断崖の戦端
ドサァッ。
「……」
ドサァッ。ドサァッ。
「……いや」
ドサァッ。ドサァッ。
「ちょっと待て!」
断崖の向こう側には何もなかった。果てしない虚空だったはずだ。まかり間違っても“あんなもの”が潜んでいるわけがない。
名状しがたい何かが、断崖の
――あるモノは、ハーミットの身長ほどもある褐色の毛髪の塊のようで、髪の長い女の頭部が放り出されたようにも見える。その長い毛を使って地面から身体を浮き上がらせ、もぞもぞと辺りを這いずり回っている。
――あるモノは、鳥の風切り羽のようなものが中央から放射状に無数に生えていた。ウニの棘が全て羽になっている感じだ。それを一枚一枚器用に動かしながら空をふわふわと浮かんでいる。これがかなり大きく、ハーミットの身長の倍ほどもあるにもかかわらず、どういった原理か知れないが優雅に空中を漂っている。
――あるモノは、大口を開けた色とりどりの半透明の球体が、ブドウのように鈴なりに実っており、一つひとつがパクパクと口を動かしている。信じられないほど軽いようで、周りの巨体によって巻き起こされる風に
――あるモノは、地面を
――あるモノは、半透明かつ緑色で、弾力性がありそうな棒状の、三脚の上にまた棒が一本伸びているような、そんな姿だ。三本の脚で身体を支持して立ち上がっては、上に突き出した残りの一本を地面に突き立て、その後、支持脚の内一本を抜いて上空に掲げてはまた別の場所に突き立てることを繰り返し、移動している。その棒の全身からは、ぷつぷつと何か粒のようなものを常時吐き出しており、その粒は重力に逆らうように空に向かって浮き上がっていく。
――またあるモノは、酷く攻撃的な外観をしており、シルエットは病的にやせ細った六本脚の巨馬のようだった。ワニのように裂けた口に目鼻のない頭部が“前後”に付いており、
――またあるモノは、金属感のある鋭い鱗で全身が覆われており、正しい形状が分からない。頭部に当たる部分の中央から大量の鱗が“生成”されて湧き出しており、その湧き出しで地面を進んでいる。ちくわの内側からうろこが湧き出してきて、逆側の穴に向かってその鱗が回収されていく様を思い浮かべると大体正しい動きだ。とにかく、未知の動きを披露している。不気味さが一周回って感心する。
――またあるモノは、球体の胴体を中心にして上下にねじれながらその身体が伸びており、一本脚と一本角が生えて見える。漏斗を上下から合わせたような形だ。他のやたらとアクティブな連中とは違い、細い一本脚で枯れ木に混じってひっそりと佇んでいる。中心の球の表面がハスの実の如く穴だらけで、全ての穴の奥から弾頭のようなつるっとした何かが覗いている。球体は定期的に中央で真っ二つに割れ、上下にぱっくり開いて閉じるを繰り返しており、その球体の断面には大量の黄ばんだ
あらゆるモノが、まるで生き物のお題で伝言ゲームに失敗したかのように、ハーミットの生物観から大きくはみ出していた。とても自然淘汰を経た生き物とは思えない。そもそも生物なのかすら迷う。
もはや既知の生物では形容しきれない。創造に失敗した
――
まことに個性的な外観の魍魎どもが、絶え間なく闇黒の壁から染み出して折り重なり、絡み合って
やがて魍魎が断崖の上でひしめくと、それは生理的嫌悪感を禁じ得ない侵食となって、徐々にこちらに打ち寄せ始める。
特にハーミットが不気味だと感じるのは魍魎が声を発していないことだ。キィキィでもゲーゲーでも、何でも、それらしい音を出せばいいものを。肉がぶつかる、肉が絡み合う、肉が地面を擦る、肉が大地を打ちつける。そういった音しか聞こえてこない。
「ぐぅ……」
卒倒しそうになる光景だったが、口を固く一文字に結んで気を強く持った。自然と両拳に力が入る。
ハーミットは、かつて栄光に座した者の一人だ。
おまけに相手が未知の異形とくれば、今戦うべきではないという理性の声が闘士の本能に待ったをかける。
ハーミットの身体は、この理解を超えた事態に一時停止してしまっていた。すると、魍魎どもが巻き起こす物騒な鳴動に呼応して、今度は断崖の逆側――色硝子が散らかった一帯から、大気を震わせる野太い
「次から次へと、お次は何だよ……」
ややうんざり気味に音のする方向を見ると、そちらでは真っ白な何かが地面から湧き出しているところだった。
――墓地から筋骨隆々の白いゾンビが湧き出してくると、このような光景になるのだろうか。
地面から腕を突き出し、身を乗り上げるようにして上半身をせり出すと、地表に現れたのは大きな
露わになった怪物はハーミットよりも二回り以上大きな体躯を誇っており、二本脚で立ち上がって一歩を踏み出すと、とても生物とは思えない重量音が恐るべき
腕はぱんぱんに膨れ、両手の爪は太く鋭い。だらりと開かれた大顎は豚を丸呑みにできそうなほど大きく、そこから覗いた牙はまるで恐竜のそれだ。
大まかに言って、白い狼男のゾンビというのが第一印象だったが、実際はその姿は多様だ。異様に長い尾の、四足歩行の、腕が二対の、六つ目の、更には毛皮のような質感のものから、つるりとした白い外骨格をまとったものまでいた。
――薄っすらと青みがかった、
この餓狼どもにはひとつの共通点があった。身体のどこかに色硝子が埋まって顔を出しているのだ。先ほどまで地面に埋まっていたカラフルな色硝子を、白亜の体躯の所々に埋め込んで大地から這い出してくる。
背中や頭部に数個埋め込んだ餓狼が大多数だったが、中には、全身くまなく色硝子を埋め込んでいて、動く硝子人形めいた状態のものまでいた。そして、その全身色硝子の餓狼が特に危険だとハーミットの直感は告げていた。
もはやこの地に埋まっている無数の色硝子が湧き上がってくるのは時間の問題だと思われた。とんでもない数だ。
前門の猟奇的餓狼。後門の悪夢的魍魎。
気が付くと、前後を化け物どもに挟まれており、ハーミットはこの時ようやく自身が置かれた状況を理解した。
餓狼どもが振りまく鬼気迫る殺気は、開戦直前のそれだ。呪いと罵倒の文句を宿した呻き声が、震える牙の隙間から蒸気と共に漏れ出している。
かたや、断崖からはどたばたと不規則にのたうち回る音と、何かが擦れる音、そして水溜まりを歩くような湿った音が聞こえてくる。無邪気に暴れまわる理解不能な巨体というものにも、なかなかの危険度を感じる。
ハーミットがどうするべきかと苦慮していると、前方からひとつの遠吠えが暗黒の空をつんざいた。酷く醜い潰れた
餓狼が一匹、また一匹とこれに呼応して声を上げ始め、その荒ぶる共鳴が最高潮に達した時、戦いの火蓋は切って落とされた。
一匹の餓狼がハーミットの脇をすり抜けて後方に突進していくと、後方から野獣の咆吼が上がり、耳障りなジッジッという謎の音と共に巨体が組み合う音と振動が伝わってきた。ハーミットはしかし視線を前方から逸らせなかった。餓狼の軍勢が一斉に突撃を開始したからだ。
自身に向かってくるものがいれば迎撃しようと身構え、
「――っ?」
そして、見事にスルーされた。
ハーミットのことはまったく眼中にない、といった具合に、餓狼の一群が彼の後方に飛び掛かっていく。負けじと巨体の魍魎が重量を生かした突進で餓狼どもを吹き飛ばし、隊列に割れ目を作り出すと、気味の悪い肉塊の群れがその亀裂に浸透していった。
こうして辺り一面で乱闘が始まった。肉と肉のぶつかり合う凄まじい音響と共に、ハーミットの周りは怪獣大戦争といった様相を呈していく。
餓狼が顎で食らいついて魍魎の肉を
かと思えば、全身色硝子の餓狼が前に出ると、その剃刀の羽を無造作に鷲掴みにして引きちぎり、噴き出した透明な体液を物ともせずに、逆にその羽を使って周りの魍魎共を引き裂いてしまう。
獣性むき出しの咆吼をまき散らし、そこかしこで千切っては投げ、千切っては投げ。
その煌びやかな巨躯、獰猛な
ハーミットは一人取り残されて、ぽつり。
「いや、いいんだけどね……」
自分がその騒乱の当事者でないことに若干肩透かしを食らうも、ほっと一息つき、気を取り直して素早く次の行動に算段をつける。
あの藤色の娘のことが気になって仕方がない。何もできずにこの場を去ることが、まるで彼女を置き去りにする冷淡な行為に感じられ、
今は見事にスルーされているが、何を切っ掛けにして周囲の殺意が自分に向かってこないとも限らない。うっすらとではあったが、森の中は視界が通るほど明るくなり始めている。森に飛び込んでそのままここを後にしよう。
そう考えたハーミットが、遠くに見える森の境界までみっちりと繰り広げられている激しい戦場を臨んでぼやく。
「――この鉄火場に突っ込むのかよ……やばすぎるだろ」
目の前で大乱闘がいよいよ盛り上がりを見せており、その現場に踏み込むことに
飛び散る肉片。舞い上がるどこかの部位。無慈悲な
――これは絶対に巻き込まれたくない。
それでも前に出るしかない。自分の後ろには断崖と闇黒しかないのだから。
あの夜明けの方角に向かって走る。今はそれしかない。
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