エルナータ編「最後の祈り」 第1話
これは、『私』がまだ『私』であった頃の記憶――。
「只今戻りました、あなた」
玄関の扉を開け、我が家に帰る。出迎えるのは、愛しい人の笑顔。
「お帰り、エルナータ。怪我はなかったかい?」
「あっても小さなものならすぐに治りますよ。力の大半を封じられたとはいえ、私だって神の一柱なのですから」
心配性な夫、フォボスの言葉に、私は気丈に笑ってみせる。そんな私の姿をまじまじと見て、どこにも怪我がない事が解ると漸くフォボスは安心したようだった。
――そう、私は人と同じ姿をしているけれど、人間ではない。この世界を創造した五柱の原初の神々のうちの一柱、海と学門を司る神ユノキスによって造られた属神――それが私、さざなみの神エルナータ。
私は人間を劣等種と断じ、魔物を使って人間を滅ぼそうとするお父様達原初の神々に反対し、唯一人間側についた原初の神、大地と豊穣を司る神アンジェラ様に従い地上に降りた属神達のうちの一柱。その罰として神としての力の殆どを奪われ、人間より少し強い程度の力しかなくなってしまったけれど、私は後悔していない。
その理由の一つが――今目の前にいる最愛の人、フォボスの存在。
「あなた、研究の調子は如何ですか?」
「順調だよ。これならすぐ実用化に漕ぎ着けるだろう。これが完成すれば、魔物達との戦いはもっと楽になる」
問い掛けた私に、フォボスは明るい笑顔を浮かべる。それが嬉しくて、私もまた笑った。
フォボスは若き研究者だ。私達神々や自然に宿る精霊の力を、人の力でも扱えるよう日夜研究に励んでいる。
私がフォボスと出会ったのは五年前。アンジェラ様と共に視察に訪れた一つの研究所、そこで働いていた新米の研究員が彼だった。
彼は研究員の中でも殊更熱心な人で、人間が作る明るい未来を心から信じてやまない純粋さと情熱に満ち溢れていた。そんな彼の熱意に惹かれた私は個人的に彼に会いに行くようになり……やがて彼の方から私にプロポーズし、こうして夫婦となった。
私が戦いに出て家にいない間は人に預けているけど、女の子にも一人恵まれ総てが順調だ。この愛しい家族達を守る為なら、私はどこまでだって戦える。
そう、神と人とは解り合えるのだ。私とフォボス、そしてこの大地に人々と暮らす神々のように――。
「……すまない、エルナータ」
不意に、フォボスが顔を曇らせそう言った。その銀色の瞳からは、強い苦渋の色が見て取れる。
「何故謝るんです、あなた?」
「だって君を前線で戦わせておいて、僕は奥で研究ばかりの毎日だ。僕がもっと強ければ、側で君を守ってあげられるのに……」
「何だ、そんな事ですか」
優しいフォボスらしい懺悔に、思わず笑みが零れる。私はフォボスのすぐ側まで近付くと、俯いたその顔をそっと両手で包み
「フォボス、あなたは寝る間も惜しみ、人々の為に研究を続けています。それはとても素晴らしい事で、そして誰にでも出来る事ではないと私は思います」
「エルナータ……しかし……」
「あなたの携わっている研究で魔物との戦いが、そして人々の暮らしが楽になると思えばこそ、それを守る為に私は戦えるんです。どうか胸を張って下さい、あなた。私は私にしか出来ない事を、あなたはあなたにしか出来ない事をやる。それが私達夫婦の在り方。そうでしょう?」
フォボスの目を優しく見つめ、ゆっくり諭すように言うと、フォボスの表情がだんだん和らいでいった。そしてふわりと、私の大好きな笑顔を浮かべてくれる。
「……そうだね。ありがとう、エルナータ。僕はこれからも研究を続ける。人々を、そして誰よりもエルナータとティセ、大切な二人の僕の家族を守る為に」
「それでこそ、私が好きになったあなたです。それではそろそろ、二人でそのティセを迎えに行きましょうか」
「ああ。きっと早く君に会いたがってる」
「あなたにもですよ、フォボス」
どちらからともなく、手を繋ぎ合う。掌から伝わる温もりが、とてもいとおしかった。
そして私達は、久々に会う愛しい我が子を迎えに二人で家を出た。
魔物達との戦いは、いつ果てるともなく続いた。私達に付き従う人間の戦士達も、一人、また一人と数を減らしていった。
そんな中、フォボス達の研究から生み出された魔導兵器と名付けられた武器は魔物達に対し目覚ましい戦果を上げた。それは次々と減っていく戦士達の数を、補って余りあるものだった。
これならいける。魔物達を、残さず地上から消し去る事が出来る。
誰もがその日が来るのを、誰も死なずに住む穏やかな日常が訪れる事を信じて疑わなかった。
この時既に、私達の人生の歯車が狂い始めていた事に気付く者なんて……誰一人いなかったのだ――。
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