だからまた君に会いに来る

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だからまた君に会いに来る




 手で触れる人の体はとても不思議だ。

 言葉で表すのはひどく難しい。やわらかいのに弾力があり、じんわりと僕の手に馴染んであたたかい。押したり揉んだりすると張りがあり、しっかりと中身が詰まっているのがわかる。


 重みを感じる。命の重みを。


 大学一年の夏に近所のマッサージ屋でバイトを始めてから、時々そんなことを思う。いや、根本的な理由はもっと前からなのかもしれない。人の命の、感触を意識したのは。

 ただ人の、しかも赤の他人の体に触れるこの仕事はとても特殊だ。医療行為の場合もあるけれど、どちらかというとこれはサービス業。お客さんの気分を良くするために、僕らスタッフが奉仕する。そういう言い方をするといかがわしいことのようだが、もちろんそんなことはない。医者と水売りの中間のような、そんな仕事だと僕は認識している。

「はい、じゃあそろそろ電気流しますね。うつ伏せになってください」

 客の男性に声をかけて、マッサージ用の電極をその体に張り付けていく。肩から背中にかけて五百円玉大のパッチを取り付ける度、手にはごつごつとした骨と硬い筋肉の感触が伝わってくる。

 スイッチを入れ、客と店主の森田さんに声をかけてから僕はその場を離れた。

 施術のベッドが並ぶ部屋を通り抜けて、受付カウンターの奥の暖簾をくぐる。ごく短い廊下を歩くと、途中右手に四畳くらいの細長い部屋がある。扉もないその部屋は店主のデスクと小型の冷蔵庫が隅にあるだけの小さな部屋だ。事務所兼スタッフ用の休憩室。ちなみに入ったことはないけれど、廊下の階段を上れば店主夫妻の住居があるらしい。

 僕は店主の椅子に座って、横に置いてあるリュックサックからペットボトルとスマートフォンを取り出した。水を一気に四分の一ほど流し込む。接客というのは楽しいけれど疲れる。話をするから口が乾くし、凝り固まった人間の肉をほぐすというのは、想像以上に大仕事なのだ。

「……あー。あと二時間か」

 背もたれに体重をかけるとぎぎぃと音がなった。肩を回して伸びをする。こっちがマッサージをしてもらいたいくらいだった。

 首を回しながらスマホの画面を付ける。……メッセージの通知が来ていた。今まさに「荒川重登」と「駒澤隆志」がグループチャットで会話をしている最中だった。二人は大学の友達でいつも昼食を共にしている。

 まずは通知を辿る。一番上の重登の発言に僕は目を疑った。

『大変だ、二人とも。松井が事故ったらしいぞ』

『は? 俊悟が?』

 真っ先に返信しているのは隆志だ。話題に出ている松井俊吾は、僕らのメンバーの一人である。

『そうだよ。バイクで車とぶつかったって』

『まじかよ……』

 アプリを開いている間も会話は続く。上部に現れては消える通知とそれに合わせて震えるスマホにパスワードを打つ指が滑って、叩くように画面を操作した。

『状態は? どうなんだよ。大怪我なのか?』

 僕も会話に加わる。

『わかんない。俺も人伝に聞いたんだ』

 会話を続けると、どうやら俊吾はバイト先にバイクで向かっている途中で乗用車と衝突したらしい。詳しいことはまだわからないが、無事というわけではなさそうだ。途中で今は病院で緊急治療を受けているという情報が入った。

 僕は一度会話が滞ったスマホを置いて目を伏せた。"緊急治療"の文字が目の奥にちらつく。そんなにやばいのか。もしかして……いや、落ち着け。まさか。そんなこと、あるもんか。

 悶々と思考ばかりが先行する。

 終わりのない輪に嵌りそうになったところで、マッサージ室からピィピィと音が聞こえて我に返った。電気マッサージが終了したのだ。   仕事に戻らなくちゃ。

 僕は深呼吸を何度かして、右往左往する思考を振り払おうとした。今僕が何を考えたって、どうしようもないんだ。今は俊吾の無事を祈るしかない。

 水を半分ほどまで一気に飲み、スマホの画面を切って鞄に放り込んだ。今は仕事だ。あと二時間。集中しろ、僕。

 もう一度大きく深呼吸をしてから、休憩室を出た。


 仕事中は不思議と何も考えずにいられた。お客さんの凝りをほぐして会話をして。仕事帰りの人が詰めかけるこの時間は、ほかのことを考える暇がないくらいに忙しかった。

「はぁー」

 店の消灯は店主に任せて、僕は一足先に施術着を脱いだ。額の汗を拭いながら休憩室に入る。

 腰を落ち着ける間もなくスマホを開くと、メッセージが十数件来ていた。恐る恐る内容を確認する。

 最悪なことに、僕の予感は的中していた。

 友人松井俊吾は、交通事故による大量出血で死亡した。

 僕はテーブルにうなだれた。それしかできなかった。頭の中は突っ伏した視界と同様に薄暗く、思考は行く先を見失ったようだった。言葉に、いや、自身に認知される前に霧散して消えていく。

 どれくらいそうしていたか。実際はおそらくたった数十秒だっただろう。廊下の方からこちらに近づいてくる足音が聞こえた。


 店主と顔を合わせた時、僕はもう何事もなかったかのように、笑顔で「お疲れ様です」と言っていた。




 松井俊吾の死は唐突に、それから淡々と通夜と葬儀が執り行われた。大勢の人が集まり、彼の死を悼む。一番遅くに仲良くなり、まだ半年程しか経っていなかった僕らは、彼とは大学の食堂くらいでしか会っていなかった。そんな僕らにとって俊吾の死を嘆く彼らはみな、知らない人達だった。もちろん彼らも僕たちを知らない。

 そんな空間はなんだかとても居心地が悪くて、出棺を終えると僕らは早々にその場を後にしてしまったのだった。

 だからだろうか。それからしばらく経っても、僕は彼の死を実感することができていない。

 もちろん悲しいのだ。彼のことを思うと憂鬱な気分になるし、ため息の回数も数倍に増した。ただ、それは頭で理解しているだけなのだとも思う。春休みに入ったばかりで会うことがないのも普通のことだし、携帯でのやり取りも普段から多くない。そんなこともあって、正直実感がまるでなかった。それでも悲しいに決まっているのに、僕の瞳から涙が流れることはなかった。

 そうして一日、一週間、一カ月と過ぎて、カレンダーは二月。僕は何一つ変わらぬ生活を送っていた。毎朝ニュースで多くの人が死んでいる事実を見ながら、僕は時々僕の周りからいなくなった人たちのことを考える。

 俊吾や、二年前に自殺した幼馴染の女の子のこと、父方の祖父母や伯母のこと。

 全員、顔を見た。棺桶から覗くひどく青白い肌を、周りは涙ながらに綺麗だと言ったが、僕はいつもと違う顔色に恐怖に似た嫌悪感のようなものを感じていた。そしてそう感じてしまう自分がとても白状でひどい奴だと思った。

 特に幼馴染だった女の子、時田麻実のことに関しては、僕はどうしてもそんなに不幸なことではないと、そう思えてならなかった。彼女はひどく冷静にものごとに対処し、少しずつ、着実に、計画を実行したのだから。

 ただ、これは彼女の選んだ道で、仕方ない。むしろ良かったことなのだと思う反面、その度にそんな自分がまともな人間ではないのだろうという意識も付いて回った。

 時間とともに風化したとはいえ、それは今現在も同じことだ。むしろ俊吾のことで、それが風化したのではなく、深いところに沈んでいただけだということに気付かされることになった。


 ニュースはいつの間にかワイドショーになっていて、僕はテレビの電源を消した。空になった皿とコップを流し台に置き、背もたれにかけていたコートを羽織る。

 部屋のドアを開けると、眩しい朝日が差し込んできて、まだ真新しいスーツの黒に反射した。

 パリッと糊のきいたスーツに、空は気持ちのいいくらいの快晴。新しい世界に胸を踊らせ輝かしい未来に期待を膨らませる。そんなシュチュエーションがよく似合う。なのに僕の気持ちは正反対で、ため息ばかりが零れだす。

 まだ馴染めていなくて持ち手が硬い鞄は僕の心を表しているようで、持ち上げるとなんだか頭がくらくらとした。

 ドアにカギをかけて、腕時計を見るともう予定時間を三分ほど過ぎている。

 僕は慌ててアパートの階段を降りると、駅に向かって駆けだしていった。




 電車で乗り物酔いをするのは久しぶりのことだった。

 子どものころは乗り物酔いがひどかったが、成長につれて徐々に減り、高校生になる頃にはもうほとんどなくなっていた。特に電車なんて何年振りだろう。

 だからちょっと珍しいな、なんて思っていた。少し寝不足だったかもしれない。

 駅前徒歩十分の大学に着くと、一番大きな教室に入る。中は僕と同じスーツの学生で埋め尽くされていた。

 階段を上がりながら空いている座席を探して、真ん中よりちょっと後ろの廊下側の席に座った。まだ開始時間前ということもあって雑談をする学生たちで結構騒がしい。

 今日は大学で行われる就職支援講座の一つで、履歴書の書き方を教えてくれるらしい。本当は隆志や重登と一緒に参加する予定だったのだが、重登はバイトが休めず隆志は別の就活予定があるらしい。もう大学以外に活動をしていると聞くとなんだか焦る。焦るけれどそれだけで、結局僕はせいぜい大学の講座に参加するだけだった。

 しばらくすると教壇にスーツのおじさんが立ち、教室が一気に静かになる。

 教壇前の明りが落とされて講師の話が始まった。配布プリントにメモをしながら講義内容に耳を傾ける。まもなく真横にあるドアが開いて、男が一人飛び込んできた。男は慌てて座席を探し、僕の後ろを駆けていった。講義の時点を遅刻をするなんて、きっと彼はこれから苦労をするだろうな。

 彼が入ってきて大きく開いたドアから外の冷たい空気が吹き込んできた。その風は僕を直撃し、冷えた体は反射的に大きく身震いをした。

 思わず、両肩を抱いてしまうくらいに。

「……?」

 おかしいな、と思った。僕はわりと寒がりな方だけれどテレビで見るようなあからさまな震えに我ながら驚いた。今時ドラマやアニメでだってこんな大袈裟になったりしない。来るときも寒くはあったけれど、今はもっと寒くなっているのかも。天気予報を見てくればよかった。今はスマホも開けない。

 ドアが閉まると寒気も同時に収まった。僕は不思議に思いながらも、気を取り直してパワーポイントのメモに集中することにした。


 帰りたい。

 午前の講座を終える頃には、何ともいえない倦怠感が体中を支配していた。お昼ご飯を買いに行くのも面倒くさくて、友人グループで賑やかな教室の中、午後の講座まで一人机に突っ伏して過ごした。

 次で今日は終わりだし、なんとか乗り切ろう。嫌なことやほかにやりたいことがあってとか、そういう理由で帰りたいと思ったことは今まで何度もあったけれど、なんか怠くて帰りたいと思ったのは初めてのことだった。僕はこれでも真面目な方なのだ。大学三年間でサボったのは片手で数えるほどしかない。

 これが世に言う「たりー」というやつだろうか。今時の若者は無駄に「授業だるい帰りたい」と連呼するが、つまりはこれがそうなのか。いや僕もその今時の若者か。ついにそう騒ぐ彼らと同じ生き物になってしまったのだろうか。

 そんな言い訳がましい、訳の分からないことをぼんやり考えていると、いつの間にか教室には人が戻ってきていて、再び前方の照明が落とされた。

 重い体を無理やり起こして、シャーペンをぐっと握る。あとちょっと、これで終わりこれで終わり。そう自分に言い聞かせて無理やりプリントを睨みつけた。


 僕の意識を叩き起こしたのは、痺れて震える指先と内側から融けているかのような胃の痛みだった。

 午後の講座が始まって、どういう経緯でこうなったのか、まったくもって記憶にない。気が付いたら肩から下が長時間正座をしたあとのように痺れていて、右手に持ったシャーペンがいうことを聞かない。

 試しにメモを取ろうと紙の上を滑らせてみると、描き出されたのはまさにみみずがのたくったような、落書きにも満たないうねった線だった。

 諦めてシャーペンをその場に置き、痺れる手をぎこちなく動かしてみた。開いたり閉じたり、開いたり閉じたり。視界に映る手は動いているのに、その感覚はほとんどない。ぴろぴりとまるで全身にマッサージ用の電極を張られたような気分だった。

 その間もずっと胃液は胃の壁を勢いよく融かし続けている。波のように襲い来る激しい痛みに、奥歯をただ必死に食いしばった。

 僕は一体どうなってしまったのだろう。何か悪い病気にでもなってしまったのだろうか。

 腹を抱えるように俯きながら周囲を見る。前も、後ろも、少し前に立つ就職課の職員も。誰も僕のことに気が付かない。一人分空けて隣に座る人でさえも。

 どうして……。


 感覚の乏しい足でよろよろと歩いていても、電車の座席で体を丸めていても。やっとの思いでアパートのベッドに倒れ込むまで、誰一人だって声すらかけてくれなかった。

 どうして誰も気付いてくれないんだ。

「着替えなきゃ……」

 怠い体を何とか持ち上げて、着たままだったコートとスーツをハンガーにかける。居間から体温計を持ってきて、脱ぎ捨ててあったスウェトを着た。再びベッドに転がると緊張が解けたのか、体の怠さが一層増した気がした。布団に包まっていても、体の芯から震えが続々と湧き上がってくる。

 脇に挟んだ体温計が冷たくて、やっぱり熱があるんだろうな、と思う。

 こんなことは初めてだ。元々体は丈夫な方で、風邪だってほとんど引いたことはない。熱を出すとか、ましてや寝込むだなんてなおさらだ。

 一人暮らしを初めてもうじき四年。最初の数カ月は家族が恋しいとか、不便さを感じたりとか、していたと思う。それも一年が経つ頃には慣れて一人という生活を満喫してきた。今では時々友達を呼んだりサークル仲間を泊めたりして、それだけで十分人との関わりに満足していた。

 だから、誰もいない空間がこんなにも虚しいだなんて、ずっと忘れていた。

 服の下を覗くと体温計の温度は今まさに三十九度を超えたところだった。まだ音が鳴る気配はなくて、嫌な汗が噴き出す。自分でも呼吸が浅く熱いのが分かる。

 これ以上見ていられなくて、体温計を脇から抜いてどこかに放り投げた。

 最後に見た数字は三十九度三分だった。


 もう寝てしまおう。それが一番だ。そう思って目を閉じても、なかなか睡魔は訪れてくれない。何度寝返りを打っても手足は痺れ、間接はぎしぎしと音を立てている。うるさい、うるさいんだよ。

 それよりも、そう、胃が、体全体が僕の熱で融けている。内側から浸食していく痛みは、高熱で朦朧としているはずの意識を無理やり引っ張り上げて、睡眠へと逃げることを許さない。

 怖い。誰か助けてくれ。

 ベッドサイドの携帯が振動して、メッセージの着信を伝えた。スマホの画面が眩しく点って自身の存在を主張する。手に取ると原因はグループチャットで、発言者は隆志だった。用事はもう終わったのだろうか。

『さっき俊吾の母親から連絡貰った。今度線香あげに行こう』

 バイブとともに連投されていく。

『都合のいい日教えてくれ。決まったら向こうに連絡するから』

『俺はできれば土日がいいかな。平日はいつ予定入るかわかんないし』

 重登からの返信はまだない。僕も今すぐに返す気にはなれなかった。何より手の麻痺がひどくて、ロックすら思うように開けない。これではろくに文章も打てないだろう。

 震える手でスマホを伏せるようにベッドサイドに戻し、漏れてくるブルーライトとバイブ音から逃げるように布団を被った。

 僕もたった今、死にそうなんだ。

 そうだ、このまま体が内側からすべて融けてしまったら、きっと僕は死んでしまう。いい加減そろそろ胃がなくなるかもしれない。こんなに苦しいのだからきっと死ぬのだ。

 そしたら俊吾や麻実ちゃんと同じところに行くのかもしれない。だったら線香なんかあげに行かなくったって彼らに直接会えるし、悪いけれど断ろうかな。いや、でも死因が違う。俊吾は事故で、麻実ちゃんは……。僕はきっと、何か恐ろしい病気か、もしかしたら悪霊にでも憑りつかれているのかもしれない。そうしたら別のところに行くのかも。するとやっぱり、もうあの二人には会えないのかな。

 ……もう会えない。

 シーツを力一杯握りしめる。力を込めているつもりなのに、爪を立ててもいるのに、痺れた手では痛みを感じることができない。

 どうして僕はまだ死なないんだ。こんなに痛いのに、苦しいのに。人間というのはこんなにも丈夫なものなのか?

 こんなに、こんなに辛くても死ねないなら、二人はどんなに辛かったのだろう。苦しかったのだろう。痛かったのだろう。想像なんかできない。これ以上の痛みは、苦しみは、僕にはきっと……耐えられない。

 どうして、死んでしまったんだ。

「……っ、うぅ」

 シーツがいつの間にか濡れている。これがなんの涙なのか僕には分からない。ただ、それは溢れて溢れて止まらなくて、まるでギリギリまで留まっていたコップの水がひっくり返ったような、そんな涙だった。




 チャイムの音で、僕は目を覚ました。

 いつもより緩慢に意識が覚醒する。体を起こすと、カーテンが開いたままの窓から陽光が鋭く目を刺した。ベッドサイドのデジタル時計には十時を少し過ぎた時間が表示されていた。

 気が付くとあれだけ痛かった胃袋と関節は嘘のように治まり、代わりに目が回るような気怠さが襲ってきている。

 だから実際チャイムの音を認識したのは、目を覚ましてから少しした、今、この時である。

 体が重いのだから、居留守を使ってもよかったのかもしれない。一人暮らしの学生の部屋にアポなしで訪ねてくるのなんて、宅配便か新聞の勧誘くらいのものだ。宅配便だって、何か注文した覚えはない。

 けれど、おそらく下がっていない熱と寝起きの頭では、チャイムが鳴ったのだから出なくてはと、それしか考えられなかった。

 居間を抜け、時々軽い眩暈を起こしながら、壁伝いに短い廊下を歩く。こんなに廊下を長く感じたのは初めてだった。

 玄関に辿り着いたところでドアがどんどんと叩かれた。何もかんがえる余裕もなく、ただ慌ててドアを開けた。

「あ、いた。いるなら早く出てよー」

「まー、ちゃん?」

 ドアの向こうに立っていたのは、まーちゃん――相澤円香だった。僕の幼馴染で、大学一年生の時の元カノ。家が近かったということもあり別れてからも時々会うことはあったが、彼女の就職による引っ越しと新しい彼氏が出来たという理由から、一年以上疎遠になっていたのだ。

「もしかして、まだ寝てたの?」

 僕の格好を下から上までゆっくりと眺めて、まーちゃんが言った。僕は今よれよれのスウェットに、きっと寝ぐせもひどいはずだ。

「あーえっと、熱があって……」

 久しぶりに会った気まずさと、それがこんな格好であるという恥ずかしさとで僕は彼女と目を合わせられなかった。苦し紛れに手櫛でかみを梳きながら、そっぽ向く。

「え、ほんと?」

 彼女の声と同時に額にひんやりとした柔らかいものが触れた。反射で顔を上げると、彼女が手のひらを僕の額に当てていた。

「わ、ほんとだ。結構高いね」

「あ、うん」

「それじゃあ寒いでしょ。ほら入った入った」

 まーちゃんはおもむろに僕の肩を掴んで方向転換し、そのまま僕の部屋に入って行った。それ僕の台詞じゃない? と突っ込む余裕もなく、彼女は靴を脱ぎ、僕の肩を押したまま寝室へと直行した。もちろん、熱でふらふらの僕に抗う術はない。

「とうちゃーく。ほら寝た寝た!」

 そのままベッドへと押し込もうとする。僕は力を抜きそうな足をぐっと堪えて、彼女の手を引き離した。

「ちょ、ちょっと待って、まーちゃん! 僕は大丈夫だから」

 どの口が言っているのか。ただ、彼女が来たせいで具合が悪いのがちょっと吹っ飛んだのは確かだ。

 僕の言動に、彼女は動きを止める。

「ごめん」

 僕はベッドに腰かけ、一メートル程前で立つ彼女を見る。

「いきなりどうしたの? 訪ねてくるなんて」

 彼女は気まずそうに俯いて……気付いて床から何かを拾った。

「?……ちょっと、これ。どこが大丈夫よ!」

「え? あっ!」

 彼女が拾い上げたのは体温計。見せつけられた画面には昨日計った三十九度三分が表示されていた。どうやらリセットボタンを押さずに、転がしてしまったようだ。

「それは昨日の」

「さっきも熱かった。あんたこんなにひどかったの?」

 熱とはまた違う汗が滲む。あの、えっと、と口ごもる僕をよそに彼女は再び僕の肩を押して横にさせた。

「話すから、あんたはとりあえず横になってて。その方が楽でしょ。体温計も。もう一回計って」

「うん」

 おとなしくリセットして渡された体温計を脇に挟んだ。まーちゃんは寝室から出て、冷却シートと水と、マスクを二つ持ってきた。てきぱきと僕の額にシートを張り、水を飲ませ、マスクを装着する。その間僕は、うちに冷却シートなんかあったんだ。とかまーちゃんよく場所覚えてるなとか、ぼんやりとそんなことを思っていた。うちによく出入りしていたのは、別れるより少し前のことだというのに。

「常備薬は定期的に買い直せって言ってたのに。私が昔変えたままじゃん。使用期限切れてた」

「風邪じゃないよ。これは」

「じゃあインフル?」

「インフルよりやばいやつかも。……死ぬかと思った」

 思わず口から溢れ落ちてて、言いながら内心しまったと思った。「死」という言葉を口にするとき、唇が震えるのが分かった。彼女も一瞬ぴくりと動いたのが見えて、やっぱり彼女もそうなのだ。

「そんなことじゃ死なないよ。やめて」

 ごめんと言いかけたところで、体温計が鳴った。取り出してみると三十八度五分で、それを見た彼女はやっぱりインフルなんじゃない? と言った。

 それに対して僕はインフルなんか一度もかかったことないよと返した。

 それから彼女に連れられて一度病院に行った。今日は土曜日らしく、午前の診療にぎりぎりで滑り込んだ。

 結果は彼女の予想通りインフルエンザで、しかもB型だという。医者に胃がとてつもなく痛かったのだと告げると、胃腸に来るのがB型の特徴だと説明して、おもちゃみたいにでっかい薬を袋いっぱいに出された。

 これは絶望だ。薬局で薬を見せられた時血の気が引く音が聞こえたのは冗談ではない。

 部屋に帰ってくると再びベッドに寝かされた。ちょうど昼食の時間ということもあって、まーちゃんは薬を飲むためのおかゆを作ってくれた。

 お互い熱々のおかゆを口に運びながら黙っている。僕はこの空気に耐えられなくて、病院を出てから言い続けていることをもう一度言った。

「もう帰りなよ、感染ったら大変だ」

「私は丈夫だから、大丈夫」

 彼女も同じようにしか返さない。いや返せないのだろう。

「でも月曜から仕事あるんだろ」

 彼女は短大卒で、今はどこかのIT会社で事務の仕事をしているらしい。別れた後のことだから、詳しくは知らないけれど。

「いいよ、感染っても。インフルにでもかからないと、一週間も休めないし」

 たまにはいいよ、なんて遠い目をして言う。やっぱり何かあったのかな。

 そっか、とだけ返してため息を吐く。何か話さないとダメなんだろう。お互いに。

「いきなり訪ねてきたのはどうして? まーちゃん、しばらく距離を置こうって言ってたじゃない」

 とりあえず話題を戻すことにした。

 小学生の時から使っている勉強机の椅子に座り、一メートルほど空間を空けて向かい合っていたまーちゃんは、持っていた茶碗を膝の上に降ろした。

「たまたま近くを通ったからなんとなく。あんたのお母さんにも、会ったら連絡くらいは寄こすよう言えって言われてたし……」

「彼氏は? 僕と会ってると勘違いされるからって……大丈夫なの?」

 「彼氏」という言葉に反応あり? しまった、まさかこれは。もしかして僕、地雷踏んだ……!?

 マスクで覆われた状態では正しい表情は読み取れないけれど。

 彼女の言葉を待ちながら、どろどろのおかゆをごくりと飲み込む。

「ああそれね。いいんだよ、もう」

 僕は内心ばくばくだったけれど、まーちゃんは意外に平然と答えた。食べかけのおかゆを机に置いて、椅子から立ち上がる。

「彼とはもう別れるから」

 彼女は僕の顔を見据えて言った。

「……え」

「たぶん、というか絶対。浮気してるから、彼」

「あ、ああ」

 僕はちょっと拍子抜けというか、おかしな顔をしていると思う。

「うちに来たのは、そういうこと?」

 そういうことってどういうことだろう。僕にもわからない言葉の意味を、彼女は何かに読み取ったらしい。おかしそうに短く笑った。

「はは、違う違う。……先に心が離れちゃったのは、私の方だから」

 彼女は斜め上のどこか宙を見て、話し出す。僕は黙ってそんな彼女の顔を見ていた。二十年近い長い付き合いの中、数えるほどしか見たことのない表情。言葉で表すのはひどく難しい。

「あっちゃんのことなんだけど」

 あっちゃん、幼馴染で僕とまーちゃんと三人でよく遊んでいた。そして高校三年生の冬に命を絶った、時田麻実のことだ。

「だよね。私ね、やっぱり今でも時々思い出して、急にどうしようもなく悲しくなっちゃうことがあるんだよ。どうしてなんだろう、なんでなんだろうって」

「うん」

 まーちゃんと麻実ちゃんは特別仲が良かった。成長するにつれて性別の壁のようなもののせいで僕とだけ少し距離が出来ても、二人はいつも一緒にいた。

「で、ある日その波が来てね、ちょっとだけ塞ぎ込んじゃった。しかも彼と一緒にいるときに」

 今は簡単な相槌だけを返す。

「そしたら彼、嫉妬? というか自分に感心が向いてなかったのが嫌だったみたいで、浮気してる? って問い詰められた。だから思い切って話したんだ」

 彼女はゆっくりこっちに向かって歩き出して、ベッドの上、僕の足元に座った。

「そしたらなんて言ったと思う? 真剣な顔で迫ってきて、『死んだやつのことなんか忘れて、俺だけ見てろよ』だよ。本当、信じらんない」

 思考が停止して、返すことができなかった。奥歯がむずむずとして力がこもる。

「こんな悲しそうなお前見てられないって。本人はキマったって思ったのかもしれないけど、こっちはドン引き」

「……僕も、怒りが湧き上がってきてる」

「ごめん。また熱が上がるとダメだから、堪えて」

「……無理だよ」

 僕はまだ暖かい茶碗を握りしめた。本当に熱が上がったのか、目の前が潤んだ。涙ではない、絶対。

「……私も怒って、でも私も全部話したわけじゃなかったし、言葉不足だったかなって思って、その時は彼の気持ちを汲んで、終わった。でもそれから急に冷めちゃってね。そんな態度取ってたら、向こうから浮気されちゃった」

「そんなやつ、こっちから願い下げだろ」

「うん。私ももう好きじゃないし、あんなやつ。だから明日別れを告げようと思ってんの」

「当たり前だ」

 まーちゃんは再び立ち上がって、机に置いたおかゆの残りを食べ始めた。

「早く食べて薬飲んじゃお。準備してくるから」

 手早くかき込んでしまうと、彼女は寝室を出て行った。一時的に一人になった僕は、渦巻く様々な感情をどうにか一緒に飲み込めないものかと、ぬるくなったおかゆを必死に流し込んだ。


 感情どころか薬すらうまく飲み込めなくて、僕は彼女の前でまただらしない姿を見せる羽目になった。薬に慣れてないせいで一センチほどの薬に大苦戦した。すべての薬を飲み込むのに、コップ四杯もの水を飲み込んだ。

「ふふ、お疲れ様」

「……もう二度と飲まない」

「いやあと十錠ずつあるよ。がんばれ」

 もう二度とインフルになんかかかるもんか。

「寝る?」

 横になった僕にまーちゃんは言う。さっきと同じようにベッドに腰かけて、掛け布団を首元までかけてくれた。

「眠くない。昨日の夕方からずっと寝てたんだ」

 そんなんじゃ早く治らないよ。なんて言いながら、彼女はここに来た理由なんだけどさ、とまた話し出した。僕は体を起こそうとしたけれど、手で押さえられて、眠くなったら寝ていいからね。とやんわりと制止された。

 僕が力を抜いたのを見て彼女は満足そうに微笑み、そして宙を見つめて独り言のように話し出した。

「友達んちに泊まった帰りに、最寄りを通ったの。そしたらなんだか無性に会いたくなって、来ちゃったんだよね」

「僕に?」

 彼女は僕を見る。僕も首だけで彼女の方を向いていた。彼女はゆっくりと、小さく頷く。

「あっちゃんのことまた考えてたから。なんとなく、わかってる人と話したくなったのかも」

「同じだ。僕も最近大学の友達が交通事故で……。あっちゃんやいなくなった人たちのこと、ずっと考えてたから」

 急に自分のことを言い出した僕に、まーちゃんは文句も言わずに耳を傾けてくれる。僕はついそれに甘えて自分の胸の内を少し、零した。麻実ちゃんが死んでからずっと、どこかでくすぶっていた思いを。俊吾の死によってさらに絡まってしまった感情を。ほんの少しだけ、彼女に見せた。彼女になら大丈夫な気がした。

「僕はまだ、二人のために泣けてはいなんだ」

 だから本当に僕は彼らのこと、悲しいって思ってるのかな。

 すると頭に暖かい手が乗って、ぽんぽんと優しく叩かれた。

「つらいよねぇ。でもずっとそのままじゃいられなくて。楽しいときとか嬉しいときもあって、本気で楽しんでいる反対側で別の自分がそれでいいのかなって見てる。それがつらい。気持ちが戦ってるから。だから時々参っちゃう。私もそう」

 ちゃんと痛いのかな。僕には痛いと思える心があるのだろうか。もしそれがなかったら、僕は。

「どうしたら、いいんだろう……」

 縋るように彼女の後頭部を見つめる。

「もう、泣いてるじゃない」

 え。

 思わず顔をあげた。まーちゃんの目はひどく優しく悲しそうで。

 ああ、彼女は泣いているんだ。

 そして僕の下瞼をそっとなぞった。

「だって、今日会ったときからずっと、目真っ赤だったもん」

「それは体がめちゃくちゃ痛くて、それで……」

「ううん、痛かったのは心もだよ。私も同じ様なことがあったから」

 彼女は僕に半身だけ覆い被さるように倒れ込んできた。布団越しに僕の胸元に頭を押し付けてくる。

「いくら泣いても収まんないよ……。どうしたらいいの」

 くぐもった声が僕の心臓に直接振動と熱を伝えてくる。熱で火照った僕とはまた別の、彼女の熱いぬくもり。

 気が付いたら僕も目頭が熱くなっていて、彼女の頭をただ抱え込むように、抱きしめることしかできなかった。


 気が付いた時には僕らはほぼ衣服を着ていない状態で、シングルベッドの上に収まっていた。

 どうしてこうなったんだろう。

 彼女を抱きしめていたらなんだか頭が熱くなって、体が勝手に動いていた。彼女も最初は困惑した表情をしていたけれど、抵抗をしてくることはなかった。

 彼女の素肌に触れ、彼女の肌も僕のに触れる。僕はまだ熱が高いのだろう。彼女の肌はひんやりとしていて気持ちがいい。それも次第に境界が曖昧になってきて、互いが一体になっていくのを感じた。

 彼女の肉を撫でたり揉んだりしていてふと、労りと慰めの違いを思った。三年以上、仕事として触れるそれと今の慰め合いは全く別のものだった。

 慰めるというのは労わるよりもずっと優しく、そしてずっとずっと乱暴な行為だった。互いの肌を通して凝り固まった気持ちがゆっくりとほぐされていく。

 時折声を漏らすだけで、彼女も僕も一切言葉は発さなかった。君は何を考えているのだろう。ただ、どんなに触れても変わらない悲しそうな表情は、きっと僕と同じなのだろうと感じる。

 夢中になりたかった。何とかしてこの場を脱しようともがいているのだ。こんなことで慰めになるとは思わないけれど、それでも一時でも誰かと同じでいられることに安心する。

 ぼろぼろと零れ続ける涙を舐めれば、生ぬるい海水の味がする。

 僕はまるで海に浮かぶ小舟のような気分になった。ゆらゆらと揺れて、次第に上がっていく息がまるで荒れた波のように視界があまり定まらない。

 しばらくすると体の重さに耐えられず、大きな波に呑まれるように一瞬で意識を失った。




 気が付いたら、二人とも眠っていた。

 先に目が覚めた僕は、胸元で眠る彼女を見つめてとっても情けない気分になった。僕だけじゃないんだな。まーちゃんも痛くて、苦しい。それなのに僕だけがつらいだなんて、助けてくれだなんて……。

「僕らはいったい、どうしたらいいんだろうね」

 彼女の赤く腫れた目元をなぞった。彼女の目はもう乾ききっていたけれど、僕の胸はまだあたたかく湿っていた。

「マスク外れてる。感染ってないといいけど」

 まーちゃんの顎まで下がったマスクを付け直して、そしてその先端に自分のマスクを触れ合わせた。


 日曜日だからと、まーちゃんは今日一日僕の世話を焼いてくれた。起きてからも朝食と薬を用意し、僕がうとうとしている間に部屋の掃除や洗濯などの家事も済ませておいてくれていた。

 途中で彼女は例の彼氏に別れを告げるため、僕の部屋を出て行った。帰ったらご飯作るから、寝てるんだよ。と言ってドアを閉めた彼女に僕は短いエールを送ると、同時に結婚したらこんな感じなんだろうかと密かに思ったりした。

 夕方に帰ってきた彼女は手に買い物袋をたくさん持っていた。

 どうだった? とはちょっと聞きづらくて、スウェット姿のままただ買い物袋の中身を冷蔵庫に詰め込んでいく。

「もう起きていいの?」

「熱はまだあるけど、さすがにもう寝てられないよ。それに熱以外は調子いいから」

「そっか」

「こんなにありがとう。重かったでしょ? ごめんね。あとでちゃんとお金払うから」

 意識をしているとうまく声に感情が入らない。せっかく色々やってもらっているのに、もしかしたらぶっきらぼうに聞こえているかもしれない。

「いいよこれくらい。就活あるでしょ? あれ結構お金かかるんだから」

「でも……」

 女性に、しかも元カノに家の食料品を奢ってもらうというのは、なんかいい気はしない。

 僕が渋ったままでいると、彼女は呆れたように息をつき、じゃあと肩をすくめた。

「いいとこ入って、二か月目の給料でなんかプレゼントしてよ。大卒なら私より全然給料いいでしょ」

「なんで二か月目? そこは初任給じゃない?」

 思わず振り返ってしまった。彼女は台所で買ったばかりの大根を切っている。

「初任給は両親に決まってるでしょ。ちゃんと親孝行するんだよ」

「なるほど。じゃあ二か月目ね」

「待ってる」

 すべてをしまい終えて、僕は居間の椅子に座った。冷蔵庫を開けていたせいで少し冷えたかなと思いながら、手近にあったブランケットを羽織った。

 今日は食卓で食事をとった。出てきたのはうどんで、普通よりも長く煮た麺とふんわりとした卵が胃にやさしい。

 食事中にちゃんと彼女は今日のことを話してくれた。僕が気にしていたほどのことはなく、さらっと、学校であったことを話すみたいに陽気に。

 結果は無事お別れ。彼女曰くお互い冷めているのだから当然の結果、だそうだ。ただまあそれで円満解決、という訳にはいっていないようだった。顔を見ればわかる。少なくとも彼女には、未練ほどとはいかなくとも何か引っかかるものがあるのだろう。

 でも彼女が笑って話すのだから、僕に口出しする権利はない。その場ではただ彼女と同じ笑顔で彼女の話に耳を傾けていた。


 そのあとも、しばらくベッドに座って話をしていた。その時にどちらからともなく、よりを戻そうか、というような話、というか空気というか。とにかくそんな感じになったのだ。別にお互い、言葉にはしなかったけれど。

 元々幼稚園からの付き合いで仲が良く、高校を卒業してお互い一人暮らしをするタイミングで付き合い始めた。理由は居心地がいいからとか。まあ寂しかったのだろう。僕もまーちゃんといる方が、その辺の女性といるより全然リラックスできる。

 でも付き合ったからといって、そんなに大きな変化があるわけではなかった。外に遊びに行くのだって、家に行ったり泊まったりするのだって昔からよくしていて、だけど、いやだからこそ、僕たちが思い描いていたそれとはどこか違っている感じがした。

 もちろん付き合っているのだから、それなりのこともした。当然どきどきはしたし、幼馴染としての付き合いからしたらかなりのギャップ、というかイケナイことをしているようで、初めは通常のそれより数倍の熱を宿したのを覚えている。

 でもなんか、やっぱり罪悪感の方が大きくて。お互い結局こういう関係は別の人とがいいだろうという結論に至った。

 だからそう、お互い嫌いで別れたわけではないのだ。もっと相応しい関係があるんじゃないかと思っただけ。恋人という初々しく、情熱的などきどきを求める相手ではなかった、というだけのことだ。

 だから、うん、だからこういう時一緒にいたって。互いの傷を舐め合うくらいなら、いいんじゃないだろうか。だって嫌いじゃない。むしろ好きなのだ。お互い。そうお互いのはずだ。

 これらの思考は数秒で脳の表層を駆けた。駆け抜けた後、思考を理解した脳の命令で、僕の手は彼女の手に覆い被さるように握りしめた。彼女は驚いたような、でも満更でもないような顔でこちらを見る。

 僕は彼女の柔らかくて生ぬるい甲につられて口を開いた。

「僕たち……」

 言いかけて、喉が詰まった。脳裏に一瞬、ほんの一瞬だけ死んでしまった彼らの顔が浮かんだのだ。生きていたころの楽しそうな笑顔と棺桶の中で冷たく眠る顔。

 僕は握った手を離した。

 彼女はそんな僕の顔を覗き込む。

 そしてそうだね。とだけ言った。


 僕らはしばらく黙って、隣に座っていた。




 北風は止み、この前訪れたばかりだと思っていた春の色もすっかり舞い散り、木々は新緑が鮮やかになった。

 ゴールデンウィークの開けたばかりの陽射しは輪郭を持ち始め、スーツを着るのにも汗ばむようになった。

 面接の時以外はスーツのジャケットを腕に持ち、第二ボタンまで着崩した格好で移動する。

 それは面接後、松井俊吾の家に線香をあげに行った今日も同様で、家の前で身なりを整えて入るとすぐに脱いで構わないと言われた。

 友人の駒澤隆志と荒川重登の三人で俊吾の仏壇の前で手を合わせ、それからお母さんと少し話をした。俊吾はバイクでバイト先に向かう途中で対向車と衝突。コンビニの駐車場まで吹き飛ばされたのだという。幸い駐車場はほぼ空車で俊吾以外けが人はなく、物損もお互いの車だけで済んだ。ただコンクリートに投げ出され、パーキングブロックに激しく強打した体は搬送時酷い有様だったらしい。

 それから集中治療室に入ったが、間もなく死亡が確認された。

 ちょうど僕がマッサージ屋でバイトをしている時のことだ。

 僕らはほとんど無言でその話を聞いた。目を伏せ口を結んだ表情が本当に彼や彼の親を気の毒に思って作られたものなのか、それともそうあるべきと作ったものなのかわからない。こうやって黙って頷いていると、自分の心が本当にどこにあるのかわからなくなる。

 二人はどう思っているのだろう。表情を見てもわからない。僕はこの話を聞いて本当はどう思っているのだろうか。

 

 一通り彼の話を聞いた後、気を取り直すように僕らの今の状況を聞かれた。今は三人とも就活をしていて、隆志はすでに内定があるが、僕らは落ちてばかりだということ。卒論はまだ準備段階でからっきしだということなどを話した。

 お母さんは僕らの話をどこか遠目で聞いていた。きっと息子が生きていたら経験しているであろうことに思いを馳せていたのかもしれない。そうだ、彼はもう就職をすることもできなければ、大学を卒業することすらできない。お母さんは一人息子と過ごす未来も一緒に失ったのだ。

 帰りにもう一度線香をあげて、僕らはお暇した。結局一時間もいなかったと思う。

 最寄りの駅まで戻ってきたのは十五時を少し回った頃だった。今日は何時に終わるかわからなかったので、全員この後の予定はない。

「なあ、この後カラオケ行かね?」

 隆志が言う。

 それに重登が即答した。

「いいね。俺カラオケ行くの久しぶりだ」

「俺も。最近大学と就活とバイトくらいしか家出なくてさ」

 二人は二、三言交わして、でお前は? と僕に会話を振ってきた。

「もちろん行くよ。僕もカラオケは数か月ぶりだ」


 普段は電車で通過するだけの街を少しの間彷徨い、最初に見つけたカラオケ店に入って昼料金一杯まで部屋を借りた。

 僕らはばらばらだった。趣味も大枠では共通点であるけれど、細かいところは全然違う。性格も大学の学科だってみんなが同じわけではなかった。カラオケで歌う曲だって、それぞれまったく興味のないマイナーなものばかりだった。

 だがまあそれも、四年目となれば聞いたことのある曲が増えて、前回重登が歌っていた曲を今度は僕が入れたりする。音楽プレイヤーの中身は三倍速で増えていって、そろそろ容量の大きいのに買い替えようと思っているところだ。

 俊吾ともそうなるつもりだった。

 ちょうど半年ほど前、隆志と一緒にいつもの食堂にやってきた。僕らにしてはちょっと派手めで、でも陽気に話す彼はすぐに輪に馴染んだ。見た目の印象から重登はちょっと苦手みたいだったけれど、これから付き合っていけば絶対仲良くなれると思っていた。

 僕だってまだまだこれからだったのに。話してみれば意外と馬が合う。よく人の話を聞いて、自分の考えも臆さず話す彼は好印象だった。一人暮らしという共通点もあり、お互いの苦労やあるあるなんかも話した。

 これから一緒にいれば、もっともっと仲良くなれた。一度僕の家に遊びに来たことがある。今度は泊りに来いよと言った。就活もあるが時間を作って旅行に行こう、とも。

 そうやって卒業してからも時々会って、遊んで。仕事の愚痴や怖い奥さんの話もするようになると、本気で思っていたのだ。正直他の二人よりもずっと、そうなれる気がしていた。

 それだけにひどく残念で悲しい。でもまだ付き合いが浅いのは変わらなくて、彼がいなくなっても、ただ彼と会う前に戻っただけだった。

 カラオケの最中、隆志は数度電話だと言って退室した。どうやら就活の電話らしい。隆志は現在保留も含め二十社近い会社の選考を受けていると言っていた。

「はぁ。今さっきお祈りの電話が来たよ。メールでは二社。志望度低くてもショックだよなー」

 ソファに勢いよく凭れた隆志が言ちる。

「でも今日来れてよかったよ。いい息抜き。これでまた明日から頑張れるぜ」

「う、うん、そうだね。隆志、もう内定いくつか持ってるんだろ? まだやるんだね」

 よかった、とはどういう意味だろうか。僕は複雑な気持ちで、だけど笑って返した。

 調子よく話す隆志の話を聞く。間奏で重登が割り込んできたけど、すぐに歌が始まって早く歌えよと二人で茶化した。

 このカラオケは僕も楽しんでいる。普通ならこの忙しい時期にみんなで遊ぶのも難しかっただろう。でもそれをよかったと言っていいのだろうか。でも正直隆志と同じ気持ちを持っている自分もいる。きっと重登もそうだ。ここに俊吾がいたらいいのにとも思うけど、いなくても何の違和感もなかった。

 そんな自分には人として大事なものが欠けている気がして、そして、もう一人の自分がそんな自分を心底軽蔑した眼差しで見つめていた。




 生きた人の肌に触れるのが、今の僕の仕事だった。

 しっとりとして弾力があって、ずっしりと重くて、そしてあたたかい。

 これが生なのだと感じる。

 このあたたかい人肌を感じていると、彼女と触れ合ったあの日のことを思い出す。

 あの日、まーちゃんはすぐに帰っていった。それからは時々携帯でやり取りをしたり、何度か家に来て家事の世話をしてくれたりした。もちろん頻度は付き合っていた頃のそれ程ではないけれど、幼馴染だった時に戻ったような気がしてなんだか嬉しかった。

 彼女とはこれからどのように関係になるのかはわからないけれど、好意的な関係ではいたいと思う。

 そしてあたたかい人肌を感じると、同時に棺桶の中の彼らの顔が頭を過ぎる。まるで眠っているようで、すぐにでも起きだしそうなのに、そっと触れた頬はひやりとしている。

 頭の中の自分は冷たい頬が陶器であるように触れているのに、実際の手は微かな熱とその奥の脈動を感じていた。

 心臓が縮む。頭がその違いを理解できなくて、妙に浮き足立つのを止めらない。

 しかしそんなものを抱えながら、触れる手の力が落ちることはなく、横たわる血の通った顔に向ける笑顔は翳らない。

 あの瞬間も、僕はこうして生を享受していた。お客さんと他愛のない馬鹿話をしている間に、彼は僕の感じていた熱を失ったのだ。もしかしたら彼女と生を共有していた時や自分の将来のことを思い描いている間だって。きっと今この瞬間にも、どこかで横たる頬から熱が失われている。


 何事もなかったように、今日も最後の客を笑顔で見送った。

 休憩室に戻って携帯を見る。不要なメールが数件届いているだけで、シフトに入る前とさして変わらない。

 メッセージアプリを開いて、先日したやり取りを眺める。俊吾のお母さんからお墓が出来たと連絡があったから、予定が合う日にみんなでお墓参りに行こう。予定は今から二週間後の八月の半ば、お盆が明けた平日の午前になった。本当はお盆のうちに行きたかったが、みんなの予定が合わなかったのだ。それにこちらのお盆は七月だから、どちらにしろ遅れているということで話は一段落した。

 携帯を伏せて水を飲んでいると、後片付けを終えた店主が休憩室に入ってきた。

「ご苦労様。暑いねぇ」

「お疲れ様です」

 店主はデスクの椅子に座り、置きっぱなしだった缶コーヒーを煽った。ぼそりとぬるいな。と呟いて、煙草をふかし始めた。

 店主の森田さんはとてもいい人だ。物腰が柔らかくて、腰が低く丁寧。見た目もそんな感じなのに、マッサージをする時の力は強い。あたたかくて大きな手でゆっくりと揉み溶かしてくれる。

 店は二十数年目で、脱サラして奥さんと二人でずっと続けてきたらしい。ちゃんと聞いたことはないが、店主はもう六十近いという話だ。見た目ではあまり老けて見えない。

 煙草の煙を眺めていると、店主はそうだ、と言って飲み終えたコーヒー缶に煙草の灰を落とした。

「毎年のことだけれど、来週十三日から十六日までお盆休みにしてるから。君もその間は休みだよ」

 カレンダーを眺めると、その前日は定休日で実質休みは五日間あった。勤務曜日だけで見れば、僕はまるまる一週間休みということになる。

「どこか、行くんですか」

 奥さんと旅行とか。子どものいないせいか、二人はとても仲がいい。

「十三日に一人でこっそり田舎に帰るだけだよ。まあ別の日なら嫁とどこかにでも行ってもいいかもね」

「こっそり?」

 首を傾げる僕に、店主は椅子ごと向き直ってくれる。

「とは言っても、両親のお墓参りに行くだけだよ。別に親戚に会うつもりはないから、こっそりね」

 そうか、両親が。確かにこの年齢なら何もおかしなことはない。

「……あの、人が亡くなるって、どんな気持ちですか。僕、分からなくて……」

 肩を落として膝を見つめていると、店主は椅子を転がして僕の向かいで止まった。

「そうだなぁ。君はまだ若いからね、同じって訳にはいかないだろうけれど。私くらいの歳になるとそういうことは多くなるから。知り合い程度なら特にね」

 店主は僕の友人が亡くなったことは知っている。葬儀で急遽バイトを休まなければいけなくなったからだ。

「だから言っちゃあ悪いけど、一人一人を思ってる暇はないよ。それに君にはまだ早いのかもしれないけど、どうしたってこれから生きていくことを考えなきゃならないからね。守る人がいるから」

「守る人……」

 顔をあげると、店主は目を細めて小さく息をついた。肺に残った煙がうっすらと宙を舞うのが見える。

「私だったら嫁だ。子どもがいればその子たちも。そこは絶対。友人やこの店もそうだ。常連のお客さんやもちろん、バイト先にしてくれている君もね」

 店主の言葉を脳内でゆっくり咀嚼する。そのせいでろくに言葉は発せなかった。でもまたすぐに店主は続けた。

「君たちの生活を、私は守らなければならないんだ。家族が食べていくため、常連さんの疲れを癒すため。君の経験を奪わないために、私はこの店をできる限り続けたいな」

 ね? と片肩を竦めて僕を見据えた。僕はその目に自信を持って応えることが出来なくて、下に目をそらしてしまった。

 そんな僕見て店主は「こういうふうに思えるようになるには、もうちょっと時間が必要かな」と微笑み交じりに言った。呟いたという方が正しいかもしれない。

 椅子を引く音がして、背中を力強く叩かれた。

「本日はご苦労様でした。また再来週よろしく頼むよ」

 驚いて思わず顔をあげる。

 出口に向かう店主の背中が、とてもとても大きく見えた。




「さあ、墓参りも終わったし、カラオケ行くか?」

 俊吾のいる寺の墓地から駅前に戻ってきたところで、隆志が声をあげた。

「おう、まだ昼前だから今度はたっぷり遊べるぜ」

 重登が続く。こうやって学外で集まるのは、俊吾の家に線香をあげたあの日以来だ。まだ二回目だが、すっかり俊吾への弔いは遊びに行く絶好の口実と化してしまっている。今回の墓参りも本命は午後のカラオケだ。はっきりそうだと口には出さないけれど、態度では全く隠す気はないらしい。

「重登は明日最終だろ? 最後までいいのか」

「最終なんて今更準備することないよ。逆に緊張解いといた方が、口滑り良くなるしさ」

 話しながら移動を開始する。向かうのは駅前のカラオケ店。チェーン店で、この駅のは初めてだけど大学近辺の店舗にはよく行く。

 時折適当な相槌を打ちながら、ゆったりとした足取りで歩いていく。別にお前は行くのかとは問われない。彼らは当然僕も参加するものだろうと思っている。僕も本当は参加したいけれど。カラオケがしたんじゃない。みんなで遊ぶ機会を逃したくないだけ。

 ぐっと、拳を握りしめた。

 でも、やっぱりこういうのは違うと思うのだ。遊ぶために墓参りに行くのは。ついでに、してしまうのは。

 奥歯を強くかみしめて、足を止めた。

「ごめん」

 数歩先に進んだ二人も立ち止まって振り返る。

「お、どした?」

 二人に向けたのはおちゃらけた笑顔。僕にはどうしても、雰囲気を壊す勇気はなかった。

「僕、今日用事があるの忘れてた。悪いけど、今日は二人で行ってくんない?」

「そうなの? じゃあまた今度な」

「残念だな」

「悪い、次は参加する」

 二人は気にする様子もなく答えてくれた。僕は悪い悪いと笑いながら、駅の方に向かって走り出した。


 時田麻美の墓に一人で来るのは、今日が初めてのことかもしれない。彼女が死んで四年。年に一、二回はここを訪れて、手を合わせる度に何を思えばいいのか迷っていた。

 親族の場合は簡単だった。両親から見守りに対する感謝と日々の報告を行うように言われていたからだ。でも友人の場合それは不適当だろう。彼らが僕を見守ってくれているとは思えないし、報告だって別に聞いてもしょうがない。だって、そんなに深い関係でもなかったから。麻美ちゃんとはすでに疎遠で、俊吾とはまだ数か月の付き合いだった。

 むしろその程度の関係でここまで考えるのはおかしいのだ。まーちゃんみたいに親友なら、苦しいのは当たり前なのかもしれない。そうでないなら、隆志や重登みたいに行事として済ませてしまえばいい。

 どうしてそうできないのか自分でもよくわからないのだ。ただ感傷に浸っていたいだけなのかもしれないし、いわゆる中二病のような自己満足なのかもしれない。店主の言う通りきっと僕にはまだ早いのだ。精神的にも経験的にも。何が社会人なのか何が大人なのか。酒も煙草も飲めるようになって就職先が決まっても、ちっとも大人になんかなれていない。なれる気もしなかった。

 最寄り駅まで一時間強。駅からバスで数十分。入口の店で散々迷って、ちょっと豪華な花にした。途中で昼も済ませたから、山の上の墓地に着く頃にはもう夕方手前の時間だった。

 仏花を買ったところで掃除用具をありったけ借りてきて、掃除をした。家族が豆に掃除をしているようで、結局ほとんど使うことはなかったけれど日差しのせいで大苦戦だった。

 傾き始めた夏の日差しは鋭く、容赦なく顔や手足を焼いた。特に顔面には直射日光が当たり、掃除を終えた頃にはもう汗だくで、髪の毛からは雫が滴り落ちていた。

 そのあと体の汗を拭ってから墓標に向かう。拭ったそばから雫が流れ落ちてきて、僕はもう諦めてタオルをしまった。

 そっと手を合わせて目を閉じれば、蝉のけたたましい鳴き声と遠くから他の墓参りの人たちの声が聞こえた。

 深呼吸をして心を落ち着かせる。彼女にかける言葉は見守りに対する感謝でも、僕自身の報告でもない。君に対する祈りだ。初めて手を合わせた時と同じように拙い思い出と、それからまーちゃんとのことは話した。

 今度は二人で来るから。遅れてごめん。複雑な気持ちでいたけれど、僕の一方的な気持ちだけでも聞いてほしい。また会える時に文句でもなんでも言ってくれ。

 ただ僕は、どうしたって君を忘れることはできないよ。今までありがとう。

 顔を上げる。吹く風は濡れたところから熱を逃がし、火照った顔を冷ましてくれる。

「さて、帰るか」

 これでいいのかわからない。結局今までと大して変わらなかったような気がするけれど、ちょっとは話ができたと思う。

 荷物を持って立ち上がる。両手にいっぱいの掃除用具は行きよりずっと軽い。帰りの道を歩き出す。

 時々思い出して、泣いちゃう時もあるかもしれないけれど。でもどうしたって僕は、止まらない日常で生きていかなくちゃならないんだ。未来の自分に期待して、不安になって。

「守りたい人か……」

 まーちゃんの顔がふと浮かんだ。彼女がいたら、僕は生きていけるだろうか。

 そのあとも次々とたくさんの人の顔が浮かぶ。両親や友人、学校の先生や店主まで。

 角の手前で、もう一度振り向いた。黒くて冷たい墓石はじっとその場に鎮座して動かない。

「……また、来るから」

 それだけ言って再び歩き出す。青かった空には淡い夕焼け色が滲んできていた。背中に当たる西日は暖かくて、笑みが溢れると同時に涙が一つ、零れ落ちた。

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