異形どもの抗争#1
覚悟を決めて大きく深呼吸をした。
ハーミットが走り出そうとした矢先、突如としてボーっという大型船の汽笛に似た抑揚のない重低音がこの祭儀場に鳴り響いた。
無数のチューバに囲まれて一斉に吹かれているような攻撃的音量に、耳の奥に痛みすら覚え、両手を耳に当てて顔を顰める。すると不意に、存在を忘れかけていた黒く艶めく
目が合った――というのは錯覚だろう。目に相当する部位は見当たらない。その異形は大地に立ち、太い胴体をもたげ、上から品定めするかのように覗き込んでその先端をハーミットに向けていた。
先端は蛇腹がすっぱりと輪切りにされた状態で、断面上部に五本の触角が放射状に生えており、黒と黄色の縞模様の触角は何かを探し求めて空中を揺らめいていた。あれが頭部だと思われる。
なによりもハーミットの警戒心を煽るのが、その頭部から突き出した牙だ。舌を引き抜く鬼の“やっとこ”に近い形状の
黒く艶めく大牙の中心には、てらてらした質感の
海綿体の内部に不吉な何かが囚われていて、外に出ようと、あの手この手で内側から押している。そんな破格の
鳴り止まぬ重低音は、その血染めの海綿体から深紅の蒸気と共に吹き出しているようで、今なおハーミットに向けて容赦ない爆音が叩きつけられている。
頭部とは反対の地面に付いた部位には、びっしりと
この異形もまた理解不能な存在だ。そういった意味で、闇黒から染み出した魍魎どもと同じ
ハーミットに向けて上から首をもたげた姿勢のまま、射干玉の胴体を繰り返し伸縮させており、連なった漆黒の体節の隙間からはその下の黄色い肉が覗いては隠れ、覗いては隠れ。黄色いリングが全身に明滅して見える。
ハーミットに向かって大牙を目一杯に広げたまま、ぴくりともしないその様子はまるで――。
(ひょっとして、威嚇されてる――っ⁉)
左右から火花が散った。
反射的にハーミットが両腕を左右に構えたのと、金属をひっかく不快な音が両耳を刺激したのはほとんど同時だった。左右から万力の如き圧力で腕を締め上げられ、前からは凄まじい衝撃に押された。金属製の靴底が瑠璃の床をガリガリと削りつつ勢いよく滑り続け、やがて瑠璃の丘の外まで押し出されると、今度は両足が地面を掻いて土煙が立った。地上の色硝子が脚甲に弾かれてキラキラと宙を飛んでいく。
射干玉の異形が、バネのように引き絞った巨体を弾いて飛び付いてきたのだ。
目にも留まらぬ速度で迫った異形の大牙を、両腕の
その事態にハーミットは内心で舌を打った。この敵対者の脅威度を最大限引き上げる。
ハーミットの戦闘スタイルは
にもかかわらず、この異形の
全身を強張らせて抵抗するが、身動きが取れず
改めて見ると、でかい。ハーミットの身長を超える太い胴体だ。その異形の頭部がハーミットの眼前に広がっている。中央にある鮮血の海綿体に向かって
上部から伸びてきた五本の毒々しい触角が、身動きの取れないハーミットの首を探して目の前でうねうねと
「ぐっ――」
背筋に生理的な悪寒が走り、とっさに拘束された両腕を支点に身を丸めて両脚を振り上げた。ハーミットはその姿勢から、てらついた鮮血の海綿体めがけ、ドドドッと小気味よい音を立てて両脚で
右脚の蹴りが海綿体にめり込み、左脚の二撃目がその表面の薄い膜を破ると、中からゼリー状のものが溢れて脚甲がその中に沈んだ。異形の頭部にびっしりと生えた返しの棘も、ハーミットの
最後に右脚で放たれた三撃目で生じた強い
「――ぐぅ……ああっつ!」
地面に伏したまま、恐る恐る目を開いて両手を確認すると、蒸気に
少しだけ吸ってしまったかも知れない。喉の奥にも灼けつく痛みを感じる。
「ご、はっ……この――‼」
射干玉の異形が発するボーッという重低音が、途切れ途切れの悲鳴となって断崖に鳴り渡る。
ハーミットの【トライデント】によって海綿体を潰され、血煙のような蒸気をまき散らした異形は、全身の体節の隙間からも蒸気を噴き上げて怒りを露わにし、その姿を赤い霧の中に隠した。巨体をくねらせて持ち上げ、再び大牙を全開にしたシルエットが霧の奥に浮かぶ。
鮮血の霧に浮かんだ、おどろおどろしい影を見上げ、籠目の記憶の片隅に残っていた恐怖の怪物の名前が、連想の勢いのままに口を衝いて出てしまう。
「――
それが“契機”だったのだろう。ハーミットの呼び声に応じて重い汽笛の音がぱったりと止んだ。一拍置いて、ハーミットを見据えて一時停止したバンダースナッチが、これまで以上に傍若無人な吠え声を叩きつけてくる。その
あの異形に表情などありはしない。だが、まるで親の
「なんだよ――」
灼け爛れた両手を地面に突いて立ち上がり、ハーミットも負けじとドスを利かせた大声を張り上げ、自らを鼓舞する。
「――こっちだって頭に来たわ! ぶち壊してやる……このど畜生がっ‼」
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