マルモ編「あなたと共に」 第6話

「落ち着いたか?」


 やっと私の涙が引いてきた頃、優しい声でエンデュミオンが言った。私はのろのろと顔を上げ、こくりと小さく頷く。


「よかった。急に泣き出すから慌ててしまった」

「……あの……」

「ん?」


 おずおずと口を開いた私の顔を、エンデュミオンが覗き込む。それに少し気恥ずかしさを感じながら、私は今の素直な想いを口にした。


「……ありがとう……」


 すると、エンデュミオンは驚いたように目を瞬かせ。ややあって、嬉しそうに破顔した。


「――どういたしまして。お世辞でない感謝の言葉を貰ったのなんて久しぶりだ」

「なあ……そういえばエンデュミオンは何者なんだ? こんな凄い場所に住んでいたり、沢山の大人に言う事を聞かせたり……」


 ところが続けて私がそう問うと、その顔が急速に強張る。……もしかして、聞いてはいけない事だったのだろうか。


「……それは……」

「エンデュミオン、いるか?」


 不安に駆られながらエンデュミオンの返事を待つ私の耳に、突然別の声が割り込んできた。途端、エンデュミオンの体がびくりと震えたのが肌越しに伝わる。


「……エンデュミオン?」

「マルモ、私が離れたらすぐ扉の方を向いて頭を下げるんだ。私かあの声の主がいいと言うまで決して顔を上げてはならない。出来るか?」


 今までとは違うエンデュミオンの緊迫した声に、自分の体まで強張るのを感じる。私が慌ててこくこくと頷くと、エンデュミオンはそっと私から離れた。

 急いで扉に向き直り、大きく頭を下げる。下に注がれた視界に、幾分か固いエンデュミオンの声が響く。


「はい。今参ります、父上」


 視界の端で、エンデュミオンの足が扉へ向かう。……父上? いくら無教養な私でも解る。父上とはつまり、父親の事だ。

 私達貧民街の人間でもないのに、父親が部屋を訪れたというだけでこんなにも緊張感のある空気になってしまうものか? 疑問を抱く私を余所に、エンデュミオンの手によって部屋の扉が開かれた。


「父上、お待たせしました」

「うむ。……何だその服装は」


 耳に聞こえる、咎めるような声。それが、私を抱き締めた時の汚れの事を言っているのだとすぐに解った。


「申し訳ございません。少々羽目を外してしまいました」

「すぐに侍女に着替えを持って来させる。もう少し、この国の世継ぎである自覚を持って貰わねば困る」

「肝に銘じておきます。して父上、本日は何用でしょうか」


 私のせいでエンデュミオンが叱られてしまった、そう申し訳なく思っていると不意に視線を感じた。浴び慣れた、冷たく蔑むような視線。


「……ふん。貧民街から女を連れ帰ったと聞いたが、まさかこんな子供だとは。年頃だというのに未だに女を知らんと思っていたら、そのような趣味がお前にあったとはな」

「父上! 彼女はそのようなつもりで連れ帰ったのではありません!」


 父親の言葉に、エンデュミオンが声を荒げる。エンデュミオンにそのつもりがないのは、とっくに解っていた。

 これは、エンデュミオンに対する侮辱だ。そう思うと、顔の見えないこの父親に怒りが沸いてきた。

 今すぐ顔を上げ、思い切り睨み付けてやりたい。けれどエンデュミオンはこう言った。自分か父親がいいと言うまで決して顔を上げるなと。

 もしその約束を破ってしまえば、とても良くない事が起きる。何故だか、そんな予感がしてならなかった。


「……まあいい。子供なら孕む心配もないからな。女遊びは構わんがくれぐれも妊娠はさせるなよ。処理が面倒だからな」

「……!」


 その言葉の後、扉の前から去っていく複数の足音が響いた。扉の向こうにいたのはエンデュミオンの父親だけではなかったと、その時私は初めて気付いた。

 足音が完全に聞こえなくなっても、エンデュミオンは何も言わなかった。どうするべきかと私が思案していると、やがてエンデュミオンの小さな声が聞こえてきた。


「貴様と一緒にするな、この下衆が……!」


 思わず、耳を疑った。私に向けるものとも他の大人達に向けるものとも違う、呪詛に満ち満ちた声。それはおよそ、今までのエンデュミオンのイメージからはかけ離れた声だった。

 ――嫌だ。こんなエンデュミオンは嫌だ。そう思った私は、反射的に声を上げていた。


「……っエンデュミオン!」

「!!」


 私の声に、漸くエンデュミオンは私の存在を思い出したようだった。慌てたように返ってきた声は、もうさっきの恐ろしいものではなかった。


「あ、ああ、すまない、マルモ。もう顔を上げても大丈夫だ」


 言われて、ゆっくりと顔を上げる。こちらを見ながら後ろ手に扉を閉め直すエンデュミオンの顔は、酷く精彩を欠いているように見えた。


「ずっと頭を下げた体勢で疲れたろう。椅子に座り直すといい」

「……エンデュミオン……さっきのは……」


 エンデュミオンの言葉を無視し、私はエンデュミオンに問い掛ける。聞いてはいけない事なのかもしれないと思いつつも、聞くのを止められなかった。


「あれは……あれは、王だ」

「王? ……あれが?」

「そうだ。この国を治める者だ」


 そう口にしたエンデュミオンの表情が、忌々しげに歪む。その様子から、嫌でも察する事が出来た。

 エンデュミオンは、父親を嫌っている。いや、もしかしたら憎んですらいるのかもしれない。

 そして父親が王という事は、エンデュミオンは王の息子という事になる。そこまで理解した時、抱いていた数々の疑問が氷解した。

 何故、エンデュミオンが大人達を従わせられたのか。女達が、エンデュミオンの何を恐れていたのか。

 総ては、エンデュミオンが王の息子だったからなのだ。この国で一番偉い人間の息子なら、皆従わざるを得ない。

 それにあの王はエンデュミオンとは真逆の、情の欠片もないような男だった。自分の意に沿わない人間がいれば、何をするか解らない。

 女達は、エンデュミオンを恐れていたのではない。エンデュミオンの不興を買った事を、王に知られるのを恐れていたのだ。

 ……愚かな者達だ。エンデュミオンは権力を笠に着て他人を傷付けるような事はしないと、見ていれば解りそうなものなのに。


 ――ああ、そうか。不意に私は気が付いた。

 同じなんだ、私達は。こんなにも違う環境に暮らしているのに。

 この城にいる誰もが、エンデュミオンをただのエンデュミオンとしては見てくれない。彼ら彼女らの見ているのは王の息子という地位だけで、決してエンデュミオン個人を見ようとはしない。

 それは、惨めな貧民街の住人としてしか見て貰えない私と全く変わらないじゃないか。だから――だからエンデュミオンは、あんな悲しげな顔をしていたんだ。誰も、自分自身を見てはくれないから。


「……エンデュミオン」


 エンデュミオンの顔を、真っ直ぐに見る。沸き上がるこの感情に付ける名前は知らなかったが、自分がどうしたいかは解っていた。


「マルモ?」

「私を、お前の側に置いてくれないか」

「え?」


 一瞬、驚いたようにエンデュミオンが目を見開く。けれどきっと私の言った意味を取り違えたのだろう、すぐに悲しい笑顔になって言った。


「……それは出来ない、マルモ。お前が生きる上でパトロンが必要なのは解る。だが、私の立場上それは許されない」

「違う、そうじゃないんだ、エンデュミオン。私はお前にそんな事をして欲しいんじゃない。私は……」


 見つめ合う瞳に、想いを乗せる。私のこの気持ちが、ちゃんと伝わりますようにと。


「私は、王の息子・・・・の側にいたいんじゃない。エンデュミオン・・・・・・・の側にいて、支えてやりたいんだ」

「……!」


 エンデュミオンの顔に、今度こそ驚愕の色が広がっていく。その金色の瞳は、まるで信じられないものを見るように私を見つめている。

 今のが心からの言葉だともっと伝わるように、小さく微笑みかける。すると、震える声でエンデュミオンが言った。


「……いいのか?」

「何がだ?」

ここは見た目は華やかだが、決して住み良い場所ではない。私の目の届かないところでは、理不尽な目に遭う事もあるだろう。それでも……私と共にいてくれるのか?」


 迷うようなその声に、大きく頷き返す。不安はある。けれど迷いはなかった。


「勿論だ。ただ一人、お前だけに仕えると誓おう」


 私の目を、エンデュミオンがじっと見つめる。暫しの沈黙の後、やがてその顔は泣きそうな笑顔に変わった。


「……はは。そうか。やっと解ったよ、何故私がお前に良くしてやりたいと思ったのか。私はきっと、お前なら私の身分を知ってもそう言ってくれると直感でそう感じていたんだ。だってお前の目は、私によく似ていたから」

「そうだな。私達は似ている」

「お前の気持ち受け取った、マルモ。私からも頼む。私の直属として、この城に仕えてくれ。ここで生きていく上で必要な事は、総て私が教える」


 そう言って、エンデュミオンが右手を差し出す。私はその手を、しっかりと握り返した。


「最初は不便をかけると思うが、なるべく早く色々覚えるから。よろしくな、エンデュミオン」

「こちらこそ、よろしく頼む。お前が呆れて去って行ってしまうような王子にだけはならないよう励んでみせる」


 どちらからともなく、私達は笑い合った。たったそれだけなのに、酷く心が満たされていく気がした。



 この日、私は、生涯をかけて支えたいと思う人と出会った。

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