第5話

 私は学校に歩いて通っていた。三十分くらいかかるその距離が好ましかった。しかし中野から学校までの道のりは坂道との戦いでもあった。東京は関東平野の中心にあるにも関わらず、街中でも目を見張るような坂道が至るところにある。東京の地名には台や谷や川を含むものがたくさんあったが、そういう名前は大抵が地形をそのまま名乗っている場合が多いらしい。渋谷など、東京を代表する繁華街の一つなのに、駅から伸びている通りには「宮益坂」「道玄坂」と坂の名前が目立つ。最初のころは坂道を前にすると途端にやる気をそがれていたが、習慣というのは不思議なもので、続けているといつしか苦でなくなり、逆に坂道が通勤に必要な要素と感じるようになっていた。


 梅雨の季節になると、パステルカラーの長靴を履いて学校に行った。そのころ、行き帰りの道で脳裏に浮かんでいたのは、やはり五十嵐の横顔だった。

 六月上旬に一学期の中間試験の結果が張り出されたが、文系科目の上位には必ず五十嵐の名前があった。瀬川に頼んで他の教科の得点見せてもらった。数学や化学の点数も決して低くなかった。目を見張るのが国語と英語で、ほとんど満点に近い数字だった。「このくらいの得点なら、有名私大も楽勝だろうね」成績の一覧を眺めていると、感心のなさそうな声が上から降りてきた。

「そうなんですか?」私は得点表から顔を上げ、瀬川を仰ぎ見る。

「うん。隙がない感じ。知識も思考力も申し分ないし。私立高校にとって、有名大学への進学率は重要だからね。この先も頑張って貰わなくちゃだけど、まあいけるでしょう」

「本当にこれは彼の実力なのでしょうか」得点を順番に見ていった。九十点台がずらりと並んでいた。一番得点の低い化学でさえ八十点だった。理系の生徒の平均点よりも高い。いくら授業で学習した範囲とはいっても、授業中に脇見ばかりしている五十嵐に可能なこととは考えられなかった。


「五十嵐のこと疑ってるの? 不正行為はしてないよ。試験監督は私もしてたけど、そんな素振りはなかった」瀬川は首を横に振った。「去年まではね、疑っていた先生もいたんだけど。その先生、五十嵐を一番前に座らせて、横から少し離れてずっと監視してたんだって。でもあの子は涼しい顔をして、その試験で満点をとったの。五十嵐はペンだけでその先生の口を塞いだわけ」

「そんなことがあったんですね」

「そう。その一件があってから、五十嵐が疑われることはなくなった」

 だとしたら、どうして五十嵐は私の目を見てくれないのだろうかと、水たまりを踏みつけながら思った。私の授業の何が不満なのだろうか。いや、瀬川の授業でもそうなのだから、恐らくどの教科であっても同様の態度なのだろう。だとすれば、現代教育に対する不満なのか、あるいは学校という組織に対する抵抗なのか——。いずれにしても、このまま社会に出ることが五十嵐のためになるとは思えなかった。


 五十嵐のことをそれまで以上に意識するきっかけになったのは、仮定法の復習と、複数の慣用表現を扱った授業での一齣だった。

 日本語と英語の決定的な差は時制の感覚だ。日本語ではニュアンスや文脈で判断する部分を、英語では時制と助動詞の組み合わせで、ある程度明確に表現する必要がある。日本語の文章を一対一で英訳すると、教えている私も正誤の判断が難しく感じるほど、日本語と英語の文法大系は大きく異なる。最終的には感覚なのだが、それを伝えるのは至極難しい。仮定法の場合、主節と従属節の時制の選択を迫られる場面で、多くの生徒はパニックに陥った。ライティングは何とかなっても、口頭で解答を求めると、大抵の生徒はでたらめな表現をしてしまう。言語として身につけるためには教科書でいくら勉強していても限界があるのだろう。そのためにALTである私がいるのだが、多くの生徒は苦労している様子だった。

 しかし、五十嵐は違った。その日も案の定窓の外をぼんやりと眺めていた五十嵐に、私は不意打ちを仕掛けたつもりだった。


「五十嵐くん、問い五『彼が来ることを知っていれば、私はそこに行ったのに』を英語に訳してください」

「はい」五十嵐は返事をして立ち上がった。《If I had known he would be there, I would have gone》五十嵐はすらすらと言った。単に文法的に正しい言い方だったというだけではなく、イントネーションや単語と単語のつながりがネイティブのそれと遜色なかった。少なくとも、私の日本語よりも流暢に英語を話す雰囲気があった。

「あなた、そんなにできるんだから、もっとちゃんと私の授業を聞いてください」私は手を腰にあて、少々威圧的に英語でそのように言ったのだが、五十嵐が「すいません。ぼんやりとしていて。これからはちゃんとします」と英語で返してきたので、面食らった。言い返す言葉を探しているうちに、五十嵐は再び椅子に座った。


 ちゃんとすると言っていたのに、五分後には早くも関心を失ったのか、窓の外に視線を泳がしていた。その目は彼方に広がる曇天を眺めているようだったが、何故か悲しそうな表情をしていた。

 その日に見た五十嵐の横顔は頭の中にいつまでも残っていた。学校の行き帰りの道だけではなく、笹本の店でハンバーガーを食べている時も、買い物をしようと銀座をぶらぶらとしていた時も、電車に乗っていた時も、頭に浮かぶのは決まって悲しそうに外を眺める横顔だった。

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