⑥
ジェイドは少女の手を引きながら慌ただしく薄暗い廊下を進み、先に入ってきたのとは真逆の扉からそっと外へ出る。
静まり返った森にはまだ人の気配はないが、老婆はこの辺り一帯へと張った結界で人の出入りを把握していると、ジェイドが随分昔に世話になった際そう言っていたから間違いないだろう。
「ジェイド、ひとって」
「しばらくしゃべんな、見つかって連れ戻されたくなかったらな」
小声で強く言えば、ルリは両手で口を塞ぎ何度も頷いた。
さて、思っていたよりも追手が早い。ルリの「元主人」は相当頭の働く者を抱えているに違いない。
だが国境さえ越えてしまえば、その手が及ぶ可能性は極めて低くなる。
何しろこれから亡命しようとしているのは、エメルド国最大の敵にして脅威、アンバル国なのである。
「……いいかよく聞け。これから国境を越えに行く。門に差し掛かったら布被ってお前は誰に何を聞かれても何も答えるな。オレが良いというまで絶対しゃべるなよ。あの屋敷に戻りたくなけりゃな」
ジェイドの言葉に真剣な表情で頷き、ルリは震える手で布を掴む。
それまで暢気に構えていたとは思えないほどの怯え様である。
一度だけ頭を撫でてやり、ジェイドは静かに続けた。
「国境さえ越えりゃあ何とかなる。向こうにも魔術師の伝手はあるからな。お前が自分の姿を変える術でも覚えりゃ、それで逃げ切れるってもんだ。オレは頭が悪いからなぁ、自分で何とかすんだぞ。いいな」
よし、と気合を入れるようにして早足に歩きはじめる。
靴が変わったからか、ルリは先ほどまでとは違い歩くことにあまり苦がないようだ。
これならば、あるいは。
老婆の術とは気づかぬまま、ジェイドは微かに希望を抱いた。
「……さ、どうなっかねぇ」
小声で呟き、知らず口の端を上げる。
途中何度か陰に隠れながら休み、日が沈むころには国境にほど近い根城へとたどり着いた。
根城と言っても所謂小さな洞穴だ。
火を焚くことも出来ないが、この辺りは獣もほとんどおらず、幸い凍えるほどの寒さでもない。
ルリは纏い布のおかげで温かいとすら言っているから、明日の朝、凍え切った体が動かないなどという心配もないだろう。
「……明日の朝一番に国境を越える。ここを出たらその布頭から被って、一言もしゃべるなよ」
「うまく、いくかな」
「さあなぁ。運が悪かったら、またあの屋敷行きだな」
「……ジェイドは、どうなるの?」
ルリの問いは静かだ。ただし微かな月明りでも分かるほど、瞳は煌めいている。
やはり肝が据わっているのか、同じように言い聞かせた言葉にも昼間のような怯えは感じられない。
追っ手の有る無しの問題かもしれないが、変に取り乱されるよりはやりやすい。
「……さぁな。ま、なるようになるってこった」
実際、捕まるようなことになれば罪人に命の保証はない。
その場で殺されるか、良くて檻の中で死を迎えるだけのことだ。
上手く行けば脱獄するくらいのことは出来るかもしれないが、そこまでして逃げる意味もないだろう。
心が自由である事こそがジェイドの存在理由だ。
常であればこうして一人の人間のために右往左往するのも、自由のためにと義務のように画策することも嫌っているのだが、今は凪いだように満たされてすらいるのだ。
どうにも奇妙な心地である。
「……しなないでね」
ルリがぽつりと、静寂へ溶かすように呟く。
ああ全く、本当に女というのは勘が良くていけない。
だから厄介なのだ。やりたいように生きて死ぬのが良いんじゃないか。
返事はせずに、ジェイドはまた一度だけルリの頭を撫でてやった。
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