第11話 突然の雨
ぽつり、と。一滴の雫が落ちる。
気づけば辺りは既に暗くなり、黒雲が立ち込めていた。遠雷の気配まである。
一瞬で嫌な感覚が全身を駆け巡る。
雨は不味い。不味いのだ。
咄嗟にコノハを見遣ると、コノハも不安そうな表情を形作って蓉子の方を見ていた。
視線が交錯する。
実をいうと、コノハの耐水性能には少し不安が付きまとっていた。
降水確率が著しく低いという予報だったのも今日を公園デビューに充てた大きな理由の一つなのだ。
会議の席で、JIS防水保護等級でいうところの第七級だとロボティクス系の技術者は述べていた。
公式な規定では『一時的に一定水圧の条件に水没しても内部に浸水することがない』となっている防水レベル、それから大事なテストとを天秤にかけて開發さんはどう判断するだろうかと一瞬思う。
「傘をさすね」
その間にも、蓉子はてきぱきと動き、手早く折り畳み傘を開いてコノハに差しかけた。自分自身が濡れるのはこの際、仕方がないと割り切って。
周りの人たちも予想外の雨なのか、長柄の傘を持っている方はいない。準備のいい方が折り畳みを取り出したり、日傘と雨傘が兼用になっている傘をそのままさしている方もいる。
実験の中止か継続かを求めるメッセージを送った後、コノハと共に、木陰で落ち着こうと移動を開始する。慌ててぶつかってきそうな人がいないかどうかを注意深く観察しながら。
散歩中の小母様方は大丈夫そう。逆に昼の休憩にきているようなサラリーマンの小父様は濡れ鼠になっている。
あんな様子であれば、今日は仕事にならなそうだなとこちらもそれどころではないながらに思う。
段々と本降りになってくるのにつれて、多くの方が木陰に避難したり、帰り支度を始めて、人が疎らになっていった。
そんな様子を眺めながら、蓉子は携帯端末を取り出した。既読にはなっているものの、リプライはない。ため息をついて電話をかけようとすると、ちょうどかけようとしていた相手からの着信が入る。
そのまま流れるように緑色の受話器ボタンを押して、片耳と肩の間に挟む。
その間に、傘を持つ手を利き手と入れ替えた。
「ジャストタイミングです。開發さん」
「実験は中止だな。近くにバンがあるから、ストレッチャーを運ばせるよ」
電話口の向こうであわただしく動いている音が聞こえた。すでに動き始めてくれているのだろう。
蓉子は感謝の言葉を伝えつつ、端的に居場所を伝える。
「場所は、遊水地区の『あ』ブロックです」
「こちらでもコノハの位置はトレースしているからそこは大丈夫だけど、ありがとう。五分くらいで向かわせる。」
そう言って、電話は切られた。
蓉子はコノハを安心させるように努めて明るい声を出して気遣う。
「五分くらいでお迎えがくるって」
「ありがとうございます。でも、せっかくのお出かけなのに残念です」
コノハはどこか寂し気に微笑んだ。それから、ポシェットから小型のコンパクトカメラを取り出す。
「これ、テッレさんが持たせてくれたんですよ」
お気に入りです。そう言って、柔らかそうな五本の指で、丁寧にアンティークなボディをゆっくりと撫でる。
「へぇ、好きな景色を撮ってくるといいわよって」
カメラに詳しくない蓉子でも一度か二度聞いたことのあるそれはいわゆるフィルムカメラというやつだと思う。
かつて、一つだけ持っているPENTAXのモデルとは異なり、機体背面にデジタルモニタがついていない。
テッレさんの私物だろうか、そんな疑問符を浮かべながらコノハに問いかける。
「それって、フィルムカメラ?」
「はい。ライカというそうです」
聞いたことのないカメラメーカーだった。古いメーカーなのだろう。
アンティーク調で整えられた画面はいくつかの傷がつきつつも大切にメンテナンスされてきたことが伺われる。
もしかしたら、テッレさんのお父さんのものだったりするのかもしれない。
「一枚だけ、記念に撮ってみる?」
辺りにはいつのまにか、人影もほとんどなくなっていた。
まだお迎えが来るまでに少しの猶予はあるはずだと踏んで、コノハに提案する。
彼女はちょっとおどろいたような表情を見せて、それから力強く何度も頷いた。
子犬みたい。自分では飼ったことがないのに、そんなことを思う。
「じゃあ、一緒に撮ろうか」
彼女から操作方法を教わってから車椅子のコノハの顔の隣に、屈んで顔を近づけた。
傘はコノハに持ってもらい、蓉子は腕を限界まで伸ばして二人がファインダーをにおさまるように向ける。
「3,2,1……はい、チーズ」
カシャリと小さな音が聞こえる。
デジタルカメラと違ってその場ですぐに撮った写真を見る事ができないのは不便だなと思う。
それを彼女に伝える。
「でも、帰った後の楽しみが一つ増えるじゃないですか」
それはそうかもしれませんけど、と前置きを置いて少女のようなあどけない表情を浮かべる。
とても自然で、感情の発露というタイトルをつけて写真におさめたい。そんな、笑顔だった。
「たしかに、そうかも」
自然と自分の口角が上がっているのが蓉子にはわかった。
だからか、言葉も意図せずして出ていた。
「奥村さん。大丈夫ですか」
ちょうどタイミングがいいのか、悪いのか。
開發さんがよこしたのだろう迎えの男女が四名、蓉子たちの方へかけてくるのが見えた。
どこか名残惜しい時間に、内心で別れを告げて蓉子は彼らに答える。
「はい、大丈夫です」
それから、こちらに急ぎ近づいてくるスタッフが到着する前にコノハの耳に顔を寄せて小声で蓉子は言った。
「帰ったらテッレさんと三人で、見ようね」
はい、とコノハも小声で答えてくれたのと前後して、彼らが到着する。
先ほどの四人の中で唯一の女性が持っていたレインコートをコノハに着せるのを蓉子は手伝った。
その後は、傘で厳重にガードされながら一番近い出口へと向かった。
出口から出ると、大型のバンが用意されていて、後部から車いすごとコノハを収容する。
「我々は別の車なので、奥村さんは助手席へどうぞ」
迎えに来てくれた男性の内の一人がそう挨拶して、どこかへ去っていく。
もう一台の車があるのだろう。
助手席に乗り込むと、運転席には開發さんが座っていた。早速、後部座席から乗り込んだコノハと会話している。
「コノハ、セルフメディカルチェックの結果はどうかな」
「自己診断プログラムでは浸水箇所は0です」
「それはよかった。奥村さんもお疲れ様」
温かいココアくらいしかないけど、助手席のドリンクホルダーの所にいれてあるから飲むといいとそう言って、緩やかに車を発進させる。
助手席にはブランケットも用意してあった。
「ありがとうございます」
蓉子はお礼を言って、ココアを飲み、ブランケットで身をくるみながら会社までのしばしの道のりを眺めながら過去に思いを馳せていた。
優し気に気づかうような様子を開發さんは見せているが、蓉子の中では明確に今日の実験は失敗だった。
雨が降った事は仕方ないにしても、蓉子がもう少しレインコートなどの準備をしていたら、リスクをもっと防げたかもしれないからだ。
どうしようもない事由で頓挫するという事象に福岡と今が少しだけ重なる。
蓉子は一年前からつい最近まで、福岡にある大手小売業の次の三十年を見据えた次世代計画策定の検討メンバとしてプロジェクトにアサインされていた。
今回と同じように当初は意気揚々と仕事に取り組んでいたものの、それが変化した主要因は配属された居心地のいいやりがいのあるチームがとある切っ掛けで解散になった為だ。
配属当時を振り返ると、福岡で展開していたプロジェクトは四つのチームに分かれていた。
蓉子はその中でも業務プロセス改革という大きなチームに参画した。二つのサブチームを持っていて、蓉子が所属していたのは店舗チームだった。
もうひとつ、本部チームもあったもののそちらは専門性の高い人たちが戦うチームだったので希望を聞かれた際には遠慮することにした為だ。
結果として蓉子は業務プロセス改革チームの店舗班に配属されたが、与えられる担当範囲は意外に広かった。
これはスーパーにしろ、コンビニにしろただ客側として買い物にいくだけではわからない仕組みが裏で相当に張り巡らされている事を意味するのだろうと、当時の蓉子は興味深く思ったものだった。
そこで検討される施策は大きなテーマ毎に担当者が割り振られて、調査に取り組むことになる。分かりやすいテーマにはいわゆる食品ロス減少というものもあった。
蓉子とは別の人間が担当したそのテーマでは、例えばこんな対応案が打ち出されたりする。需要予測モデルを導入しての品揃えの最適化案や、スマートスピーカーを利用したスーパーの惣菜を作るセントラルキッチンの調理効率化による調理失敗回避といったものだ。
蓉子の感覚からするとこまごまとした地に足のついた仕事を積み重ねていくので馴染みやすかった。
ちなみに日本は国民一人当たりで、一日お茶碗のご飯一杯分を捨てているというデータがあるようで、飽食の国だと諸外国から言われているそうだ。
だから、会社的にもCSRやSDGSに貢献しているというアピールが必要ということなのだろうと蓉子は理解している。
地に足のついた仕事をしたいと思ったのは、社会人経験を積む中で思った事だった。他のプロジェクトで仕事の才能に秀でた人の実力の高さや頭の回転の良さを知った蓉子は壮大な絵図を描いて何かを改革していくようなことよりも、こつこつと仕事の成果を積み上げていく方が向いているなと自分の向かう方向性を定めていた。
そういった話を面談時にしたためか、福岡での最初の仕事はソーシャルBPRというものを主に担当することになった。
要するに買い物をするなら、福岡のこのスーパーで買うというような熱烈
なファンーいわゆるロイヤルカスタマーと呼ぶらしい顧客を増やしていくための施策の検討である。
そういう仕事を任されたこともあり、蓉子自身が実際にお客さんと日々接しているパートやアルバイトの従業員にヒアリングをする機会も多かった。
蓉子自身、インタビューは張り切っていたことを覚えている。
そもそも、蓉子たちがクライアントにしていた企業は既にモバイルアプリからネットスーパーへの注文が可能な仕組みを持っていた。
様々なチャネル――物理店舗やECサイト、はたまたスマートフォンのアプリケーションを経由して買い物をできることをオムニチャネル化というという事を当時蓉子は学んだ。
だから、物理店舗のほかに、アプリを利用していかにロイヤルカスタマーへ育てていくのか、どういう条件を満たすとロイヤルカスタマーへ成長するのかといった分析をすることも蓉子に任された最初の仕事だった。
さらに蓉子の当時の上司である茂木はその分析結果から、施策はなにかという検討を行うところまで蓉子を丁寧に指導してくれた。
蓉子はまずお買い得商品やおすすめレシピのアプリ内情報発信という切り口を一つ目の施策として挙げた。上司は、細かいところまで確認したあと誰がそれを出すのかというところに注目するといいというアドバイスを蓉子に与えた。
蓉子の案は、複数回の検討の結果、商圏毎に著名なお料理教室の先生やカルチャースクールのマナー講師の方からの発信という施策に洗練された。
そのほかにも、携帯の位置情報システムと連動させたセール売場付近にいる人に贈られるシークレットクーポン発行、アプリに登録されているお客様の住所情報の密集具合を基に潜在的な顧客の掘り起こしを行うためのチラシ頒布アルゴリズムの提案を行なっている。
蓉子は当時、チームの上司だった茂木さんのサポートの下、いろいろな施策をとりまとめ提案するという経験を積ませてもらったことには今でも感謝していた。
けれど、そのチームは解散になった。
原因はお客さんの上層部の汚職スキャンダルだった。結果として、上層部は大きく変更になり、蓉子たちの関わっていたプロジェクトは解散になる。
その先は、配置変更で同じお客さんの別プロジェクトの敗残処理のようなものを開發さん達の元にくるまではしていた。
チームが解散して無くなる最終日、蓉子はフィードバック面談の中で茂木さんに聞いたことがある。
「私がもう少し早く施策をまとめていれば、チームは解散にならずに済みましたか?」
「そんなことはない。僕たちの力の無さとクライアントの事情だから」
解散になったことによる様々な手続きによってげっそりとした茂木は力なく首を振って蓉子に答えた。
蓉子が聞いたのには訳があった。チームの中で一番の若手だった蓉子はそれでも積極的に仕事をしていきたくて、多めに分担範囲を求めていたからだ。
結果、スケジュール通りに成果物を提出出来たものの、内々で茂木達プロジェクトのお偉方が計画していた一部調査結果だけでも投資資金を先行承認してもらうプランが崩れたらしいという噂を聞いたからだ。
茂木さん達はクライアントの不穏な様子を察知していた節があるようで、蓉子たちの店舗チームが全体的にはスケジュールを前倒ししているので、なんとかそこだけでも滑り込ませて実現させたいという思いがあったようなのだ。
もちろん、茂木さんの口から明確に言われたわけではない。
回想から現実に戻り、ちらりと見た開發さんの横顔はかつての茂木さんと同じようにどこか疲れたように蓉子には見えた。
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