第26話 当日
開發さんの復活後、テスト計画の準備は佳境に入った。
様々なバックアップ体制と、ケース想定などオペレーション面での準備、それからバッテリーなどを含むハードウェア――特に電装面での最終調整、そしてソフトウェアのバージョンアップ。
外部業者に委託して、上野動物園の十二分の一の模型を作ってもらい、同じようにサイズやバッテリーの持続時間を調整したミニコノハでの実験なども行っている。
本当はこのテストからデジタル環境に仮想の東京の一部を演算して、その仮想空間上でもテストを行う予定だったが大幅な遅延で間に合わなかった。
多くのバグや計画の穴を潰して当日を万全とはいえないまでも迎えることが出来た。それでも何かしらのトラブルは起こる可能性が高い。
その日の朝、蓉子はパッションフルーツやキウイ、バナナなど様々な果物を混ぜ合わせたスムージーを作って、ある種の気合を入れた。
それ以外はいつもの起床後のルーチンをこなして、いつもの通りに部屋を出て出社する。上野動物園付近までの移動はコノハと共に大型のバンで移動することになる。
主要なメンバが会議室に集まり、手順を最終確認していく。開發さんや山縣さん、石村さんの表情はいつもと同じで変わらない。
彼ら、彼女らにとっては何度も繰り返してきたことなのかもしれない。
ほおを片手で触り、そこが強張っているのを自覚していた蓉子はその様子を見て、少しだけ緊張がほぐれる。
最後のブリーフィングが終わり、上野動物園付近までの移動の途上、隣に座るコノハは楽し気に車窓に移る景色を眺めている一方で、蓉子はブリーフィングの内容を反芻していた。
蓉子が考えるに、コノハのテスト場所、つまり上野動物園で最も厄介なのは区画をつなぐ通路だと思うのだ。
上野動物園は構造として、大きく二つのブロックから構成されている。それぞれの内訳としては、正門入り口のある東園と、不忍池やアフリカに生息する動物たちが息づく西園区画。
今回のルートは正門から入って、二つの区画をつなぐ通路を通り不忍池の近くにある弁天門から退園するルートだった。
それぞれの区画をつなぐ通行手段は以前までであれば、モノレールという選択肢もあったのだけれど、現在は徒歩で交通するしかないという。
そして、その通路の高低差がかなり大きい。三十度前後の傾きがある下り坂などが存在している為、コノハの足回りではかなりゆっくりと慎重にいかないと横転の危険性が非常に高い。
以前、コノハの記録採取のために行った歩行テストでも傾斜のあるフィールドでの上り下りのテストは手厚く時間やコンディションを割いて実施されていた。
また、傾斜での歩行は関節部のダメージの蓄積やバッテリー消耗の増加を招く。ただ、今回は数分程度の距離で踏破可能な通路の為、問題はないとされてGoサインがでている以上、ある程度信じた上で対策を練るべきだろう。
それも今回のテストとして選ばれた理由らしい。
そんなわけで平日、晴れの日。そんなほどよい気温と天気に恵まれた日に決行となったのだ。
そんなことを考えている間に、蓉子はコノハと共に上野公園に入る手前で降ろされた。
コノハは結局、中に入るまでは車椅子を利用するというプランが採択され、今は車椅子の人となっている。
「久しぶりの蓉子さんとのお出かけですね」
「ええ、そうね」
コノハとお出かけしての久しぶりの会話を楽しみながらも、意識の片隅では周囲への注意を怠らないようにしていた。
だから、いつもよりコノハへの対応がそんざいなものになってしまう。そんな様子をコノハに注意される。
「蓉子さん、注意散漫ですよ」
「ごめんなさい」
注意されつつも、どこか落ち着かない。
今のところコノハはきちんと人間らしい歩行を出来ているけれど、誰かと接触事故を起こしたら、あるいは子供がぶつかってきたら。もしが頭の中に浮かんでは消えていく。
コノハが自律的に連絡を行ったのか、あるいはある程度の距離を置いてついてきているオペレーションサポートチームが連絡したのか、髪の中に隠したワイヤレスイヤホンに、開發からの注意が飛んでくる。
「奥村さんちょっと深呼吸しようか。それだけでも落ち着くはずだよ」
目を閉じて、開發さんの言うとおりに一度深呼吸をする。それだけでも随分と違ったように思えた。
それは誰かがきちんと支えてくれるのだという安心感からかもしれない。
蓉子はもう一度、コノハに小さくごめんねと言って、暗記した今日のテストコースを歩き出す。
久しぶりに訪れた動物園は、生き物のにおいがした。
生きている動物たちの気配が否応なく感じられる。そういえば、コノハの体臭は当たり前といえば当たり前だけどない。
蓉子としては、ちょっとしたフレグランスくらいつけてもいいと思うけれど、いまのところまだその提案は承認されていない。
正門から五分程、ゆっくりと歩いた場所にあるパンダグッズが多く売られているショップの方にコノハの興味がそれているのを感じ、コノハの腕をつかんでその場にとどめつつ、今日のコースをもう一度反芻する。
コノハの体温は人肌ということで、三十六度前後に保つように調整されている。ただ、日差しのせいか素材のせいか、どこか温かかった。
本日の前半のコースは正門から入って、右手の壁沿いに外に展示されている鳥たちのゾーン、ゴリラ・トラの住む森、バードハウスを経由して、クマ、ゾウ、サル山などを巡っていく大きなSの字を書くコースになる。
「まず初めはパンダを見に行きましょうか」
元気よく頷くコノハとそちらの方に歩き出す。社会人になってから、考えてみれば初めての動物園への来園だった。
平日の動物園は、観光客の方や近所のリタイアの方らしき人が多く、どこかのんびりとした雰囲気が漂っている。持ち込んだ折り畳み椅子に座り、動物の絵を描いている人もいて、先ほどまでの焦りが段々と雲散していく事を蓉子は自覚した。
日取りがよかったのか、あるいは動物園にとっては悪かったのか。人は疎らで、コノハが誰かとぶつかりそうになるようなヒヤリハットもなく順調に工程を消化し始める。
まず初めに正門から一番近いパンダゾーンに足を運ぶ。
事前の情報通り、パンダゾーンは十分程待つだけで見学することが出来た。
平日という事もあり、小さなお子さん連れの子供たちが足元で走り回るようなこともなかったというのも大きい。
ベルトコンベアのように人の流れに乗って、パンダゾーンを出た後はタイから友好記念に贈られたという伝統家屋、中世日本の東屋のようにみえるサーラータイを右手に鳥たちの暮らすゾーンに向かう。
そこでは、蓉子の背の数倍は高さのあるケージがいくつかのゾーンに分かれて、フクロウやワシ、鷹といった猛禽類が展示されている。
ちらりと横目にコノハの様子を窺う。後々、この行程でコノハがどのようなオブジェクト、景色に興味を持ったのか、それぞれどのくらいの時間視線を注いでいたのか。それらは重要な解析情報として分析される。
このテストにおいて、蓉子はいざという時にコノハをサポートすることが主要な役割である一方、ログデータからではわからないコノハの様子をレポートするのも別の重要な役割だった。
蓉子が観察していると、コノハは興味深げにそれらを見ていたものの、動物図鑑でキリンやゾウを見ていた時ほどには興味を抱いていないように思えた。
次に訪れたライオンは、十一月初めという冬支度の始まる季節の問題なのか。『ライオンはお休み中です』という立て札が立てられて、姿を見る事ができなかった。
アフリカに本来生息している生き物という観点でいくと、コノハが楽しみにしているキリンやゾウも難しいかもしれないと内心思いながら、残念だねという会話をコノハと交わす。
ゴリラ・トラの住む森では外に出ていたものの、あまり動かず周りのお客さんもしばらく観察してから動かないと見るや、他の場所に向けて足早に動き出している様子が伺えた。
「わたし達はゆっくり見ていこうか」
「そうですね。賛成です」
コノハとそんな会話を交わして、事前に定めたコースに沿って歩き始める。バードハウスでは、さっきのふくろうがいたケージよりも多くの時間を使って、テッレ譲りの一眼レフカメラで多くの写真をぱしゃりと撮影していた。
そんな様子をみながらふと思ったことを聞いてみる。
「コノハは、どういう時にカメラで撮影しようと思うの?」
「カメラで撮影するときですか? この景色をテッレさんや蓉子さんに見せたいなぁと思った時ですよ」
仕事の一環ということによる使命感と、私の個人的な興味とからの質問に対して、コノハはすらすらと回答する。
鳥の羽ばたき。水辺に着地した時の水しぶき。親鳥とひな鳥が一緒にいる仲睦まじい様子。
そんな様子にコノハはテッレに見せたいという判断を下して、ファインダーにおさめるのだという。
「なんというか、テッレさんの影響を受けているのね」
「そうだとしたらうれしいです」
微笑むコノハを見ながら、彼女の綺麗で棲んだ瞳が見ている世界は、蓉子が見る世界とも、テッレがみる世界とも違うのだという事を今一度思う。
コノハの瞳は、何千万分の一という解像度で見た景色をズームしたり拡大したりすることが出来る。
本来、人間と同じ程度の性能があれば十分だと思われるものの、視覚や聴覚はより鋭いものが搭載されているのだという。
ミルククラウンという現象、あるいは景色がこの世界にはある。牛乳をなみなみと満たした液面に、直上から牛乳を落とす。落ちた後の一瞬を切り取ると、王冠のような牛乳の跳ねる飛沫が現出する光景の事だ。
人間は、あるいは人類はそれを現代になるまで知ることが出来なかった。その光景を見る為には、高いフレームレートを持った高性能なカメラの出現を待たなければならなかったからだ。
けれどそれは発明とは異なり、昔からこの惑星の上では発生していた事象なのだ。知らず知らずのうちに、牧場で、あるいは家庭で、そのほかの場所で。
コノハの瞳は、それをありのままの事象として受け入れることが出来る。
そうした視覚を持ったコノハが何を感じ、どう思考するようになっていくのか、それを蓉子はみてみたいと思うのだ。
そして、そうした人間よりもとても鋭いそれは、コノハが藝術で人間の辿り着いた極地を保存し、再生可能な状態に至らしめるという目的があるからなのだ。
人の機能はどこまでも複雑で、人間の現在の技術では再現できるものと再現できないものが分かれてしまう。視覚代わりのカメラや聴覚代わりの機能については、人間よりも高性能なものを創ることに成功しているけれど、本当の意味で脳の複製などは成功していない。
見た目が同じで、けれど中身が決定的に違う私達が共有できる景色の象徴がたぶん、この一眼レフカメラなのかもしれないと蓉子は思う。
厳しい中にもどこかお茶目な性格をしているテッレが託した願いなのだろう。
隣人として、愛する為に。同じ景色を見て、同じ体験をする。それを共有する為のひとつのギミックとして彼女は写真を選んだ。公園の時には気づかなかったことが、オープンカフェでテッレさんの想いを聞いた日からより鮮明に浮かび上がってくる。
テッレさんにとってもう一人の子供なのだ。コノハは、肉の体と機械の体という違いがあっても。
コノハの笑顔を見て、そんなことを思った。
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