第2話 序章(2)
学校に入って、向かう場所は職員室だった。
職員室に入り、担任の平田先生を呼ぶ。
「あの……平田先生は居ますか」
見たことのない先生? にそう声をかけると、職員室の奥に居る白いブラウスを着た女性が立ち上がった。女性はロールパンを口に咥えていて、何かもごもご声を出そうとしていた。あ、そういうのは食べ終わってからでお願いします。
ロールパンを食べ終えて、右手に持っていた牛乳でそれを胃に流し込む。それを見ていた僕は軽く溜息を吐きながら、その様子を眺めていた。
「げほっ、ごほっ! ……お、お待たせしましたっ! ええと、飯塚真央くんだったよね?」
職員室の入口までやって来た平田先生は、僕の顔を見てそう言った。
いや、まあ、確かに飯塚真央ですけれど。
「ちょっと待っててね。今から準備するから!」
そう言って再び席へ戻っていく平田先生。
……どうせなら準備してくれてからやって来ても良かったのになあ、とは言わなかった。
二分程待っていると、職員室から平田先生が出てきた。帳簿を一冊と鞄を一つ持っている。いったい何に使うのだろう――なんてことを思っていたのだけれど、直ぐにそれは野暮なことだと気づかされた。そんなことを考えたところで無駄だと思ったからだ。
「……それにしても、ほんとうに珍しい時期にやって来たわよね、飯塚くん」
「え?」
「だって、高校一年の六月でしょう? 入学して直ぐの時期に転校だなんて珍しいじゃない。……でもまあ、クラスは未だ友人関係の形成に熱中していて、確立していることはないから、一安心して欲しいと思うのだけれど」
「……そういうものですか」
「そういうものよ」
平田先生はお喋りな性格なのか、教室に到着するまでの間ずっと喋っていた。それについて、僕が真面目に一つ一つ答えていたのもどうかと思うけれど。実際問題、無視したらこれからの学生生活に影響を及ぼしそうな気がしてならなかった。
普通の学生生活を送りたい。
しかしながら、ベストセラー作家飯塚真凜の息子として、普通の生活を送ることなど考えることも出来なかった。
望むことすら出来ないのだろうか。
与えることさえ出来ないのだろうか。
考えることだけでも出来ないのだろうか。
ずっと、ずっと、ずっと、考えていた。
けれど、結論は見いだせないまま。
僕は、途方に暮れていた。
「……飯塚くん?」
声を聞いて、僕は我に返る。
平田先生は立ち止まり、僕をじっと見つめていた。
何か悪いことでもしてしまったか――なんてことを思いながら、僕は平田先生に問いかける。
「平田先生、何かありましたか?」
「……いえ、あなたが急に立ち止まったから。どうかしたのかな、と思って」
「そうでしたか。それなら、問題ないです。ちょっと考え事をしていただけで」
「そう。……何か気になることがあったら、直ぐに先生に言ってね。何とかするから」
何とかするから。
そう言われても、実際は何とかしてくれないのが実情だと思った。だって先生に出来ることは限られている。先生に守って貰えるからと言って、実際問題ほんとうに守って貰えるかと言われると微妙なところだ。そんなこと、実際に有り得ない。
それはきっと、先生の運が悪かったのだろう――と人は言うかもしれない。
それぐらい、僕と先生は水と油の如く親和性が悪かったのだった。
「……着きましたよ」
平田先生にそう言われて、僕は立ち止まる。
「少し待っていてください。直ぐに呼びますから」
そう言って、平田先生は扉をガラガラと開けた。
扉を閉めると、平田先生の声がハキハキと聞こえてくる。
「皆さん。おはようございます。朝のショートホームルームの時間です。今日は簡単に、手短に済ませましょう。何せ一大イベントが待っていますから」
おい、何というかハードル上げすぎじゃないか?
「今日、このクラスに転校生がやって来ます。皆さんにご紹介しましょう。……入ってきて」
声を聞いて、僕は扉を開ける。
視線が僕の身体を貫くように、突き刺さる。
この瞬間が正直言って、とても痛い。
出来ることなら避けてしまいたいぐらいのことだったけれど、しかしながら、避けることは出来ないといったところだろうか。
「さあ、皆さんに自己紹介をしてください」
教壇に立って、前を向く。
皆の視線が僕に突き刺さっていることを目の当たりにして、猶更緊張する。
僕は深呼吸一つして、話し始めた。
「僕の名前は、飯塚真央です」
……それから何を話したか、正直のところあまり覚えていない。確か好きな食べ物とか言ったような気がするけれど、案外人間って何を言ったのか憶えていないものだな。
クラスの席は、一番後ろ――ではなく、窓側の席の後ろから二番目の席が空いていた。何故そこが空いているのか分からないけれど、僕にとっては有難いことだった。……もしかして、誰か退学したのかな?
僕の後ろには、一人の女性が座っていた。そして、その女性は見覚えのある女性だった。
真っ赤なウェーブがかった髪に、くりっとした目。目鼻立ちははっきりとしていた彼女は、母さんの運転している車の中から見た女性に似ていた。
「……ねえ、あなた」
背後から声をかけられて、僕は振り向く。
「何だよ?」
「……もしかして、あなた、飯塚真凜先生の息子じゃないかしら?」
ああ、神よ。
僕の平穏な学生生活を乱そうというのですか、あなたは。
……まあ、神など信じていないから言ったところでまったく意味のないことなのだけれど。
「……まあ、そうだけれど」
「やっぱりそうだったのね! 飯塚先生の近著で『近々信楽市に引っ越す』と言っていたからもしかして、と思ったら」
彼女は良く喋る女性だった。
ショートホームルームが終わってから一時間目が始まる休み時間の間、ずっと僕に語りかけていた。その間、話をしようとした男性諸君も居たのだが、彼女の熱気に負けてしまい、誰も近寄ってくれやしない。誰か来てくれないと、困るよ。
「……ああ、そうだった。自己紹介をしないとね」
彼女は休み時間の最後に、こう言った。
「私の名前は佐々木恵。これでも『魔女』の一族なの。よろしくね、飯塚くん」
「…………はい?」
こうして、僕と彼女は出会った。
これから僕と彼女には色々なことが起きるのだけれど――そのときの僕は、気づく由もなかった。
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