地獄#1


 ハーミットは木々を切り開いた空間で突っ立っていた。この空間はこれまでに見てきた末期的な自然情景と比べ、明らかに異質だった。


 見渡すほどの更地には幾つか穴が開いていた。円形の型を押し付けたような底の平たい窪みだ。それはちょうど、リビング一部屋分くらいの広さがあり、膝丈ほどの深さがあった。黒く濁った泥水がたまっている窪みや、乾いて底がむき出しているもの、中央に丸太が突き立っているものなど、状態は様々だった。


 手近な窪みの中に踏み込むと、中には餓狼硝子らしき透き通った塊が転がっていた。それは手に持って扱うにはちょうどいい大きさで、鋭く、まるで石器に見えた。


 窪みの中に残っていたのは、そういった硝子の加工品と、それ以外にも何か木製の残骸があった。しかし、硝子以外はほとんど朽ち果てており、元が何であったのかは判別できなかった。


 ここは打ち捨てられた後、果てしない年月が経った集落跡。それがハーミットの見立てだった。


 ハーミットがこの場で足を止めた理由は、もちろん初めて人(?)の営みの跡を見つけたので興味が湧いた。というのが理由のひとつだ。だが、もっと突っ込んだ理由として、休息地、食料、飲料の確保という現実的な課題があった。


 ハーミットは少し焦っていた。今日はどれほど走ったのか。身体には生傷が増え、無視できない痛酷がハーミットを苛み始めている。まだ空腹感はそれほどでもないが、いい加減喉の渇きは感じ始めていた。身体を休める場所も必要だった。実はあの断崖から今の今まで、ハーミットは一度も腰を下ろしていない。夜ですら、ずっと立ちっぱなしだったのだ。今はまだ平気だが、遠くない内に限界がくるに決まっている。


 この集落跡は静かだった。どういうわけか、餓狼の姿が見当たらない。魍魎が好みそうな窪地の影も、水溜まりもあるのに一向に飛び出してくる気配がなかった。


 ちなみに、魍魎は水溜まりからも出現する。油断してはいけない。その水溜まりが黒い泥水であれば、たとえどんなに浅い水溜まりにしか見えなくても、出てくる。うっかり踏み込んだ水溜まりの水面が噴出して、太いミミズの身体に大量の手足が付いた魍魎に抱きつかれた事件などは記憶に新しい。この鬼畜魔境ではよくあることだった。


 魍魎は、その体積が収まる空間がなくても出てくる。死角とは、ハーミットから見通せなければ、あとはどうでもいいのだ。魍魎はそれ以外の法則は些細さじとでも言わんばかりに、どんな不自然な形でも現れる。


 これまでに経験した魍魎事件の数々を思い返し、辟易へきえきとして嘆息をつくと、ハーミットはとりあえず窪みの縁に腰を下ろした。


 座る。たったそれだけの行為が感慨深い。深い溜息が出てくる。


 いつ異形が襲い掛かってきてもおかしくない状況で心身が休まるはずもないが、休憩は取れる時に取るべきだった。このまま心臓の鼓動が落ち着けば、闘鬼の肉体は少しずつ回復していく。


 ふと、ハーミットの視線が腰掛けた窪みの中央に向いた。規則性をもって描かれた何かが、腐った木片の下に隠れていることに気が付いたのだ。木片の影から少しだけ覗いたそれは妙に光っていたので、よく目についた。ハーミットがその場所に吸い寄せられ、残骸を足で綺麗に払いのけると、その下からは煌びやかな絵が出現した。


 そこにあったのは餓狼硝子の小片を規則的に並べて出来た丸いモザイク画で、一見マンホール画を連想させる。涼しげな水色の石が下地として敷き詰められており、その中に淡い緑色の硝子で三角形が描かれ、その頂点には花らしき造形が三つ。全て色とりどりの硝子を用いて鮮やかに描かれていた。


 三角形内部の中心には、キラキラと金色の粒を含んだ丸い瑠璃色の石がひとつ埋め込まれていて、更にその瑠璃の石の中心には、白くて丸い石がひとつ埋め込まれていた。


 原始的な印象を受ける絵だった。その内容は分からないものの、硝子が非常に鮮やかなため、全体として非常に派手に見え、特別な物であることは理解できた。


 ここにはかつて、ちょっとした文化文明があった。ハーミットはそう確信した。骨の山や打ち捨てられた雰囲気から察するに、残念な結末を迎えたようではあったが。


「これは、あのオベリスクのやつか……?」


 ハーミットが中心の瑠璃に指先で触れてみると、少しざらついた感触があり、あのオベリスクと同一の素材だと知れた。瑠璃の中心に埋め込まれた白い石は不透明で、複雑な光沢を放っていた。それは真珠にも見えた。


 水や食べ物も探しつつ、しばらく別の窪みも合わせて巡回した後、ハーミットは無駄骨に嘆息をついてまた窪みの縁に腰を掛けた。細部は違ったものの、よく似た地上絵が全ての窪みの床に描かれていた。


(今日はここで寝られたりして……)


 ――期待薄だろうな。


 足を組んで両手を後ろにつき、天を仰いだ。ぼんやりこの先どうやって寝ようか考えていたその時、どこからともなく無機質で抑揚のない音が聞こえてきた。


 ――ぃぇー……


 ――びぃぇー……


 一体いつからその音は聞こえていたのか。音量が小さくて上手く聞き取れない。ハーミットが音の方向を掴もうと耳を澄ます。


 ――るぃぇーるびるぃえーるびるぃぇー……


 念仏――に聞こえなくもない。そういったトーンの音だ。少し低めの抑揚のない濁声だみごえで、音源の方向は掴めなかった。


 正体が気になったものの、その音は無視することにした。


「触らぬ神に祟りなし」


 ハーミットは即刻この場を立ち去ろうと腰を上げ、東を見た。


 その視線の先には別の窪みがあった。その窪みの中央に、黒くてぶつぶつしたひょろ長い何かが、陽の光を逆光にして立っていた。それは、遠目には濃い黒煙が立ち上っている様子にも見えた。


 うっかり目を凝らしてしまい、ハーミットは「うぁ……」とぽつり。


 ねじれた細長い一本角と一本脚が生えた黒い球体。その形をあえて表現すれば、黒いキャンディの袋を両端が細長くなるまでねじり続け、垂直に立てたら近い形になる。その胴体――キャンディが入った袋の表面はハスの実のように無数の穴が開いて、全ての穴の奥からつるっとした何かが覗いていた。キャンディは真ん中で水平に上下にぱっくりと割れ、その断面には汚らわしい臼歯きゅうしがびっしりと隙間なく生えている。目眩めまいを感じるその造形は、狂気極まる前衛芸術とも言うべきオブジェだった。


 あれはいつか見た――断崖で見た。


 闇黒くらやみの壁から染み出してきた魍魎の一体だ。


 先ほどから聞こえている念仏は体表面の穴の隙間から漏れ出していた。カチカチと上下の臼歯をかみ合わせる音も念仏に混じって聞こえていた。よく見ると、あの魍魎の胴体の上下をつなぐ部位がない。上半分の胴体は確実に宙に浮いていた。


 あの崖から先回りされたのか、それとも別の個体なのか。見た目的に、全く移動できそうにないが、魍魎どもは死角にワープして来たように現れるのだから、外見上の機動力は当てにならない。


 ねじり上がった黒い魍魎が、亡霊めいてゆらゆらと立っている。その窪みは他と比べると少し広く、よく見ると中には餓狼どもが隙間なくひしめいてた。見た目が最高に不気味な球体に向かって膝をつき、こうべを垂れている。その数は十や二十ではきかないだろう。たくましい白亜の餓狼どもが、じっとうつむいて、黒い球体の念仏を熱心に聞き入っていた。


 その光景はさながら邪教の宣教師が催す暗黒のミサ。餓狼どもが改心して闇黒の使途に跪いている。ハーミットはその禍々しさに、冬場に岩をめくったら大量の虫が密集していたときにも似た絶望感と虚脱感を覚え、もう一度「うわぁ……」と漏らして目を逸らした。


 この辺りで餓狼を見かけないのは、きっとあの魍魎が、ああやって引き付けているからだろう。


 ――放っておこう。ハーミットはそう考えて、暗黒のミサ会場を遠巻きに迂回した。空の明るさはピークを超えており、全体の光量は落ち始めている。意味不明な連中を相手にしている暇が惜しい。


 ミサ会場を可能な限り見ないように目を背けて歩き過ぎようとした。だがしかし、ちょうどその窪みを通り過ぎようとした時、怖いもの見たさとも言うべき強烈な好奇心が鎌首をもたげ始めた。


 何をやっているのか。何を唱えているのか。なぜ餓狼どもは跪いているのか。放っておいていいのか。先制して潰してしまった方が安全じゃないだろうか。


 猫が差し出された指につい鼻を近づけてしまう――異常な何かに対して、興味と不安がまぜこぜになって惹きつけられてしまう――その感情の突き上げは、ある種の生存本能なのかも知れなかった。


 ハーミットはたまららず、こっそり眼球だけを動かしてちらりと窪地を見た。


 ――いぶるべあぼばいえるびぎぎギギギギギギ


 突如、ねじれ上がった球体がテンションを上げた。


 壊れてしまったおしゃべり人形のようにびくびくと発作を起こし、念仏の再生速度とボリュームを目一杯上げた。上半分のパーツが回転し始め、それによってかみ合わされた臼歯が、文字通りうすの如くゴリゴリと音を立てて歯軋りする。歯の何本かが勢いに負けて抜け飛んだ。糸を引きながら飛び散った歯が身体に当たっても、餓狼たちはピクリとも動揺していなかった。


(――こ、怖っ!)


 ハーミットは戦慄した。徐々に回転速度を増していく球体から後じさり、距離を取る。意味不明な音をまき散らしながらヒートアップしていく魍魎は今にも自爆しそうな勢いに見えた。


 そさくさと逆側の枯森に飛び込もうとして、ハーミットが背を向けた直後、その魍魎はピタリと回転を止めると、


 ――いぇーるびる


 と、ぽつり。明確に言い残し、上空から降ってきた巨岩に窪みごと押しつぶされた。

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