後の祭り

長谷川ルイ

第1話

 川を駆け上がる風の流れを追いかけた先に、東京スカイツリーが見えた。その巨大な木が私の心をざわつかせる。展望台に反射する陽光が眩しかった。見上げる私の髪の毛を、柔らかい風が撫でていった。

 隅田川沿いの遊歩道を一人で歩いていた。ちょうど桜が満開になったころだ。河川敷のちょっとした公園にある桜の木の下で、大勢の人がブルーシートを広げ、宴会をしている。誰も桜の花を愛でている様子はなかった。日本の花見というのは元来そういうものかもしれない。日本人は宴会好きで、そしてそこでも会社や組織のしがらみから逃れることはできないようだった。上司の顔色を気にして、お酌をしたり、食事を給仕したりしている。そんなこと各人のタイミングや都合があるだろうに、率先して働くことが美徳だと思っているのだ。本当に、日本人というのは生真面目で不器用で優しい民族なのだと思う。


 イングランドから日本に移り住んで、六年が経とうとしていた。私は今でも、成田空港に降り立った時の高揚感と期待感を昨日のことのように思い出すことができる。そのくらい、日本には憧れを持っていた。大学で日本の民俗学を学んだことがきっかけだったのだが、いざ日本に来てみると、忙しく仕事をしている間に、みるみる時間が過ぎていった。日本に来る前に訪ねてみたいと思っていた場所、遠野や伊勢神宮などは、未だに行ったことがない。

 私の勤めていた投資会社では、新興国の急速な経済発展に乗り遅れることに大きな危機感を抱いていた。世界経済全体が勃興していた当時、不動産価格の上昇に目をつけたイングランドの本社が、中国や東南アジア市場に打って出る前線基地として東京支社を設立したのが六年前の六月だ。私は支社の立ち上げのために日本に渡ったのだ。


 日本での生活に憧れを抱いていた私だったが、東京のオフィスは私が思い描いていた日本での生活とはまったく反対の、忙しなく不自由な日々だった。支社の立ち上げと勇んで来日したものの、商習慣の違い、そして皮肉なことに文化の違いに、一緒に来たウェールズ出身のジョーンズは一ヶ月でホームシックに陥り、そそくさとカーディフの実家に戻ってしまった。残された私たちも、アジア独特の蒸し暑い夏の空気にすっかり気力と体力を奪われてしまった。

 それでも、私たちは中国や東南アジアとのパイプ作りに奔走した。北京や上海で土地開発公社と折衝したり、ジャカルタでリゾート開発の現場を視察したりしながら、優良な顧客の情報をイングランドの本社へ送り続けた。そうして支社としての機能を果たせるようになった矢先、あのリーマンショックが起こった。


 対岸の火事だと、最初は支社の誰もが思っていたし、それはイングランドの本社も例外ではなかった。私の勤めていた会社では米国のサブプライムローンに関する投資はほとんど行っていなかったし、世界第六位の経済国である自国と、そして当時第二位である日本とに拠点があるのだから、何も心配することはないと楽観的になっていた。株価は急落したが、それも一時的なものだという観測が支配的だった。秋が過ぎ、冬が近づいても、私たちは北京やジャカルタ、ホーチミン市などと東京を往復しながら、せっせと有益な情報を収集していた。

 その情報が操作されていたなどと、誰が想像できただろう。優良な投資先と見込んでいた中国企業が多額の負債を抱えて倒産したことを新聞紙上で知った時、私は成田空港を飛び立った飛行機の中にいた。よりによってその企業との契約締結が予定されていた日だ。北京空港で上司に連絡を取ろうとしたが、その上司は既にイングランドの本社に呼ばれて日本を離れていた。そしてそれ以降、彼が日本に帰ってくることはなかった。


 わずか数ヶ月で、私たちを取り巻く世界はまったく違う姿に変わってしまった。まるで昨日までの経済発展が夢幻のように、私たちは突然行き先を見失い、途方に暮れた。

 本社から撤退命令が下ったのは二〇〇九年の一月だった。本社としてはぎりぎりの選択だったに違いない。しかし、東京にいた私たちからすれば、それは遅すぎるくらいだった。日本経済は完全にバブル崩壊後の低迷期に戻っていた。企業の業績は悪化の一途を辿り、目も当てられない状況だった。そして、ついに日本はGDP第二位の座を中国に明け渡すことになった。


 支社の同僚は、撤退命令に従い、日本を離れる準備を進めていた。カーディフに帰ったジョーンズからも、早く戻って来いとメールが届いたのを覚えている。しかし、私はどうしてか、この日本を離れる気になれなかった。英国に帰れば元の安定した仕事があったし、何より家族が私の帰りを今か今かと首を長くして待っていたのに、オフィスからスタッフが一人、また一人といなくなっていくのを見るたびに、この日本でやり残したことがあるのではないかという思いは強くなっていった。

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