花束を君に

巫夏希

序章

第1話 序章(1)

 この街には、魔女が住むという伝説があるの。

 転校する街の高校、先生は帰り道にそんなことを言っていた。それにしても、魔女、か。僕にとってはあまり関係のないことだと思っていたし、そんな存在ほんとうに居るのか、なんて風に思ってしまうのだけれど。

 魔女という存在が明確にこの世界に『関与』してくるようになったのは、十八世紀頃と言われている。それまで魔女はこの世界に関わることをしなかったのだという。だったら、どのようにどうやって過ごしていたのだろうか、なんてことを考えてしまうのだけれど、魔女には魔女なりの生き方があるのだろう。それについては、考える必要性もない、ということだ。

 そういう訳で、地方都市の一つである信楽市に転校することになった僕――と言っても正確に言えば家族も引っ越してきているのだから、僕達家族が信楽市にやってきた、ということになるのだけれど――だったのだが、信楽市の伝説を聞いてもあまり興味を抱くことはなかった。

 普通だったら、魔女とかそんな類いの話を聞いたら喜ぶ人も居るのかもしれない。そういう性癖の人は居るだろうから、別に否定することはない。否定しなくても良い。否定する必要性がない、ということだ。

 しかしながら、僕は魔女という存在をあまり知らない――といえば良いだろうか。魔女についての歴史は一通り知っているつもりだ。魔女についての価値観も、どちらかと言えば普通の人間と同じで、別に魔女達を侮蔑するつもりもなければ、迫害するつもりもない。現に魔女達は普通に生きているのだし、魔女という存在と人間という存在が変わりないことぐらい分かりきっていた話なのだから。

 高校に転校する日、僕は母の運転する車に乗っていた。距離はそう遠くないから自転車で良いよ、と言ったのだが、初日ぐらい私がお迎えしてあげると言って聞かなかった。だから僕はそれに従うしかなかった。

 それにしてもこの街の交通網はどうなっているのだろうか。中央を走るバスレーンに始まり、大量の車に大量の自転車、蒸し暑いこともあってなかなか歩くのもままならないと言えば良いだろうか。だから自転車通学にしたのだけれど。

 城が見える。信楽城はこの街の文化財として有名なものの一つだと言われている。言われている、というのは実際にそこに見に行ったことがないからであって、見に行けばいいのに、と言われても何だか面倒でなかなか行く機会に恵まれなかった、というのが正しい言い方だろう。

 もしかしたら、高校に入ったら行く機会があるかもしれない――そんなことを思いながら、僕は窓から景色を眺めていた。

 そして、景色を眺めていると、信号待ちの人の中に、目を引く女性が立っていた。

 ブレザーを着ている彼女は――恐らく同じ学校の生徒だろう。そして目を引くのは、赤い髪だ。真っ赤に染まった髪は、染め上げたというよりも元からその色だったような気がしてならない。

 第一、僕は彼女に見惚れていた。

 僕はその彼女を見て、とても美しいと思っていた。

 ……どうしてだろうか? いいや、そんなことを考えている場合ではない。

 問題などない。簡単に言えば、僕は彼女に一目惚れしていたのだ、と言えば良いだろう。


「ねえ、真央まひろ、聞いてる?」


 飯塚真央、それが僕の名前だ。普通に読んだら『まお』と読まれてしまうのだけれど、僕の名前は『まひろ』である。何故そんな名前にしたのか、と聞いたら「何でだろうなあ?」と言われてしまった。息子の名前の由来ぐらい覚えておいてくれよ。


「え、何か言った?」

「……ったく、言ったじゃない。だから、今日は夕方に迎えに行くから、って。LINE通知来るようにしておきなさいよ」

「LINEの通知オンにしておいたら、先生に取り上げられちゃうよ。マナーモードにはしておいて良いでしょ?」

「それは別に構わないけれど、あんたが気づけばそれで良いわよ」


 飯塚真凜いいづかまりん

 何だかペンネームのように聞こえてしまうけれど、これが母さんの本名だ。

 今は幾つもの出版社の原稿を抱えている売れっ子作家としても有名である。本名を使っているから、直ぐに名前を聞いただけで飯塚真凜の息子だとバレてしまうのだけれど。

 個人的には、文学にあまり興味がない。

 だから母さんの小説もあまり読んだことがなかった。

 読めば良いのに、と言われればそれまでなのかもしれないけれど、僕は母さんのことを嫌いになっていた訳ではなかった。母さんと僕の仲は普通に良かった。良かった、と過去形で言ってしまうと今は悪いんじゃないか、なんて思うかもしれないけれど、別に今も仲は良いですよ?


「……別に一人で帰れるよ。何なら歩いて帰っても良いし」

「自転車に乗るなら早く帰れるかもしれないけれど、徒歩でしょ? だったら難しいんじゃないの。誰か一緒に帰るなら良いけれど、直ぐに友達が出来るとも限らないし……」

「そりゃ、そうかもしれないけれどさ……。母さんは別に良いの? 仕事、忙しいんじゃないの」


 母さんは今、この信楽市を舞台にした小説を書き上げる予定があった。母さんは仕事の鬼とも言えるぐらいは速筆――筆が速い、ということで文字通りの意味らしい――で、一週間もあれば一冊分の初稿を書き上げてしまうんだとか。それでベストセラーが生まれてしまうんだから、つくづく効率の良い仕事をしているよな、と僕は思った。


「とにかく、帰るときは私に連絡すること。良いわね? 私はあんたを学校に送ったら取材旅行してくるから」

「……旅行と言ったって、この信楽市一帯を巡るだけだろ? そんな堅苦しいこと言わなくても良いだろ」

「良いじゃない、別に。それに、これからしばらくは忙しくなるんだから」

「……父さんも忙しいんだろ?」

「父さん?」


 飯塚明博。

 父さんは出版社に勤めている。今は出版社の信楽支社に勤めている。……正確に言えば、その信楽支社に勤めることになったから引っ越しが決まった訳なのだけれど。


「父さんのことは別に気にしなくて良いでしょ。……確かにあの人も忙しいけれど、仕事が落ち着くかどうかと言われると微妙だし」


 父さんは母さんの担当編集を務めているが、その他に数名の作家の担当も受け持っている。だからかもしれないけれど、父さんは毎日何処かに行くことが多かった。インターネットが出回っているこのご時世にも関わらず、直接出会うことで何か良いアイデアが見いだせると思っている父さんは、毎日何処かに飛び回っているのだ。今日は金沢に向かっていると言っていたっけな。


「父さんと出会えるかどうかはまた別の話でしょ。私だって、それを分かって結婚した訳だし。……あの人のことを理解できないと思う気持ちも分からなくはないけれど、少しは理解してあげて」


 車が学校の校門、その前に止まる。


「……良い? 連絡は絶対にしなさいよ。必ず迎えに行くから」

「……分かったよ」

「お小遣いも持った? 体操着は持った? 忘れ物はない?」

「……ないよ。だからそこまで心配してくれなくて良い」


 僕は扉を開けて、外に出る。


「ちょっと、待ちなさいよ! ……ったく、そこまで冷たくあしらわなくても良いでしょうに」


 母さんの言葉を背中に受けて、僕は学校に入っていった。

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