マルモ編「あなたと共に」 第7話
それから私は、エンデュミオン様専属の侍女として城に住む事になった。城での生活は、予想より遥かに大変だった。
まず、覚えるべき仕事が非常に多かった。掃除、洗濯から始まり、エンデュミオン様の一日のご予定を総て頭に叩き込みそれらが円滑に行われるよう考えて動く必要があった。
加えて私は、字を読む事も書く事も出来なかった。夜仕事が終わるとエンデュミオン様が直々に字を教えて下さったが、それに甘えてはいけないと寝る間も惜しんで自主的に勉強もした。
周囲の目も冷たかったが、これは予想出来ていた事だった。ただでさえいけ好かない貧民街出身の小娘が、突然王子専属の侍女になったのだ。エンデュミオン様の上辺しか見ない者達が、何かしら勘繰るのは当然と言えた。
それでもエンデュミオン様が――正確にはその父である王が余程恐ろしいのか、直接嫌がらせを受けるような事はなかった。ただ私を見つめる目だけが、底冷えがするほど冷たかった。
エンデュミオン様の侍女となって一年ほど経った頃、私はエンデュミオン様に剣を教えて欲しいと願い出た。切欠は、エンデュミオン様がいつものように視察に出た貧民街から怪我をして戻られた事だ。
幸いお怪我は大した事はなかったが、今更のように貧民街は危険な場所なのだと実感した。城の他の者達が、貧民街を忌み嫌うのも解るような気がした。
今後もエンデュミオン様を一人で出歩かせるのは不安だ。しかし城の兵が付いては却って物々しくなるし、何よりエンデュミオン様自身が貧民街に偏見のある者と共に行くのを良しとしない。
ならば私自身が戦えるようになり、エンデュミオン様をお守りするしかない。エンデュミオン様は私を危険な目には遭わせられないと始めは渋い顔をしていたが、私が真剣である事を知ると諦めて剣を教えてくれるようになった。
あまり出来のいい生徒とは言えなかった私だが、それでも半年ぐらい経った頃には共に視察に出掛けられるまでになれた。初めて二人城を出た日は、自分の手でエンデュミオン様を守れる事がとても嬉しかったのをよく覚えている。
貧民街から時々気になる子供を連れ帰るようになったのは、それから間も無くの事だ。ある時私達二人は、道端で踞ったまま動かない私よりも幾分か小さな子供を見つけた。
誰にも気に止められず、打ち捨てられようとしている子供。その姿が、かつての私と重なった。
思わずエンデュミオン様を振り返った私に、エンデュミオン様は小さく頷き返した。そしてその子供に声をかけ、私と同じように城へと連れ帰ったのだ。
子供は最初は警戒していたが、私達に本当に悪意がない事を知ると何か礼がしたいと言ってきた。そこでエンデュミオン様が、やはり自分専属の召し使いとして雇い入れる事を決めたのだった。
思わぬ後輩が出来た事で私の仕事に後輩の指導が増えたが、悪い気はしなかった。寧ろ仲間が増えた事に、嬉しさを感じた。
そうしてエンデュミオン様に遣える子供達は、どんどん増えていった。私達が気に止める子供達は、貧民街に暮らしていたというのに皆一様に義理堅かった。
唯一の懸念は王の反応だったが、エンデュミオン様によるといい顔はしていないがエンデュミオン様が総ての責任を負うならと許可されているらしい。自分の責任にならないなら何をしてもいいとは一国の王としてどうかとも思うが、こちらとしてはありがたい。
字を学び、有事の際に備えて剣も学び。こうしてエンデュミオン様の私設兵団とも呼べる一団は、完成していったのだ。
しとしとと降る雨を、窓の内側から眺める。今日は朝から曇り空だったのだが、夕方頃から降り始め、夜になった今でも止む事なく降り続いている。
「何を見ているのだ、マルモ?」
声をかけられ振り返ると、本を読んでいらしたエンデュミオン様が顔を上げ、こちらを見つめていた。私はエンデュミオン様に向き直り、小さく微笑みかける。
「少し、雨を見ながら昔の事を思い出しておりました」
「……マルモ。いつも言っているが二人の時は敬語はいいと言っただろう」
「そうは参りません。いつ誰が聞いているか解らないんですよ? 臣下に無礼を許しているとなれば、エンデュミオン様が舐められます。エンデュミオン様を優しいと思って頂けるならともかく、舐められるのはエンデュミオン様遣えを取り纏める者としてこのマルモ、我慢がなりません」
「仮にも主君にその遠慮のない物言いは、無礼ではないのだな……」
わざとらしく嘆息するエンデュミオン様に、笑みを深めてみせる。最近はこんなやり取りも、私達のコミュニケーションの一つになっていた。
「それで、昔の事とは?」
「私達が初めて出会った、あの夜の事です」
「……あの夜か」
エンデュミオン様が立ち上がり、窓の方へと歩み寄る。そして私の隣に並ぶと、暗い雨空を見上げた。
「早いな。あれからもう五年になるか」
「はい。毎日が忙しくて、あっという間でした」
「後悔しているか?」
「いいえ、全く」
私がかぶりを振ると、エンデュミオン様は嬉しそうに微笑んだ。しかし不意に、その表情を曇らせる。
「……エンデュミオン様?」
「マルモ……私には、雨の夜というともう一つ思い出される事があるのだよ」
「もう一つ?」
そう問い返すと、エンデュミオン様はふっと遠くを見るような目になった。ここにいるのに、まるでここにいないかのような表情。
「私には、弟がいた」
告げられたその言葉に、耳を疑う。そのような話は、今までただの一度も聞いた事がなかった。
「今から十四年前になる。まだ母上が、この城で暮らしていた時の事だ」
「シルヴィア様が?」
シルヴィア様――王妃様の話は、少し聞いた事がある。この城より遠く離れた離宮に住んでいて、実の母子でありながら二人が会う事は王の命により禁じられているという事だった。
「当時、この城にはアルペトラという侍女が勤めていた。母上とは同郷でな、まるで本当の姉妹のように仲が良かった。私にもとても良くしてくれて、私もまた彼女を義姉として慕っていたものだよ」
そう語るエンデュミオン様の顔を、何と表現したものか。懐かしい思い出に綻んでいるようでもあり、もう戻らない過去への哀惜に満ちているようでもあり。そんな様々な色の混じった、不思議な顔をしていた。
「しかしある日の事だ。彼女が妊娠している事が発覚した。相手は……父上だ」
だがそれも束の間、憎しみに顔を歪ませるエンデュミオン様にハッと息を飲む。王の子を宿す――その意味は、この五年で嫌でも聞き及んでいた。
王は、時折気に入った侍女に手を付ける。王は避妊を一切しないらしく、やがてその侍女は王の子を身籠る。
しかしそうなったが最後――その侍女は、お腹の子ごと王に処分されてしまう。跡目争いを起こさない為らしいが、それならば避妊をすればいいだけの話だろう。身勝手にも程がある。
それを恐れて王を拒もうものなら、殺されはしないが城を追い出される。その後の生活の保証などありはしない。
即ち、王に気に入られた時点で未来などないのだ。この城の侍女達には。
……でも、おかしい。王の子を身籠り殺された侍女は、私がこの城に勤め始めてからも多くいた。
その中でそのアルペトラという侍女の子だけを指して弟と呼ぶのには、どうにも違和感が拭えない。例え思い入れのある侍女だったとしても。
「……母上は、このままではアルペトラまで殺されてしまうと危惧した。幸いまだ父上はアルペトラの妊娠に気付いていなかったが、知れるのは時間の問題だった。だから母上は……彼女を城から逃がす事にしたのだ」
しかし私の疑問には、次のエンデュミオン様の言葉が答えてくれた。ならば、その子はどこかで産まれたという事か。
いや、ならばなぜ「いた」と過去形なのだ。ひとまずここは、エンデュミオン様の話に集中した方がいいかもしれない。
「こんな、雨の日の夜だった。私と母上の見守る中、アルペトラは城の中でも限られた者だけの知る秘密の通路を使って城を脱出した。アルペトラの脱出の手配は、当時城にいたジノという将軍がやってくれた。彼もまた私にとって兄であり、もう一人の父のような頼れる存在だった」
「それから……どうなったのです?」
「アルペトラが消えた事は、すぐに父上に知れた。父上はジノを問い詰めたが、ジノは頑として行方に関して口を割らなかった。ジノは仮にも将軍だ。侍女達と違って、おいそれと処刑する訳にもいかない。業を煮やした父上は……ジノから将軍職と貴族位を剥奪し、城から追放した」
そう言ったエンデュミオン様の顔が、更に険しくなる。当時の怒りを、思い出しているのかもしれない。
「それも、ただジノを追放しただけではない。父上はジノの追放の理由を、母上と不義の関係にあったからとした。そしてそれを利用し、母上をそれまで別荘に使っていた離宮に追いやったのだ。二度と自分のする事に手を出せないように!」
……そうだったのか。ここに来て、やっと私はエンデュミオン様が王を憎む理由を理解した。
エンデュミオン様は、総てを奪われたのだ。姉のように慕っていた女性も、兄のように頼りにしていた男も、そして実の母君も。
十四年前と言えば、エンデュミオン様もまだ幼かった筈。親しかった総てを失った衝撃は、幼い心に果たしてどれほどの陰を落とした事だろう。
「……アルペトラという侍女は、それから?」
当時のエンデュミオン様の心境を思いながら私が聞くと、それまで憎しみに歪んでいたエンデュミオン様の顔がふっと空虚なものに変わった。そして、感情のない声でこう呟いた。
「――死んだ」
「え?」
あまりに呆気ないその言葉に、思わず聞き返してしまう。アルペトラは――城を出た後、死んだのか?
「成人の後、私も人を秘密裏に使って調べさせた。アルペトラは放浪生活の後この国の中でも比較的豊かなアウスバッハ領まで辿り着き、そこで男児を産み、すぐに死んだそうだ。そしてその子も……死産だったと」
淡々と、あくまでも淡々とそう述べるエンデュミオン様に、胸が締め付けられるようになる。エンデュミオンから総てを奪う原因となった子は……もう、この世にいないと言うのか。
「クラウディオ」
不意に、エンデュミオン様が一つの名を呼んだ。淡々としていた声に、深い悲しみの色を混ぜて。
「生きていれば、そう名付けられる筈だった。城を出る前にアルペトラが言っていた。この子はきっと男の子だ、産まれたらクラウディオと名付ける、と……」
「エンデュミオン様は……その子が憎くはないのですか? その子さえいなければ、エンデュミオン様は今頃……」
疑問を口にする私に、エンデュミオン様は小さくかぶりを振った。そして視線を落とし、とても悲しげに答える。
「子供に罪はない。憎むべきはアルペトラを孕ませたあの男であり、弟ではない。同じ呪わしき男を父に持つ、哀れな弟……。もし弟が、私の分まで健やかに、元気に生きていてくれたなら……私の人生も、もっと明るかったかもしれないな……」
その時、私は気付いた。気付いてしまった。
このお方は、今も孤独なのだ。エンデュミオン様自身を慕う者が、これだけ増えてもなお。
勿論、初めて私と出会った頃よりは孤独感は薄れているだろう。少なくともあの頃よりは、エンデュミオン様の顔は明るくなられた。
だが――私達は所詮は他人だ。エンデュミオン様の母には、弟にはなれない。
このお方が真に求めているのは、家族の温もり。忌まわしさではなく温かさを感じる、確かな血の絆。
それは、私達が幾らエンデュミオン様を想おうとも絶対に与えられないもの。今のエンデュミオン様が、どれほど焦がれようとも絶対に手に入らないもの――。
「……私は、私達は、ずっとエンデュミオン様のお側におります。ずっと……」
私には、そう伝える事しか出来なかった。それが何の慰めにもならないと解っていても。
エンデュミオン様の真の望みの前に、私達はあまりにも無力。それでも。それでも愚直にお側に居続ける事しか、私達には出来ない。
それが少しでも、エンデュミオン様の心を軽くしてくれる事を願いながら――。
私の言葉に、エンデュミオン様はやっと私の方を振り向いた。それから、穏やかな――けれどどこか儚げな笑顔を浮かべ、言った。
「ああ……ああ、そうだな。ありがとう、マルモ。お前達の事は、本当に頼りにしている」
「はい。私達の命はエンデュミオン様のもの。それをお忘れなきよう」
エンデュミオン様が安心出来るよう、私も顔に笑顔を作る。これでいい。――少なくとも、今は。
窓の外では、いつ止むとも知れぬ雨がなおも降り続いていた――。
――この時の私はまだ知らない。これがエンデュミオン様と二人きりで話が出来た、最後の夜になった事を。
これから間も無く、私達の運命の歯車は大きく狂い出す。そう――。
王妃シルヴィア様の、突然の死によって。
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