第19話 はじめての本の借り方
翌日のオフィス。
蓉子は開發さんを捕まえて、昨日調べていたものを見せる。
「開發さん、バリアフリーマップアプリのAPIとコノハを繋ぐことってできますか?」
「バリアフリーマップアプリか。面白そうだね。ちょっと、お話しようか」
バリアフリーマップを開発している企業のサービス情報を見せながら問いかけると面白そうな表情を浮かべて、開發さんが自分のオフィスに蓉子を誘う。
「ドアは開けたままにしておいてね」
開發さんの指示の下、半透明なドアは開けたまま開發さんと向かい合う。
誘われるがままに、開發さんのオフィスのふかふかなクッション椅子に腰を下ろし、膝つめで開發さんへ概要を説明する事になった。
「いわゆるハンディキャップを持たれた方、それから高齢者の型向けのサービスですね。その他に想定している利用者は、ベビーカーを押されている方などです」
概要を説明し、それから利用者として想定されているユーザーについて説明すると、開發さんはすこし眠そうな目の奥に不思議な光を湛えて、蓉子の方を見た。
蓉子も開發さんの顔をまじまじと見つめる。初めて会った際には、肌の綺麗さに目を見張ったほどだけれど、今の開發さんはどこかくすんでいる。
目の下にうっすらと隈も浮かんでいた。
疲れているのかな、そんなことを内心で浮かべつつ、自分のアイディアを押し通すタイミングだとどこかで思ったこともあって、ダメ押しで説明を続ける。
「バリアフリー情報を収集・公開する地図系アプリなんですが、コノハとの相性もいいんじゃないかなって。ダメですか?」
「いや、いいと思う。セキュリティ面でのチェックは必要だけど、こんなアプリもあったんだね」
そういう地図アプリの存在を開發さんは知らなかったようで、蓉子が提示したアプリを早速、携帯端末にンストールして確認している。
疲れていそうなのに、異常なほどの行動力だった。
開發さんがまだ顔をあげる気配はないが、どういう反応をするのかなんだか少しだけどきどきする。
考えてみれば、蓉子が開發さんに対して献策をしたのは初めてだった。
このプロジェクトに入ってから、少しは成長できているのだろうか。
蓉子はそんなことを思いながらゆっくりと辺りを見回す。
開發さんの部屋の片隅には、三日月を象ったオブジェクトの上に水しぶきをあげて跳ねる木彫りの鯨の置物や、太陽系のミニチュアキットが置いてある。
初めて訪れた時にはまったく知らない場所だったこの部屋が、少しだけれど居心地のよい環境に変わったように。
少しづつだけれど、前に進んでいる手ごたえはあった。
「段差の数とか、色々な特性、個性を持つ方ごとの項目があったりしてとても勉強になりました」
開發さんの表情を固唾を呑んで見守っていると、眉が驚くような様子に変化する。
その様子から、ありがたいことに開發さんの興味をひくことに成功した手ごたえを蓉子は得ていた。
「確かに今回のテストでも、車椅子移動だから面白いアイディアかもしれない」
開發さんからしてみれば、なんでもないような零れ落ちた言葉。
けれど、本音が零れ落ちたようなその言葉は、蓉子を喜ばせた。
「それに、次回以降のテストではコノハは事前の地図情報と視線からの情報で3DMAPを作成しつつ、二足歩行することになる」
「はい。それを少し念頭に置いていました」
「いいね。だから今回よりも処理能力が大量に必要になるんだ。そんな時に、段差の情報があったら多少なりと、処理量を減らせると思う」
ある意味でその淀みの無さは尊敬にも値するほどに、開發さんの口からいつになく口舌なめらかに言葉がまろびでてくる。
丁度プロジェクトの始まりの頃の提案書を見て、当時の話を聞いてみたいと思っていた矢先のことなので、蓉子はいいタイミングだと思いそのまま耳を傾けた。
「懐かしいな、こういう感覚。コノハも最初はさ、モック作って最初はラズパイでモーションセンサもつけて、モーターでキャタピラを動かす方式だったんだよね」
開發さんのその様子は、今と変わらず当時から熱心に取り組んでいたであろう様子を想起させ、思わず笑みが零れた。
「本当にただの人形みたいなものだったんですね」
今のコノハの様子からは想像もつかず、蓉子は僅かに首を傾げた。開發さんはそうだよねと答えて、当時の様子を楽し気に話してくれた。
「本当の初期段階は三チームに分かれていたんだよ。ロボティクスの専門家チームと、ソフトウェア面を含めた人工知能チーム、それからデザインチームってね」
それは昨日、過去の提案書からも伺えたことだ。けれど、文字情報として読み取った内容よりも、多く深い実地の話を蓉子は静かに聞く事にした。
「デザインチームはテッレさんがリード兼チーフデザイナーになって、どういう風にしていくかを相談していた時に、やっぱり人形師かなってなってね。合宿と称してみんなで人形師さんの所、京都に旅行に行って、環境を変えてアイディアを考えたりしたんだ」
開發さんは笑みを崩さぬまま過去の話を次々と話して聞かせてくれる。
「一部上場企業のCXOクラスの人とは何度も会ったことあったけど、国宝級の人間と会って話せたのは、二度目だったな」
「当初から結構、ハチャメチャなんですね」
歴史のあれこれを聞いた後、開發さん預かりでロボティクスチームとソフトウェアチームの方たちに連携するということを確認して、開發さんとの話は終わった。
それから二週間が経ち、いよいよ蓉子たちが図書館へ本を借りに行く日がやってきた。
いつもより早めに家を出ると、またエレベーターでばったりと開發さんと乗り合わせる。
今日のやる気は十分だった。蓉子は朝からしっかりとトーストと目玉焼き、サラダを食べてコンディションを整えていた。
その意気込みを開發さんにぶつける。
「いよいよですね」
「ああ、今日のテストを経ればコノハの外界活動能力の証明の第一歩になる。長い道のりの第一歩だけどね」
お互いに挨拶を返して、言葉少なにそういうやりとりをこなすと、後は無言で会社までの道を歩いた。
蓉子は今日のタスクを反芻しながら、開發さんは何を考えているのかはわからないもののタブレットを読み込んでいた。
電車から降りて、オフィスまでたどりつきフロアまでのエレベータを待つ間にそういえばと気になっていたことを蓉子は開發さんに聞いた。
「コノハが初めに借りる本、開發さんが指定したんですよね」
「うん」
「アイザック・アシモフの『わたしはロボット』って、結構チャレンジングですよね」
本日のプログラムではコノハは図書館で何冊かの本を借りることになっている。
タイトルも相まって、蓉子はコノハがその本を借りるということにどこかおかしみを覚えていた。
「ああ」
そんな蓉子の様子とは裏腹に、開發さんの反応がだいぶ薄い。
横を見ると、視線がタブレット端末に注がれて話半分で蓉子の話を聞いている様子が見て取れた。視線の動きからして、かなり今読んでいる者に集中しているのだろう。
開發さんが何かに集中しているときはなるべくはなしかけないようにした方がいいというのが、蓉子が経験から得た知見だった。
それを活かして、その場ではそれ以上話しかけず、そのまま無言でエレベータに乗って、オフィスフロアまで上がる。
開發がフロアにつくと、真っ先に降りてスタスタと歩き出すので、蓉子は速足で追いついて、隣り合って歩く。
「そういえば、なんだっけ」
追いついた所で集中状態から復活したらしく、開發さんはとぼけた表情で聞き返してくる。
「コノハの借りる本です」
「アシモフね。僕が選んだっていうか、石村くんの意見だよ」
こともなげに言って視線を逸らす。その先に、石村さんがいた。
夏らしい爽やかなライムグリーンのシャツにハイウエストのデニムをあわせている石村は明るい笑顔で同僚と話していた。
こちらの視線に気づいたのか片手をあげて綺麗な弧を描いた口元で微笑みかけてくる。蓉子は軽く会釈をしてそのまま開發の後につづいた。
「いずれコノハのメディアレポートを出すときに、そのほうが絶対受けるとか。サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』とか、ハイラインの『夏への扉』もベタですけど、やはりここはアシモフです。そんなことを確か言ってたかな」
開發さんはあまり興味がなかったのか、はっきりとは覚えていない様子だった。
けれど、そんな開發さんでも印象に刻まれた当時の石村さんの発言を蓉子に紹介してくれた。
「絵里さんだったんですか」
「石村くんも案外、そういう諧謔みたいなのが好きだからね」
確かに頷けるものがあった。
それに、ペイパルマフィアの一人がアメリカでコノハと同じようなプロジェクトを立ち上げているベンチャー企業を石村さんが小口献金で支援している。
そんな話を開發さんから聞いたことがあるのを蓉子は思い出した。
「ペイパルマフィアにそういえば、アシモフとハイラインが好きな人がいましたね」
「ああ、『肩をすくめるアトラス』とかが好きそうな人ね。その人も確かにコンソーシアムに投資しているしね、その辺も考慮したのかな」
人口知性の開発においては、世界規模のコンソーシアムが結成され、基礎的な技術や知識交換の為のプラットフォームが結成されている。
それは折に触れて、基礎的な知識を会話の中に織り交ぜてくれる開發さんのお陰だった。
時折、山縣さんとロボティクス側のリードをしているイスラエルのリードや制御系のインドのリードがリモートでの会議や、時折出張をしているからだ。
「はい、ちょっとそうかなと思いました」
「ちなみに、僕の懸念ならいいけども、山縣さんは別にオブジェクティビズムの人ではないよ」
オブジェクティビズムというのは、なんというか究極のエリート主義みたいなものだと私は理解している。アメリカの作家であるアイン・ランドが書いた作品である「肩をすくめるアトラス」に登場する人たちの考えが由来だ。
その内容は、一部の限られた人、指導者をギリシア神話に登場するアトラスー天を支える巨人になぞらえて、その人たちが世界を支えなくなったらどうなるのかという仮定を描いた作品になる。
作品自体はいろいろな賛否両論があるけれど、蓉子の記憶では数十年にわたって読み継がれているベストセラーで、たしか世界中で二十以上の言語には翻訳されていた。
蓉子は高校一年生の課題図書で読んだけれど、なんとなく山縣の言っていた事と重なりそうな気がした。
「山縣さんは、あの人は僕がドラえもんに憧れるように、ガンダムの世界に憧れた人なのかな」
なんでもないことのように言う。山縣さんや開發さんの考えを理解するにはアニメや漫画を沢山読んだ方がいいのだろうか。
蓉子の属する会社には変わった人が多くいるけれども、アニメや漫画に憧れて仕事をしているという人にはなかなか会わない。
どちらかといえば、部署ごとに文化ががらりと変わったりもするので、ここがそういう文化の部署といえるのかもしれない。
「ガンダムですか、あの白い」
確かお台場に一時期巨大な立像があったように記憶している。その時のニュースを切っ掛けに少し調べたら模型の首都という異名をもつ静岡市で最初建てられ移動されてきたという話に繋がって驚いたことがあった。
さらに深堀りすると木曽地方の木材の集積地だったり、富士浅間大社の造営の為に全国から職人が集められてその後数十年にわたって造営されたのが切っ掛けで現在も模型メーカーが沢山あるのだという事がわかる。
それこそ、全国の「プラモデル」の出荷額に占める割合は9割でほぼ独占状態だった。
その事実に驚いて、次に仕事の癖でつい深堀りして調べてしまった事に少し恥ずかしくなり、その日はすぐに就寝したのだ。
その記憶は蓉子にとってある意味で消し去りたい過去になっている。
「そう、あの白いやつ」
「あの作品世界の人って、真面目に地球の事とか考えてるんだけど、山縣さんも結構ふざけてるようなところがありつつ、まじめに考えてる」
チャリティー・トライアスロンとか出たりもするからね、と付け加えられた情報に山縣さんに対して何度目かわからない印象の変化があった。
「ガタさんも、奥村さんに期待してるって言ってたよ。いずれにしても、今日の件、よろしく頼みます」
開發さんが綺麗な十五度のお辞儀をする。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
咄嗟に言葉を紡ぎながら、蓉子側も頭を下げる。顔を上げるとへにゃっと笑ったいつもの開發がいた。
「とはいえ、緊張してもしょうがない。リラックスしていこう」
もう一度、ありがとうございますと今度は口頭のみで礼を言って、蓉子は自分のデスクへ向かった。
様々な人たちに見送られ、数時間後、蓉子は図書館の手前五百メートルの地点にいる。
一回だけ、大きく深呼吸をする。よしと内心で気合を入れて、車椅子と共に前へ進みだす。
コノハの車椅子と私はゆっくりと前進して、図書館の自動扉をくぐる。
別になにかのレーダーが仕掛けられているわけでもなし、警報も警備員が飛んでくるようなことにもならなかった。
車椅子の車輪がスムーズに多少のでこぼこを乗り越えて、館内へ滑り込む。
「図書館ですね」
コノハの小さ目な声に反応しようとして、蓉子はさきほどまで自分が息を止めていた事に今更気づく。
そうね、と小さく答えて深呼吸をした。ゆっくりと、息を吸ってそして、たっぷりの時間をかけて吐き出す。
「すみません」
びくりと背筋が一瞬で伸びた感覚があった。はい、と答えておそるおそる振り向く。
「そこで立ち止まられていると、他の利用者様の迷惑になりますので」
「あ、すみません。すぐに移動しますので」
館員で共通しているらしい黒いベストを着た図書館司書の方に注意されてしまい、慌てて入り口から図書館の中ほどまで蓉子はコノハの車椅子を押して移動する。
「ちょっとびっくりしましたね」
「びっくりしすぎて、心臓に悪かった」
コノハがこちらに振り向いてにこやかに笑いかけてくる様子に癒されながら、まだバクバクしていう心臓をどうにか落ち着かせようと蓉子は辺りの様子を眺める。
図書館特有の紙の香りがした。
そのまま、二人で小説のコーナーへと移動する。事前の下見で、本が置いてあるコーナーの場所は分かっている。
蓉子の名義で本の予約もしてあるので、誰かに借りられる心配もない。
移動している間に、蓉子は今日のプログラムを脳裏で反芻する。
コノハが独力で今日の借りたい本を見出し、それを受付にもっていくのが第一段階。
第二段階は、コノハが蓉子が代理で予約した本を借りたい旨を伝える事。
最後に、コノハの図書カードを新規作成したうえで蓉子が予約していた本をコノハの図書カードで借りるという第三段階。
それぞれの段階で求められる能力が異なっている。
第一段階では、図表の読み取りと対象物の捜索能力。第二段階として、多少複雑な経緯を順序だてて相手に説明し、相手の質疑に対してその場で適切な回答を作成する能力が求められる。
最後の段階では、図書カードを作るという意味では欠かせない。紙に書かれた名前や住所の欄の適切な位置に、初めて握るペンを使って書き込む能力。もちろん、明朝体で。
デザイナーの一人がコノハ専用のほどよく手書き風の丸みを帯びたフォントを作成し、コノハフォントとしてインストールしてあるので、コノハの書体は心配していない。
蓉子は、いざというときのためにコノハの傍にいて、車椅子を押す介助者の役回りだ。図書館司書に万が一、コノハの正体がばれた際には説明役となる。穏便にその場を収めて、周りの人たちからの好機の目線からコノハを守ることが優先事項だった。
コノハにここからの行動を任せ、蓉子はコノハの指示に従ってまず、ぐるりと図書館を回る。
コノハは、いろいろなところに視線を遣っていたが口数は少なかった。図書館では静かにしましょうというのを順守しているのだろう。
図書館を回ったところで、目的の本を告げる。
実はコノハにはまだ、何の本を借りるのかについての情報を渡していなかった。
「アイザック・アシモフですね」
実は、さっき回っているときに見かけちゃいました。試験にならないですかね、そんなことを少し恥ずかしそうな表情で告げてくる。
「大丈夫かな。じゃあ、コノハの記憶が正しいか行ってみようか」
周囲の人間が聞き耳を立てている事も考慮して言葉を選びながらコノハと共に、館内を移動する。ここでも移動のナビゲーションはもちろん、コノハが行う。
果たして、時間はそれほどかからずコノハは目当ての本の場所を見つけた。
蓉子が棚の近くまで車椅子をつけると、コノハが手を伸ばして1冊の本を抜き出す。
「お見事」
「いえいえ、それほどでも」
蓉子はコノハと軽口をたたきあってから、第二段階へ移ろうと内心で思った所でコノハが図鑑コーナーを見ている事に気づく。
「図鑑に興味あるの?」
「はい。テッレさんがくれた極圏の景色が普段みれないようなもので、そのほかの種類の図鑑もみてみたいなと」
「ちょっと寄り道しようか」
「いいんですか」
「あと二冊までなら借りていいって、言付かってる」
「なら、私は動物の図鑑が見てみたいです」
二人で結局大判の図鑑を持って受付へ向かう。
結果的にさしたるトラブルもなく第二段階も第三段階も非常にスムーズに済ませて、様子を見守っていた開發さんを喜ばせた。
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