第2話 不意の出会い
「お客さん。そろそろ駅ですけど、どこに止めます?」
蓉子が少しうとうとしていると、タクシーの運転手からの声かけがあった。
少し寝入ってしまっていたことにはっとして背筋を伸ばしながら、車窓越しに周囲を見回す。
気づけばもう蓉子のマンションのある最寄り駅の近くまで来ていたらしい。
駅のロータリーのところで、大丈夫です。そう蓉子は答えて、財布からカードを取り出しながら運転手に告げる。
「iD決済でお願いします」
支払い方法について、予め伝えてから座席の背もたれに寄りかかる。
蓉子が座っているのは後部座席の左側で、ちょうど運転手と対角線になる。
ふと、目線の先に車載モニターがあることに気づいた。
福岡のプロジェクトでデジタル化チームが、映像認識で顧客動線の分析をやろうとしていたなということを思い出しながら、蓉子はしばらくモニタをながめる。
後部座席に座った人が女性か男性か、眼鏡をかけているかどうか、老人か若者か。
そういった属性情報を認識して、その特性に合わせたCMを流す仕組みという話だ。今現在、蓉子の顔が認識された結果としては、化粧品や営業ツールについてのCMが流れている。いわゆるデパートコスメの中でも国内メーカーのそれが流されていた。おおよそ、二十代後半から三十代くらいがターゲット層のブランドだった。
マスクをしていても、きちんとタクシーの車載モニターについた顔認証システムは、目元のラインか、あるいは顔の輪郭や髪型などで蓉子を働き盛りの女性と判定しているらしい。
「この辺でいいですかね」
運転手がロータリー付近の一角に止めていいか提案してきてくれたので、そこで大丈夫という旨を返答して止めてもらう。
先ほどまでCMが流れていた車載モニターが支払モードに切り替わる。決済手段として、iDを選択してモニタの端についた読み取り機にカードを当てて、聞きなれた電子音がなり次第、運転手から領収書をもらって速やかに降車する。
勝手知ったる駅のロータリーは二十四時をすでに大きく回っているというのに、人と光に満ちていた。
少しだけ騒々しく、どこかほっとする人の営みだと蓉子は思う。
そのままコンビニエンスストアでルイボスティーのミニボトルを購入し、少し乾いている喉を潤すと、有名な英国ブランドのクラシックなスーツケースを転がして歩き出す。
蓉子が思うに、この子は一方向にしか動かないというキャリーケースとしてはある種の欠陥なんじゃないかというほどの制約があるが、デザインがかわいいので愛用している。
購入する為に、とある百貨店の銀座店に訪れた際、高級感溢れるオーラをもつ店の雰囲気に少し緊張していたのは、末代までの秘密だ。
そんなことを考えていると、蓉子の住むマンションが見えてくる。
荷解きから洗濯までの手順をぼんやりと頭に思い浮かべて、エントランスに入る。
タイミングがいいのか、悪いのか先人がいた。ジャケットを着た男性で、年は蓉子より少し上くらいだろうか。
なにより目を惹いたのは、高級スーパーのダークグレーのビニール袋からはこぼれんばかりの生乳ヨーグルトパックがはみ出ている所だった。
ちらりとその様子を見てとった後は、無作法だから見ないようにしようとモバイル端末で社内のメールチェックをする。幸い、これといったメールは届いていなかった。
そうこうしていると、エレベーターがついて前に並んでいた男性が歩き出す。
その動きにつられ、歩き出そうとすると気づく。
男性の持っているビニール袋、そこから危ういバランスを保っていたヨーグルトが一パックまさに零れ落ちるところだった。
スーツケースの取っ手を離して、とっさに手を伸ばして地面に落ちる前にそのパックをキャッチする。
我ながら、よく反応できたなと思いつつ蓉子は男性に声をかけた。
「あのー。あの、すみません」
エレベーターに乗ってから、自分の階のボタンを押すと携帯に目をやって何かに没頭し始めた男性は今気づいたとでもいうように蓉子の方を振り向く。
「え、あー僕ですか?」
ふにゃりと、最低限の力だけ割いてこちらへ意識を傾けたような反応。
もう一声かなと蓉子は内心思い、再度声をかけながら、手に持ったパックを差し出す。
「ヨーグルト落としてます!」
重ねて要件を告げても、初めの一瞬、その人は何を言っているのかわからないという表情を浮かべる。
それから、蓉子の顔へ、次に蓉子の持っているヨーグルトパックへ視線が動き、また戻り、なるほどと呑気に言った。
「すみません、ありがとうございます」
くしゃっと笑った表情とでもいうのだろうか。お礼と共に差し伸べられた手に、ぽんとパックをひとつ置く。
さっきは顔が見えなかったので、後ろ姿から私よりすこし年上くらいかなと思っていたが、年齢に関してはもう少し上、三十代前半だろうか。
お顔の方もなかなか整っているようだ。
目の保養になる顔だなと内心思いながらどういたしましてと余所行きの笑顔を張り付けて受け答えをする。
この男性の笑顔は疲れ切った一日の終わりのご褒美としては十分な報酬だよねと、満足感を覚えて、蓉子はパックを手渡しながらエレベータに乗った。
「何階ですか?」
穏やかな問いかけにスムーズに返す。蓉子はエレベーターでは男性と二人になるべくならないように気を付けているけれど、この人に対してはあまり警戒感が仕事をしなかったようだ。
「七階です」
階層ボタンの方へ視線を遣ると、八階も点灯していた。
意外とご近所さんだったんだなとどこかで思いながら、七階についたのでボタンを押してもらったお礼を言って降りる。
「よい週末を」
降り際、背中にかけられた言葉に少し振り返って会釈を返す。ぎりぎり相手に認識されるかされないかというところで、ゆるりとエレベータの扉は閉まっていった。
終わりよければ、いい一日かな。蓉子はそんなことを思いつつ、会釈を返しながらすでに閉まったエレベーターの扉を少しだけ眺めた。
勿論、これから訪れる一週間分の掃除・洗濯を頭の隅に追いやって。
「さって、がんばりますか」
それから、声を出しながら気合を入れ、部屋へと戻る。
その後、眠気と戦いながら洗濯と掃除をとてもがんばったのは余談だろうと蓉子は思った。
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