正義が首を絞める時

悦太郎

1話

「別れる位なら、死んでやります」


 青白い顔をした女の、ヒステリックな叫び声が一室に響いた。目の前の男がめんどくさそうにため息をつくと、女はおもむろにカッターを手繰り寄せ、本当に死んでやるんだから、と更に泣き喚いてうずくまった。


「そういう所がめんどくさいって言ってるんだよ。自分じゃわからないのか?なら尚更、これ以上付き合う気にはなれないな」


 最後に一言、そう言い残し、男は家から出ていった。


 ──「私は自傷行為を悪いことだと思いませんね、むしろ……」

 カメラの前で、医者・薪朝一たきちょうわはそう語った。苛立ちや苦しみ、そういった不の感情の矛先を、誰か他人向けるよりは幾分かいいと思います、と。テレビの前でそれを聴いていた女は、医者の薄い唇から出る言葉に、背中を押されるような気持ちになった。腕に残る線が、自分の優しさの印のような気までしてしまった。こんな慈悲に溢れる行為に殺されたら、綺麗に死ねるだろうか。今以上に楽な気持ちを味わったことがない、と女は思った。清々しい、けれど頭は何かに酔った時のようにぼんやりと熱い。女は白い紙に、ガリガリとその気持ちを書き記し始める。


 ──お前のせいだ。


「私は何も間違ったことは言っていない」

 朝一ちょうわは頭を抱える。手に持ったスマホの画面いっぱいに、彼を批判する言葉が溢れている。あの朝一の言葉は、良い意味でも悪い意味でも話題になった。あれから朝一の元には、共感する声がいくつも届いた。だがそれに負けぬほど、反対意見も届いた。その中には朝一の精神をズタズタに切り裂くような尖った言葉も多くあった。だが、それだけでは朝一を完全に殺しきることはできなかった。彼の言葉が世の中に波紋を起こしたのは確かだったし、肩身の狭かった少数派の人間が、彼の言葉を支えにしていると彼も知ることができたからだ。

「あなたの言葉に救われました」

 なんて言葉がまた、朝一を支えることになっていたのだ。


 ──「だれにもわかってもらえないと思ってたけど、わかってくれる人はちゃんといた。抱えきれない悲しみを背負って、私は綺麗なまま死にます」

 女の母親は、机の上の遺書に目を通すと、娘の遺体のそばで泣き崩れてしまった。唯一の家族である娘の若すぎる死を受け入れられずにいた。


 ──「ありがとうございました。あなたの言葉でやっと決心することができました。私は今日……」

 死にます。

 あの放送から数週間後、朝一の元に届いた一通の手紙。彼は報道番組とその手紙を見比べる。

 速報、女性の自殺事件。朝一は、直感でそのニュースの女がこの手紙の送り主であると確信した。インタビューに答える女の母親が泣き喚く姿に朝一は酷く絶望した。

 自分がこの女を救ってしまった故に、自分が殺されてしまった事に、朝一は気がついた。

「私が……殺してしまった」

 確かに女は救われた。朝一の、あの一言に。だが彼女が残したモノに、彼は救われることはない。そしてほかにも、彼を救うものはいない。


 勘づいたネットが騒ぎ始めた。事件の女の遺書を読み込んでは、推理ゲームするような軽い気持ちで推測をネットに書き込む輩が現れる。暇潰し程度の気持ちの奴もいただろう。

「お前が、彼女を殺したんだよ」

 そんな暇を持て余したどこかの誰かの一言が、ナイフのように朝一の心を抉っていった。

 彼が起こした小さな波紋は、大きな波となって彼を襲ったのだ。


「そうだ。私が、殺したんだよ」

 無機質な文字の羅列にそう返事をすると、朝一は踏み台を蹴りとばした。彼の足が宙に浮かぶ。

 なわが、彼自身が、死んだ女が、知らない誰かが向けたトゲが、彼を絞め殺したのだ。




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