マルモ編「あなたと共に」最終話

 初めて見るシルヴィア様は、けして美しいとは言えないがとても優しげで、微笑んだらきっと可愛らしいだろうと思える、そんなお顔立ちをされていた。

 しかし彼女が、こちらに向かって微笑む事はない。彼女が目を開く事は、もう二度とないのだ。


「……母上……」


 憔悴し切った声で、エンデュミオン様がシルヴィア様を呼ぶ。しかしシルヴィア様からの返事が返ってくる事は、ない。

 いつかまた、母子共に暮らせる日を夢見てきたエンデュミオン様。その願いが叶う事は、もう永久にないのだ。


『王妃様がご崩御なされた』


 その噂が城内に広がったのは、突然の事だった。噂を聞いたエンデュミオン様は王を問い詰め、それが真実であると知ったのだ。

 死因は、急な病だったそうだ。十日前に倒れられ、治療の甲斐なく亡くなられたと。

 国葬の為、シルヴィア様のご遺体は離宮より城に運ばれた。そこでエンデュミオン様は、やっと母君と面会する事を許されたのだ。


 棺に寝かされたシルヴィア様の傍らに、エンデュミオン様が力無く跪く。そして冷たく固くなった頬に、撫でるように触れた。

 ――今のエンデュミオン様にかける言葉が見つからない。シルヴィア様が死んだと聞かされて以来、睡眠も食事もろくに摂っておられない。

 そのショックはエンデュミオン様から、涙すらも奪い取ってしまったらしい。泣きもせず、ただ抜け殻のように日々を過ごすエンデュミオン様のお姿は、とても悼ましいなどという言葉で表現し切れるものではなかった。


「……? これは?」


 しかしその時、シルヴィア様のご遺体を見つめていたエンデュミオン様のご様子が変わる。突然何かに気付かれたように目を見開かれると、シルヴィア様のご遺体をそっと持ち上げられた。


「エンデュミオン様……?」


 声をかけるが、エンデュミオン様はそれに応えない。ただ無心で、シルヴィア様のご遺体を隅から隅まで調べ続けた。


「……そういう事か……あの男……!」

「あっ……エンデュミオン様、どちらへ!?」


 やがてエンデュミオン様は憎しみに顔を歪ませると、足早に一人部屋を出てしまった。一度はそれを追おうとしたが、エンデュミオンのご様子が何故急変したかも気になった。

 刹那の葛藤の末、私はシルヴィア様のご遺体の方に近付く。そしてエンデュミオン様が見ていた辺りを、念入りに調べてみた。


「……これは」


 見つけた。シルヴィア様のご遺体の首の後ろから背中にかけて広がる、微かな黒い斑点。

 この五年で私は、エンデュミオン様の御身を守る為毒の知識も身に付けた。その中で学んだ。カラヴァという花の根を使って作った毒は、摂取すると肌の下に黒い斑点が出来ると。

 ――シルヴィア様は、毒殺された? その考えに至った時、私はエンデュミオン様が何を思われたのかを理解した。


 エンデュミオン様は恐らく、王がシルヴィア様を殺したと思われている。確かにシルヴィア様を殺して得をしそうな人間など、王の他には思い当たらない。

 王にとってシルヴィア様は、世継ぎであるエンデュミオン様を得る為だけに結婚した形だけの妻。シルヴィア様がまだ城にいた頃から侍女に手を付けていた事が、それを明確に表している。

 その形だけの妻に、自分のする事に口を出されたくない。だからこそ王は、シルヴィア様を離宮に追いやった。

 しかしそれは、離宮を維持する費用が別にかかるという事でもある。もしも王妃様が死ねば、人も維持費ももう割かなくてよくなる――。


 確かに王には、シルヴィア様を殺すメリットがある。しかしだからと言って、今更シルヴィア様を手にかけるだろうか?

 私はシルヴィア様に、生きているうちに直接お目にかかった事はない。だから幾分、こうして冷静に状況を分析する事が出来る。

 だが、エンデュミオン様は――。今のあの方が、そこまで冷静に物事を考えられるとは思えない。

 やはりエンデュミオン様を追うべきだったと、今になって後悔する。今のあのお方は、何をするか私にも解らない。

 己の判断ミスを呪いながら、私はすぐにエンデュミオン様捜索の手配を始めた。



 エンデュミオン様がお戻りになられたのは、その日の夜遅くになっての事だった。但し、お一人で戻られたのではない。後ろに、奇妙な人物を一人伴っていた。

 その人物は聖職者にも似た白いローブを身に纏い、更にその上に白い外套を羽織っていた。そしてその顔は――上半分が目元に細い穴が空いただけの真っ白な仮面に覆われていた。


「エンデュミオン様、その者は……?」

「これはこれは。初にお目にかかります」


 怪しげな風貌を訝しむ私の前に、仮面の人物が歩み出る。そして芝居がかった調子で、仰々しく礼をしてみせた。


「私はエンプティと申します。恐れ多くもエンデュミオン王太子殿下に招かれ、相談役の任に就く事になりました。どうぞよろしくお願い致します」


 言葉を紡ぐ声色の、何と薄気味悪かった事か。とても蠱惑的な女の声なのに、同時にどこか薄ら寒いものをも感じさせるのだ。

 だが問題はそこではない。今この女が言った内容こそが問題だった。


「相談役……? エンデュミオン様、どういう事ですか!」


 問い詰めようとした私に、エンデュミオン様が顔を向ける。その顔を見た途端、私は思わず言葉を失った。


 それは、底冷えがするほど情の欠片もない、冷徹そのものの顔だった。


「総てはエンプティの言った通りだ。これからは、エンプティを通じてお前達に指示を出す。エンプティの言葉は私の言葉、そう思え」


 酷く冷たい声で、エンデュミオン様がそう言った。それがあのお優しいエンデュミオン様の声であるとは、一瞬解らないくらいだった。


「しっ、しかし……」


 そのお変わりようが信じられなくて、何とか言葉を振り絞って食い下がる。今のは何かの間違いだと思いたくて。しかし。


「マルモ。……私の命が聞けないのか?」


 返ってきたのは、更に冷たいそんな言葉だった。その瞬間、私達の間に見えない、けれど決定的な亀裂が生まれたのが解った。

 エンデュミオン様はこれまで、我々専属の者に命令という言葉を使った事は一度もなかった。私達に何かをして欲しい時は、いつも「頼む」という体だった。

 そのエンデュミオン様が、今、私に対し命令を下した。それは、私達の関係がもう昨日までのものではない事を意味する。

 我々は、落とされたのだ。友人関係にも似た立場から、ただの手駒へと。


「……かしこまりました。エンデュミオン様」


 やっとの思いで、私は頭を下げそれだけを口にした。エンデュミオン様のお顔を見る事は、もう怖くて出来なかった。

 憎しみは、ここまで人を変えてしまうのか――。その事が、私にはとても恐ろしく感じられた。


「殿下の事は、これからは私めにお任せ下さい。同じ殿下に仕えるもの同士、仲良くやりましょう、マルモ殿」


 心なしか愉悦の混じったような声で、女――エンプティが言う。恐らくはこの女だ。この女が何かを吹き込んだ事によって、エンデュミオン様はこうまで変わられたのだ。

 だが、そう思ったところで私にはもう何も出来ない。エンデュミオン様は我々ではなく、この女を側に置く事を選んだのだから。私が何を言おうと、最早エンデュミオン様に届く事はないだろう。

 もしも。もしもあの時、エンデュミオン様をすぐに追いかけていれば。結果は、何か違っていただろうか。

 去っていく二人の足音を聞きながら、私はただそれだけを悔やみ続けた。



 それから私を初めとしたエンデュミオン様専属の者は、貧民街で私兵集めに奔走する事となった。ある者は金を積み、ある者は力で従わせて屈強な者達を次々とエンデュミオン様の配下に引き入れていった。

 ここまで来れば、私にもエンデュミオン様が何をなさるおつもりなのか解った。反乱だ。あの方は王に対し、戦を仕掛けようとしている。

 この反乱は成功するだろう。私はそう思っている。腐敗に慣れ切った正規兵達に、蜂起した民衆をどうにか出来るとは思えない。

 同時に気付く。あの女の――エンプティの狙いは、エンデュミオン様を王位に就ける事。そして王となったエンデュミオン様に、何かをさせる事だと。

 それが何なのかは解らない。しかし私にはそれが、とても良くない事であるように思えてならなかった。


 ――今のエンデュミオン様を見限って去っていく事は簡単だ。だが私にも、他の者にもそれだけは出来なかった。

 我々が去れば、あの方は本当に一人ぼっちになってしまう。そう思うと、あの方からどうしても離れられなかったのだ。

 王が死ねば、あの方の憎しみは晴れるのだろうか。それでも憎しみが晴れなければ、あの方はどうするのだろうか。

 生まれて始めて、私は神に祈る。どの神だって構わない。あの方の憎しみを、孤独をどうか拭い去って欲しい。


 それが叶うなら、私はどうなっても構わないから――。






fin

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る