第6話

 五十嵐のことが頭から離れないまま、梅雨が終わり、本格的な夏がやって来た。

 日本の夏はやはりつらい。しかし、日本で迎えた最初の夏とALTとして迎えた二度目の夏を比べると、後者の方がよっぽど居心地が良かった。単純に気温が低かったのかもしれないが、自分が少しずつ日本に慣れ、染まっているように感じた。英国人としてのアイデンティティーが、少しずつ失われていく気がしていた。わずか一年数ヶ月で、ここまで人間は変わってしまうのかと、少し恐ろしくなった。


 そんな夏の日、ちょっとした問題が起こった。その日、私は瀬川が顧問を務める弓道部の練習に参加していた。いかにも日本的な武道には大学生のころから関心があったが、恥ずかしながら柔道と剣道しか知らなかった。弓と聞いた時、思い描いたのはアーチェリーだった。英国はアーチェリー発祥の地で、ポピュラーなスポーツだった。同じ「道」がつく他の競技に比べれば取っ付きやすいだろうと、瀬川に頼んで弓道部に入れてもらった。それがただの思い違いだと気づくまでに、さほど時間はかからなかった。

 瀬川は大学まで本格的に弓道を修めていたようで、ある流派の師範代を務めているという。自分と同い年の英国女性に対しても、瀬川はまったく容赦なかった。私は弓道場の端で一年生の生徒に混じって正座の仕方や弓を構える時の姿勢など、基礎トレーニングに明け暮れた。いつになったら弓矢を扱えるのかと瀬川に聞いても、「それはあなた次第よ」と言うばかりだった。


《It’s up to you!》「あなた次第」という言葉は両親がよく使っていた。クリスマスや誕生日などプレゼントをねだる時、両親はすぐには了解してくれなかった。学業成績や家事の手伝いの程度など、様々な項目で私は審査された。要件を満たしているかどうか探りを入れると、母親は決まって 《It’s up to you》 と言ってお茶を濁した。最終的には私の希望するおもちゃを買ってくれたのだが、母親のその言葉を聞くたびに現状では危ないのではないかと焦り、勉強や母親の手伝いを進んで行った。ケンブリッジ大学を問題なく卒業できたのも、そうした両親の脅しにも似た態度が私を鍛えてくれたのだろうと、今では感謝している。


 まさか、ロンドンから九千キロ以上も離れた東京で、自分と同じ年齢の女性に母親と同じ台詞で諭されるとは思わなかった。「しかし、一年生のあの子たちと違って、私はこの学校に一年しかいないんですよ。このままでは、弓を持てないまま任期が終わってしまいます」私は、評価の場を与えてくれるよう、必死に懇願した。

 瀬川はしばらく腕組みをして考えた後、「分かった。一週間後、試験をしよう。弓道の基本動作を最初から最後まで間違わずにできたら、実際に弓を引く練習をするということで」と言った。

 私は、そのことを切磋琢磨していた一年生たちに報告した。みんな喜んでくれた。その日から一週間、私は部活動の後も残って基本動作の習熟に時間を費やした。一年生のうちの何人かは練習に付き合ってくれた。本当に心の優しい子たちだった。


 私はめでたく試験を突破した。早速弓を持ち、学んだ動作で弦を引き、矢を射た。矢は狙っていた的の右隣の的に中った。恥ずかしいのと悔しいので、顔が熱くなるのを感じた。瀬川は私の肩を軽く叩き、再び「あなた次第よ」と言った。

 来る日も来る日も、私は弓道場に行き、時間の許す限り練習をした。瀬川や三年生の生徒を捕まえては、どこが悪いのかを点検してもらった。少しずつではあるが、十回に一回は的に中るほどに上達をしていた。

 弓道は柔道や剣道と同様、ただ己の肉体を鍛えるために行うものではない。重圧に打ち勝ち、何事にも動じない強い心の鍛錬にも役立つ。武道とは心身の相互作用をもって目指すべき自分の姿を追求する道なのだと思う。


 だからその日、一人の生徒が練習を途中で抜け出し、恋人と現を抜かしていたことが分かると、瀬川は怒髪天を衝くかのごとく、怒りを露にした。心を鍛えていたはずなのに、自分の欲求を押さえることができなかった女子生徒に対して、そしてそれを十分に伝えることができていなかった自分自身に対して、瀬川は怒っていた。

 最初は、急な体調不良による早退だとみんなが信じていた。しばらく保健室で休んでから帰るという女子生徒を、私は弓道場の出入り口まで見送った。


「中嶋さん、本当に大丈夫ですか。保健室まで一緒に行きますか」

「ううん。大丈夫です。サラ先生は練習に戻ってください。保健室に行くだけですから」

 中嶋は笑って私の申し出を断った。その時は、まさか彼女がそのまま何食わぬ顔で校門を出て、恋人との逢瀬を楽しんでいたとは、全く想像できなかった。

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