(2)

「二人乗り、上手いんだね」


 公園を横切りながら、彼女が話しかけてきた。


「ああ、言っただろ。安心しろって」

「いや、意外だったな。こんな華奢な体なのにね」


 突然脇腹を指で二度、三度つつかれ、こそばさにハンドルがふらつく。自転車が左右に蛇行して、なんとか安定姿勢に戻る。


「やめろよ、こけたらどうするんだ」

「え、そうなっても頑張って庇ってくれるんじゃないの」

「どんな体の捻り方をすればいいんだ俺?」


 ごめんごめん、と屈託なく笑う声がする。流れる風の音に紛れながら、その声は、確かに識別できる。


 目の前に大通りが見える。小さな下り坂にスピードを乗せながら右へとハンドルを切っていく。綺麗な弧を描き、きちんと歩道の端の車止めと並走している。


「危なくない? 歩行者とか見てた?」

「ちゃんとミラー見てた」


 何度も通っている通学路だ。無意識のうちに、いつどこを見てどう動けばいいか、なんてことは判断できる。彼女に言われて、逆に、こんなことを無意識のうちにやっていたんだな、と思ったくらいだ。


「なんだ。ビックリしたよ」


 自分の常識は、他人の非常識。


「ごめんな」


 もう、と彼女がぷりぷりしている気配が伝わる。


「後ろに可憐な女の子がいるんだから、ちゃんと気を配ってよ」

「はいはい。自分で可憐とか言わない」

「思わないの」

「思うから言ってんだろ」


 バカ、と言われた。


 目の前のバス停には人が並んでいる。道路側の方が空いているので、直前の段差を下りる。今度は衝撃を少し気にしてみる。とたっ、と流れるように下りて、少し進んでから横断歩道の所で、たとっ、と上手に歩道に戻る。


「おお、上手」

「だろ、自転車歴十三年のベテランだぞ」

「そのうち何年が補助輪なのかな?」

「いや、一年半くらい、のはず」


 二年半って前に聞いたことあるよ、とケラケラ笑われる。うるさいな、と憮然とした表情になる。


 しばらく道なりに進む。コンビニ、塾、不動産屋、電気屋、スーパーと続く道で、特に歩みの遅いご老人や自転車にぶつからないように注意する。大通りの中央に続く、夕焼けに照り映えた街路樹の銀杏が、目に優しい。風で枝が揺れる度に、黄色い扇が一斉に仰ぎ出すように見える。


「綺麗だね」


 彼女も、そんな風景に目を奪われているのだろう。


「ああ、銀杏の黄色っていいよな。秋の終わりが寂しいものじゃなくなる」

「うん。黄色って、幸せの色だからね」


 彼女自身の実感だろうか、昔の映画の引用だろうか。だけど、それに関しては俺の意見も一致する。大通り、過ぎゆく車、夕映えのビル、そして銀杏の木。それは確かに幸せな安らぎを加えるワンポイントだ。


「ギンナンの臭いだけは、勘弁してほしいけどな」

「そうだよね、あれはホント嫌」


 そこに関しても、意見は一致した。


 進むにつれ人が増えてきているな、と感じていたが、駅の傍に差しかかるとさらに危険度は増していて、帰宅ラッシュのサラリーマンや学生がぞろぞろと歩いている。信号を渡るときには、仕方なく足で蹴り進めていく。


「頑張れー」


 後ろから無責任で楽しそうな声がかかる。まったく、という気持ちと、まんざらでもないな、という気持ちが混じる。声援を背に、じんわり進んで、再び大きく蹴り出すと風は再び二つに分かれていく。


 やがて川沿いの道に差しかかった。下の道通ろうよ、と提案されたので、途中で坂を下りて砂の道を行く。ざざっ、ざざっと車輪に砂が絡み感触が変わる。


「走りにくくない? 大丈夫?」


 彼女も少し心配になってきたようだ。提案した負い目もあるのかもしれない。


「この程度でどうこう言ってたら、二人乗り得意なんて言わねえよ」


 足に力を入れると、車体は安定する。さすが、と後ろから声がかかる。


 川面は穏やかに揺れて、光の一粒一粒を贅沢に飛び散らせている。走っていると、前から時々ランナーが通り過ぎていく。大学生も、高校の運動部員も、壮年男性も、主婦も、思い思いのペースで足を出していく。ここはランナーにとって絶好のコースなのだが、いつもより、通り過ぎていくランナーのスピードが遅いなと思った。


 逆だ。いつもよりこっちが遅い、と気付く。


 気付かないくらい、充足していた。イヤホンを片耳にさっさと通り過ぎていく道が、今日は長くて、だけどずっと短く感じる。


「川、キラキラしてる」

「いつもはこの辺り通らないんだっけ」

「うん。ちょっと遠回りだし」


 でも、いいな。


「水って、ずるいよね」

「どういうことだよ」

「ううん。あんまり意味はない」


 なんだよ、と笑ってしまう。彼女もつられて笑う。だけど、わからなくもない。その透明感も、光の弾き方も、最も身近なものの一つのはずなのに、最もこの星の神秘を感じる。


 そんなことを考えていると、強い風が前から吹き付ける。ハンドルは何とか保つが、体が一気に冷えて、くしゃみが出る。


「やっぱり、川沿いは寒いね」

「失敗だったかな」

「いや、こんな景色が見られるならプラスだよ」


 ぽんぽん、と背中を叩かれる。


「自転車だからこそ、なんだよね」

「は? 今度は意味があって言ってるよな?」


 もちろん、と彼女は少し誇らしげに言う。


「風を感じられる。気温を感じられる。通り過ぎる風景も、バイクや車ほど速くないからちゃんと目に焼き付けられる。一瞬を切り取るのに、一番いい乗り物だと思うんだ」


 一瞬を切り取る。


「でも、それって徒歩でも変わらないじゃん。スピードは別にして」

「こういうことができるでしょ」


 腰の周りに、腕が回される。生唾を飲み込む。顔が、少し火照る。


「自転車って、青春みたい」


 高校生という、あっという間の時間。この前入学したと思っていたのに、もう二年生の秋の終わりだ。駆け抜ける日々に、だけど、楽しいことも、悲しいことも、悔しいことも、嬉しいことも、ちゃんと存在して、その一瞬一瞬は、鮮明に思い出せる。きっと年をとっても、それぞれの瞬間の声や、温度感や、手触りや、そう言ったものは残していけると思う。


 確かに同じだ。走るよりかは速いスピードで、二人で笑う声も、肌寒い風も、腕の柔らかさも、ちゃんと大事にできるのかな、と思ったりする。


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