二日目

まどろむ魔境


 餌をせがむ雛鳥ひなどりのように口を上に開けて、膝立ちしたまま静かにびくびくと痙攣している餓狼どもを除けば、魍魎の姿ひとつない穏やかな朝。


 地平から到来する横殴りの暁光ぎょうこうが、白く立ち枯れた木々の合間をすり抜けて闇黒くらやみを打ち払い、枯森の全容をうっすらと描写している。カサカサと何処からともなく聞こえていた音も、やがてすぐに聞こえなくなった。


 暑くもなく、寒くもない。風もなく、雲も見えない。無表情な自然。


 偽りの静謐せいひつさを湛えたこの枯森は、昨日の騒動などなかったとしらを切っているかのようだった。


 だが、ハーミットの鼻に届けられるヘドロと有機溶剤の混じったむせ返る異臭が、この鬼畜魔境の嘘を告発している。ここは異形どもがひしめく狂乱の森。四方八方に餓狼どもが徘徊し、ハーミットの僅かな隙も見逃さんとする純然たる殺意が、死角の闇に生々しく息づいている。


 夜が明けた東の空に、不思議な模様が出来上がっていた。


 彼方かなたの地平には山々の稜線が黒くでこぼこと広がっていて、その上にあかね色が水平に広がっていた。山稜さんりょう上にある光は、まるで膨大な光が沈殿したように厚みを持って左右にずっと伸びているが、それは末端にかけて徐々に薄くなっていき、ハーミットが左右に首をひねった辺りで闇黒に押し潰されて消えていた。そんな赤い光の沈殿層に、背後から伸びてきた闇黒が上から覆い被さっていて、両者の境界はくっきりとしていた。


 ――極夜きょくやとは、こんなにもはっきりとした広い光の層を形成するのだろうか。あの地平線に見える山脈を越えれば、太陽が姿を見せてくれるのだろうか。太陽はおぞましき異形どもを放逐ほうちくしてくれるのだろうか。


 藤色の娘が示してくれた約束が示す先を、今は想像すらできない。


 ハーミットは凝り固まった身体をほぐしながら餓狼の様子を窺っていたが、餓狼どもは一向に動かなかった。大きな口蓋を上に向けてぱっくりと開いて、ガクガクと全身を震わせている様子は、歯車がかみ合っていない狼のおもちゃが、遠吠えの動作に繰り返し失敗している風にも見え、どこか無機質だった。


 やがてハーミットは依然として寝静まっている枯森を走り始めた。風を切ってまばらに白んだ木々を抜け、時折進路をふさぐ倒木を曲芸的に飛び越した。昨日の猛襲が嘘のように静穏な時間だった。枯森に溜まっていた異形どもの争闘そうとうの熱気は闇夜にさらわれてしまい、ハーミットの頬を切る風は冷たく澄んでいた。そこら中で膝をついている餓狼どもに目をつむれば、閑静なリゾート地の林間を早朝ジョギングでもしているかのような爽快さだった。


 この夜明けの時間は餓狼も魍魎も活動していない。まるでこの魔境全体がまどろんでいるかのようだった。理由は知れないが、もうずっと、そうやってじっとしていて欲しいと願うハーミットだった。


 この思いがけず与えられた貴重な時間で、ハーミットは白く立ち枯れた木々を猛スピードで走り抜けた。一秒でも早く東へ向かいつつも、左右にせわしなく目を凝らす。何でもいいから口に入れられる物を脇に流れる景色から抽出しようと必死だ。なにせ昨日から水一滴飲んでいない。食事など、望むべくもなかった。陽が昇り、陽が沈むまで、ひたすら殺し合っていたのだから。


 逆に、これだけ全力で動き続け、血と汗を流し続けても、息が上がる程度で済んでいるこの闘鬼の肉体には感謝すら覚える。我ながら恐れ入る体力だ。今のところ空腹感はない。今日一日は持ちそうな雰囲気ではある。しかし、飲まず食わずをこのまま続けられるわけがないことは明らかだ。にもかかわらず、植物のたぐいは全て枯れており、清浄な水など一滴も見かけない。


 突然周囲の木々が途切れた。川の跡特有の、丸い川石が転がった地形に踏み入ったようだった。川の跡に色硝子が濃密に散っていたため、まるでビー玉の川が出来上がっているようにも見えた。立ち止まって綺羅きらつく川底を確認すると、異臭がつんと鼻を突いた。飲めそうな水など、ありもしない。


 ふと、ついでにと、川底に転がっていた色硝子を手に取ってみた。断崖から今に至るまでこの硝子を見ないときがない。いい加減ただの硝子でないことは察していた。


 地下に餓狼が埋まっているのかと思ったが、引っ張った色硝子は何の抵抗もなく持ち上がってハーミットの手に収まった。その結果、ハーミットはこの色硝子に対する自分の認識を修正することになった。


「重い……」


 水筒ほどの大きさの黄色い柱状の硝子だったが、想像以上に重量がある。硝子も軽い物質とは言えないが、これは重たすぎるだろう。ダンベルさながらの重さだ。


 試しにもうひとつ、拳大の赤い硝子を持ち上げてみて両手でかち合わせてみると、キィン……という硬質な音が響いた。続いて黄色い硝子を前方に放り投げ、踏み込んで手刀サーベルを振ると、ギャリンという耳障りな音と共に斬撃を受けた部分が浅く削り取られ、一方で、なぜか削られた場所とは“別の部分”が大きく欠けてふたつに割れた。その断面はなめらかで鋭く、やっぱり硝子が割れたらこうなる気もした。


 ハーミットの【サーベル】をもってして切断できないこの硬さ。普通の硝子ではありえない。ある種の結晶か何かではないかとハーミットはいぶかしんだ。そこではたと、餓狼がこの色硝子を身体に埋め込んでいたことに思い至った。


 この色硝子は、餓狼の身体の一部ではなかろうか。


 死んだ餓狼が腐り果て、この硬い結晶が残された。餓狼どもの強靱な身体の一部と考えればこの硬さは納得がいく。この色硝子は元々あの餓狼どもの組織の一部――つまり餓狼硝子だ。


 ハーミットは赤い硝子を下に落として、脚甲アンヴィルで踏みつけて砕き散らした。名前を付けたところで何が変わるわけでもない。ハーミットはきらきらと光る枯れた川底で嘆息をついた。


 その時、餓狼が一匹森から飛び出して、枯れ川を横切って反対の森に飛び込んでいくのが視界の端に映った。いつしか、餓狼どもが再起動していたのだ。野獣の吠え声がひとつ、またひとつと、どこからともなく枯森の空で重なっていった。


 鬼畜魔境が目覚めたのだ。これから始まる死闘を想像し、ハーミットは気を引き締めると、赤く焼けた空に向かって進路を取った。



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