテハーレムを築きたいとか。誰もが認める聖人君子の人格者でありたいとか。周囲に過少評価されてるが実は自分はすごいやつだと分からせたいとか。

そういう望みを一身に受けた主人公が、舞台として創造された異世界にコッテコテの理想像として顕現する。

 そういう本来心の奥底にあるデリケートなコンプレックスの裏返しである願望を臆面もなくあけっぴろげにしている。それが見苦しい、浅ましいと言うんだ。


 なんて、そんなことを考えながら日夜旅をしていた。


 地理的、或いは地学的な話をしよう。

 この異世界の文明は、正によくある異世界と言った感じで人類の英知を舐め腐ったように未開で、街が点在している他は森やら荒野やらが広がるばかりだ。

 街から街へ渡り歩くのも命がけで、道中なんだかよく分からない生き物やおよそ生き物のようでない生き物なんかに幾度も襲われる羽目になった。その度にエンナが獲物だ晩飯だなどと言って得意の火炎放射でもって謎の生物を調理しながら狩るわけだが、おぞましいみてくれをしているものであっても火を通して食卓に並べられるといい匂いがして割と美味い。

「さっきの戦闘は危なかったですね。もう少しで噛みつかれるところでした。肝が冷えましたよ」

「そうかい。そんじゃこれでも食っときな」

「なんですかこのデカい肉は」

「さっきのヤツの肝臓の丸焼き。アツアツの焼きたて。それでバランスとれるだろう?」

「うへぇ、なんですかバランスとるって……エンナは脳みそでも食べといてください」

 ちなみに、余った化け物の焼き肉は腐りにくいからよく売れるらしい。なかなか商魂たくましい女だ。

 比較的街に近い場所ではモンスターみたいなものに出くわすことは少なかったがそこでは山賊だか野党だかといった連中に襲撃されるのだ。なるほどこんな調子では街と街が分断されるのも腕の立つエンナが行商人なんてやっているのも道理だ。

 道中では他の行商人に会う機会もあったが女の行商人には一人も合わなかった。


 そうして各地を旅して分かったことが二つ。

 一つは馬車に同乗する女の子。マルタはとても口数が少ないということ。

 もう一つ。この星は地球ではない。そもそも月――衛星が四つもあるので一目瞭然だ。

 注目すべきは、この星は絶対に地球ではないのに地球によく似ているということだ。

 一日は約二十四時間だし日が昇る方を東として北に行くほど寒くなる。後者は北半球の特徴だが。

 北とい言えば、私とエンナが旅している帝国領の北方には険しい山脈が広がっており、その向こうには別の王国が存在するらしい。友好的な関係とはいい難いようだが何せ間に山がある。目立った衝突はしばらくなかったようだ。

 私も国境付近の街へ赴いたときにこの目で見たが、確かにこれから戦争をしようと思ったときに超えたくなるような山々ではなかった。

 この山脈の立派なことときたら、見上げるのも一苦労な高さもさることながら、なんと帝国の東端から始まり北方で帝国と王国を隔て,そのまま西へ帝国領をほぼ半周囲うような形で続くほど長い。

なんとまあ優秀な天然の国境防壁だろう、と思ったがこの山脈は必ずしも国境というわけではなかった。帝国領の西、山脈を超えたところにその西端があるらしい。

 今、私とエンナが向かっているのはそこだ。

「ところで、西は今から行くとして、北は王国、じゃあ南と東には何があるんです?」

「東? ……帝国は東西に長いんだけどねえ、南側は全部海なんだよ。暖かくて綺麗な海が延々と続いててそりゃあのどかな土地ばっかりさ。そのうち連れてってやるよ。ただ東ねえ……。一度南へ出て海岸沿いをずっと東へ行ったことがあったんだけど、しまいにゃあのクソ長い山脈の根本に行きついちまったよ」

「その山脈の向こうには何があるんです?」

「そのむこうなんて知らないよ。だいたいそんなの、あろうがなかろうがどっちだっていいじゃないか」


    ●


 時は流れていよいよ帝国の西端とやらに近づいてきたわけだが。

「登るんですか、この山を」

「登りたいかい?」

「いいえ、まったく」

「登ったっていいんだよ」

「登らないって言ってるじゃないですか」

「なんだい、登るっつったって馬車で登るんだよ?疲れやしないだろう」

「バカですか。こんな急斜面を馬車で登れるわけないでしょう。見たところ山道も整備されてはいなさそうですし、よしんば比較的登れそうな道を選んで行っても馬が足を滑らせて怪我でもしたらどうするんですか。馬の身にもなってください。山中で立ち往生なんて嫌ですよ」

「馬鹿だの馬の身になれだのとは言いたい放題じゃないか、ろくすっぽ魔法も使えない小娘がまあ……初めて会った日の初々しさはどこに行ったのかねえ」

「いつの話をしてるんですか、怒りますよ」

 この異世界に来て約一ヶ月が経ったが、私は一向に魔法とやらを使えるようになる気配がなかった。並みの異世界転生ものなら最初から世界を揺るがす大魔法くらい発動させられるのが定番だが、そんなことはなかった。

 それどころか私は魔力だか何だかいうものが乏しいらしく、この世界の一般人なら誰もが無意識に発動させているという身体強化さえ満足に使えていない。私としては『異世界で無条件に最強』なんて境遇に身をやつすくらいなら無力の方がまだましである。しかしそのせいであまりに非力なのと『最弱だけど最強』の可能性が残るのが不安だ。

 特に非力さは際立っていて、エンナをしてそこらのガキの方が使えると言わしめ、一切の力仕事においては戦力外通告を受けている。そんな自他ともに認めるか弱き美少女に、ハイリスクな馬車登山をさせようというのだからこの女、控えめに言って畜生にも劣る思慮の欠き方だ。空気を読んで周囲に溶け込むカメレオンの方がまだ気を遣える。

「安心しな、あんな山超えるの、私だって御免だね。実は抜け道があるんだ」

「それを先に言ってくださいよ……危うくあなたを爬虫類以下に評価するところでした」

「あんまり減らず口叩くようなら竜の餌にしちまうよ」

「竜の餌って……あれ? ここは……」

「気が付いたかい?」

「ええ……」

 見覚えのある風景だった。荒野を抜けた。その先には草原が広がる。遠くに見えるのは崖と谷。間違いない。ここは……

「ここはあなたと出会った場所ですね」

 そして私がこの世界で目を覚ました場所でもある。

「正解だよ」

「ここ、こんな場所だったんですね……」

「帝国側、山脈の内側から見たら分からないんだけどね、この辺りだけハリボテみたいになってんだよ。他の場所じゃ山を越えてもまた次の山がって調子だ。上ったり下ったりで馬もへたっちまう。でもここだけは抜け道使ってデカい山一つ迂回りゃあとは割と平坦な道になってんのさ。まあそれでも道幅は狭いし少々厄介なんだがね」

「私がエンナと出会ったのって……」

「山の頂上あたりだね」

 あの日見た夕陽を思い出す。

「じゃああの尖った岩山みたいなのがいっぱい見えるところが――」

「そう、帝国領の西端の地だ。その手前に一つ谷が見えるだろう? アレを抜けていくんだ。……知らなかったかい?」

「はい……」

「やっぱりおかしな奴だね。フロイト、アンタはどう見たって西の人間には見えないし西の地のことも知らない。なのにアンタはこの場所にいた。

女のくせに『フロ』なんて北の王国の男みたいな名前だ。それなのに王国のことどころか帝国のことすらもよく知らない。幼子だってんならそんなこともあるだろうがアンタほどの歳になればこの狭い世界の事くらい、どこかしこから聞き及んでるもんだがね。

アンタ、本当にどっから来たんだい?」

「それは…………」

 しまった。王国式の名前も、西の地との境界にいたことも、この世界の事を知らないのも、いくらなんでも不自然過ぎた。何一つ辻褄が合わない。

「まぁ答えたくないんならそれもいいさ。そろそろ教えてくれるかもって期待はしていたんだけどね」

「……すみません」

「そのうちでいいさ。それよりほら、おいでなすったよ!」

「何が――って! ああ! うわっ!!!!」

 突風で馬車が揺れ、舞う砂塵に思わず目を閉じた。次に目を開けたとき、私が目にしたのはまたしても見たことのある光景だった。

 羽ばたきが起こす風は容赦なく辺りを蹂躙し、荒々しく喉を鳴らしながら呼吸して、両の眼で確かに私たちを捉え、滞空している。堂々たる姿。鱗をまとったその巨体が次の瞬間どう動くかは皆目見当がつかない。ただし、どう動いたとしても私では抗いようもないことだけははっきりと理解できる。理解させられる。

 圧倒的な力と威厳。

 ドラゴン――またお前か。

 あの時と同じ個体かどうかまでは分からないが、そんなことは関係ない! とにかくあいつはドラゴンだ! ひええ、コワイ……

 思わぬ再会に私が委縮しきっているとドラゴンは天に向かって轟轟と火を吐いた。

 ひええええ! やばいやばい燃やされる!! きっと私が爬虫類を侮辱したから怒っていらっしゃるのだ! ドラゴンさんホントコワイ!! スミマセン!! ホントスミマセン!!! ユルシテ!! タスケテ!!!!

 火を吐き終えたドラゴンさんは尚も悠々と空中でこちらを睨んでいらっしゃる。

 ああドラゴンさん、いいえドラゴン様どうかそんな眼で見ないでください!! 獰猛さという原石の中心に知性の宝石を据えたような眼で!! 人間なんて体積のわりに骨ばかりで不味いことくらいお分りでしょうに! それとも戯れにいたぶるおつもりですか⁉

 ドラゴン様の真剣なまなざしにあわや失禁というところでもう一度、しかし今度はエンナの右手から空高く火柱が立った。

 この女何バカなことを、ドラゴン様を威嚇してどうするんだここは平に伏して先方に許しを請う場面だろう元敏腕ビジネスパーソンであるこの私の直感がそう言っているこの馬鹿者にはあとで本当にモンスターの脳みそでも食わせてやらねば頭が足りん、いや事ここに至ってはもうあとなどないか。ああドラゴン様どうせならせめていっそどうか一思いに楽に――など、ここまで僅か〇.五秒の思考の矢先、ドラゴン様は喉を鳴らしてひときわ大きく羽ばたいたかと思うと宙でくるりと身をひるがえしゆっくりと空の彼方へ消えていった。

 放尿こそしなかったが、その晩に西の地の集落に着くまで私は放心したままだった。


    ●


 帝国の西端、西の地の集落は異様だ。他の帝国領とは人も建物も食べ物も明らかに異なる。帝国領の他の街は所謂異世界然とした景観で、そこに住まう人間も白い肌に赤毛とか金髪とか、まあ言ってしまえばどことなくヨーロッパぽい。いかにも創作の「異世界」といった感じで私にとっては全くもって不愉快極まりなかった。

 しかしこの西の地はどうだろう。赤い砂、岩をくりぬいたような住居、用途不明の岩の塔。暑い空気はしかし乾いてカラッとしていて、山脈の内側の湿った冷涼さにはない心地よさがある。

 この地の住民もまた他の地域とは大きく異なる容貌をしている。

 褐色の肌、淡く青みがかった銀髪、瞳は赤かったり白かったり黒かったり。メラニンが足りてるのか足りてないのか分からない。

 人を見ても土地を見てもファンタジーなことに変わりはないが所謂「異世界」とはまた趣が異なる。

 ドラゴン様……いやドラゴンさんの襲撃によって放心状態にあった私も、翌朝の妙に美味い食事と山の影が作り出す不思議な雰囲気にすっかり気付けられていた。

「おいしいですねこの……何だかよく分からないものは。なんだかよく分からない生き物の肉もまあそこそこイケましたが、私はこっちの、この、ぱさぱさした何だかよく分からないものの方が好みです。穀物由来? の素朴な甘みがあって。口の中の水分が根こそぎ持っていかれますが、それはそれでこの半透明で乳白色の謎の飲み物がすすみます。相性がいい。

 どちらも派手な味ではないですが、互いが互いの味を引き立てている。じっくり味わうには最高の組み合わせと言えるでしょう」

「えらくグルメじゃないか」

「ええ、自慢じゃないですがこう見えても舌には自信があります。一体何ですかこのおいしい食べ物は」

「パンだよ」

「なんだパンか」

 なんだパンか。えらく美味しかったんで異世界特有の何かだと思ったんだが。見た目もパンらしくないし。削ってあるんだろうか? 二~三センチ大のぱさぱさふわふわなかけらが器に盛ってあってそれをこう、手づかみで食べると――パンだ。パンだと思って食べると確かにパンだなこれは。……おいしい。

「さあて、フロイト。アンタもアタシの弟子になって一月は経ったねえ」

「弟子とは聞き捨てなりませんが、今は良しとしましょう。なんですか藪から棒に」

「アンタもずっと私におんぶにだっこってワケにはいかないんじゃないか?」

「といいますと」

「アンタの面倒を見ると言った手前、せめてアンタを一人前の行商人にしてやる義務と責任ってもんが私にはあると思うんだよ」

「ごもっともです」

「ところがアンタは魔法がからっきし使えないどころか同じ人間とは思えない程力が弱い。この一ヶ月で分かった通り、行商人ってのは腕っぷしが命だ。いあのままじゃあアンタはただの犬の餌」

「犬の餌」

「まあしかし人それぞれ得手不得手はあるもんさ。この際、腕っぷしの弱さはおいおいなんとかするとしてだ。今日はアンタの商売人としての腕を試させてもらうことにする」

「ほう」

「これまでアンタも私の仕事ぶりを見てきただろう? 仕事もあらかた見て盗んだはずだ。その経験を生かしてアンタにはこの肉を売りさばいてきてほしい。この、昨日ちょっとはしゃいで狩り過ぎたモンスターの群れ三つ分の肉を」

「私が心ここにあらずな間にそんなことしてたんですか……」

「竜に魂抜かれたみたいになってるアンタがおかしかったもんでね、つい楽しくなっちまって」

「はぁ……いつもはどれぐらい売れるんですか?」

「この十分の一売れるかどうかってところかね。全部とは言わないよ、熟れるだけ売ってきとくれ」

「……いいでしょう。ただし、この肉、私ひとりじゃ運べないので手伝って――」

「おっとそいつぁあムリな相談だ。行商人は独りでやるもんだ。アンタも一人でやりな」

「……わかりました」


 というワケで発生した荒野のお肉屋さんイベントだが、正直に言おう。ヌル過ぎる。元の世界では商売の世界で一時代築いたこの私におあつらえ向きのイベントだ。

 だがそれ故に、不愉快でもある。似ているのだ。異世界主人公が無双するときのパターンと。都合よく文明のレベルが相対的に低い異世界に転生して、現代の知識を使ってチート無双! みたいな。反吐が出る。

 しかしまあ唯一の難所があるとするとこの肉をどう運ぶかだな。あの女、私の非力さを知ってるくせに荷車一つに山盛りの肉をのっけて、それじゃよろしくって早々にどこかへ行ってしまった。本当に手伝わないらしい。こんな荷車、今の私には引けたもんじゃないが――。

「すみません、そこの人」

「俺かい? べっぴんさん」

「ええ、そう。どうです? 今日一日私の手伝いをしませんか? 銅貨5枚で」

「ハッ! 嬢ちゃん冗談きついぜ? 銅貨5枚なんて酒の一杯にしかなりゃしねえよ」

「そうですか……そうですよね。フフッ。じゃあお礼にこの肉を差し上げましょう5枚でどうです?」

「肉ごっ、5枚……ホントにいいのか?」

「ええ、もちろん」

「よっしゃ! のった!」

 労働力の確保に成功した。これであとはもうちょろいものだ。あとはいくつかの手順を踏めばエンナから預かった肉は跡形もなく売れてなくなるだろう。私にはその自信と根拠がある。

 例えば値段。エンナは商品をすべて言い値で売っていた。そんなことをすれば安く買い叩きたい客との値下げ交渉は避けられない。時間の無駄だ。加えてぼったくられるのを警戒した客は購買意欲が低下し、消極的な買い物しかしなくなる。完全に悪手。

 そう。値段は値札に書いておくのが正解。大体はね。ということで適正価格がどれほどかという問題になるわけだが。

「そこの綺麗なお姉さん、肉売ってんの? いくらで売ってくれる?」

「値段ならそこに書いてありますよ、肉一枚で銀貨2枚」

「へえ……ホントに銀貨二枚?」

「もちろんですよ、奥さん」

「ほんとにホント?」「ほんとですって」

「じゃ、じゃあ一枚ちょうだい」

「はいはい、銀貨二枚で、肉一枚ですね。まいどあり!」

 銀貨二枚。酒一杯が銅貨五枚なら一日の稼ぎの相場が恐らくその十倍で銀貨五枚ほど。先ほど労働力として雇った男の報酬に対する反応を見るに、どうやら肉五枚は銀貨五枚よりも遥かに価値があるらしい。恐らく倍はあるようだ。ならば肉五枚で銀貨十枚、肉一枚は銀貨二枚、でどうだ。

 一日の稼ぎの四割と考えると少々高価な気もするがそこはまあ一応肉は貴重らしいし殿様商売でやっていこう。例によって火も通してあるので日保ちするし一枚でもなかなかの量だ。数日分の食事は賄えるはずだ。

 さあ、買え! 消費者諸君よ、一枚で銀貨二枚の肉を、淡々と、買え!!

 という私の完璧な分析が功を奏し、最初の奥さんが無事に銀貨二枚でやすやすと肉一枚を手に入れたのを見るやいなや、それならばと、どこからともなくわらわら人が集まってきてみるみるうちに大盛況の肉屋フロイト。たちどころに在庫の半分を売りさばいた。

「売れたねえ。嬢ちゃん商売上手だね」

「いえいえ、お兄さんの助力あってこそですよ」

「なんの! あの程度で肉が五枚も手に入るならお安い御用だぜ」

「ところでお兄さん、普段どんな仕事を?」

「あん? まああれだよ、この村のあちこちで屋根を直したり壁を直したりだなあ」

「へえ、みなさんそんな仕事を? 他にお店とかはないんですか?」

「店なんてありゃしねえよ、あったらアンタらから買わなくたっていいだろい?」

「そうですか……。お兄さん、この余った肉、全部買いませんか?」

「ぜぜ全部⁉ 嬢ちゃん何言ってんだ売れ残り押し付けようってのか⁉ だいたい、そんなに食えねえよ!」

「食べなくていいんですよ。食べない分は売ればいいんです。これからこの村に来た時には私があなたに肉一枚を銀貨一枚と銅貨五枚で売りましょう。そしたらあなたはそれを好きな値段で売ればいい。

 今日みたいに銀貨二枚で売れば肉一枚売るごとに銅貨五枚の儲けです。一日に肉を十枚も売れば銀貨五枚分の儲け。もっとも、今日の様子を見る限り、明日以降も一日最低二十枚は売れそうですけどね」

「い……一日最低でも銀貨十枚の儲け……」

「どうです? 悪い話じゃないと思いませんか?」


    ●


 その夜、空っぽの荷車を目の当たりにしたエンナ、狼狽。

「おいおいおい。一体どうしたってんだ。あの肉全部売っちまったのかい?」

「ええ。飛ぶように売れましたよ」

「嘘だろ……まさかタダでばらまいたわけじゃないだろうね⁉」

「そんなまさか。売上金なら荷車の上にありますよ。肉ほどじゃないですが重くて運ぶのに苦労しましたよ」

「金が重いって……うわっなんだいこの大金! ええぇ……」

「それから、この街に来るときは今度から彼が肉をすべて買い取ってくれます」

「全部買い取るって……誰だいそいつは」

「大工のベントさんです。今日付けでお肉屋さんになりました」

「ベントです。よろしくお願いします」

「あ、ああ。よろしく頼むよ。――って、え、ええぇ…………」

 抱え過ぎた在庫を一掃するファインプレーのみならず、小売業から卸売りにジョブチェンジした挙句契約を一本取ってくるこの私の敏腕ぶり、見たかエンナ。これが真のビジネスパーソンの力なのだよ。


    ●


 はしゃいでしまった。何が「真のビジネスパーソンの力なのだよ」だ。一時間前の自分を殴ってやりたい。あまりにも「そうしろ」と言わんばかりのシチュエーションだったので経営者としての腕を存分に振るってしまったが、今は少し後悔している。だってこれじゃあまるで異世界の主人公じゃないか。私が嫌いな、あの、異世界の主人公。ああ失敗した……。ちょっと、死にたい。

 肉が大量に流通し始めたこの村では早速今晩からお祭り騒ぎになっている。日も暮れて辺りは暗くなっているが村の中心では火が焚かれ飲めや歌えやだ。建物やら石の塔やらに踊り騒ぐ人の影が映っている。そこから少し離れた場所に停めてある馬車で謎の肉料理を食べながら、私の私による私のための今日の一人反省会が行われていた。

 いったい何をやっているんだ私は。元の世界の知識と経験を使って成功していい気になって……。うまくやっちゃっダメだろう! この異世界に迎合しちゃいけないんだ。私はそんなこと望んでいないんだから。私が今やるべきなのは、行商見習いとして各地を旅して元の世界に戻る手がかりを探すことだ。それが最優先。そのはずなのに……。この世界の暮らしに馴染むばかりで有益な情報は何一つ見つからない。

 ああ、四つの月に知らない星座。この世界じゃ空までまるっきり別世界だ。

「戻れないかもなあ、元の世界」

「どこに戻るの?」

「はぅっ! っぇえほ! えホっ! ホッ!!」

 完全に油断していたため、独り言に返事が返ってきた驚きのあまり美少女らしからぬちぐはぐな咳が出てしまった。そこにいたのは謎の幼女マルタ。この一ヶ月ほぼ一緒にいたのに実はほとんど声を聞いたことが無かった。

 よ、幼女だ! 褐色の可愛い幼女に声をかけられてしまった! 事案だ! 勘弁してくれ! そっちに悪気が無くてももちろんこっちに悪気が無くても、幼女と関わりを持つと大人は極悪人にされてしまうんだ! 自分がそんな絶対不可侵の存在であるとも知らず無邪気に話しかけてくるなんて自爆テロよりたちが悪い!

 日本人なら十歳前後だろうか、それぐらいの華奢な体躯。褐色の肌に短くてもよく映える青白い髪。前髪の隙間から覗くおでこは丸みを帯びていてその下には大きなおめめ。満ちた月のように円い瞳孔とそれを囲むきめ細かい杢目のような深紅の虹彩をした瞳が二つ、くりっくりだけどちょっととろんとした柔らかいい目つきで私を見ている……。

 やめてやめてそんなあどけない表情で私を見ないで! 幼女に関わった大罪人の私はこれから世間様に正義の棒で袋叩きにされてしまうとても惨めな大人なんだから!

 と、思ったが。落ち着け、ここはファンタジー異世界で今の私は美少女だ。既存の倫理なんて知ったことか。何かするつもりもないが大丈夫、きっと何をしても許される。

「大丈夫? お水飲む? おねえさん……? おにいさん……おじさん?」

 まてまて、何を言ってるんだ⁉ 私は美少女だぞ⁉ その私を言うに事欠いておっさん呼ばわりって。まさかこの子……。

 分かってるんじゃないだろうか、という私の疑惑の眼をよそに褐色幼女は話を続ける。

「ずっとへんな人だなって思ってたの。今日でお別れかもしれないからおはなししたい」

 幼女らしからぬ洞察とは不釣り合いに幼女らしいゆったりとした調子で、やっぱり幼女みたいなことを言う幼女だ。

「君、私の事をお兄さんって……おじさんって…………」

 なんて言う私も私で思考とは裏腹に、口から出る言葉では動揺を隠せていない。

「うん。おねえさんなのにそうじゃないみたいな」

「わ、分かる……んですか?」

「何が?」

「その、私の正体、とか。何者なのか、とか」

「そんなの見たまんまだよ?」

 利発そうな顔立ちで年相応の愚鈍そうな振る舞い。不思議なこの褐色ロリに若干戸惑いながら私も言葉を返す。

「私は、フロイト……です」

 男ですとも女ですとも言えず、苦し紛れにそう言った。

「知ってるよ。フロイト……短いおなまえだね。じゃあ王国の人なの? 男の人のおなまえみたいだけど……でも、これでおねえさんでもおじさんでも関係ないね。これからはおなまえで呼べばいいから」

「私は一応帝国の人間ですよ。あと、お姉さんかおじさんかは大事な問題です」

 おじさんだったら即事案だからなあ……。

「そうかな? おじさんでもおねえさんでも、フロイトはフロイトでしょ?」

「ん、まあそう――ですかね」

「わたしはマルタ」

「知ってますよ、マルタ。ずっと一緒にいたじゃないですか。

 アラサーのおっさんでも美少女でも私は私だ、なんて言われたら何故だろう、何となくそんな気がしてきた。だからというワケでもないが、私はしばらくこの不思議褐色幼女マルタとおしゃべりすることにした。

 大丈夫、私は(少なくとも外見は)やっぱり美少女だ。事案にはなるまい。


    ●


 マルタとのおしゃべりで何となくふわふわと時間が過ぎていった。捉えどころのないこの幼女は意外に物知りで、私にいろいろ教えてくれたのだった。幼女先生。かわいい。

 ここが彼女の故郷で、偶にエンナに連れ出してもらって旅をしていることとか、西の地には牧畜で生計を立てるここと同じぐらいの村々が比較的密集して存在しているとか、山脈から離れる程に砂っぽい土地になるとか、訊けばなんでも教えてくれた。もちろん幼女並みの言葉で説明してくれるのだが、その言葉には矛盾がなく、話せば話すほど賢い子だという印象が強くなってくる。

 一方の私も幼女に教えを乞うばかりではもちろんなく、この一月で帝国領各地を旅して獲得した面白エピソードの数々を披露した。気づけば、元の世界では業界の大物相手に揮った渾身の話術を幼女相手に惜しげもなく駆使してマルタと会話していた。

 幼女相手に、本気。

 かつては実力者とのコネクション欲しさに会話を盛り上げていたのだが、まさか幼女と打算的なお付き合いをするわけでもなく、今は純粋にマルタと話したくて会話している。この子が微笑めばもっと笑わせたいと思うし、この子が話に食いつけばもっと興味を惹きたいと思う。マルタはそんな子だ。

 私が抱腹絶倒異世界小話四十八手の八番目をちょうど話し終えたとき、マルタはフフフと笑ってこう続けた。

「こんなにおはなししたの初めて」

「そうなんですか?」

「うん。外から来た人とはいっつもはなさないの。帝国のひととも王国のひととも」

 まあ私も今日ようやく会話したくらいだしな。

「王国から人が来るんですか?」

「たまにくるよ。帝国の人よりよく来るかも。きっと山がないからかな」

 なるほど、ここ西の地は帝国領とはいえ山脈の外側だ。山を越えなくていい分王国からはいくらか楽にここまで来れるということか。

「でも、ここは帝国の土地ですよね?」

「ちがうよ。よく分からないけど」

違う? ここは帝国領じゃない? いやマルタがよく分かってないだけかもしれない。

「マルタ達も帝国の人ですよね?」

「ちがう。わたしたちはわたしたちだし、ここはわたしたちの場所だって思ってる。わたしたちはみんなそう。王国の人がたまにやってきてここは王国の土地だって言ったり、お前らは王国の人間だって言ったりしてるけど」

「そうですか……」

 何だか、所謂難しい場所のようだ。国交上というか国政上というか国際上というか“国と地域”ってやつだ。

「じゃあマルタはここの外のこと、よく知らないんですね。帝国とか王国のことは」

「王国のことは知らない。おはなししたことある帝国の人はエンナだけだけど、でも、エンナが教えてくれたことはしってるよ。一緒に旅もしたもん」

 最後のほうだけ少し強い口調になっていた。可愛い。

「ふふっ。そうなんですね」

 しかしそうなると、私とエンナがここにいるのはちょっとまずいんじゃないのか? エンナによればここは帝国領の西端らしいが、あの灼熱の脳筋女の言よりマルタの言葉の方がよっぽど信頼できる。王国の人間が度々訪れるとも言っていたし、万が一鉢合わせすることになったら厄介だな。

 そんなことを考えていた矢先、村の中心からマルタを呼ぶ声がした。声の方を見ると村の住人が三人ほどあわただしく駆け寄ってくる。女、男、髭の男。どうやらただ事ならぬ雰囲気だが、もしかして私の予感が当たっちゃいないだろうな?

「ここにいたかマルタ。――そちらのお姉さんは?」

 髭の男が私を一瞥して不思議そうに言う。

「私はフロイトと申します。行商人……の見習いでこの昼間に肉を売っておりました」

 肉屋フロイトと言えば最早この村で知らぬものはおるまいて、その私にむかってそちらのお姉さんは、だと? さてはモグりか?

「ああ、ではあなたが。お話は聞いておりますとも。私はピルゲル、この村の長をしております。今の今まで村の周囲を見て回っていたもので、ご挨拶が遅れて申し訳ない」

 村長だってだった。危うくとんだ無礼になるところだった。「いえ、お気になさらず」と言う声からも覇気が失せる。

「パパどうしたの?」

「マルタ、外ではお父さんと呼びなさい。それより大変なんだ。実は――」

 パパ? この髭村長、マルタのパパ、いやお父さん、いやいやお父様なのか。

 はぇ~~似てないなあ~。目の色も違うし。あ、でも耳の形は少し似てるな。てっぺんがちょっと尖ってるところとか。でもそうか、マルタは村長令嬢なのか。本当に失礼がなくてよかったな、もしあったらきっとタダでは済まなかった。この髭パパ村長を見ているとそんな気がする。きっと家では愛娘にほおずりして髭をじょりじょりやってるんだろうな。絶対そうだ。

 なんて一人で妄想しているとグイッと袖を引っ張られて我に返った。私を見上げるような形で小首をかしげながらマルタは言った。

「フロイトも一緒にきて」


    ●


 妄想の中でマルタの私生活を覗き見るのに没頭するあまり、全く話を聞いていなかったのだが、まあ本来なら私が聞いていようがいまいが別にどちらでもよい話だったのだが、つまりこういうことらしい。

 山の方から、モンスターの類が大挙してこちらへ押し寄せてきている、と。

 モンスター化け物クリーチャー魔物。呼び方はいろいろだが要は全部例のファンタジー生物たちのことだ。よく私とエンナの食卓に並んでいた、これからはこの村でもよく並ぶようになると思われる、生き物たち。エンナと旅をしていると忘れがちだが、このファンタジー生き物達は十分に人を殺傷し得る戦闘能力を持っている。むしろ並の人間が真っ向から挑めばまず無事では済まない。それが大群でこの村を目指しているというのだからままあな一大事である。

「まあまあどころじゃないよ。群れの規模にもよるが村1つ食い散らかすなんざ連中にとっちゃ朝飯前さ」

 帝国側から西の地につながる唯一の道、山の上から見えた大きな谷の入り口で双眼鏡を覗きながら私の隣でそう言うエンナの声音はいつもより低い。いくらか真剣さが感じられる。私の右袖にはまだマルタがしっかりくっついていた。何故私が連れてこられたのかは全く分からないが、エンナがここにいる理由は想像に易い。

「でもあなたならすぐ退治できるんでしょう? 昨日も群れ三つ滅ぼしたって言ってたじゃないですか」

 そしてその肉を私が売りさばいた、この村で。

「そりゃあ十匹や二十匹の群れならね、一人で相手するのも訳ないさ。でもコレは流石にワケが違う。違い過ぎる」

 彼女は言い終わる前に双眼鏡をぽいっと私に投げてよこした。一体何事かと怪訝な顔をしてみせる私に、いいから見てみな、と顎で言うエンナ。

 ふむ。エンナの戦闘能力の高さは私もよく知るところだ。一人で魔物の群れに突っ込んだかと思えばたちまち死体の山を築いたのは一度や二度ではない。そんな彼女がしり込みすような相手となると……ドラゴンでも攻めてきたんじゃあるまいな?

 一抹の不安が頭を過り、私は恐る恐る双眼鏡を覗き込む。

 谷。両側を剥き出しの山肌の険しい斜面に挟まれたまっすぐな長い一本道。谷底は片側三車線道路ほどの幅で大きな岩や植物などの障害物も特になく見通しが良い。

 なかなか夜目が利かない私にしびれを切らしたかの如く、ちょうど大きな月にかかっていた雲が晴れて視界の果てが月光に照らされる。何かが――大きな何かが動いている。いや揺れている……? いや。うごめくそれは群れだ。はっきりと見えた。魔物が、モンスターが、地表を埋め尽くしている。数なんて数えられたもんじゃない。獣のような見てくれの者や人間のような外見の者、形容しがたい姿かたちの者まであらゆるモンスターが確かにこちらへ向かってきている。ある者は地を駆け、ある者は低空を飛び。何十何百いや何千と、波のようにうごめいて、谷底を這う濁流となってこちらへ押し寄せてくる。

 あれは……ヤバいんじゃないか? 人であれ動物であれ、あの規模の群体を見たことがないので一体何匹いるのか見当もつかない。

「なんですかあれ……だってあんなの……あり得るんですか?」

「モンスターの大量発生ねぇ――話に聞いたことはあるけど、アタシもついさっきまで信じてなかったよ。この目で見るまではね」

「まっすぐこっちに向かって来ますよ。このままじゃ……」

「まあ! 間違いなく! この村は全滅だろう、ね!」

 肩をぐるぐる回したり腕を十字に組んでぐいぐい伸ばしたりしながらいけしゃあしゃあとそう言うエンナ。

「どうするんです? まさかとは思いますが、戦いませんよね?」

これは流石に私でも分かることだが、あの数はエンナの火力をもってしてもどうこう出来るレベルじゃない。人一人が対処できる規模を遥かに超越している。自然災害に一人で立ち向かうようなものだ。こんなところで悠長にしている場合じゃない。

「逃げましょう! 村の人たちも早く避難を――」

「まあまあそう焦るんじゃないよ。それに逃げたって逃げ切れやしないさ。いずれ追いつかれてみんな仲良く連中の餌になるってのがオチだ」

「だからって生き残る可能性がないわけじゃないでしょう! ここで足止めしようったって時間稼ぎにもなりませんよ、皆死んじゃいます! こんなところにいる場合じゃ――」

 まくしたてる私の言葉を、子供でもたしなめる様にヘラヘラと半ば呆れ気味でエンナが遮る。

「だから落ち着きなって、らしくないねえ。誰も死にはしないよ。村にだって一匹たりとも近づかせやしない。そのためにアタシらがここに来たんだから」

 エンナは準備運動を止めて腰に手をあて、さて! と私の方を見る。

「こっちは準備出来たよ、そっちはどうだい?」

 はあ?この女何を言って――と思うと同時に

「わたしはいつでもいいよ」

 と、私の右斜め下から声がした。

 声の主は――マルタは私の袖から手を離し、呆気にとられている私の前を横切ってエンナのもとへ歩み寄った。

「たのもしいねえ、ちっこいくせに」

 と茶化すエンナを「ふざけないで」と意にも介さぬマルタ。

「で、どうすればいいんだい? ちびっ子」

「手をつなぐの。あとは分かると思う」

 そうして差し出されたマルタの左手を、へえっとニヤニヤしながらにぎるエンナ。

「アタシこれ初めてなんだよ。フフッ、緊張するねえ……!」

「そう。じゃあ優しくしてあげるね。はじめるよ」

 その瞬間、二人の周りの空気が緩やかに渦を巻き、僅かに熱を帯びだした。空気の渦は次第に激しさを増し、私が頬や額に感じる熱も徐々に高くなっていく。

「はぁ……これヤバッ……あっつぅ!!」

「変な声出さないでエンナ。我慢して。フロイト、ちょっと離れててね」

 熱気の渦中にあってその熱に悶えるエンナとは対照的に、マルタは涼やかな顔で私の方を振り返りそう言った。

 尚も上昇し続ける温度。私はエンナの言葉通り、後ずさりするように二人から離れる。

「エンナの、すごく大きい。こんなに大きな人はじめてだよ。すごいね」

「なあ! なあって! もういいだろ⁉ 早くッ――!」

 熱さに耐えかねて、と言うには少し様子が違うようだがエンナはいっぱいいっぱいの状態で何かを催促している。

「そろそろだよ。でももうちょっとかな。しっかりひきつけなきゃ」

 どこまでも冷静なマルタの、布をそのまま被ったような服が風をはらんでいる。白い髪もわさわさと吹かれるままだ。二人の姿が熱で揺らいで見える。

 モンスターの群れはいつの間か双眼鏡を使わずとも一体一体を識別できる距離まで迫っていた。接敵まで――もう、十秒と無い。

 いったい何をするつもりなんだ、もう目の前に敵が! このままでは――!

「マルタ!!!!エンナ!!!!」

 私がありったけの声で彼女らの名を呼ぶが早いか否か、二人の正面に電光とも火花ともとれる光が生じた。光は空中で次々に生じては収束しやがて無数の火球を形成する。二人を取り巻いていた空気の渦はいつの間にか消失してただ熱だけが周囲を焼く。それぞれの火球が肥大化して繋がり1つの直径にして2m弱はあろうかと言う大きな発光体と成った時、マルタは右手を前にかざした。


「おまたせ。いくよ」


 刹那、光球が谷底の端から端までを埋め尽くす一筋の光となって放たれた。

 マルタが伸ばした手の先から出る眩い光が巨大な柱となって魔物の大群を正面から蹂躙していく。

 火炎放射。それもロケットエンジンの噴射かとみまごうばかりの。間近で見ればあまりに眩しく、炎というよりはむしろ光線である。

 年端もいかぬ幼女が業火を放ち、その巨大な火柱が夜の谷底を明々と照らしている。その光景はあまりに不釣り合いで、その瞬間はとても長く長く感じられた。


 やがて火炎の筋は急に細くなり、最後は途切れ途切れの糸みたいになって消えた。火炎放射に巻き上げられ、立ち上る土煙の中で散発的に稲妻が光っていた。

「ふう。つかれた。だいじょうぶ? これくらいでいい?」

「ああ、ああ! 上出来だよ! 全く……こいつは最高だね……!」

 マルタは相も変わらず淡白な口調だがエンナは息も絶え絶えだ。

「じゃああとはおねがいね。まだ少しのこってるから」

「任せな……! 今は最ッ高にハイな気分だからね、ちょっとイってくる!」

 エンナはそう啖呵を切ると死屍累々の谷底を敵の残党めがけて飛んで行った。

 ――あんな勢いで突っ込んでって大丈夫か? 疲れてるんじゃなかったのか?

 遠くの方飛んだり跳ねたりしながら火を噴きまくるエンナが見える。

 ドカンドカンと景気のいい爆発音まで聞こえてくるし、まあ大丈夫か。元気そうで何よりだ。

「マルタよくやった。こっちへ来なさい」

 髭村長――ピルゲルがマルタを両手を広げてマルタを呼んでいる。

「パパいや~」

「ウッ! こら! お父さんと呼びなさいと何度も――」

「フロイト~だっこ~」

とてとてと駆け寄ってきて私の胴にむぎゅっと抱き着いてくるマルタ。わわっ。可愛い。

「ああ! こらマルタ! ……すみませんフロイトさん」

「い、いえ。構いませんよ」

「ねえだっこ~」

「ええっと、おんぶならいいですよ、マルタ」

「やったあ」

 えへへと笑いながら、しゃがんだ私の背中におぶさるマルタ。立ち上がってみると思ったより軽い。薪もまともに持てなかった私が子供ひとりの体重に耐えられるのかと思ったのだがどうやら杞憂だったようだ。おっと、マルタがずり落ちそうだ。

「んぅぐ! んん……」

 背負い直した勢いで背中の幼女が変な声を出したが、すぐに眠ってしまった。

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