第3話

 高校で英語を教えていた当時、私が足繁く通っていた街があった。下宿先の中野から電車を乗り継いで三十分ほどかかるその場所は、月島という名前だった。なぜ月の島なのか、私は未だに知らない。きっと島の形が月に似ていたからだろうと、勝手に納得している。

 神社仏閣に興味が湧いたのが日本文化に触れるきっかけだったのだが、いざ東京に住んでみると、都市の合理的で利便性の高い施設やサービスにすっかり骨抜きにされ、東京支社の仕事が忙しかったこともあって、来日から一年過ぎた頃にはすっかり興味が薄らいでいた。その代わり私を惹きつけたのが、同じ東京の中にあって、まるで時代に取り残されたような街並みや人々の暮らしが存在しているという事実だった。決して、経済的に恵まれない人が暮らす、いわゆるスラム街ではない。そこにも成熟した文化があり、それが世界を代表する大都会と隣り合わせで息づいているという事実に、私は大いに感動した。月島はもんじゃ焼きで全国的にも有名だが、私としては、グルメよりも街そのものに魅力を感じていた。


 駅から地上に上がり、一歩路地に入るだけで、まるでタイムスリップをしたように、一瞬にしてノスタルジックな雰囲気の街角に足を踏み入れることができた。人一人通るのがやっとの広さしかない生活道路を進むと、どうしてか喫茶店やもんじゃ焼き屋が点在している。私は時には一日中、街中をただただ歩いた。歩き疲れると、路地裏にある喫茶店に入って苦いコーヒーを飲んだ。紅茶はなぜか飲む気になれなかった。祖国の人が聞いたら怒るだろうが、東京で飲むコーヒーはロンドンで飲むそれとは全く違う味をしていた。私は東京のコーヒーがとても気に入っていた。

 かつては隅田川の河口だったその場所は、東京の人口増加に伴って埋め立てが進み、今では月島以外にも勝ちどきや晴海、豊洲といった場所が次々とできあがり、大きな臨海地区を形成していた。それでも、月島の雰囲気は周囲の埋め立て地とは全く違っていた。私はカーディフ南東部の海岸沿いに広がるバルやカフェのある街並みを想像した。ホームシックになったジョーンズがこよなく愛したその場所は、昼間こそ観光客が多いけれども、夜になれば地域の社交場になる。カーディフはウェールズの首都だ。しかし街の規模は東京の方がはるかに大きい。同じような光景が、銀座からわずか数キロメートルの場所に存在することに私は驚きを隠せなかった。


 中でも私のお気に入りは、もんじゃ焼き屋が密集している西仲通りから細い路地を入ってしばらく歩いたところにある小さなハンバーガー屋だった。私がその店を見つけたのは、五月も終わりに差し掛かり、通り過ぎる風に湿気が混ざり始めた頃だった。夏の気配から逃げるように路地に入った私は、「さわやか」とひらがなで書かれた看板を見て、どんな店なのかと興味を持った。

 店先に立っていた店主の笹本は、近づく私に気づくとひどく面食らった顔をして、それでも商売人の気概を発揮したのか《May I help you?》とたどたどしくもはっきりと発音した。私が彼の言葉と同じタイミングで「開いていますか?」と日本語で聞いたので、笹本は口をぽっかりと開け、狐につままれた顔のお手本のような表情になった。日本語を話す外国人も珍しくない筈だが、身構えた分肩透かしを食らったような気持ちになったのだろう。


 ドアを開け、レトロな雰囲気の店内を見回した。壁には棚がはめ込まれ、小さなブリキのおもちゃが等間隔に並べられていた。私もテレビでしか見たことのない、その色あせたロボットや車のおもちゃが、いかにも古き良き時代の空気を醸し出していた。

 一番奥のテーブルに通された。机の端に置かれたメニュー表を開いた。英語と日本語の両方で書かれたメニューを眺める。私はそこで初めて、この店がハンバーガー屋であることを知った。しばらく悩んだ末に、照り焼きバーガーを注文した。日本人はこの照り焼きがとても好きなようだった。世界的にも有名なハンバーガーショップでも看板メニューのようだし、和食に限らず、この調理法は日本に広く浸透している様子だった。英国や米国にも《Teriyaki》という名前のソースは存在するが、料理の仕方を考えるに、照りを出すのが目的ではないのかもしれない。

「お客さん、どちらの出身かね?」照り焼きバーガーを注文した後、不意に笹本が話しかけてきた。私はメニュー表から顔を上げ、「イングランドです」と答えた。


「へえ、イギリスかい」笹本は、カウンターの内側で作業をしながら会話を続けた。

「ええ、そうです」本当は、そうではない。多くの日本人は「イングランド」イコール「イギリス」と思っている。一括りにされることが多いが、私たちにとって国とはイングランドであり、スコットランドであり、ウェールズであり、そして北アイルランドなのだ。日本人にこれを説明するのは大変だ。日本の国土もちょうど四つに別れているが、それとは概念が異なる。決して、ウェールズは四国ではないし、イングランドは本州ではない。全く別々の国なのだ。スコットランドは英国からの独立の機会を窺っているし、北アイルランドは四半世紀前まで本当に混乱していた。紛争の火種を抱えているというのは、世界の先進国であっても珍しいことではない。日本は、大和政権から一度も民族が変わることなく安定的に国を統治してきた、とても稀有な国なのだということを、そこに暮らしている人々はほとんど意識していない。

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