第15話 会話すること

 開發はマンションの一室で、ポットになみなみと作ったカモミールティをマグカップに注いで端末を立ち上げた。


 職場で行う仕事とは別に、日々自宅でも、職場の端末をりようして雑談ベースのチャットや仕事のやり取りなどを捌いていく。

 それと同時に人工知能や最新の技術論文のアブストラクト、購読している技術系情報誌のオンライン版も読み進めていた。

 そんなことを始めてから数十分経過して、一息つこうとしたところで新しいチャットの通知が来る。

 送ってきた相手は、石村だった。


「石村くんか」


 デザイナーとしての素養と、そしてコンサルタントとしての能力をバランスよく持つ石村はプロジェクトチームをとりまとめる開發にとって重要なメンバだった。

 そういえば、久しぶりに生の感情をぶつけられたな。

 昼間の奥村蓉子の慟哭にも似た感情の吐露は、久しく若手メンバと仕事をしていない開發にとって新鮮に思えた。

 そんなことを思いながら、チャットを確認する。ちょうどいま思い浮かべていた奥村についての話だった。


『蓉子ちゃん、いい感じでこんがらがっているので、開發くんの人たらし力の見せどころじゃないかしら』


 人たらし。そんな言葉が似あうのは、開發自身ではなく山縣さんだろうと内心ため息をつきながら、茶目っ気たっぷりな石村にリプライを返す。


『奥村さんはよくやってると思う。比較的、すぐに立ち直れるんじゃないかな』


 返信はすぐに来た。


『その返信じゃあ、30点。もう一声ほしいかな。彼女はいきなりこんな訳の分からないプロジェクトに来たんだから、もう少し労わってあげた方がいいと思いますけどね』


 長いな。そんなことを思いながら、いったんチャット欄を閉じて、他のスレッドや他の人物へのリプライを返す。

 それから開發が石村とのチャット欄に戻ると、もう一文、送られてきていた。


『真面目女子ほど、ぽっきりしちゃうこともあるのよ。悲劇を繰り返さないでね』


 そう来たか。開發は半分ほど飲んだところで放置し、すでに冷めきっていたマグカップのカモミールティーにポットから注ぎ足す。

 再び、湯気が立ち始めた。


「僕たちは生きる為に、かつて火を持った。それが必要だったからだ」


 ぼんやりと開發は呟いてから、石村へのチャットを返した。


『必要なことをしようとおもいます。』


*---*


 翌日、エレベーターでも通勤経路でも開發さんに会わなかったので、時間を見つけて蓉子から謝りに行った。

 最近はいつも通勤時間帯が被っていたから、遭遇するだろうかということも思っていたけれど、開發さんの側で配慮して流石に時間を変えたのかもしれない。


「昨日は、大変申し訳ございませんでした」


 アールグレイの芳醇な香りをさせながら、情報端末の画面を眺めていた開發は、頭を下げて謝罪する蓉子の姿に目を丸くする。

 そのまま話を聞くから席に座りなさいと促されて、そこは固辞した。


「それで。奥村さん、どうしたの」

「いえ、昨日の件で」


 そういうと、ああ、と得心したように小さく頷き、別にいいよとなんでもないことのように開發さんは言った。

 どうしてか、昨日よりも表情が柔らかく感じられる。それは、自分なりの落としどころをつくったことによる心の余裕だろうか。


「奥村さんにとって、昨日の話は重要だったんだと思う。そして、僕たちはプロフェッショナルだ。このプロジェクトを成功に導く義務がある。だから、悩む時間が終わったら、お仕事の時間だ。コノハや自分の為にも、ね」


 それきり、こちらの方をみることもなくモニターに顔を映して黙々と作業をし始める。


「ありがとうございます」


 その姿に蓉子はもう一度頭を下げて、自分のデスクへ戻る。そこには、緩く巻き髪風にヘアアレンジした石村さんがいた。

 流石に事情通というか、昨日の件もいつの間にか知っている様子だったし、恐ろしい情報通だなと改めて思いながら蓉子は挨拶した。


「あれ、絵里さん。おはようございます」

「おはよ~。開發くんどうだった」


 デスクに座り、ロックしてあったパソコンへログインパスワードを蓉子が打ち込み終わると聞いてくる。

 しばし固まり、その硬直の間にひとまず素直に答える事にして、石村さんの方を向いて蓉子は答えた。


「どうだったといわれても、意外といつもと変わらずといった感じで、普通でしたよ」


 普通過ぎるところに思う所がないわけではないけれど、とそういうニュアンスを少しだけ含ませながら目の前の先輩に蓉子は答えた。

 へぇとすごくいい笑顔を浮かべて、石村は頷く。

 チェシャ猫みたいな笑みってこんな感じだな。今度、参考にしようと蓉子は密かに思った。


「彼、蓉子ちゃんの件で昨日相当悩んでたからね。彼にしてはね」


 密かに思っていた事には無事気づかれず、予想外の言葉が出てきたのに反応して思わず声を潜める。

 石村さんも蓉子の方へ顔を寄せてくる。


「それ、ほんとですか」


 暗に、開發さんがこの事で悩むというのが信じられないですという気持ちを込めて言葉を返す。

 石村の表情がにんまりとした笑顔に変わる。けれど、それはすぐに真面目な表情へ変化した。

 本当にころころと表情が豊かな人だと蓉子は思う。


「ホントーのことですとも。夢を食べて生きているみたいなうちの男子二人の内の片方を悩ませるとは、さすが蓉子ちゃんだね」


 夢を食べて生きているというのは、山縣さんと開發さんのことだろう。そして、コノハプロジェクトの計画書を作り上げた二人。


「今ってさ、ブーカの時代じゃない。これって私はすごい事だと思う」


 ブーカ、VUCA。それは、ありとあらゆるものを取り巻く環境が複雑さを増して、将来の予測が困難な状況にある今の世界情勢を指す言葉だった。


「すごい、ですか?」


 何がだろうか。この部署の人は、親切にしてくれる石村さんにしても、時々思考の飛躍に追いつかない部分がある。だから、こういう時、蓉子は素直に聞く事にしていた。


「高度経済成長期はある程度定められたレールがあって、それをのばしてのばしてより遠くへって時代だった。けど、いまは完成形が見えていない、新しいテクノロジーは次々に生まれてさ。5年先も日常生活は今とは全然違うかもしれないじゃない?」


 たおやかな笑み。蓉子には真似のできない大人の女性の豊かな表情を見せて石村さんは微笑む。

 SNSの普及や、それに伴う新しい文化もごく最近のものなのだ。世界史の年表からしたらごく数ミリか、あるいは少ないくらいの。


 現代社会ではそんなに大きく世界なんて変わらないと思っている蓉子ではあるけれど、時々いま触れているものや手に持っている何かがつい数年前には存在しなかったことに思い当って驚く事はあるのだ。

 蓉子のそんな様子を慈しむように見ながら、石村さんは話を続けた。


「あの二人って、きちんと自分の地図を持ってるんだよね」


 羨ましい、どこか憧れのような眩し気な風に目を細めてから一転して穏やかな表情で、石村さんはゆっくりと話す。

 言葉の一つ一つを丁寧に紡いで。


「自分の辿り着きたい場所を、おぼろげなイメージかもしれないけど、きちんと知っていて。周りを先導して、危険な落とし穴なんかもある程度予測して、先へ進んでくんだ」

「地図ですか」


 小学校の頃、白地図を渡されて、都道府県がどこにあるか覚えるように宿題に出されたことを連想した。

 蓉子は、その時はきちんと覚えたけれど、今はもう大半の都道府県にもやがかかった状態だ。


「彼ら夢見るメンズが、ファミリーと呼ぶここの部署は、彼ら自身にとってもやっぱりファミリーなんだよ。でも、普段の彼らは夢の実現っていう大きな目的地があるから、そこにたどり着くためのいろんなことを考えて、案外足元が疎かなんだ。けど、今回は違った。それは、私はとても好ましいと思うよ」


 流れるように、楽し気に言う石村さんに対して、蓉子は返すべき言葉を持たなかった。

 そんな蓉子の様子を見て、くすりと少女のように無邪気に、石村さんは微笑む。高めの声から、低めの声へ。どこか本音を話すときの声色に変じる。


「がんばりなー蓉子ちゃん。あなたは認められてるんだよ、なんて台詞を私は言わない。蓉子ちゃんが頑張っているのは分かってる。こういう職場だから、迷ってたり悩んでるのも分かる。でも、答えを出すまでの手助けは何人に手を借りてもいいけど、最後に出す答えは一人で悩んで、考えて、出すしかないと思うよ」

「認められているって、本当、ですか」


 認められているなんてことはないと思いながら、認められたいとは思っている自分に気づいて、おずおずと聞き返すと石村さんは笑う。


「そうだよ。蓉子ちゃんはすごい。あの朴念仁の心をかき乱した」


 それはとても、誇っていい事だからね。そう言ってひらひらと手を振ると、石村さんは去っていった。

 その背中を呆然と蓉子は見送るしかなかった。それから、石村さんがもう見えなくなりそうなタイミングで慌てて頭を下げた。


 それからよしっと、両頬を叩いてデスクに座る。

 がんばっているのかは自分ではわからない。けれど、石村さんに認められたら元気が出る気がしたのだ。

 開發さんの考え、石村さんの言葉。様々な思いがあるなかで蓉子は仕事に改めてきちんと向き合おうと思った。

 予定表上、コノハは今の時間帯、メンテナンスルームにいるのを確認するとすぐに立ち上がって、歩き出す。


「あれ、蓉子さん。こんにちは」

「こんにちは、コノハ」


 コノハはいつもと変わらない。開發さんに諭されたからではないけれど、少しだけまたコノハへの見方や接し方が変わるという自覚が蓉子にはあった。


「ちょっとだけ、元気ないですね。顔色が悪そうにみえます」


 推論の形式で聞かれているが、実際には悪いのだろう。昨日いろいろと夜遅くまで考え事をしていたことだし。まだ消化しきれていないもやもやが脳裏にはある。けれど、それは今は置いておくことにしたのだ。


「うん、ちょっと。とっ散らかっちゃってたから」


 そう答えると、コノハには疑問符が浮かんでいるように見えた。まだ、間接的なほのめかしのようなものには対応しきれていないのだなと蓉子は思いながら、なんでもないとコノハに答える。


「でも、大丈夫。いろいろ悩んで、迷ってたけど、前向きに頑張るから。明日から、顔色も直ると思う」

「それはよかったですね」


 分からないなりに、蓉子の言葉尻を捕らえて、相槌を打ってくれる。


 彼女は人間のように喜怒哀楽的な起伏が今は少ない。変わらない関係性というのも、時々は安心できる要素になるのかな、とそう蓉子は思った。


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