寄る辺なく#2


 しばらく闇黒くらやみの中を警戒し続けていたが、ハーミットの予想に反して目立った危機は訪れなかった。


 はからずも与えられた不安と休息の時。視覚情報が遮断されてしまうと、身体の感覚が鋭敏えいびんになり、より一層苦痛が増した。骨の髄から染み出してくるような痛みだった。更には、なぜか側頭部から何かが弾け出しそうな痛みの波があった。


 ハーミットは目を閉じた。この闇黒では目を開けていても意味がなかった。目を開けた闇と、目を閉じた闇であれば、不思議と目を閉じた闇の方が幾分圧迫感は少なかった。それに奇襲で眼球を潰されるよりは、閉じていた方がマシだとも思えた。


 心臓の鼓動が落ち着いてくるに従って、やがてハーミットは深い思考の海に漂い始める。これまでは脳味噌の大部分を逃避行に割いていたため、おざなりになっていた事柄がふつふつと浮かんでくる。


 ――今日は、どれほど進めたのか。そして、あとどれくらい進めばよいのか。


 驚異の会敵エンカウント率を誇る、イカレ難易度の森だ。おまけに敵の強さも尋常ではない。それにもかかわらず人はおろか、生命の痕跡がない。異形ども以外、虫一匹見ていない。


 ここに至るまで、走り続ける途中で様々な光景を見た。総じて自分が通ってきた枯森の様子は、激しい戦闘跡を彷彿とさせた。先ほどの骨の山もそうだ。過去に何かがあったのは間違いない。


 ――そして改めて疑問に思う。ここはどこなのかと。


 これに関しては皆目かいもく見当がつかなかった。


 正直、太陽が登らなかったのには面食らった。だが落ち着いて考えてみると、籠目にはこの現象に心当たりがあった――極夜きょくやだ。限界緯度を超えた極圏で見られる、陽が昇らない地域。ここは極夜の地だ。


 ならば、ここは北の果てか南の果てか。そうであれば、東に向かい続ければ、まもなく一周してしまう気がする。いや、そもそもあの断崖はなんなのだ。あの断崖の存在を認めると、西には果てが存在することになる。


 ハーミットは、ここは〈領界りょうかい〉のひとつだろうとは思っている。


 エリュシオンの戦士達は、その中枢からゲートを通って領界に挑む。その先は地上のどこかであったり、地底であったり、空の上、あるいはどこかの星。茫漠ぼうばくたる宇宙のどこか。


 戦士達は領界の先で起こっている事件を収め、名声を勝ち取ることで、やがて最後は究極の栄光――栄座スローンに挑戦する。ここもそういった領界のひとつだろうと思っていた。実際、領界の中にはこういったとんでもない難易度の魔境も存在していた。


 しかしこの環境は異常だとも思う。こんなに厳しい領界が世に存在を知られていないなど、考えられない。そもそも自分はそんな危険な領界に入った覚えがない。


 ハーミットは単独ソロ活動に入ってからは領界への侵入は慎重にしていた。なぜなら、ハーミットは死ねないからだ。死ねば終わり。そこが他のエリュシオンの戦士達とは決定的に違っていた。自分にはもう戦士達の“復活”という奇跡は訪れない。


 背筋にひやりとした緊張感が走った。


 いつの間にか、闇黒の中でハーミットは左手小指を弄び、神秘のあおき指輪の存在を確かめていた。


 そうしていると、有機溶剤とヘドロが混じった異臭を押しのけて、思いがけない香りがハーミットの鼻孔をくすぐった。指輪を鼻に近づけてみると、あの娘の残りが鼻の奥から脳天に抜けて脳を洗い流していった。不思議と、頭蓋骨を痛めつけていた脳の膨張間が少しだけ収まった気がした。


 ハーミットの脳裏では、藤色の娘と交わした短い会話が再生されていた。ビデオテープ再生のような細かな掠れを含みながらも、その映像をはっきりと思い起こせた。


 その前後の記憶は、何の繋がりもないシーンがサブリミナルのようにちらついた。それは、ただひたすら取り留めのない意味不明な情報ばかり。


 自分に降りかかっているこの事態が現実のものとは思えなかった。


 これではまるっきり熱病に浮かされた悪夢だ。


 ふと、ある映画が籠目の記憶から思い起こされた。


 死にかけた兵士が走馬灯の中で悪夢に囚われる。過去の記憶が異形の数々に浸食されていく中を藻掻き、やがて自身の死を受け入れて天国の階段を上る。


 ――つまり、そういうことなのだろうか。


(俺は、まだ死んではいない)


 汗ばんだ手で強く指輪をこすったその時、唐突に“冷たい”痛みが右の首筋に突き刺さり、思索が中断されて、悪寒が全身を走り抜けた。


 反射的に痛みの元、首筋付近に向けて当てずっぽうに裏拳を叩き込む。ガラス瓶を叩き割る音が耳元で響き、顔に生暖かい液体がかかった。なにやらイセエビほどの大きさの、硬くごつごつした甲殻類を思わせる感触があった。その何かは拳と枯木に挟まれて潰れたことが、手応えで分かった。ハーミットは耳の中にまで入り込んできた液体の不快な感触に鳥肌が立ち、すぐにその何かを足元に放り出した。


 ――この、“何か”は背中の枯木をつたって来た。


 脚甲やつふさという鉄壁の守りの思わぬ抜け穴におののき、慎重に数歩前に出た。汗ばんだ背中が空気に晒され、すーっと湿気が抜けていった。


 ずきずきと脈に合わせて痛む右の首元をさすると、熱を持ち始めていたのが分かった。


 ハーミットの闘衣は首元までをカバーしていたが、所詮しょせん服だ。破れるときは破れる。ところが、触って確認しても闘衣に裂け目は感じられなかった。一方で闘衣の下の首筋には確かにひりひりと熱を感じる。


(――刺されたのか)


 裂かれたのではない、刺されたのだ。そう思った途端、すくみ上がるような不快感が首から広がった。


 ハーミットの服は金属製だが、織物だ。細い針であればその間を通すことも可能だ。


(――――っ!!)


 さっきの“冷たさ”は毒を注入された感覚だった。あまりの嫌悪感に怖気おぞけが全身を駆け巡り、今にもわめき散らして走り出したくなった。


 闘士の冷静な部分が、すんでのところでその恐慌を踏み止まらせた。


 首の痛みは一向に引かず、段々と首に圧迫感を感じ始めた。刺された箇所が大きく腫れ始めたために闘衣のネックガードが圧迫され、首全体が締まり始めたのだ。高い状態異常耐性を持つ闘鬼の身体に毒を利かせるとは、いったいどれほどの強毒なのか。


 ハーミットは腫れあがった首に右手を添えて、自分の身体を――闘鬼の強壮きょうそうを信じることしかできない。


 もたれる場所もなくなり、闇黒の底で二本の脚だけで立ち尽くす。


 ハーミットは不安で堪らなくなり、首を抑えていた右手の籠手やつふさに、左手を添えた。それは完全に無意識の行動だった。八房と指輪がぶつかってカチッと小さな音を立てた。


 胸をあっしてくる闇黒の重みを感じていると、やがて耳には何かが自分の周りを這い回る音だけが残された。




 ――どれほどの時間が経ったのか。


 結局その後、闇黒の襲撃はなかった。


 散々痛めつけられた身体はいつしか持ち直しており、首の腫れも程なくして収まった。今では頭痛もずいぶん回復した。


 睡眠は取れなかった。無理だ。


 蝙蝠のような魍魎が音を頼りに頭を狙ってきたら? 巨大な蚊の怪物が、ハーミットの吐く息を手繰たぐって飛んで来たら? 夜鷹よたかのような怪物がひと口で自分を丸呑みにするかも知れない。後ろから音もなく魍魎に貫かれたら? 正面から餓狼が飛び掛かってくるかも。無数の“もし”が脳裏によぎり、ハーミットは常に緊張状態を強いられた。


 攻撃はなかったが、常に闇に這い回る“何か”の音は聞こえており、モピーモピーだの、プシューという空気の抜ける音だったり、コロロロロロと常に裏で聞こえている音や、イーという断続的な音が転々と位置を変えて聞こえ、ジャラアアアという鎖でも引きずっているかのような物騒な音も何度か聞こえた。


 この中、遮蔽物もない場所で突っ立ったまま寝ろという方が無理な話だ。


 闘鬼の身体は強健だが、精神はその恩恵にあずかれていない。散々で理不尽なリンチに加え、この終わりの見えない長い夜の孤立が、ハーミットの精神をずいぶんと後ろ向きにさせつつあった。


(この夜は、あの断崖の闇黒が手を伸ばしてきて、自分を捕まえてしまったのかも)


(ひょっとすると、自分はこの闇に捕まってはいけなかったのでは?)


(もし、あの娘が日の出の方角に行けと言った意味は、急がなければ闇黒に飲まれるから、という意味だったら)


(じっと立っているだけではこの闇黒からだっせないのかも)


(このままだと二度と光をおがめない)


(このまま――)


 ゲームオーバー。


 残念。ハーミットは時間切れでリタイアとなってしまったのだった。この闇黒は敗残者の掃き溜め。


 不安と焦燥に突き動かされて、もうどうなってもいいから一か八かこの闇夜の中を走り出そうかと思い詰めるほどに追い込まれていたハーミットが、まぶたを上げて闇黒を睨み付ける。


 縦の線が見えた。赤く淡い線だった。


 ――朝だ。


 いつの間にか、うっすらと木々の幹に朱が差し始めていたのだ。


 遠方に薄い陽光を望み、ハーミットは仄かな明かりの中を呆けて立ち尽くした。救いの光明こうみょうを全身に浴びて全身の緊張が解けた。腰が抜けそうになり、両膝に手を置いた。


(――――っ!)


 空気を目一杯肺に送り込んで、安堵を込めて大きく息を吐き出した。


 これほど心強い陽の出は籠目の記憶にもなかった。


 足元には潰れた芋虫の出来損ないが、口から細い口吻こうふんを伸ばし、全身から黄土色の体液を噴き出して死んでいた。思わず脚甲でにじり潰した。それ以外、周囲の様子は何も変わっていなかった。


 昨晩と変わらず、そこに積み上がった骨があり、おぼろげな朝陽に照らされて枯木と共に陰影を作り出していた。


 離れた場所に餓狼どもがいた。魍魎の姿は見えない。


「……?」


 餓狼は動いていなかった。皆一様に膝をつき、顔を上に向けて口からだらりと舌をこぼして、がくがくと痙攣している。特に立ち上がることもなく、ハーミットに意識を向けてもいない。


(どいつもこいつも……気色悪いんだよ!)


 いい加減我慢ならず、胸中で吐き捨てた。


 やつらが何をしているのかなど、知りたくもない。


 両手を目の高さに上げた。皮膚のケロイドは綺麗になくなっており、左手の穴も塞がっていた。顔のひりつきも収まっている。視界も明瞭になった。


 首の腫れも、全身の打撲と裂傷の痛みさえも消え去った。身体は完全回復していた。


 ハーミットの身体は鼓動が落ち着くほどの十分な時間、戦闘行為から離れると修復を開始する。十分な時間さえあれば瀕死からでも息を吹き返す。それはハーミットだけではない。エリュシオンの戦士達は皆そうだった。だが、死は別だ。ハーミットは死んではならない。


「……もう一度、朝が来るとも限らない、か」


 ここは何もかもが無茶苦茶だ。急がなければならない。一刻も早く東に行かなくては。きっと、そこには何かがあって――誰かがいる。


 口を引き結んで両手を空振りすると、その軌跡にブレカートの技が刻まれた。手の爪も生えそろっていた。これで、手刀サーベル貫手レイピアも解禁できる。


 深呼吸して丹田に力を溜め、もう一度「ふー」と大きく息を吐き出し、夜明けの方角を睨み付けた。


 こうしてハーミットの熾烈な第二ラウンドが静かに始まった。



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