キスをすること
篠岡遼佳
キスをすること
とある放課後。
ボールを拾いながら、適当に部活の片付けをしていたら、いつのまにか体育館には、私と彼女だけになった。
今日は気温が低い。汗も冷えて、手先が冷たくなってきた。
「せんぱーい!」
後輩の
「道具の確認お願いしますー」
「うん、まあ、結生が最後にやったんなら大丈夫じゃない? ボールの数はさっき数えたからOK、ネットもポールもちゃんと片付いてるし、モップは……」
「そろそろ替えたいです。顧問に言っときます」
「一応顧問なんだからね、ちゃんと田中先生と言いなさいな……」
「はーい」
にこっと彼女は目を細める。彼女はよく笑う子なのだ。
誰よりも、私はそれを知っている。
「じゃ、鍵を閉めようか」
「……その前に、のぞみ先輩」
私の名前を呼んで、きゅ、と彼女の手が、私の手を握った。
はっとした私の隙を突いて、
「!」
彼女の唇が、私の唇に触れた。
呼吸を挟むような少し長いキスは、彼女の好きなものだ。
私もそれに応えて、恥ずかしいのを我慢しながら、彼女の体を抱きしめる。
――そう、我々は、つまり、付き合っているのである。
制服に着替えている間も、気は抜けない。
彼女は隙があると、さっきのようにすぐスキンシップを取りたがる。
そして、彼女はとても素早く、決断が早い。
スポーツをするものとしての素質は充分なのであるが、それを私に向けられると……。
彼女はじ~っと私の着替えを眺め、
「先輩って、どうしてなんでしょうね、どうも『触られたがってる』ようにしか見えないんです。えっちさんめ!」
「そんなことあるかい! 君が勝手に――」
「えい」
「うわわわわ」
こんな風にいきなり背中のホックを外したりする。
「やめなさいっ、誰か来たらどうすんの!」
「じゃれてるとしか思われないんじゃないでしょうか」
「くっ……」
その通りである。
下着を直しながら、じりじりと彼女と距離を取りつつセーラー服をかぶる。
それを見ると、彼女は片頬に手を当て、
「はぁ……先輩の制服姿ってほんと好きです」
「そ、そうなの……?」
「言いませんでしたっけ? 私、夏服から見える腕も好きですけど、冬服のうなじもたまらないって」
「どこのオッサンだ、君は」
「誰でもいいんじゃないですよ?
先輩のが好きなんですよ、先輩のことが」
「――――……」
「そうやってすぐ赤くなっちゃう、色白なところも好きですよ」
言って、彼女はあっという間に自分も制服に着替えた。
私たちはそして、更衣室の鍵を閉める。
その一瞬前に、頬に触れるキスをされる。
うーん、なんとも、されるがままでいいのだろうか……。
彼女との触れあいは、もちろん私も、とても、重要で、大切なものだと、思っているのだけれど……。
片手でスマホの天気予報を見ながら、私は言う。
とうぜん、もう片手は彼女の手とつながっている。
「明日は朝は氷点下になるそうだよ」
「うー、やめてほしいです、寒いの苦手です」
「君は寒がりだからね」
「迎えに来てくださいよー」
「いつも行ってるじゃないか」
「部屋まで来てください。そんであっためてくれたら、元気に学校行きます」
「うーん、どうしよう」
彼女の家庭は、ちょっと変わっている。
おとうさんはちょくちょく海外などに出張に行き、おかあさんもあまり居ないことが多い。家族仲が悪くはないところが、うちと違っていいところだけれど。
だから、というか、どういうわけか、いつの間にか私は彼女の家の鍵を持っていて、彼女のお世話のようなことをしている。時々、お泊まり会もする。
「あっためるって、なにすればいいの?」
「ナニをしてくれれば……」
「――……」
「あっ、すいません、気軽な下ネタが嫌いなことは知ってます、すいません」
「じゃ、なにがいい?」
「一緒にポタージュ飲みましょうよ。クノールのでいいです」
「わかった、朝ご飯用意するから、ちゃんと起きておいでよ」
「やった! うれしい!」
彼女が笑みを深める。
私と居る時はいつもそうだ。ずっと微笑んでくれている。
ときどき、そのあけっぴろげな愛情に、ちゃんと応えていられるか、心配になる。
「ねえ、進学先は決めたの?」
「うーん、先輩と一緒がいいです」
「私と違って、なんでも出来るんだから、ちゃんと選びなさいよ」
「えー、でも、先輩が文学部で出してる詩、私は好きですよ」
「ちょっ、こら、急にそういうこと言うな」
「――でも、先輩の詩は、とても寂しいなと思います」
じっと、彼女の目が私を見つめている。
濃い夕暮れの空の、薄明の光。
彼女は、私の書いた詩をそう言った。
正直ちょっとイマイチな家庭環境がそうさせるのか、私の書くものは、だいたい冷たいらしい。
彼女は続けた。
「先輩のことは、なんでも知りたいけれど、なんでも知ってることが愛ではないのです」
「――――」
『なんでも知ってることが愛ではない』
それは、私に強く響いた。
彼女は手を離して、代わりに、正面から両手で私の頬を包んだ。
「私は、先輩に、たくさん、いろんな愛をあげたい。
愛してるんだって、――信じさせたい」
どうしてこの子はこんなに大人なんだろうか。
なぜか胸が痛む。
涙が出そうになるから、どこかを向きたいけれど、彼女の両手は、私を捕らえたままだ。
「先輩、泣いてもいいんですよ。私が胸を貸しましょう。
だから、怒っても、笑っても、いいんですよ。
私が一緒に居ます。
ねえ、のぞみ先輩。大好きです。とてもとても、あなたが好きです」
触れていた手はするりと下がって、私のことを抱きしめてきた。
コートの感触の向こうに、確かに彼女の体があることを感じる。
いつか、「消えたい」と告げた手紙に、彼女はこう返した。
「いなくならないでください」と。
その言葉は、私に届き、私はまだ、ここに居る。
「結生……」
「はい、のぞみ先輩」
「いつも、ありがとう」
「いいえ、大したことないですよ。
先輩が、ここに居てくれる日を選ぶなら、私はその日を祝いましょう。
生きていくって、きっとそういうことです」
彼女がすり寄せてくる頬が、冷たくなった耳に触れる。
――私は彼女を抱きしめ返し、外だというのに、誰も居ないことも確かめず、強く、思いが届くように、キスをした。
愛というものが、彼女の言うように、いろんなかたちがあるのだとすれば。
付き合うというかたちも、きっと無数にあるに違いない。
私は、間違えずにいられるだろうか。
私は、彼女を守れるだろうか。
だから私は、強くならなければ。
少なくとも、明日に進むと毎日を選べるくらいには。
唇を離し、呼吸を戻したら、彼女は赤くなって視線を逸らした。
「じょ……じょうねつてきです……」
「たまには私も、そういうときがある」
「新たな一面です……」
「君のおかげだ」
おでこをこつん、とくっつけて、私は笑ってみる。
「私も君が好きだよ。結生が好きだ」
きっと、それは明日も、明後日も、いつか選ぶことになる、未来でも。
私たちはまた手を繋ぎ、歩いて行く。
夕暮れの先には明日が待っていると、知っている。
キスをすること 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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