マルモ編「あなたと共に」 第2話

 男の手に連れられ、私は初めて生まれ育った貧民街を出た。通りが変わっただけなのに、そこにはまるで別世界が広がっていた。

 綺麗に整備された街並み。貧民街のようにまだらじゃない、等間隔で灯る家々の明かり。


 それは今までに見た何よりも、美しい光景だった。


「寒くはないか?」


 前を歩く男が、振り返って尋ねる。私は首を横に振り、大丈夫である事を示した。

 実際、先程までに比べたら十分暖かかった。繋いだままの手からはずっと温もりが伝わってきたし、ずぶ濡れとは言え身に纏った厚い外套は冬の冷たい空気から身を守ってくれた。

 男は大丈夫なのだろうかと思ったが、口には出さなかった。他人の事など気にするだけ無駄。そういう世界で、私はずっと生きてきた。

 どちらもろくに言葉を口にする事なく歩いていくと、やがて前方に大きな建物が見えてくる。それは今までに見た事もないような、とても大きな建物だった。


「あれは何だ?」


 思わず気になって尋ねた私に、男がまた振り返る。その目に宿る憂いが、一層深くなった気がした。


「あれは城。王の居城だ」

「王?」

「この国を治める者だ」


 それ以上、男は何も言わなかった。私もまた、それ以上を聞く事はしなかった。

 城はどんどん近付いて、ますます大きさを増していく。目一杯まで見上げても一番上が見えない程の大きさに、私は年相応の子供のように目を瞬かせた。

 そして城の目の前まで来ると、男は木で出来た大きな扉を三回ノックした。すると音を立てて、扉が小さく開いていく。

 中から顔を見せたのは、額の毛が少々寂しい痩せた中年の男だった。中年の男は男の姿を見ると、驚いたように目を見開く。


「殿下、やっとお戻りで……どうなされたんですか、そのずぶ濡れの格好は!?」

「私の事はいい。この娘に湯あみをさせ、着替えも用意してやってくれ」

「その娘……その出で立ちはまさか貧民街の? そのような下賤な者を城に入れるなど……」

「カシウス。……私の命令が聞けないと言うのか?」


 男が睨みを利かせると、中年の男が途端に震え上がった。直後、身を大きく引いて私達を迎え入れる姿勢を取る。


「ど、どうぞお入り下さい! わたくしは先に戻り、そこの娘の湯あみと着替えを手配して参ります!」


 そしてそう言うと、あっという間に姿を消してしまった。展開がよく理解出来ていない私に、男が振り返って苦笑を浮かべる。


「……皮肉だな。この煩わしいばかりの身分を振りかざさなければ、私は自分の意見一つ通す事が出来ない」

「お前……凄い奴なのか?」

「私自身は凄くも何ともないさ。ただ父親の身分が高かったというだけだ」


 私の問いにそう答えた瞬間、男の目に今までとは違う昏さが宿ったのを私は見逃さなかった。それはどこか、私達貧民街の住人が持つ昏さに似ていた。

 この男は、一体何者なんだろう。そう思いながら、私は扉の向こうに足を踏み入れた。


 通された城の中は、街の中以上に別世界だった。白い壁が照明を反射して美しく輝き、廊下には上等な絨毯が長々と敷かれていた。

 この世の中に、こんな場所があったのか――。私の心は、そんな思いで一杯になった。


「そうだ、まだ名を名乗っていなかったな。私はエンデュミオンという。お前は?」

「……マルモ。仲間内ではそう呼ばれていた」

「そうか。マルモ、身なりを整えたら何か食事を作らせよう。その様子では、ろくにものも食べていないだろう」


 男――エンデュミオンにそう言われた途端、私の腹がキュルル、と鳴った。それを聞いたエンデュミオンの顔に、初めて楽しそうな笑みが浮かぶ。


「はは、正直な腹だな。子供はそうでなければ」

「……うう」


 恥ずかしくなり、私は俯き下を向いてしまう。そんな私の頭を、エンデュミオンは優しく撫でた。


「やっと表情が変わったな。少し安心した」

「お待たせしました、殿下……きゃあ、ずぶ濡れではないですか!」


 と、その時やって来た数人の身なりの綺麗な女達が、エンデュミオンを見て悲鳴を上げる。当然、同じように濡れている私の方など見向きもしない。


「来たか。早くこの娘に、湯あみをさせてやってくれ」

「で、ですが殿下、そのままではお風邪を召されてしまいます!」

「それは彼女とて同じ事だ。自分の面倒は自分で見れる、いいから彼女に湯あみをさせてやれ。これは命令だ」

「か、かしこまりました……」


 エンデュミオンの言葉に恭しく礼を返すと、女達が私の方に近付いてきた。エンデュミオンは私の手を放し、彼女達の方へと私の背をそっと押した。


「――あの者達についていくといい。警戒はしなくて大丈夫だ。私がお前には何もさせない」

「……解った」

「この娘は私の客人だ。くれぐれも丁重に扱うように。湯あみの後は着替えをさせ、私の部屋まで案内するんだ。……逆らえば城にいられなくなると思え」

「は、はい! お、お客様、どうぞこちらへ!」


 掌を返したように私にも丁寧な口調になった女達の元へ、そっと歩み寄る。途中で振り返ると、エンデュミオンは黙って微笑みながらじっと私を見つめていた。

 ――何が起こっているかは正直まだよく理解出来てはいないが、エンデュミオンは私に酷い事をする気はないのかもしれない。そうぼんやりと思いながら、私は歩き出した女達の後をついていった。

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