第24話 歩行訓練
とある日、蓉子と石村さんは他のメンバ数名と共にオフィス外で勤務していた。
コノハを引率して。
端的に言えば、コノハにまつわるテストが新しい段階へと進んだのだ。
コノハの外出許可は図書館でのテストが上首尾に運んだことで、比較的容易に取得が可能になっていた。
今日はアスファルトに覆われた道路以外での歩行データの取得の為に、撮影スタジオを借りている。
このスタジオは、ひざ下までの浸水地帯、砂地、泥濘地、コンクリート、木の床、畳などの様々な路面環境を再現しており、石村さんの伝手によって紹介された場所だった。
引率といっても、今回のテストは石村さん配下のメンバが行う為、蓉子は見学者に過ぎない。
コノハがテストしているのとは別のブースに待機室が作られ、そこで石村さんと共に蓉子は待機する。
そこでモバイル端末を並べて、石村さんと蓉子が横並びに並ぶ。
時折、端末に表示されているコノハの様々なデータについて、蓉子の見解を石村さんは聞いてきた。
それ以外の時は横目にそれを眺めながら、今週分の報告書を蓉子は書いている。
静かな時間が過ぎた後、ぼんやりと買って持ってきたお茶のペットボトルに口をつけながら、蓉子は呟いた。
「開發さんは大丈夫ですかね」
「早く仕事に復帰したくてうずうずしているんじゃない」
端末の画面から目を離さず、石村さんはそう答えた。
その場ではそれ以上、会話が続く事はなくまた無言に戻る。
(開發さんがいないならいないでも、つつがなくプロジェクトが進んでいくのは複雑だなぁ)
午前中は様々な状況下でのテストを実施し、コノハに軽度の異常などが生じることもなく完了する。
スタジオに来ているメンバでお昼を食べながら、午前中の反省会が開かれた。
纏めると、コノハのバランス制御はまだまだ不完全で、ヒールの高さがあるパンプスの類だと姿勢をきちんと保てずに転ぶ羽目になる。
あるいは転ばなかったとしても、高い確率でヒールの踵が折れる結果になるというものだった。
その為、午後からはレインブーツとペタンコ靴でのテストを行っている。
蓉子は控室でデスクワークをしつつ、時折スタジオの中に降りていきテストの様子を眺めた。
ただ歩行のシミュレーション、風洞実験をしているだけなのにコノハはどこか楽し気なように蓉子には感じられた。
「順調かしらね。いまのところは」
いつのまにか石村さんも降りてきて蓉子の横に並んだ。そのまま一緒にコノハのテストの様子を眺める。
(これはなんというか、子供が遊ぶのを公園で見守る保護者みたいだな)
蓉子は視線をコノハのほうに向けつつ、最近思っていたことを石村さんに向けて言った。
「意外とバランスよくこなせるんですよね」
撮影スタジオを借りる前に、簡単な坂道などは社内でも実験を行っていたが、そこでソフトウェアでの重心制御とバランス調整をかなり入念に調整していた。
その上で、ここにきているお陰か、コノハは石がごろごろしているような地面でも、意外なほどに上手く立ち回っている。
「ソフトウェアチームの方でオートバランサー周りはかなり、力を入れてくれたみたいね」
石村さんも、蓉子と同じことを思ったのか、感心したように声を上げる。
「上野動物園のルート選定が終わっています。できれば二つの区画をまたぐところは、トロッコに乗ってほしいですけどね」
今回のテスト要件は、五分程度の休息を二回程度含め、合計二時間以上の連続歩行を行うというものなので、上野動物園のブロックを跨いだ区画をトロッコで移動しても問題ないと言える。
「体重的な意味でもしかしたら問題になるかもしれないからね」
「トロッコ、たしか結構古いですからね。あそこの」
蓉子が何年か前に訪れた際にも、たしか国内にももうほとんど修理パーツが残っていないレベルのアンティークという説明を聞いた記憶があった。
悪い予感がして、蓉子が動物園の情報を検索してみると案の定というべきか、すでに運行が停止していた。
「トロッコ、運行停止みたいですね」
モバイル端末の画面を石村に見せながら、通路しかないですねという話をする。
「急峻な下り坂と上り坂の連続になります」
「子供がいきなりとびかかってきても、一応大丈夫なくらいにはこのテストで証明できるけど、問題はバッテリーの持ちなのよね」
「二時間ギリギリでしたっけ」
コノハのバッテリー、動力源はもちろん人間とは異なり心臓ではない。
彼女は内臓部分に搭載されているバッテリーによって駆動していた。
また、コノハのスタイルはティーンエイジャー特有の薄い身体の為、積み込める内容量は少ない。
とはいえ、男性型よりも女性側の方がどちらかといえば燃費よくつくりやすいのだという。
足回りの技術的課題さえなんとかなるのであれば、軽量化できる方が多少エネルギー量が少なくても、あまりある恩恵があるのだという。
そのあたりは蓉子も専門外である為、あまりわかっていない。
「コノハは結構細身なスタイルだからね。内臓部分にバッテリーを積んでるけど、もっとふくよかな方がよかったわ」
「それにいくら食べても太らないのは羨ましいわ」と石村さんが冗談めかしくいうのに、同意しつつ冷静に切り返してみる。
「でも、ふくよかだと膝関節への負担とか、バランス調整が厳しくなるって前、石村さんおっしゃってたじゃないですか」
「まあ、だから愚痴ね。これは、片方を立てれば、片方は立たず」
「結局入り口付近まで、車椅子で行きつつ一応それも持ち込むという形ですよね」
以前行われたディスカッションの結果、そういうプランが一番妥当性があるということで決まった。
「ええ。座ること自体は今回のテスト要件的にも大丈夫だから、車椅子の接触型充電は1分間でおおよそコノハの0.5%の容量を回復可能だわ」
コノハは単独で二時間の歩行が可能となっている。だから、一分間で回復できるのはおおよそ30秒間の歩行時間だった。
車椅子自体にはコノハの三時間分のチャージが可能なバッテリーが内蔵されているものの、これは車椅子自体のモーター駆動にも利用する為、三時間フルチャージというわけにはいかなかった。
とはいえ一応、予備の車椅子なども準備している為、今回のテストではバッテリー事情についてはほとんど関係ないといえる。
「こんなコノハの連続稼働時間ギリギリの線を攻めるストレステストみたいなやつじゃ、本来はテストできないんだけどね」
「充電切れ近くになったら車椅子に載せて撤収ですね」
「そうね、その保険でいくしかないでしょうね」
コノハの歩行訓練は今日だけではなく、何日にも分かれて行われる。
「そういえば、私さ。キュレーターになるためにニューヨーク留学をしたいって話をしたじゃない」
印象的な話であり、衝撃的な話でもあったのでよく覚えている。私は力強く頷いた。
「はい」
「学生時代に有名な現代アーティストの秘書みたいなことをしてたんだ」
石村さんが美大出身だとうのは知っていたので、あまり驚きはない。ただ、有名な現代アーティストの秘書には簡単になれないんだろうなという想像は出来た。
「ちなみに私が申し込んだとき、秘書は募集してなかった」
「よく受かりましたね」
「三回はチャレンジしたからね。その人ってかなり大規模にアートでマネタイズしている人で、埼玉の方に大きなアトリエもあるし、都内にも自分の専用ギャラリーを持ってる。気難しい人でアルバイトだったら常時百人近くいるんじゃないかな。止めてく人もおおいけど」
「そうなんですね」
「正式な秘書は本当に二十四時間三百六十五日、その人の付き人みたいにいつなんどき携帯が鳴ってもとれるようにって感じだったけど、私は週三日九時から十九時までっていう条件を出したんだ。だから、二回は落ちた。初めはメールを送って、秘書を募集していませんというメール返信だけだった。次は、直筆の手紙を何枚も書いた。自分が何をできるか、スケジュール調整や手配の能力の高さについても書いたよ」
熱におかされたかのように語る石村さんの言葉、その内容に蓉子は純粋に圧倒される。
ただただ、熱意がすごいと思った。
考えても、きっと私なら実行できないだろうなと蓉子は思う。そんなことを考えながら相槌を打つと、静かな語り口で、けれど滔々と石村さんはその先を語り続けた。
「三回目はその人がとある画廊で個展をやっていたタイミングで、挨拶が告知されていたから在廊するってわかっている日に、赴いて楽屋待ちみたいなことをして、正式にアポイントをとって、初めて面談したんだ。それで受かった」
それが、なんでもないことのようにそう口にした石村さんの横顔はどこか奇妙な熱のようなものを帯びつつも、濃い憂いが影を差しているように蓉子には感じられる。
それがなにか正体を探ろうとしても、さぐろうとした思考の先は雲散霧消するばかりで、だから淡々と話し続ける石村さんの声だけが場には残った。
「私は視覚伝達デザイン学科だったんだけどね。自分で作品を創り出すよりも、テーマとかコンセプトで集めるキュレーションの方が向いているなって在学中に思ったんだ」
蓉子はひとまず物思いにふけることは諦めて、じっくりと石村の話を聞く事に注力した。
石村曰く、彼女が大学一年生の頃に受講した講義の中に、その美大では著名な「製図」というものがあったらしい。その講義の中で、有名な題材に【エッグドロップ】というものがあるのだと彼女は蓉子に聞かせた。
それは、ケント紙という硬めの画用紙だけを使って、卵を大学の三階の高さから落として割らない装置を作るというものらしい。
開發なら面白そうにそれに取り組みそうだなと少しだけ横道にそれたことを思いながら、蓉子は石村の続きの言葉を待った。
「そういえば、友達の進学した美大では使用するのは紙コップ最大3個を加工して同じことをするだったから、美大では有名なのかも。まあ、でも」
話の流れから推測はついた。上手くいかなかったのだろうと蓉子は思いつつ、機転が利き、快活な石村が確かに講義には失敗したものの、失敗は発明の母ともいうだろうに何故そこまで落ち込んでいるのかが気になった。
「その時は、全然ダメで、実際に割らない人は割らなくて、素直にすごいなと思ったんだ」といつも浮かべる自信に満ちた表情が剥がれ落ちた女性は言う。
予想通りの答えに蓉子は、気になったことを問いかけた。
「絵里さんがキュレーターではなく、この会社に入ったのはそれが理由なんですか?」
先ほどのまでの表情が濃い憂いを帯びたものだとするなら、いまの石村さんの表情はどこまでも淡く、それだけにどんな思いを浮かべているのか余人には推し量れない凄みのようなものがあった。
「キュレーターになりたいとは思ったんだけどね。画廊に所属するキュレーターというのはちょっと違うなと思ったの。それにね、そもそもキュレーターより作家になりたかったよ、私は」
本業の作家。あるいは画家と呼ばれる職業の人間の内、どれほどの人がそれ一つで食べていけるのか、寡聞にして蓉子は聞かない。そもそも、知ろうとしたことはない世界だからだ。
ある意味でよくある挫折のようなものなのかもしれない。小学生の頃、なにかになりたいという夢を作文に書いた人の内、それを大人になってかなえられた人はどれほどいるのだろうかという類の。
目の前の人は、自分で自分の道を決めて、ほしいものを持っている人だと蓉子は思っていた。だから、どこかあっけらかんとした表情で大きな夢をあきらめたといったことにひどく驚いていた。
「蓉子ちゃん。顔が固まってる」
けらけらと明るく笑いながら、石村さん自身がカミングアウトしたことで衝撃を受けた蓉子の動揺を指摘した。
「決定的だと思ったのはね。その有名なアーティストの秘書になって一月くらい経ってからだったかな。そもそもさ、当時の私は道なき道を切りひらいたみたいな事を思って、少しだけ。ううん、きっとかなりの部分、天狗になってた」
蓉子は、石村さんがそれだけの能力がある人だと知っている。見てもいる。足りないところばかりの蓉子に比べれば、石村さんはとても遠く高い場所に立っている。
それに、道を開いたという事も素晴らしい事ではないだろうかと、そう言いかけてけれど言えなかった。
石村さんの瞳に、どこか怒りのような何かが垣間見えたからだ。
「現代アーティストの事務所にインターンしている人はいっぱいいたんだ。きついから毎月沢山辞めても行くけど。そこで働いて、インターンの人とも話したりして、最初は楽しくやってたしやれてた」
現代アーティストの人脈で、テレビ局の有名プロデューサーや、音楽や美術などで一線級で活躍するアーティスト、プロスポーツ選手。あるいは少し変わったところでは伝統芸能の家元や文化庁の官僚など。
秘書業務を担っていた石村さんの顔は、小粋な返しとアート分野への造詣の深さによるトークなどで、それらの様々な方面に人脈を築くことにも成功したらしい。
それは紛れもなく現代アーティストが切っ掛けを作ったとはいえ、石村の力だと蓉子は思い、それゆえに石村が作家、画家として活動していくにあたってそれは大きな武器になる筈なのにと疑問が深まる。
そこまで説明してから、石村さんはぽつりとささやくように言葉を吐き捨てた。
「ダメなんだよね」
「ダメ、とは?」
反射的に聞いてしまった自分を蓉子は恥じた。どこか自分の発したその言葉に、持てる者の贅沢というようなニュアンスを含めてしまっていることに気づいたからだ。
けれど、石村さんはちらりと蓉子の方を見るにとどめて、それを流して言った。
「ほかのインターンと話していて気付いた。心から作家を目指している人は、あそこに必要なものがあるから働いていたんだって。私は自分が必要とされる場を求めてあそこに行ってた」
それは、声の無い慟哭だった。
石村さんにとってその師匠の事務所でインターンをするという事は結局、コネクションを求めるためのものというのが目的であったということなのだろう。
けれど、なにか新しい切っ掛けを求めてその場所にいるのではなく、足りないものを自覚し、その場所で必要なものが手に入るからこそ、その場所に行っていた人間が今、気鋭の若手として活躍しているのだという。
そして、そうした人間が本物だとそう彼女が感じたということが蓉子には感じられた。
「そもそも、秘書になろうというときの動き方が作家志望じゃなくて、別のキュレーターとかネゴシエーターの動き方だよね」
先ほどまでの表情や声色が嘘のように、どこか晴れ晴れとした顔で石村は冗談めかして言う。
「すっきり諦められたんですか?」
今日にいたるまでそんなことを微塵も感じさせなかったとはいえ、先ほどまでの様子をみると、当時は相当に荒れていたのかもしれない。
そんなことを想像しながら蓉子は聞かずにはいられなかった。
「最初はやっぱり悔しかった。悔しかったけど、結局私の積み重ねてきた、歩いてきた道って、キュレーターなんだなって思ったんだ」
外連味の感じられないまっすぐな物言いで、蓉子はそれ以上何かを問いかける事は出来なかった。
「まあでもね。キュレーターになりたいとは思ったんだけど、画廊に所属するキュレーターというのはちょっと違うなと思ったの。それにやっぱりオリジナルのものを作りだしたいからね」
制約がある中で、要求に最大限答えるようなイラストやデザインが結局のところ、石村は向いているのだと蓉子に言った。もともと、表現したい欲求はあれど、これを表現したいという確たる核のようなものはなかったのだという。
「前に話したと思うけど、私がこの会社に入ったのは顧客体験について、デザインするっていうロールがあったからなのよ。このプロジェクトにもサービスデザイナーとしてアサインされているしね」
確かにと蓉子は思う。
石村さんの所属チームはトレーニングチームになってはいるけれど、実際にはコノハが音楽や美術といった要素をどのような体験、習得していくのかのグランドデザインを描くチームだ。
命令ではなく、自発的に彼女が学ぶようにカリキュラムや彼女自体の部屋のデザインも行ったと聞いている。
「このプロジェクトにアサインされるまでにもアサインされてからも、デザイナーとは違うコンサルタントの立場からのUI/UXのデザインアプローチや、デザイナーとのコラボレーションなんかを通じて、単にキュレーターっていう進路を選ぶのじゃ得られなかった経験をできてると思う」
蓉子はどこかで一本の線に繋がったような気がした。石村さんの来た道と、それからこれから歩む道が多くの言葉で装飾されて、おぼろげながらも蓉子の中に強いイメージとして浮かび上がる。
だから、これは聞いておこうと蓉子は思った。
「卒業されたら、今度こそキュレーターになるんですか」
石村さんは、その問いに直接は答えなかった。代わりに別の切り口から、蓉子に答える。
「私はこのプロジェクトの空気が好きだし、このプロジェクトの人も好きだよ。コノハももちろん好き。だから、その先を見つけたいんだ」
「その先ですか」
「コノハについて、開發君たちは、経済的な価値観で見てるから、芸術的・文化的な価値観でみるとまた違う像が浮かぶと私は思う」
いつもの石村さんの調子が戻ってきたことで話のテンポが、言葉のペースが上がっていくことを蓉子は感じていた。
「芸術的な価値観ですか」
「端的に言えば、どれだけ高度な思考をしようとも、所詮AIが描いた絵は芸術ではないとかね」
「それは」
言いかけて、言葉を紡ぐのを咄嗟に止めて、思考に沈溺する。蓉子は、石村さんの言葉はありうるとそう思うのだ。
同時にやっぱり決意は固いのだなとも。石村さんは彼女の来歴からくるユニークな視点で、開發とも山縣とも違う未来を見据えている。
そして、それは結局このプロジェクトやこのプロジェクトにかかわる人たちにとってもプラスになることなのかもしれない。
「私は、私の信じる価値観に基づいて、コノハか、あるいはコノハに続いていく人口知性が描いた絵に価値をつけたい。蓉子ちゃんは知ってるかな。ゼロ円て何をかけてもゼロ円なんだよ。どんなに時間や努力がかけられていてもね。0円と1円の溝は大きいんだ」
駄洒落のようなものを石村さんが言うのは本当に珍しいと思いながら、蓉子は胸襟を開いて多くの言葉を残してくれた石村に礼を言う。
「応援します、私」
「ありがとう。蓉子ちゃん」
少しだけ石村の目元が赤くなっていたように見えたのは気のせいだったろうかと、コノハを連れて会社へと戻る帰り路で蓉子はふと思う。
歩行訓練は、会社の先輩後輩、おねえさんと面倒をみられる若手という関係であった蓉子と石村さんとの距離が縮まったと思える時間だった。。
夕方まで歩行訓練の立会時間に充てていた為、テスト結果報告書の作成や、各種メール対応をしているとあっという間に終電間際の時間になってしまう。
電気の消えたフロアの中で遠くに明かりを見つけて、思わず誰が残っているのか近づいてみる。
トレンチコートを肩にかけて、周囲が暗くなった部屋で一人モニタに向かっている石村さんの姿があった。
思わず周りの電気のスイッチをオンにしてしまう。
明暗差に目をしばたかせながら、大きく伸びをしている石村の横に立って、さっき買って、帰りに飲もうとしていた温かいココアの缶を差し出した。
「ありがとう」
肩に羽織っていたトレンチコートの裾を掴んでもう少し深くかけてから、石村さんは綺麗な爪をした手で温かい缶を受け取る。
しばらくそこから暖をとるように抱えていた。
「ココア、ありがとうね。でも、もう遅いから蓉子ちゃんは帰った方がいいかな」
「いま石村さんが対応されているタスクって、開發さんの分ですよね」
そう蓉子が言うと力のない笑顔を浮かべて首肯する。
「一週間入院で、一週間は安静にでしょ。開發くんが安静になんてできるわけないから、私達に任せなさいって言えるだけの実績を積み上げておきたいの」
「私も何かお手伝いします」
それは蓉子がこのテストを予定通り、実施しようとしたからこそ発生したであろうタスクだ。
「蓉子ちゃんは、最後の砦なんだから。どーんと構えていればいいよ」
私達が道を切り開くからという言葉と、格好いい所を見せたいのというフレーズの連投に蓉子は押し切られる。
「石村さんは、あと数か月で海外留学に旅立つんですよね」
「そうだよー。もしかして、どうしてここまで頑張れるかってこと?」
モニタから目を離さず、いつもの口調で問いかけられて内心どきりとする。
逡巡したのは束の間で、頷いた。
「はい」
「だからこそ、かな。もうすこしで終わりだったらさ、きちんとしておきたいから。それに、ここってプロフェッショナルの集団なんだよね。だからというわけでもないけど、私もその一人としてベストを尽くしたい」
今まで関わってきた人たちの顔が浮かぶ。石村さんのいう、プロフェッショナルはビジネスパーソンとしての含意ではなかった。
それは、おそらく大学やもっと以前から興味を持ってその道を歩んできた人たち、あるいはそういう人たちに負けないだけの時間と才能を費やした人たちという意味でのプロフェッショナル。
「そんなことをいったら私もです」
蓉子は少なくともプロフェッショナルでありたいと思っている。プロフェッショナルであるための努力を日々の読書や交流する中で質問をしたり、定期的に開かれる部署内のワークショップや勉強会の手伝いをして学び続けている。
誇りに思える仕事がここでならできるかもしれないとコノハプロジェクトに参画した当時は、そんなある意味でお客様視点で見ていた。けれど、今は違う。
蓉子の中には、このプロジェクトを一人のプロとして絶対に成功させたいと、そんなプライドが芽生え始めていた。
けれど、そういったことも分かるよと言った上で、石村さんは言葉を続ける。
「そうだね、でも今はゆっくり休んで。蓉子ちゃんの出番はこの後だから。休むのも大事だよ」
そこに強い意志をみた蓉子は、石村さんのその言葉に甘えざるを得なかった。
帰り際に振り向いた石村さんのデスクの周りにも、何人かのデスクはいまだにぽつねんと光が灯っていて、それが闇夜の中に浮かぶ蛍の光のようにも見えた。
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