屋上にて 1−2


カラン。


「……え?」


 音がした。

 随分と気の抜けた、乾いた音だった。

 思わず音の方を振り返れば、ナスカの腰の辺りに大きなルビーのダイヤがついた指輪が転がっていた。


 それは、ジュディのスカートのポケットから落ちたものだった。


 ジュディがそれを認識した時、心の中を覆い尽くしていた黒い砂たちが、吹き付ける風に散るように、ざあぁと大きな音を立てて、勢いよく消えていった。

 ほんの僅かな間だったが、ジュディにはそれが随分長い時間のように感じられた。


 それから、我に返ったようにナスカに向き直る。

 ナスカは笑っていた。

 ジュディは、気付いていなかった。動きを封じていたナスカの左手に、いつの間にかサーベルの折れた破片が握られていたことに。

 指輪に気を取られたことで、ナスカの左腕を押さえていた足の力が緩んでいた。


「終わりだよ、ジュディ!!」


 その解放された左手が、ジュディのこめかみをめがけて振られる。


(あぁ、お姉ちゃん、ごめん。一緒に住みたかったな、キラキラのたくさんあるお家……)


 切っ先が触れる。世界が閉じる。


 それと同時に、銃声が聞こえた。


「そこまでです!!!!」


 血が顔の輪郭を伝うのが分かる。ぎゅっと閉じた目をゆっくり開けば、目の前でナスカが倒れていた。


「おまわり、さん……?」


 振り返れば、肩を大きく上下させたエレナが、両手で拳銃を構えていた。その銃口は、煙を吐き出している。


 ナスカは肩を押さえていた。


「く……そ、どうして……」

「動かないで。動いたら撃ちます」


 拳銃を向けたまま、エレナはナスカに素早く近づいて来る。ジュディは呆然としながら、立ち上がれないままその道を空けた。気付けば、地上の方も騒がしくなっている。


「署に応援を頼みました。じきに階下にいるあなたの仲間たちも連行されます。抵抗しても無駄ですからね」


 エレナは拳銃を下げ、腰のポーチから包帯と止血用のベルトを取り出すと、慣れた手つきで肩の止血をする。もはやナスカに抵抗をする余力は残っていないようだった。


「あなたの罪名を挙げたらキリがないけど……。多くの人を傷つけたあなたの罪は重いわよ」


 ナスカの両手に、手錠がかけられた。それと同時に別の警察官が駆け寄ってきて、ナスカを連行していく。


「……忠誠を欠いたものは制裁を受ける。ジュディ、忘れるんじゃないよ」


 低い声でそう言い残したナスカを、ジュディは見えなくなるまで見つめた。

 まだ状況の整理が追いつかないジュディは、まるで全て他人事のように、ただ呆然と、ナスカが視界から消えた場所の景色を見つめていた。

 まだ両手には折れたサーベルが握られている。


「……ジュディさん? ジュディさん! 聞こえてますか!!」


 ハッとしてジュディは、握っているサーベルからパッと両手を離した。手が震えていた。


「あ、アタシ……」

 エレナがジュディの両手を握ってくれた。

「大丈夫。もう、終わったんです。あなたは生きてて、ナスカは捕まった。それから――」

 一呼吸置いて、エレナは微笑む。


「ユエルさんも無事です。今ウチの治療室で手当てを受けてます。明日には……って、もう今日ですけど。じきに意識も戻るだろうって」


 気付けば、空は白んでいた。昇った日の光が空に染み込むと、その光が次々に世界の隅々までをも照らしていく。

 今までいつの間にか失われていた温度や時間、音や光の感覚が、息を吹き返して、急速に世界を動かし始めた。


「う、うぅ……」

 目には、宝石みたいな大粒の涙。

「うわあぁぁぁぁぁぁん!!!」


「よく、頑張ってくれましたね。ジュディさん」


 ジュディはエレナにしがみついてわんわん泣いた。エレナもそんなジュディを優しく抱きしめてくれた。

 エレナの体も、陽の光も、温かかった。じわじわと感じる温度に、生きている実感が湧いてくる。


 ひとしきり泣いて落ち着いてきた頃、エレナは傷だらけのジュディに簡単な治療を施した。

 すると、エレナに無線が入った。「すいません」と言ったエレナが少し離れて無線に応答している間に、ジュディはふと思い出したように、あたりを見回す。


「そうだ、コレ……」


 転がっていた大きなルビーの指輪だ。ジュディはそれを両手で大事に握りしめた。


 この指輪がなかったら。

 自分は間違いなくナスカを殺めていた。


「店長……」

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