第22話 開發さん倒れる
よい休日を過ごして、気力十分で朝の通勤電車に揺られながら会社のメールをチェックしていると、考えていたことが全部飛んでしまった
開發さんが倒れたという予想外のメールが届いていた為だ。
通勤途中にみたメールの内容について聞く為に、蓉子は出社後すぐに情報通の石村さんの席を目指した。
その途中、コノハの余暇時間に、新宿駅の小田急線への乗り換えの仕方をyoutubeで見て学習させると息巻いている人たちの横を潜り抜ける。
(あのひとは鉄人のような人なのだと、そんなわけもないことを思っていた)
振り返れば、開發さんという人は仕事に集中するとろくにご飯を食べる様子も見せない上司だった。
出社前にソイラテなどを買う場合もあるものの、今日はそんなこともせずオフィスに急ぐ。
石村さんは姿勢よく自席に備え付けられた大型のモニタと手元のノートパソコンの画面を見比べながら、海外の拠点とリモート会議をしていた。
滑らかな発音で楽し気に笑いながら話す石村さんは、蓉子が近づいてくるのに気付いていたのか、話しかける数歩手前からこちらの方に向き直っていた。
その形のいい耳にはヴァンクリーフのフリヴォルがさりげなく輝いている。
石村さんはそのまま綺麗な姿勢で話しながら、片手で軽くメモを書いて紙飛行機を器用に折ると、蓉子の方へすっと飛ばす。
まっすぐに飛んできたそれは蓉子の掌の中にすっぽりとおさまる。
開いた附箋には整った伸びやかな文字が躍っていた。
「ごめん、今は無理。後で連絡する」という短い文。その指示に従って蓉子は一度自分のデスクへ荷物を置きに行った。
歩きながら、考える。
(本当は、Slackなどで聞くのが一番早いのだろうけれど。どうしても直接聞きたい)
そんな蓉子の考えをあの一瞬でくみ取ったのか、蓉子が自身の端末を立ち上げた瞬間に石村からチャットが届いていた。
「今なら大丈夫」とそう言葉少なに書かれた文字を見るや否や、蓉子は立ち上がり再び石村のデスクに歩いた。
石村さんの表情は先ほどリモートで和やかに談笑していた様子とは打って変わって、どこかやるせなさと険しさを含んだ眼差しで蓉子に話しかけてくる。
「聞きたいことって、朝出したメールの件だよね」
一語一語をゆっくりとどこか歯切れのわるそうな口調で石村さんは言う。その様子に蓉子は多少の疑問を覚えながらも、頷いて答えた。
「はい、開發さんが倒れた件です」
「そそ、過労と低栄養で一週間の入院」
石村さんが具体的な話を切り出す。
纏めると、開發さんが倒れた原因は過労と低栄養なのだという。ひとまず命には大事がないらしいという話を聞いて、蓉子は内心安堵する。
一方で現代において、働き盛りのビジネスパーソンが低栄養状態にあったという言葉は衝撃的だった。
同時に、顔色が悪かった最近の開發さんの様子を思い出して、悔しい思いを抱く。
もう少しなんとか出来たのかもしれないという想いと、それはおこがましいなという思いが蓉子の内心で交錯する。
思い返してみれば、開發さんは集中すると昼を抜くような人だった。
時折はプロジェクトにかかわる数名でランチを囲むこともあったけれど、蓉子は大半のお昼をテッレさんや石村さん達と食べていた。
もう少し誘う回数を増やせなかったのか、今言ってもどうしようもないことだけれどそんなことを思う。
それに、最近は蓉子の仕事の範囲も広がっていて、様々な会議に出席する必要もあった為、いくつかのペーパーワークの類を開發が巻き取って進めた事などがあった。
だから、それはつい零れ落ちた言葉だった。
「私が頼りないせいですかね」
「違うよ。それは違う」
うつむきがちにことばを発していた蓉子が頭をあげると優しい表情をした石村sann
と目が合う。
「開發くんはワーカホリック。蓉子ちゃんは心配性。誰も悪くないし、強いて悪者がいるなら開發くん」
「そう、なんでしょうか」
開發の話のレベルには多少ついていけるようになったと蓉子は思う。色々なチームとの会議に出てコノハプロジェクトを構成する様々な要素についても知識が増えてきた。けれど、まだ開發の話には加減を感じるのだ。
もっと職位や年次があがればおのずとそれは追いついていくのかもしれないけれど、いまここにあるプロジェクトで少しでも早く追いつきたいと蓉子は思っていた。
そんな複雑な内心を見抜いたのか、石村は「何度でもいうけれど蓉子ちゃんのせいじゃないよ、彼が自分を顧みすぎてないだけ」と、そう慰めてくれるように言う。
それに対して、蓉子はありがとうございますとお礼を言いつつ、電車に乗ったタイミングから考えていた事を口にした。
「絵里さん。コノハが言っていた動物園に行きたいっていう計画、あの詳細プラン検討をもう少しきちんと御手伝いさせていただけませんか」
石村さんが驚いたような表情で蓉子の顔色を窺ってくる。コノハプロジェクトにおいて、トレーニングチームのリードである石村さんにはそれなりの権限がある。
コノハにまつわるプロジェクトにおいて、テストの内容はソフトウェアやデザイン面でのテストから、ハードウェアのより実践的なテストに移って久しい。
ソフトウェアやロボティクス的なきちんと予定通りのコースを歩く事が出来るのか、想定外の事態ー前回の雨のようなことが発生した際に、どの程度動けるのか。
そういったテストや、コノハが今後直面していく技術継承の場において、どの程度繊細な手や指、あるいは足さばきなどが可能なのか。
石村さんにかかってくる責任は、とても大きい。
「大丈夫。こんなバタバタした状況で」
石村さん的には、動物園への訪問テストは開發が倒れた時点で延期あるいはプラン変更という風に捉えているらしい。
「立案だけでも少しは進めておきたいんです」
「偉いね。蓉子ちゃんは」
そういうことなら、と蓉子宛に依頼メールを出してくれた。
同時にこの部署で利用している社内Slackにも、蓉子が関わる旨を告知してくれた。石村さんのコメントにぶら下げる形で、蓉子宛のメッセージが連なっていく。
日本では百人弱しかいない部署なのに、すぐにその五分の一の反応が集まったのは、開發さんと石村さんのお陰だと思う。
その後、コノハへの説明に石村と二人で出向く。
シビアな表情をしていた蓉子と石村さんの二人に気づいたのか、コノハは微笑みを浮かべながらもどこか疑問符を浮かべたような表情でこちらに相対した。
「もしかして、開發さんに何かあったんですか」
コノハは鋭い。因果関係の推測能力はすでに獲得して久しいという。今回の件は、どちらかといえば彼女がアクセス可能になっている全体Slackからの情報取得の結果かもしれないけれどと蓉子は思う。
それならそれで、会話を円滑にするために相手の反応を引き出すという話術を利用で来ているという事になる。コノハに何かあったのか、聞かれたらコノハに隠しておくことはできないからだ。
そんなことを蓉子が思っている間に、石村さんが端的な情報を説明していた。
「体調不良というか、過労ね」
コノハはどこか悲痛な表情で目を伏せる。
「もしかして、私のせいでしょうか」
人間の女の子なら少しは何かを思ったのかもしれない。けれど、彼女に言うのは酷だと思った。
一番、どうにもならないのは彼女自身なのだから。
「そんなことないわ。コノハは十分にやってくれてる」
「開發君は頑張り屋さんだからね」
絶妙なタイミングで、石村さんもフォローをいれてくれる。
「そうなると、動物園はしばらくは難しいですよね」
図書館でのテストが終わった後、コノハは借りてきた動物図鑑を彼女の自由時間で眺めるのが日課になっていた。
次に控えているコノハの試験は、それもあってか『動物園』に行って帰ってくるというものになっている。
そのことはコノハにも伝えてあった。だからこそだろうか、とても残念そうな表情を浮かべる彼女に蓉子は何も言う事が出来ない。
計画的な部分はある程度、骨子が作られてはいるものの、肉付けした後には再度、開發さんや山縣さんの計画承認が必要だった。
開發さんが一時的に離脱している今、それらの承認作業はずれ込むことが予想されている。
「私もできることをやって、ベストを尽くしてみるから」
そう言ってコノハとの会話を終えると、石村さんは計画の骨子作成作業とトレーニング計画の修正に戻り、蓉子はテッレさんのところに行った。
「開發さんが倒れてしまいました」
なぜだか、テッレさんの前では取り繕う事も出来なかった。
それに対して、テッレさんはあらあらとでもいうように目を丸くして、蓉子の頭をぽんぽんと軽く撫でる。
「これは娘が好きだったわ。テストで点が点が取れなかったとき、友達と喧嘩したとき、パートナーに振られた時、こうしてあげると泣き止んだの」
迷惑だったかしら。とても穏やかな表情で、そう聞いてくるテッレさんに迷惑だなんてこといえなかった。実際、落ち着いたことは確かだ。
「頭が混乱していて、どうしたらいいのか。わからなくて」
素直に、何をどこから取り掛かっていくのか、大きな指針が失われた旨を蓉子は話す。
「そうねぇ」とテッレさんは言った後、静かに蓉子に対して昔語りを始めた。
「私が大学生だった時に子供が出来てね。ただ、大学で学んでいる限りはスカラシップが出るから、卒業した後は別の大学に行ってイラストレーションの仕事を受託しながら生計を立てたのよ」
そのころは、見習い水夫のようなもので給与もかなり少なかったのだという。
ただ、少ないなりにテッレさんの伴侶は寄港地や船内の売店でしかその給与を使わなかった為、母子共に通常のシングルマザーよりは余裕のある状態で生活が出来たのだという。
「妊娠中よりも、子供を育てながらの方が大変だった」
行政のサービスなどを利用しつつ、親戚の叔母の家に一時的に移ってなんとかしたのだという。
「アパートを引き払いたくなかったのだけれどね。仕方ないと自分を慰めながら、引き払ったわ」
テッレはそして、大学時代の作品が注目を浴びて、デザイナーへの道を着実に歩んでいく。
大学時代に開いた個展で、スポンサーになる企業が1社とはいえ、ついたのが破格で、それを契機に何社かの企業と契約を交わして人気が高まってきていた頃に、個人で依頼を請け負う事を辞めて、デザインファームに入社したのだという。
「一人でやるには管理ができなくなってしまったのよ。私自身、あまり他の人を雇って経営するというタイプでもなかったし」
そういった後、「だからね蓉子」とテッレは続ける。
「困難は分割せよという言葉をあなたに贈るわ。私の言葉ではないけれどね。あなたは今、私を頼ってくれているけれど、開發和光というエース以外にも多くの腕のいい人間がここにはいるわ。みんな、それぞれの分野でプロフェッショナルなの」
噛んで含めるような話をテッレはして、蓉子に焦らず、着実に歩みなさいと落ち着くように促す。
「あなたも、和光ももっと人に頼るということを覚えなさい」
テッレさんの言葉にありがとうございますと、蓉子は頭を下げる。
「コノハの外身は私ともう一人の方で形作ったものだけれど、中身はまだ子供なのよね。あなたもまだ日本の社会人としては子供みたいなものでしょう。会社のスピード感としたら早く大人にならないといけないのかもしれないけれど、貴女はあなたの歩みの速度で社会人として大人になったらいいのよ」
ここでの会話は、にっちもさっちもいかなくなっていた蓉子の心を落ち着けるものだった。
もう一度、お礼を言って、蓉子は自分のデスクに戻る。
すぐに何人かにメールを書き始めた。
まず送るべき対象の筆頭は、山縣さんだ。
蓉子はそれ以外にも何人かの人達にメールを書いては送り続けた。
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