⑦
翌朝、ジェイドはルリの身なりを軽く整えてやり、
自身も根城へと隠しておいた上物の服へと着替える。
これで少しは見栄えが良くなっただろう。
ここまで幸運なことに使う機会のなかった銃を三丁腰に携え、胸元にナイフを隠し最後にもう一度ルリへと念を押す。
「いいか、口を開くなよ。絶対にな」
差し込む日差しに照らされ、ルリは夜空の瞳をジェイドへ向ける。
深く頷き、自ら布を頭から被った。
怯えはない。瞳には唯、光がある。
それでいい。頷いてやり、二人は根城を後にした。
国境となる門は、ジェイドの視界に見え得る限り続く石垣の中程へと鎮座していた。
この塀の向こうには両国の不可侵領域が、その先にはアンバル国の領土が広がっている。
この不可侵領域内への行進は宣戦布告と捉えられるが、故郷を無くしたラプスリの民などによるアンバル国への決死の亡命は、少なくはない。
国境の門へと向かう石畳の道、その道中に恐らく先に通ったのであろうキャラバンが落としていったと思しき手配書が数枚落ちていた。
その内の一枚に、ジェイドとルリに当てはまる特徴が書かれたものがあった。
『国賊』と大きく書かれた文言の下には、娘は必ず生きて取り返し、薄汚い盗賊は生死を問わず捕らえろと書かれている。
随分と大事になってしまった。
情けない声を上げてしまいそうになるのを、ジェイドはぐっと堪えた。
いよいよ国境までやって来たジェイドたちの前で、荷馬車を多く連れた商人であろう男が許可証を手に門番の者たちと言葉を交わしている。
他に商人の姿はないことから、恐らくは朝の市へと向かうのに出遅れたのだろう。
焦っているのが遠目にもよくわかる。
「貨物全部調べるって、それじゃあ市に間に合いませんよ!」
「逃亡中の者が隠れている可能性があるからな、国外に逃すわけにはいかん」
間違いなくジェイドたちのことであろう。
先ほどの手配書のことも考えると、既にここまで包囲網が敷かれていては、どちらにせよ険しい山を越える手も難しかっただろう。
あとは老婆の恩恵を生かすことが出来るかにかかっている。
短く息を吸い、ジェイドはルリの背に手を添えながらこちらの存在に気が付いた門番の一人へと声を掛けた。
「お忙しいところ、失礼致す。こちらは死の森の魔術師殿、私はその護衛だ。お通し願おう。アンバル国の皇太子殿下に呼ばれているのだ」
老婆に渡された紙を開いて見せれば、門番は顔色を変え、近くにいた若い者を門へと走らせた。
追うようにゆっくりと門へ近づくと、どうやら荷馬車に人員を割かれ少しばかり手薄になっているのが見えた。
これはまたとない好機だ。そう、思えたのだが。
「ブラッド少将、魔術師殿がお見えになりました。何でも、アンバル国皇太子殿からのお呼び立てとのことです」
内心舌打ちをする。
なるべく害のない顔でそちらを向くと、頬に一閃の傷跡を持つ男が許可証へと目を通しているのが見えた。
おそらくはあれが切れ者のストーン・ブラッドだろう。
目を通し終えたのか、顔を上げこちらを見据える目には威圧感がある。
「お通し願います。今日の夕刻に迎えの者があちらの国境付近へやって来る手はずなので」
「貴重な魔術師殿をむざむざ敵国へ送り出すわけにはいかんな。何より、斯様な話は知らされていないが」
「極秘での交渉でございます。何でもあちらからは名のある技術者がやって来るとか。成功すればこれをきっかけに両国の関係も良好になるやもしれませんからね。魔術師殿もこの通り、気が立っておられる」
寡黙である理由を述べてやると、男は暫し探る様にジェイドと老婆の姿をした少女を見比べる。
ブラッドの部下たちは静かに上官の言葉を待っている。
背中へ浮かんだ汗を悟られぬよう、ジェイドは困ったような笑みを浮かべて少将へ視線を向けた。
途方もない緊張感だが、ルリはどうやらここまでは上手く振る舞えている。
が、しかし。
「妙だな、魔術師殿の瞳は美しい緑と聞いていたが」
その言葉に、ルリは思わず顔へ手をやる。ジェイドも弾かれた様に視線を向ける。
姿は老婆そのもの、瞳もまた然り。
しまった、とジェイドが思うよりも早く、男が腰の剣へと手を伸ばす。
「やはり偽物か、捕らえよ」
振り抜く一閃、ルリの手を掴み、ジェイドは門へと向けて駆けた。
狼狽え動けずにいる門番たちの隙間を抜け、ハッとして切りかかって来た一人へ拳を一撃。
数人がまとめてジェイドたちへ立ちはだかろうとしたところで、ジェイドは初めて腰の銃を抜き、一発。
弾は外れたがその音に門番たちが怯んだ隙に、門を駆け抜けた。
「矢を射て! あれを使えば遠くまでは逃げられまい! 一つでも多く傷を負わせよ!」
男の指示が凛と門番たちを鼓舞する。
数人が門を越えジェイドたちを追い、ジェイドの頬を掠っていった矢が、木立に深々と刺さる。
通常であれば、両国の関係を悪化させるのを避けるため、ここまで罪人を追うことはしない。
おそらくは覚悟の行動であろう。
今度こそ隠さずに舌打ちをして、ジェイドは次の銃を追っ手へ向けて構える。
振り向きざまに追っ手の人数を把握する。
腕に自信のありそうな男が十人、いずれも速度はないが、囲まれてしまえば勝ち目はないだろう。
全く、こんなピンチに瀕するのはじゃじゃ馬姫の護衛以来だ。
苦し気な呼吸がジェイドの後ろで聞こえる。
あまり長くは走れない。
ためらわずに引き金を引くと一番体の大きな男が崩れ落ちていく。
そのまま一人へ向けて投げつけ、思わず振り払った一瞬で間合いを詰めて顎を拳で打つ。
ジェイドの動きに対応できず地面を滑りながら止まったもう一人へ向け残った銃を放ち、再びルリの手を掴むと深い木々の中へと駆け込んだ。
矢が再び腕を掠める。
いつ餌食になってもおかしくはない。
だが、もう少し進めば矢の雨も届かなくなるだろう。
冷静にそう判断しつつ、取り出したナイフで一人ずつ、追いついた者から的確に喉を切る。
リーチの長い剣は厄介だが、内に潜り込めさえすればこちらの方が小回りは利く。
ルリを庇いつつ、四人、五人。
次第に目がかすみ始める。
おそらくは矢じりに毒が塗られていたのだろう。
幸いルリは纏い布のおかげで傷は負っていないようだ。
低く茂る木々の枝が顔に触れ、パキリと音を上げる。
「じぇ、いど」
「……しばらく振り返んないで走れ。出来るだけ速くだ」
手を放し、振り返りながらも言われた通り懸命に走り始めたルリを送り出してからナイフを構える。
二人がルリを追い、三人がジェイドを囲んだ。
「盗人の分際でここまでよく頑張ったが、三人が相手では分が悪かろう。投降しろ、あの娘も程なく捕まる」
「そりゃ、どうかね」
交渉決裂とばかりに振り下ろされた剣を身軽に避け、地面を転がりつつ土を掴み一番近くにいた男の顔へ投げかける。
顔を覆ったところで首を切り、そのまま剣を奪った。
間合いを詰めてきた一人の剣を受け、片手でナイフをもう一人の額へ投げる。
どう、と倒れる音。残った一人は青ざめた様子だが、引く気はないようだ。
「……ただの盗人、と聞いていたのだがな。まるで手練れの傭兵じゃないか」
「ただの盗人さ……ちーっと強すぎるだけのなっ」
弾いた剣が、素早く戻りジェイドの腕を切り裂く。
が、顔を顰めるより先に、剣を腹に突き立てた。
「ぐ、ぅ」
倒れ込んだ男に刺さった剣は捨て、代わりに男の持っていた剣を掴む。
ナイフは諦め、そのままルリを追って駆けだした。
おそらく捕まっている頃合いだろう。
案の定、木々の隙間から少女の呻きが聞こえた。
「止まれ」
首を抱え込まれたルリが、ジェイドへ視線を向ける。
苦しげではあるが恐怖に打ちひしがれている様子はない。
上等だ、と口の端を上げる。
「手荒な真似は止めてくれや、そいつぁ世にも珍しい宝石持ちなんでね」
「我々には関係のないことだ。国に背いた逆賊よ。どちらにせよ、お前にとって価値のあるものがこちらの手の内では手も足も出せまい」
ルリを羽交い絞めにしている男は彼女の喉元へナイフを宛がった。
ジェイドは長々と息を吐き両手を上げて、剣を地面へと落とした。
目くばせを受け、身軽であった一人がジェイドの下へと近づく。
「年貢の納め時だな、盗人風情が手を掛けさせたもんだ」
男が腰に括りつけていた縄でジェイドを縛り上げようと、顔の高さにとどめていた右腕へ手を掛けようとした、その瞬間にジェイドは動いた。
右袖に隠しておいた仕込み銃、自然な流れで男の額へ向けて一発、出遅れた男がナイフを引く前に、左袖の銃で一発。
男が倒れ込む瞬間、ルリは素早く走り出し、その下敷きになることを逃れた。
何度か深く息を吐く。追っ手の気配はない。
漸く、ジェイドの呼吸音が何かおかしいことが分かる程度には辺りを静寂が包んだ。
「じぇい、ど、ちが」
「んー、怪我はして、ねえな。感謝しとけよおばばに……」
ルリがそれ以上何か言う前に、再び腕を掴んで走り出す。
追っ手はしばらくやっては来ないだろうが、出来る限り国境からは離れておきたい。
不可侵領域は一つの森を丸々内包して存在している。
歩けば半日ほどかかる距離のある領域内を、休むことなく駆け続け息は絶え絶えに。
足は縺れる。
途中限界を迎えたルリを抱え上げ、ふらつく足を叱咤して、抱えた少女を落とさぬよう腕に力を必死に込め、アンバル国国境付近である川沿いまでどうにか辿り着く。
ここまで、来れば。
とうとう膝をついたジェイドに、ルリが腕の中から抜けて背を擦る。
弱々しく名を呼ぶのが聞こえるが、既にジェイドにはその姿がほとんど見えていなかった。耳元で激しく血の流れる音がする。
指先の感覚がない。上手く、息を吸うことが出来ない。明かりが遠のいていく。
「ジェイド」
「この川……渡れば、国境がある。ぐ……っ、門番たちにゃ、亡命して、きた……モドの魔術師に、会わせ、ろって言え」
「……? ジェイドは?」
「置いてけ、あと、いく、から」
体を支えきれず、ふらついた拍子に地面へと倒れ込む。
流石に十分だろう。
もうあとは、この娘の運に任せるしかない。
追っ手の気配はないが、恐らく自分が死んだあとならば、アンバル国に悟られる前に不可侵領域内を捜索し、この娘一人探すくらい手間にはならないと考えているのだろう。ざまあみろ、と喉の奥で笑う。
この距離ならば、馬を使おうともルリが村に着く方が早い。切れ者と呼ばれる男を出し抜けたのは気分が良い。
「やだ、ジェイドだめ、しんじゃだめっ」
「うっせー、よ……さい、ご、くれえ、じゆうに……さ、せ」
もう喉も振るわせられないらしい。
体が死へ寄り添うのが分かる。
揺さぶる小さな手の感覚も、もう感じられない。
最期としてはそれなりに良く働いただろう。
全く、こんな少女一人の為に命まで落とすことになるとは。
一体何をどこで間違えたのだろうか。
もうろくに働かない頭でそんなことを思いかけ、すぐに止めた。
もう十分だ。よくやっただろう。……そうだろ、姫さんよ。
ゆっくりと、瞳が光を失っていく。
瞼を閉じ、最後に一度体を震わせ、それきり彼は動かなくなった。
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