スラムにて 2−5
ナスカたちのアジトの中で、ユエルはナスカの傍に横たわっていた。犬のように首に縄を巻かれ、その縄の先端はナスカに握られている。
もともとなんの建物だったのかも分からないが、ユエルが今いる3階の部屋はほとんど空っぽだ。塗装が剥がれてボロボロの壁に囲まれただけの、ナスカが座る椅子以外に特に家具も置かれていない空間。
四つある窓にはそれぞれ、ナスカの手下たちがついて外の様子を確認し、逐一報告をする。残りの3人は部屋の中心で地べたに座り、状況の変化と、彼女の指示を待っている。ここにいるのはいずれもカザからきた人間だ。銃やサーベルなどを持ち、各々武装をしている。
引くことのない足の痛みと、じわじわと止まらない出血に気が遠のいていく中で、ユエルは外の騒ぎを聞いていた。頭にはナスカの足が乗せられている。
「ちっ。派手にやってくれるじゃないか」
ナスカも外から聞こえる男たちの叫び声を聞きながらそう言った。相当機嫌が悪い。こういう時のナスカが近くにいるだけで、いつも心臓が圧迫されるような感覚に陥る。
「援護に行くか?」
「いいよ、ほっときな。女ひとりと犬にやられるような奴らだ。助ける価値もない」
部下の申し出に対するナスカの血の通わない一言にも、もはやユエルは何も感じられなかった。今の命に、怒りの感情が沸き起こる余裕がない。今はただ、
「待つんだよ。あのガキは必ずここにくる」
ジュディの無事を祈ることだけに集中する。
この騒ぎはジュディが起こしたものだと彼らは予想している。もしそうならば、お願いだから、ここには来ないで欲しいと願う。
ナスカは自分を殺す気だろうと、ユエルは悟っていた。始めは姉妹もろとも売り飛ばす予定だったのだろうが、騒ぎに苛立つナスカはとっくに目的を変えて、先ほどからユエルに暴行を加え始めていた。
でも今は殺されない。ジュディの目の前でなければ意味がないからだ。彼女に見せつけるように、自分は嬲り殺されるのだろう。裏切り者は徹底的に恐怖と絶望に突き落とす。それが彼女たちのやり方だ。
自分が死ぬことは構わない。だが妹がこれ以上傷ついてしまうことは耐え難かった。
「ジュディには何もしないで……」
掠れるような声で呟くと、容赦ない蹴りがユエルの腹に飛んでくる。
「ふん。美しい姉妹愛だこと。反吐が出るよ」
そのままナスカはユエルの首につながれた縄を乱暴に引き寄せて体を起こす。
殴られる。そう思った瞬間、その拳が飛んでくる前にユエルはナスカの頰へ手を添えていた。
「可哀想な人。人を愛することさえ知らずに生きてきたなんて」
ユエルはまっすぐにナスカを見つめた。慈悲の表情。恐らくナスカが大嫌いなものに違いなかった。
ナスカの動きが止まる。そして一瞬唖然となった彼女の瞳は見る見るうちに怒りに満ちていき、ユエルは思い切り頰を殴られた。
反射的に踏ん張ろうとしてしまう足に激痛が走る。耐えられず、ユエルは再び横たわる。切れた口の中から血が溢れでた。
「私が可哀想だって……? ズタボロのクズがほざいてんじゃないよ!」
続け様に二回蹴られる。それでもユエルは歯を食いしばり、ナスカから目を逸らす事をしなかった。
「えぇ可哀想よ。あなたが手に入れたものは何? その中に大切なものはあるの?」
「自由だ!! 私たちは、あんたたちが未来永劫手に入れられないものを! 自分の力で勝ち取ったんだ!」
ナスカは馬乗りになってユエルを殴り始めた。彼女は我を忘れたように怒り狂っている。必死に手で庇うが、顔も体も痣だらけになってしまった。身体中が痛い。目を開けているのも辛かった。
そして、すでに寒さを感じ始めていた。殺されると分かっていても、いや、分かっているからこそ、ユエルはナスカへの抵抗をやめなかった。これが、自分にできる精一杯の、最期の反抗だった。
「手に、入れられない……? いらないよ、そんなの。手に入れなくたって、私もジュディも、そんなの最初から持ってる」
わずかに口角を上げるユエルに、ついにナスカは立ち上がってユエルの額に拳銃を向けた。周りにいたカザの者たちも皆、ぎょっとしてこちらを向く。
視界が霞む。
(ごめんね、ジュディ)
「死ねぇぇぇぇぇ!!!!」
撃たれた。と思った。
銃声が聞こえたのかどうか、銃口が火を吹いたかどうか、記憶はない。だが窓ガラスを破る音と、勢いよく転がり込んできた金髪の男が、閉じる意識の隙間に入り込んできたことは、覚えている。
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