マルモ編「あなたと共に」 第1話

 ――こんな雨の夜は思い出す。あの方と、初めて出会った夜の事を。



「……っ」


 冬の冷たい雨に身を濡らしながら、私は小さく体を震わせた。僅かに突き出ただけの軒は、子供の私が身を寄せるのにすら狭すぎる。

 袖の破れた薄い服は、寒さからも雨からも身を守ってはくれない。私に出来る事は、出来るだけ身をぎゅっと縮めて冷たい空気や雨に触れる部分を減らす事だけだった。


 物心がついた時には既に、この掃き溜めのような貧民街が私の世界の総てだった。


 親の顔は知らない。気が付けば私は、似たような境遇の子供達と共に生活していた。

 子供達だけの生活は厳しかった。盗み、詐欺、売春、金になりそうな事なら何でもやった。

 それでも満足な生活には程遠く。飢えや病で仲間達は一人、また一人と命を落としていった。

 中にはただ肩がぶつかっただけで、酔っ払った相手に殴り殺された者までいた。彼ら彼女らを救うには、私はあまりにも無力だった。

 そうして遂に、私以外全員が死んだ。私だけが助かったのは、単に私が他の子供達に必要以上に関わらず、巻き添えを食わずに済んでいたからに過ぎない。

 自分が生き残る事だけを考えなければ死ぬ。私が生きてきたのは、そういう世界だった。


 吐く息が白い。噛み締めた歯の根が、ガチガチと震える。

 先程からこうしてが声をかけてくるのを待っているが、こんな天気の夜はそもそも外を出歩く者自体が少ない。辺りを見回すと、他の同業者・・・達も皆同じように縮こまり震えていた。

 ここは娼館にも拾って貰えないような娼婦崩れ達がたむろする、別名『女の墓場』。ここに集った女達は格安で自らの体を客に提供する代わりに、その日の寝床を得るのだ。

 集まるのは娼館で働くには年を取りすぎている者、逆に年が若すぎる者、または肉体の一部に欠損を持つ者が多い。そして大半が体を壊し、やがて姿を見せなくなっていく。

 その中で私のような成人前の子供は、割と拾われる率が高い。成人前の子供にしか欲情しないという特殊な性癖の持ち主が、こと富裕層には意外と多いのだ。

 しかし今夜はどうやら寝床にはありつけなさそうだ。たまに通りがかる男達も、私には目もくれようとしない。

 明日の朝日は、もう見れないかもしれないな。そう私が諦めかけたその時。


「……」


 不意に、フードを被った一人の男が私の前で立ち止まった。雰囲気からしてまだ若い。もしかしたら、成人してまだそれほど時が経っていないのかもしれない。

 男がフードの下から、私をじっと見る。隙間から僅かに覗く金の瞳が、窓の灯りに反射して輝いていた。


「……一晩五十だ。買うか?」


 私も男を見つめ返し、そう口にする。すると男は、無言で身に付けていた外套を脱ぎ始めた。その拍子に、今までフードに覆われていた顔が露になる。


 ――一目見て、綺麗な顔だとそう思った。


 少年から青年の顔に変わる途中の、どこか危うさが残る印象を感じさせる顔立ちだった。男臭くもなくかと言って過剰に女性的でもない、まさに中性的という言葉が似合う美貌の持ち主だった。

 夜の闇に溶け込むような漆黒色の長めの前髪の向こうに、憂いを帯びた金色が覗く。その男――まだ少年と言った方がいいかもしれない――は、脱いだ外套を私の肩に被せてきた。


「……?」

「行こう」


 思わずキョトンとなる私に、男がそう言った。その瞳に宿る憂いが、ますます深い色を帯びていく。


「どこへ?」

「お前がこんな事をしなくてよくなる場所だ」


 その言葉の意味はよく解らなかったが、どうやら男には私を連れて行きたい場所があるらしい。もし断れば、一体何をされるか解らない。


「……解った」


 仕方なく、私は頷き立ち上がった。最悪今夜の寝床さえ確保出来ればいいと、微かな望みを胸に抱いて。

 私の手を引き、男は歩き出した。繋いだ手から伝わる温もりが、冷えきった体に染み渡っていくようだった。


 これが私とあの方――後の主となるエンデュミオン様との、初めての出会いだった。

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