第2話
数週間悩んだあげく、私は会社を辞め、会社の用意した小洒落たワンルームマンションを引き払い、中野にある小さなアパートで新生活を始めた。両親とは電話で大げんかをし、最終的には私の日本滞在を認めさせた。母は最後まで食い下がったが、父が私の代わりに母を説き伏せてくれた。
《Spare the rod and spoil the child》最後に父はそう言って、電話を切った。「可愛い子には旅をさせよ」と、父は静かにそう言ったのだ。当時既に三十歳間近の私に可愛いも可愛くないもないだろうが、寡黙な父としては精一杯の励ましであり、餞だったのだろう。
私は一旦イングランドに戻って日本におけるALTの資格を取り、四月から東京の高校で英語の教師として働き始めた。日本人は大人であっても子供であっても本当に礼儀正しく、それは私が外国人であったから尚更だろうが、生徒だけでなく同僚も私に対して非常に親切に、そして温かく接してくれた。
日本の高校生の英語力は、私が想像していたよりもずっと高かった。最初の授業で生徒に簡単な質問を英語でした時、彼らが《I can’t speak English》と口々に言うのが何より可笑しかった。それは、喋れているというのだと、私は何度も言った。大切なのは、自分が喋れるかどうかではなく、喋るかどうかなのだと。
ALTの在任期間は一年間だ。都道府県によって違うのかもしれないが、東京都ではそう決まっていた。私が赴任した高校は、都内では有名な私立の進学校だった。私はたくさんの生徒に触れたが、中でも印象に残っている男の子がいる。当時彼は高校二年生だった。印象に残っているというのは、活動的で社交的であったからではない。どちらかといえばその逆だった。授業を聞いているのかいないのか、時折窓の外を見ては小さく溜息をついているのを、私は気にしていた。
何回目かの授業の後、職員室に戻った私は一緒に授業を担当していた英語教師の瀬川に彼のことを聞いた。
「ああ、五十嵐でしょ。彼はいつもああなのよ」瀬川は私の質問に対して諦めにも似た表情で五十嵐のことを話した。彼女は私と同い年だった。小柄な瀬川は、いつも私を見上げるようにして話をする。大きな目が、スコットランドの羊を思わせた。日本人は羊のようだと揶揄されることがあるが、彼女の場合は容姿だけで、どちらかといえば牧羊犬に近い。思ったことははっきり言っていたし、英国人の私の方が恐縮してしまうほど、真っすぐな性格だった。
「彼は英語が苦手なのですか?」
「その逆。英語に限らず、文系科目は学年でもトップクラス」試験で目に見える成果を出している生徒に対して、授業態度をとやかく言うことはできないのよ、と続けた。「まあ、彼にしてみれば、学校の授業は退屈なのかも」教師としての役割を放棄するようなことを言うあたりが、瀬川らしかった。
「そうはいっても、あの態度では授業をしている私の方が気になります」教育者として生徒を先導するのが自身に課せられた使命であり、例え学業成績が優秀であっても、それでは五十嵐の為にならないのではないか、と。
私の言葉に、瀬川は肩をすくめた。
「サラは真面目だね。私たちの仕事は、生徒の成績を上げて、いい大学に合格させることなの。人格形成とか情操教育とか、綺麗ごとをいくつ並べたって、今の日本ではそれが一番大切なの。こんな風に不景気になったら尚更。勉強ができるっているのは立派な才能だし、それだけあの子も努力をしているってことなんだから、それをどうこう言う資格は私たち教師にはないよ」瀬川の発言は、高校教師としていかがなものかと思ったが、その理屈も間違ってはいないのだろう。学歴や家柄が将来を決定づける時代でもないが、それでも一定の価値はあるし、特に学力というのは本人の努力に帰結するであろうから、他人がとやかく言うべきことではないのかもしれない。
「しかし、あれでは卒業してからが心配です。今はまだ多くの大人の庇護があります。でも、大学に入れば彼はひとりぼっちになってしまいます」
「大学に入ってからのことなんて、それこそあの子が自分で決めることよ」瀬川はすっと立ち上がり、コーヒーサーバーからコーヒーを私と自分のカップに注いだ。「はい。あ、紅茶の方が良かった?」
それは英国人に対する偏見ですよ、と私は笑って言った。
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