本編

第1話 転属へのカウント

 起きてから、いつの間にか寝入っていたことに気づいたような。そんな寝覚めだった。

 飛行機が着陸する前、高度を下げることで生じるほんのわずかな気圧の変化。

 それに反応して起きたのだろうか。

 前日の夜に東ドイツ冷戦下の映画をホテルの部屋で見たせいか、寝入り初めはあまりよい夢ではなかったように思う。

 ただ、少しだけ幸せな終わり方をする映画だった。


 福岡から東京へと戻る便の中で、奥村蓉子は起き抜けの頭で呼気を整えた。

 機体が積乱雲の中を通り抜けているせいか、ガタガタと震えはじめる中で、間もなくANA 272便が羽田空港に到着するというアナウンスが入った。

 整った女性の声を聴きながら、ずり落ちた青いブランケットを引き戻す。それから眠気を吹き流すように口元に片手をあてて小さく欠伸をする。

 出張帰りの飛行機で上手く眠れなかったのは久しぶりだなと蓉子は思う。

 いつもは足をぐんと伸ばしても問題無いバルクヘッド席――足元が広いというメリットがうれしい最前列の席を狙って予約していたからだ。

 それが、今日に限ってはフライトを一本遅らせざるをえなかった為に、機体後方の座席で少し圧迫感を感じながら身を委ねている。


 意識がしゃっきりとしてきたこともあって、この状況に至るまでの経緯が脳裏に蘇ってくる。

 思い出すと共に、お腹の底にたまるやるせなさと怒りが混ざった感情がふつふつと煮立つのを自覚した。

 そもそも蓉子の移動が遅れたのは出張先のオフィスを出るちょうど十分前にボスから仰せつかった仕事の為だった。

 帰ろうとした矢先にすぐには終わらないような仕事を渡される。社会人の義務といわれればそれまでのことだろうけれど。

 どこか疲れたものを感じながら蓉子は思う。

 仕事を渡される側にも当然の事ながら、感情というものがあるのだ。

 しかも、もう週末はすぐそこだった。出張からいざ帰ろうとする矢先の話ということも併せて蓉子のテンションを大きく押し下げることになった。

 果たして蓉子の間が悪かったのか、はたまた上司の段取りが悪いのか、あるいは緊急の仕事なのか聞いてもバチはあたらないと蓉子は思う。

 表面上は笑顔で受け答えをしながら遠回しに話を聞くと、どうやら最後が当たりのようだった。

 内心の拭いきれないダークな感情を押し隠して、なんとかその仕事を終わらせた後、有無を言わさぬ満面の笑顔で上司に提出、流れるようにオフィスを出て今に至る。


 ポーンと耳に心地いい最終着陸前のアナウンスの始まりを聴きながら少し伸びをする。

 肌も心も渇いているなと思いながら、私と同じように潤いとぬくもりを両方ともなくしたホットアイマスクを外す。

 このプロジェクトに入る前、銀座かねまつで購入したお気に入りの青いパンプスを履く。つま先とかかと以外のシースルー部分に白い花があしらわれたものだ。

 すでに意識はしゃっきりとしていた。それにぐっすりと眠ったおかげか、目だけはうるうるだった。

 蓉子は移動日の服装は比較的抜け感のある服装でビジネス感を出さないようにしている。今日はストライプのVネックロングスリーブシャツにハイウエストでクロップド丈のフレアーワイドパンツをあわせていた。トップスは淡いサックスブルーで、ボトムスはロイヤルブルーと黒のチェック地のものだ。

 きれい目系の青を基調としたコーデをしているのは今乗っている航空会社が青をコーポレートカラーにしているからという多少の遊び心もあった。


 蓉子は利用したことがわかるようにブランケットをばっさり目に折りたたんだり、ハンドクリームで乾燥し始めている肌を潤わせた。

 そんな飛行機をおりる為の一連の準備動作を行いながら、これからの予定を脳裏で反芻する。

 いつも利用する高速バスはこの時間に走っていない。

 京急で品川まで出てそれから在来線乗り継ぎかな。蓉子の住む広尾までは、羽田空港からだと多少の乗り換えが必要だった。

 そんなことを考えながら、蓉子は荷物棚から機内持ち込みサイズのグローブトロッター製のスーツケースを降ろし、飛行機のドアが開くのを待つ。


 女子大の国立大学を卒業した後、蓉子が就職先に選んだのは総合コンサルティングファームだった。

 大学院進学を教授から勧められたものの、社会にひとまずは出てみようと思ったのは総合商社勤めで誇りをもって仕事をしている父の影響もあるだろうかと蓉子は考えている。


 初めにやった事といえば、大学が推奨している女性の働きやすい会社リストを眺めることだった。

 基本的にそのリストの中から選んで、エントリーシートを送った記憶が蓉子にはある。

 それから選考を受ける前には、大学の就活講座に通った他、従妹が利用したという新卒活動用のエージェントを活用したりもした。


 その年の就職活動、いわゆる就活は売り手市場でもなく買い手市場とも呼ばれないどっちつかずな景況感が漂っていた事を覚えている。


 買い手市場ではなかったお陰か。グループディスカッションでは失敗したなと自己反省した企業にあれよあれよという間に受かり、いつの間にか内々定を得ていた。


 蓉子は顔のUIのレベルが高い上で使い勝手がいいというか、親しみやすいよ。だから、もう少し自分に自身を持って就活に励めばいいと思う。

 帰国子女でトリリンガルな仲の良い友人の談だ。その友人は、知り合った当時の派手な見た目を就活時期にはすっぱりと黒髪の真面目そうな雰囲気に切り替えて、今では総務省に勤めている。

 扉が開いたので蓉子はそこで思考を打ち切って、ダウンテンポの音楽と共に到着ロビーへひたすらに長い道のりを歩きだす。

 夜遅い為か、乗客の降機の流れもいつもより気持ち早い。


 歩きながら、帰ったらかなり遅くなるなぁと再び現実が立ちはだかってくる。

 結局、蓉子は就職活動は初めての内定をいただいた後も、もう少しだけ続けてメーカーなどいくつかの内定を得たものの、最初に縁をもらった会社に就職して今年で三年目になる。

 流石に三年ともなると社内の仕組みにも慣れ、仕事の進め方も慣れた頃合いだ。

 そうなると、同世代で進学を選んだ修士や博士といった大学院の同年代や、社会人になっても学生時代から付き合い続けた知人が結婚というライフイベントを往々にして迎えたりする。

 結果、友人知人、先輩後輩、はたまた従妹からの招待状のラッシュが発生し毎週毎週お祝儀にドレスに靴にとてんやわんやになる。

 インターネットのマナーサイトやマナー本、あるいは友人たちに聞きつつ準備をしていても、細かなところで母のアドバイスは的確だった。

 蓉子がなんとか御法度を犯さずに数多くのお祝いの場を乗り越えられたのは、まさに母の熟練の経験のお陰だと思う。

 不幸が重なるという慣用句があるけれど、現実には幸福というものも重なるときは重なるもので。


 交友関係が重なっている人たちの祝儀が一時期に集中していた為、被らないようパーティドレスを何着も新調し、慣れない靴を履きながら表参道のチャペルや横浜の迎賓館、神保町の学士会館など東京や横浜の各地を転戦したのが去年だった。

 週末はほとんどそういう記憶しかない。

 家に帰ったら、くたくたで化粧を落とさずに寝そうになって母に注意されたことも二桁に上る。

 そのかいあってか、図らずも三大式場と呼ばれる目黒の雅叙園、目白の椿山荘、白金台の八芳園は制覇してしまった。

 式場について概ね主要な所だったら招待されても、地図で困らない自負だけはできたのが副産物だろうか。蓉子自身に結婚願望というのはあまりなかった為だ。


 そういえば、椿山荘は高校一年生の頃に受けたレストランマナーの講座でも会場だったな。

 とりとめのない考え事をしながらも無意識に歩き続ける足は、到着ロビーのある階層から地下改札階へお気に入りのグローブトロッターと共に、蓉子を運んでくれる。

 機内持ち込みサイズで揃えている為、預け荷物はない。

 そのまま交通系ICカードをかざして改札を通り、京急線に乗り込む。端っこの席を確保し、一息つくとどっと疲れが押し寄せてきた。

 毎週月曜から木曜まで、この福岡出張は既に約一年間にわたり続いている。

 初めは息抜きがてらに天神でラ―メンを食べたり、博多明太子ご飯を喜んで食べたりしたものだったけれど。そもそもあまり健啖家ではなかった蓉子は一か月もすると飽きてしまっていた。


 それに生活する場所やスケジュールの変化、慣れないベッド、航空機の乾燥した空気は、容赦なく二十代後半に差し掛かる蓉子自身のバイオリズムを狂わせてやまないのだ。

 二ヵ月目くらいでは肌の吹き出物が止まらなくなって、必死でファンデーションで隠す苦労は並大抵のものではなかった。

 けれどそれも三か月目以降ともなると、手慣れたものでなんとか飼いならせるようになる。


 そういうこともあって、蓉子は東京にいた時と同じようなご飯を選び、夜は同僚と中洲やディナーにでかけるでもなくホテルの部屋にこもり、知人と連絡を取ったりして過ごすようになった。

 今週はプロジェクトの一区切りがもう少しでつくというタイミングだった。

 だからこそ、納品作業といういつもとは異なるタスクが発生し、急な依頼も飛んでくる。

 気づけば、疲労が身体のひどく深い所にまで蓄積していた。

 ボスから追加依頼をもらった時に、明日のバケ―ションを勝ち取っているので今日はとっておきのアロマキャンドルを焚こう。

 そんな事を蓉子が考えていると近隣のJRターミナル駅に流れ込んでいく。流石にここから追加で乗り換えをして帰るのは辛い。纏めていた荷物を持って、完全に停車する前に立ち上がり、ドアの方へと向かい始める。

 流れるように電車を降りて人の流れに沿ってエスカレーターに乗り込み、到着前にアプリからタクシーを呼んでいたので、そのまますぐに改札を出て乗り込んだ。

 自宅のマンションの最寄り駅を指示し、蓉子は目を瞑る。


 疲労が波のように押し寄せてきていた。

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