湖畔の蚕


 大きな泥水池が進路を塞いで現れた。


 それは強烈な溶剤の匂いが充満する死の池だった。ヘドロと有機溶剤の匂いが鼻をついて、とても飲めそうにない。陽光を斜めに受ける水面は波ひとつ立っておらず、コールタールを思わせるぬかるみと、どす黒さだった。


 迂回路を探して首を回したハーミットが、そのほとりに不気味な光景を見つけて喉を鳴らす。


 ひと目見て、白い毛皮を着た人間が茶色いベレー帽を被って木立の合間に浮いているのかと思った。


 しかしよく見ると、それは白い柔らかそうな毛で全身を覆われた、人間大の、六本脚だった。蝶のようなはねが背中に付いており、その翅もまた白い毛で覆われていた。頭部には大きな黒い複眼がふたつあって、黒い櫛歯くしは状の触角が額の上からしなれていた。そして、それはあたかも蜘蛛の巣に囚われた蝶ように、木々の合間で太い糸ではりつけになっていた。


 巨大なかいこの成虫に見えた。胸部から生えている六本の脚の内、一番下の一対がかなり長い。それは地面に着くほどであり、そのまま二本脚で立てるのではないかと思わせるほどだった。


 黒く塗りつぶされた、つぶらで大きな複眼と、全身のもふもふした白い毛並みが相まって、蚕の顔付きには若干の愛嬌すら感じる。だがそれも、ぱんぱんに肥大した茶色い肉塊が、蚕の頭部にきたならしいベレー帽みたいに乗っていることで台無しとなっていた。


 明らかに異質なその肉塊にはどこか邪悪な雰囲気を感じる。


 蚕の腹部末端は不自然に肥大化して地面に垂れていた。それは地上に横たわって蠢いていて、ハーミットが見つけた時も、ラグビーボール大の卵を思わせる白い塊をぽこりとひとつ吐き出しており、周囲にはそれが整然と並んでいた。


 ハーミットが静かに近寄って蚕を観察すると、蚕は全身を糸、というよりは、もはや縄と言っていい太さのそれでぎっちり囚われ、周りの枯木に縛り付けられて宙に浮いていた。


 頭部に付着する茶色い肉塊は、ハーミットの予想だと寄生体に見える。その肉塊からも長いくだが伸びており、その管は近くの泥水湖に繋がっていた。肉質な寄生体が胎動すると、その拍子に合わせて管が蠕動ぜんどう運動して泥水湖の方でポコっという音が鳴り、蚕がぴくりぴくりと反応していた。


 よく見ると、ふわふわした体毛の隙間にはシラミめいた小さな何かが大量にうごめいて、それに気付いたハーミットは胸中で悲鳴を上げた。もう何が何だか分からなかった。


 蚕の表情など読めるわけがない。しかし、あの黒い複眼はどこか正気ではないと感じられた。頭の上に乗っている魍魎的な何かが原因だろう。囚われの蚕はまだ生きているのか、生かされているのか。とにかく哀れな姿に見えた。


 蚕は餓狼でも魍魎でもないだろう。蚕は恐竜の骨に続く第三勢力だった――そういえば、断崖の森には巨大な節足動物の死骸が大量にあった。あいつらの親戚なのかも知れないと、ハーミットは考えた。


 ハーミットが地面に落ちているラグビーボール大の卵に顔を近づけると、中で“茶色い塊”が胎動しているのが透けて見えた――蚕の幼虫では、ないだろう。


 うんざりしながらハーミットは蚕を見た。こいつをどうするべきかと思案する。


 この姿で寄生されているなら、それはあんまりだ。魍魎であろうがなかろうが、終わらせてやった方がいい。ハーミットが眉をひそめ、そう決めた時、生気のない大きな黒い複眼と視線が交わった――蚕の瞳が揺れた。そんな気がした。


 直後、蚕の毛に覆われた二枚の翅がぴんと力一杯張られ、その表面からは布団を思い切り叩いたように鱗粉りんぷんが空中に舞い上がった。鱗粉は光の粒になって宙空を均一に広がり、あっという間にハーミットを飲み込むと、ちかちかと光を反射しながらゆっくりと落ちていった。


 やがて鱗粉が地面に落ちていた卵に触れるやいなや、卵の上部が粘液をまき散らしながら湿った音を立ててぜた。内部からハーミットの身長を超えるピンクの肉櫛にくぐしがぬらりとした体液をまとって生え出してくる。


 茶色い腐った芭蕉扇ばしょうせん。そんな奇怪な肉櫛が、次々と卵を突き破って生えてきて、あっという間にハーミットはその肉櫛に周りを囲まれる形となった。それらは、粘液を滴らせながら全身を団扇うちわと化して空をあおぎ、周囲の空間に細かい粒子をまき散らした。その粒は上空に舞い上げられた後も落下せずに、プランクトンが海中を泳ぐようにすっすっと細かい直進運動を素早く繰り返して宙を漂い始める。


 呆気にとられたハーミットの耳の先端に、ちくりとした痛みが走った。慌ててその部分を指でこそいで見ると、指先が茶色い体液と赤い血液が混じり合って糸を引いた。この状況が寄生魍魎の盛大な“種まき”だったことに気が付いた時、既にハーミットはその空中散布された寄生魍魎の幼生郡の真っただ中にいた。


「――ぐっ!」


 全身にぞわりと悪寒が走った。自分のなれの果てを示している蚕の姿を一瞥いちべつし、声にならない悲鳴を上げてハーミットがぴたりと呼吸を止める。しかし、すぐに顔面に剣山を押し付けられたような痛みが訪れた。慌てて両手で顔を拭うと、顔中で粘液が糸を引いた。


 ハーミットの肌には、今や星の数ほどの魍魎の幼生が取り付いていたのだ。


 ハーミットがその場から遁れようと地面を蹴る。その寸前、両耳に千枚通しを差し込まれたような鋭い痛みを感じて、ハーミットは思わず膝を突いた。鼓膜を引っかかれる不快な音に顔が引きつり、自然と口が開いた。ハーミットはすぐにその刺激が超高周波音であることに思い至った。それは物理的破壊力すら伴った、とても耐えられない攻撃的音響だった。


 全身の肌が高周波音に共鳴してぴりぴりと沸き立つ中、ハーミットはしかめた顔を上げて蚕を仰ぎ見た。蚕の櫛歯くしは状の触角が、ほんのりと燐光りんこうを帯びて揺れていた。


 ふと気が付くと、頭部全体に感じていた皮膚を刺す痛みが失せていた。ハーミットが周辺を見ると、空中を漂っていた無数の寄生魍魎の幼生が、蚊取り線香でも焚いたように全て地上に落ちている。


 理解不能な事態の連続に、よろめきながら立ち上がったハーミットが虚空を蹴って【ジャベリン】をはじくと、不可視の空弾が一本の槍と化して蚕の頭部を爆散した。


 ハーミットは嫌悪感に突き動かされるままに身体をその場で回転させ、立て続けに両脚グレイブを振り回して、後ろ回し蹴りの乱舞を披露する。


 ハーミットの動きが止まった時、彼の周囲には幾条もの白線が毛糸玉のように描き出されていた。一拍おいてその白線が一斉に爆発すると、眩い閃光が重なり合って広範囲に衝撃波を撒き散らした。それは地上に生えそろった肉櫛を根元の卵ごと砕いて一掃し、次いで巻き起こった爆風が空中の不浄な粒子をも押し流していった。


「……」


 やがて静まったその場には、茶色い液体をバケツで振りまいたような跡がそこら中に残されていた。蚕の身体は【グレイブ】の乱れ打ちに巻き込まれて細かな肉片となり、周囲に散っていた。蚕の血肉は赤かった。


 ハーミットは強烈な不快感に胃を締め付けられ、下唇を噛んで左手の指輪をさすった。


 ハーミットが歩み寄ると、そこには半分に割れて中身を吐き出した蚕の頭部と、そこに未だにしがみつく茶色い肉塊が残されていた。ハーミットが迷わずその寄生魍魎ごと蚕の頭部を踏み潰した。後には蚕の櫛歯状の触角だけが残された。


 転がった蚕の触角を拾い上げた。それは思ったよりもしっかりとした質感で、弾性のある黒いプラスチックに近い感触だった。逡巡しゅんじゅんの後、とむらいと思ってこれを持って行くことにし、ハーミットは後味の悪さを噛み締めながらベルトのオープンホルダーにそれを差した。


 ――あの時。ハーミットが危機にひんした時。この蚕が音響を発して助けてくれた。そうは考えられないだろうか。


 それは馬鹿げた妄想の類いだった。ハーミットにも分かっていた。蚕も魍魎も、どちらもハーミットを攻撃していたに違いない。たまたま同士討ちフレンドリーファイアになっただけだろう。しかし、ハーミットはそうやって解釈したかった。


 はっきり言って魍魎や餓狼よりも、昆虫の方がずっと親近感が沸く。実際、園芸が趣味だった籠目にとって見れば、昆虫は身近な隣人とも言うべき存在でもあった。この巨大な節足動物たちが言葉を話すならば、友人になれたりするのだろうか。


 ――魍魎どもは本当に気色悪い。姿も行動も何もかも受け付けない。はっきり言って嫌いだ。まだ餓狼の方がましだ。そして異形どもは、どちらも友人になれるラインの向こう側にいる。巨大節足動物は、話さえ通じればそのラインのぎりぎり内側にいる。


 ハーミットは深呼吸した。


 現実逃避しかかっていた脳味噌に無理やり酸素を送りつけると、顔に付いた粘液をこそぎ落としながら、無言のまま陽が差す方角に足を向け、その場を後にした。


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