第2話 炎使いが二人

 

 翌日の朝。

 透子は教室の机に突っ伏していた。

 現実感が失われている気がする。昨日家に帰ったかどうかも夢の中のようだった。

「透子、どうしたの?」

「んあ……なんでもない」

 友達のちぐが話しかけてきても、心ここにあらずという様子だった。もう一人の友達のみっちが冗談めかして言った。

「好きな人が出来ました?」

「ほう?」

 ちぐの目が怪しく光った。

「違う……」

 話が面倒くさい方向へ行かないように、透子はすぐに答えた。

 その視線の先には優華がいた。彼女の席には男女それぞれ数名が輪になっていて、他愛もない話をしていた。その様子はとても楽しそうで、彼女だけでなく、周りにいる彼らも華やいでいるように見えた。

 華。優れた華。彼女の名前は、そのまま彼女を現している。透子はそう思った。

「桜川さんって、主人公だよね」

 唐突な独白に、ちぐとみっちが反応した。

「あー、桜川さんかー。 確かに主人公系だよね」

「美人で成績優秀で誰にでも優しい、みんなの理想みたいな人ですからね」

「もしかして、ぽやーんとしてたのってそのこと考えてたから?」

「……うん」

 実際に考えていたのは昨日の出来事なのだが、優華のことについて考えているのは嘘ではないので、透子はこくりとうなずいた。あれこれ衝撃的な放課後であったけれど、特に別れ際の出来事を透子はずっと反芻していた。


「白野さん」

 ファミレスで一通りの話が終わり、念のため途中まで透子と優華は一緒に帰っていた。そしてT字路でそれぞれの家に帰る道へ別れようとしたとき、優華が話しかけてきた

「わたしのお友達になってくれませんか?」

「え?」

「同じ秘密を共有する、お友達ですよ」

 優華は口の前に人差し指を一本突き出した、内緒話のポーズを取ってそういった。

「ほら、こんな出来事、他の人には話せないじゃないですか。 どう考えたってひどい作り話ですから」

「確かに」

「でも白野さんはわたしのことを知ってくれていますから。だから、今日みたいなことを話せるお友達となってくれません? オキッドも話し相手にはなりますけど、もうちょっと実務的なお話になっちゃうから」

(本当に卑怯だ!)

 困ったような顔でお願いをされて、透子はもう一度そう思った。

(この人に笑顔で正面からお願いされたら、一体誰が断れるんだろうか?)

 そうも思った。

「それくらいだったら、いつでも聞き手になれるよ、私でよければ」

 実際に、自分も断れなかったのだから。

「聞き手にしかなれないけどね」

 苦笑しながら透子はそう答えた。


「もしかして、羨ましいの? 桜川さんのこと」

「んや、そういうわけじゃないんだけどね。いや、あんなふうにみんなと仲良く話せるスキルとかは欲しいけど」

「彼女のスタイルはいらんかね」

 ちぐがそう言いながら、怪しげな手つきで透子の背中に手をかけた。透子はあいまいな笑いを浮かべながら言った。

「ちょっと欲しいかも」

 ようやく透子は慎ましやかな成長をした上半身を起こした。

 時間は八時四十五分。

「じゃ、またあとで」

「うん」

 登校が遅い生徒、朝練が長引いた生徒も続々と教室に入ってきている。ちぐとみっちも自分の席に戻って、HRと一時限目の準備を始めた。

 透子はもう一度ちらりと優華を見た。たまたま優華も透子を見ていた。にっこりと笑みを浮かべて優華は会釈した。透子もぎこちない表情で会釈を返した。

 いつの間にやら、隣の窓際席にも女子が座って準備をしていたし、教室は目の前の席を除いて次々と生徒で埋まっていった。

 八時五十分。

 教室後方の扉に先生が見えた。と同時に何かがすさまじい勢いで走ってくる音も聞こえてきた。駆ける音は教室前で止まり、男子がひとり転がり込んできた。

「あぶねえ! ギリセーフ!」

「アウトだ、馬鹿者」

 教室に転がり込んだ男子、赤井敬介の後頭部を、担任の橋染先生がバインダーを縦にして殴りつけた。ぐぇ、といううめき声とともに、敬介は後頭部を押さえてうずくまった。うずくまる敬介を気にすることなく、橋染先生は教卓に立った。

「赤井はさっさと席に着くように。 君たちも登校には余裕を持つこと。 毎度言っているが私が教室に入るまでに着席しているのがセーフだからな。 それではHRを始めるぞ」

 HRが始まり、あれこれ橋染先生が連絡事項を伝えている間に、よろよろとした動作で敬介が自分の席に着席した。彼の席は丁度透子のひとつ前だった。

「くっそ、あんにゃろう、いっつもいつも一撃食らわせなきゃ気がすまねえのかよ」

「文句を言う前に、君は落ち着きと余裕を持ったほうがいい」

 後頭部をさすりながら、敬介がぶちぶち愚痴を言う。それに対して隣席の野々宮が一言注文をつけている。

(家近いんだから遅刻しなけりゃいいのに)

 透子はそう思った。赤井敬介の自宅はひかりが丘高校から徒歩十分かからない。もう少し早く家を出れば間違いなく遅刻しないだろう。しかし現実には、彼は遅刻の常習犯であった。

(毎朝何やってんだろうね。多分体力づくりとかなんだろうけど)

 厚い背中を見ながら透子は思った。運動部の生徒に勝るとも劣らない広い背中だった。

 敬介の体力づくりのことに軽く思いを馳せていると、HRは終わって、皆一時限目の準備を始めていた。

「あ」

 がさごそと机の中を探っていた敬介が、何かに気が付いた声を上げた。

「……教科書持って帰っちまってた」

 敬介のぼやきに、透子は思わず頭を抱えた。彼が教科書類を机に置きっぱなしにしているのはよく見る(要するに予習復習していない)が、たまにはと一念発起でもしたのだろうか。肝心の授業で忘れていれば世話はなかった。

「やべぇ……最初の計算式は俺指定だったんだよな。どうするか?」

 この一言はもっと深刻だった。要するに持って帰って何もしなかった(勉強したのなら方程式の立て方ぐらいは覚えているだろう)ということだった。

(やっぱバカだろうこいつ)

 そう思ったが、このままさらし者になるのもなんというか、気が引けた。透子は教科書で軽く敬介の肩を叩く。何事かと振り向いた敬介に透子は言った。

「使う?」

「いいのか?」

「いいよ。でも最初のだけやったら返してね」

「オッケーオッケー! ありがとう白野!」

 敬介はぱらぱらと教科書をめくった。指定されていたページには透子の文字できっちり問題の計算式と回答が蛍光ペンで書かれていた。

「あ、これこうすりゃよかったのか!」

 などと言いながら、敬介は透子の教科書を見ながら感心していた。他のページもめくり始め、見るたびにほうだのへえだのと感嘆の声を上げていた。

(読むなら黙って読んでよ)

 別に間違ったことを書いているわけではないのだけれど、そう感心されつづけると気恥ずかしさが沸いてくる。

 数学の教師が教室に入ってきた。

「それでは授業を始めますよ」

 生徒が先生に一礼を行い、授業が始まる。そして最初に敬介が教科書の問題を解くように指定された。敬介は自信満々に白板前に立ち、数式を白板に書き出し始めた。


 そんな教室の様子を、数百メートルほど離れた、林の茂った高台から見ている男がいた。

 フードを目深に被り、その表情は窺い知れない。距離があるにも関わらず、彼には教室の様子がよく見えているようだった。

「何気ない光景ではあるが、得るものはあったな。せいぜい使わせてもらおう」

 意外と若い声がその口から発せられた。



 五限目までの日、まだ十四時半の放課後。

 透子はひとり歩いていた。目的は国道近くの焼き鳥屋、みかげ屋のコロッケである。ある日散歩の途中で買い食いした時に、その美味しさに、それ以後常連となっていた。なんで焼き鳥屋がコロッケを売っているのかは今持って不明だけれど、美味しいのは間違いないので一週間に二回は買いに行っている。通学路添いにあればいいのにな、といつも思いながら。

(たまには多く買って、家で食べるかな)

 と考えながら道を歩いていると、十五メートルほど先に男が立っているのが見えた。

 長いコートなのは11月下旬という季節からすれば普通だったが、表情が見えないほど深く被られたフードは不可解だった。その窺い知れないはずの目が、自分を睨んでいるように透子は感じた。

(……気のせいだ)

 透子はそう思いながら、つとめて普通に歩き続けた。昨日の出来事のせいで少し過敏になっているんだ。そう自分にいい聞かせながら普通にその男の横を通り過ぎようとした。

 男は動くことなくそこにいた。

 急に奇声を発して襲いかかってくるということもなく、コートをはだけて裸体を晒すわけでもなかった。

(ほら、やっぱり気のせいじゃないか)

 自分自身にツッコミを入れながら、透子は男の横を歩いて抜けた。本当に何もなかった。 そう思った。

「赤井敬介の女だな」

 男が唐突に言った。

 思いもよらぬ言葉に驚いて、透子は男の方を見た。

 赤井敬介がそこにいた。

 いや、髪の色が違った。彼の髪は一つの黒いところのない白髪だった。

 そこで透子の意識は途絶えた。

「はぎゅぅ!」

 奇声とともに透子の体が崩れ落ちる。

 男の拳が、透子のみぞおちに入っていた。



 おなかを締め付けられるような痛みで、透子は目を覚ました。

 透子は空中に吊られていた。

 腹にロープが雑に巻き付けられ、そのロープが天井のレールにつけられたフックを支点にして、床まで伸びていた。柱のひとつに、そのロープがやはり雑に巻き付けられている。

昔は工場か何かだったのだろう、コンクリートとトタンで出来た実用一点張りの建物だった。高い位置にある窓から外の様子が見えるのだが、林が建物を覆っている事しかわからなかった。

 透子には、赤井のような男から殴られたあとの記憶がない。

(もしかして、私、さらわれた?)

 そう思った。ようやく、自分が置かれている事態の深刻さに気が付いた。

「ぐぬぬぬぬ」

 痛みに身をよじりながら、ロープを抜けられるかを体で探った。両腕は拘束されてはいないのだが、雑なりにロープはきっちり巻き付けられており、透子が自分の力でほどくのは不可能に見えた。それに、万一意図せずロープがほどけた場合、かなりの高さから落ちる事になる。その場合起きる事を考えたくない程に、床からの高さがあった。

「あまり騒ぐな」

 空中でロープがきしむぎしぎしという音を立てながら透子が蠢いていると、床から声がした。その声には聞き覚えがあった。赤井敬介の声だった。だが、その声色に違和感があった。彼はもっと陽気に話すはずだった。

 透子は声の主を探した。柱の近くに、いつの間にか一人の男が立っていた。

さっき、透子を殴って気絶させた男だった。やはり赤井敬介によく似ている、いや、ほぼ同一であり、その髪は真っ新な白髪だった。

「安心しろ、お前を殺しはしない。お前はあいつをおびき寄せる餌だからな」

(なんかのドラマの台詞か?)

 あまりにテンプレートな台詞に、透子は思わず心中でつっこんだ。異常な状況下かつロープの食い込んだおなかがかなり痛いけれど、今の心中つっこみで少し落ち着きが出来た。丁寧語で透子は男に話しかけた。

「あのー……殺されないなら、いくつかよろしいでしょうか」

「どうした?」

「降ろしていただけますか?」

「ダメだ。赤井敬介がここに来るためにも、お前に逃げられては困る」

 透子のほうを見ることなく、建物の入口を見据えながら男が答えた。

「赤井くんに何か用なの?」

 透子は続けて男に問いかけた。なんとか状況を改善したかった。とにかくおなかが痛かった。

「ああ、俺はあいつを倒さなければならない」

「倒すって……それなら私はいらなくない?」

「いや、あいつの力を引き出すためにも、お前は必要だ。そして力を発揮したあいつを、俺が倒す」

「何故に? それに力を発揮するって……怒りのパワーで戦闘力百倍とか、そういうお話?」

「違う。始原の炎のことだ」

「はあ?」

 透子は怪訝な表情になった。なんというか、少年マンガに出てきそうな単語が大真面目に男の口から飛び出してきたことがおかしかった。

「赤井敬介は、お前に何も話していないのか?」

「何の話?」

 透子には、さっぱり判断がつかない。

「お前は、赤井敬介のなんなんだ? あいつの女ではないのか?」

(女ってそういう意味か)

 ようやく話がつながった気がした。この男は透子のことを、赤井敬介の特別な人間であると思い込んでいたのだ。

「いや、私は赤井くんの女、というか、彼女じゃないんだけど……ただのクラスメイトというか……」

 申し訳なさそうに透子が言った。本来申し訳なく思わなければいけないのは相手だろうと思いながら。

「なんだと……」

 気の抜けた声で男が透子に向き直った。唖然とした表情になっていた。表情と動作は、おいまじか、と言っているようだった。

「じゃあお前、なんだってあいつと仲が良いんだ。良い関係の異性をその性で呼ぶような関係ではないのか?」

「え、そんなに仲良く見える? 普段はあんま話もしないんだけど。席替えで前の席になったのも偶然だし……」

「本を貸していたではないか」

「あ、それは武士の情けというか……あのままだと赤井くん、確実に恥掻いたから……」

 男の顔は引きつっていた。言葉は発さなかったが、もし喋っていたら、まさかそんな、などという台詞を吐くに違いなかった。

 男と透子は、お互い、引きつった表情のまま、見つめあいをした。なんともしまりのない光景だった。

 その時、建物の入り口に影が差した。シューズが床を蹴る音を響かせて、少年が一人、建物に入ってきた。

「来たか、赤井敬介」

 男は透子から入り口に入ってきた敬介に視界を移した。声の調子は、最初、透子に応対したときと同じ、敬介に似ているがどこか冷たい声だった。

「ロト、生きてたんだな」

 敬介は黒のブレザー、同じ色のズボンという普通の出で立ちだった。両手に指貫グローブのようなものを填めているのが、普段と違う。学校ではあんなもの身に着けていなかったはずだった。

「生きているさ、お前から俺自身を取り戻すまではな」

(赤井くんが入ってきたから救われてるな、コイツ)

 透子はおそらくシリアスな表情を浮かべているロトとか呼ばれた男に内心ツッコミを入れた。ロトはコートのポケットに突っ込んでいた手を抜き出し、一見脱力しているような動きで敬介に向き合った。

「少し事情は変わったが、お前が来たのならそれでいい。ここで決着をつけてやる」

「その前に白野を放せ。ソイツは関係ない」

「そうはいかんね」

 ロトが手を払うような動作をした。瞬間、炎が生まれた。一文字に延びた炎が敬介を襲った。

「えええええっ!?」

 透子はすっとんきょうな声を上げた。

(ちょっと待て、なんだこれ!)

 昨日襲われた相手、助けてくれた人間とは明らかに別種の能力が彼女の前で使われた。小説、今風に言えばライトノベルなどでよく描写される、能力バトルのようだった。いや、多分能力バトルというものなのだろう。

 さらわれたことも非日常だったが、ここに来て昨日と同じように、しかし全く別種の超常現象に付き合うことになろうとは、透子は全く思っていなかった。

 炎は、男から入り口までの間を焼いていた。一見すると、敬介はその炎で焼き尽くされたように見えた。

「……戦いの腕もなまってはいなかったようだな」

「どうも!」

 声と同時に、入り口から炎の球が入り込んできた。直撃すれば焼き尽くされそうな熱を感じる。その火球をロトが右腕で払う。払われた火球は柱に衝突し、コンクリートの柱を焼いた。

 火球を振り払った隙をついて敬介が入り口から一直線に駆け込んできた。両手のグローブからは、ロトと同じように炎が噴き出している。走りながら振りかぶり、ロトに文字通り燃え盛る拳を叩き付けた。ロトは左手でその攻撃を受けた。ぎりぎりと、腕と腕が競り合った。

 急に敬介の身体がぶれた。

 瞬間、ロトの右手側から敬介の右拳が迫っていた。身体を回転させ手の甲で相手を打つ、裏拳と呼ばれる技だった。

 それをスウェーバックでかわし、ロトは大きく距離を取った。敬介も、同じようにバックステップし距離を取る。

「お前も、よくやるよ」

 ふふ、と小さくロトは笑った。

「嬉しいね。強い。それでこそオリジナル」

「そう呼ぶな。お前と俺は違うんだ。そういったはずだ。あの時も」

(なんぞなんぞ)

 飛び出てくる単語がどういう意味を持っているのかは不明だが、二人の関係がただならぬものであることは透子にも理解できた。中途半端なところから観始めたドラマの、佳境部分だけを見せられている気分だった。今のところ蚊帳の外にいるらしいことから、暢気に透子はそう思った。

「そういうわけにはいかないんだよ。お前から俺を手に入れない限りな。だから、少しは本気になってもらう!」

 ロトが手を、透子を縛り付けているロープに向けた。すると、柱にくくりつけられているロープの余り、床に雑にうっちゃってあったロープに火がついた。たちまち火は燃え上がった。

「ちょ、ちょ、ちょっと! 何するの!」

 透子はあわてて叫んだ。無理もなかった。このままロープがどこかで燃え尽きれば、透子の身体は地面に叩きつけられることになる。

「おい! ロト! 何してやがる」

「少しは本気を出してもらわなきゃな! それとも見捨てたっていいんだぞ」

「てめぇ!」

「助ける暇は与えねえぞ! 俺を殺さない限りな!」

 言うなり、ロトは右腕を鉤爪のようにして敬介に向けて振った。炎がその鉤爪の形となり、敬介を襲う。

 鉤爪攻撃をかわした敬介はどうにか燃えているロープへ近寄ろうとするが、それを遮るようにロトは攻撃を連続して仕掛けていた。そのため、敬介には透子に近づく機会がない。

(どうにかしないと死ぬ! 殺される!)

 地面での戦闘を見ながら透子は思った。事態の打開はロトとかいう男が負けるしかないのだけれど、敬介とロトの実力は透子の目からは互角に見えた。このままでは決着が着く前に自分が地面に叩きつけられかねない。

(あいつの気を一瞬でも逸らせないかな?)

 何か、それに使えるものはないか辺りを見回したが、天井近くに役に立つモノなど落ちているはずもなかった。

 が、透子は、投擲できるものが存在することに気が付いた。

(靴だ、靴を投げてやれ)

 うまく当てられれば、ロトの気を逸らすことができるだろう。そう思って、透子はもぞもぞと体を動かし始めた。宙吊りであるためまともな体勢は取れないが、なんとか右足の靴をつま先だけに引っ掛けた状態にすることに成功した。

 地面では二人の戦いが続いている。透子の救出を考える敬介が不利に見えたが、まだお互いに決定的なダメージは負っていない。ロトはちょうど、透子に背を向けていた。奇跡的なほど、当てやすいと思える位置だった。

(ていっ)

 口には出さないように気合を入れながら、透子は右足の靴を当てられるように足を振った。靴は綺麗な放物線を描いて、ロトの頭に向けて落ちていく。

 ロトは優位に立っていることを確信していた。十分な余裕を持ち、敬介に対峙している。両者とも体のあちこちに炎による火傷を負っているが、見た目のダメージは敬介のほうが大きいように見えた。

「強くなってんな、お前」

 敬介が忌々しそうに吐き捨てると、ロトは挑発するように大きく手を広げながら答える。

「どうした、本部を壊滅させたお前らしくもない。どうしてもっと力を……」

 ぽこっ。

 そんな軽い音が聞こえそうなほど軽く、透子が蹴り捨てた靴がロトの後頭部に当たった

「なっ!?」

 しかし『攻撃』を受けたことで、ロトは反射的に、存在するはずの攻撃者を確認しようと背後に振り向いてしまった。ダメージ量を考えれば、奇襲でこの程度のダメージしか与えられない力など無視してしまえばよかった。背後から何かをされたとき、反射的にそれを確認しない人間がいるとすれば、だが。

 振り向いても当然そこには誰もいない。視界の上端に天井が移り、人質がいることを改めて思い返した。

 その隙は致命的だった。

 敬介に振り向き直ったとき、すでに敬介はロトの目の前にいた。

「発!」

 気合一閃とともに、敬介はロトに体当たりを仕掛けていた。右足を思い切り踏み込み、背中全体をぶつける。靠と呼ばれる、中国拳法の体当たりだった。

「ぬがっ!」

 まともに敬介の体当たりを食らったロトは大きく吹き飛ばされ、地面に転がった。その様を確認することなく、敬介は手刀を作り透子を結ぶロープに振り上げた。

 炎がその手刀に沿って走り、透子を結んでいるロープをほとんど一瞬で切断した。

「へ?」

 透子は気の抜けた声を上げた。柱に結び付けられ透子を支えていたロープはその力を失い、そのまま透子は地面に向けて落ちていった。

「うっひゃあああああああああああ!」

 絶叫を上げる透子を、真下で敬介がキャッチする。敬介は透子をかばうように床を転がりまわり、着地の衝撃を弱めた。透子には目立つ傷はない。

「大丈夫か、白野?」

「バカ! 死ぬと思っただろ!」

 敬介の気遣いに対して、透子は涙目で怒声を張り上げながら答えた。

「悪い。でも、普通にロープをほどいてたらアイツにやられてたからな」

 そういった敬介の視線の先にはロトが立っていた。傍から見ても異常な、口角を極限まで上げた笑みを浮かべていた。その目に宿っているのは、憎悪か、歓喜か。

「赤井敬介!」

 ロトが吼えた。答えるように敬介は透子の前に出る。軽く透子を縛っているロープに触れた。ロープははらりと透子のお腹から落ちた。透子を縛っていた部分の一部が焼き切れていた。

「白野、逃げろ。道なりに進めば帰れる」

「わかった」

 透子は頷くと、そろそろと入り口に向けて後ずさった。それを一瞥することもなく、ロトは敬介だけを見据えて歩き出す。敬介も、ロトに体を向けて、構えを取った。

「お前を倒すって、最初からそう言って俺の目の前に来てればよかったんだよ!」

「赤井敬介ぇ!」

 敬介とロトは互いに向かって走り出した。両腕には炎が纏われていた。

 透子は二人が走り出すのを見て、くるりと入り口に向きを変え、そして全力で走り出した。

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