第4話 『ソ連人』(後編)

 朝早く、ナタリアは廊下から聞こえてくる騒々しい話し声を耳にして目を覚ました。

 硬いマットレスの敷かれたベッドは旅の疲れをあまり癒してくれなかったが、それでも、もう少しだけ惰眠を貪っていたいと寝返りを打つ。しかしそんな彼女の望みは無視されて、廊下から聞こえてくる騒音が、ますます彼女を起床へと追い立てる。

 ・・・仕方なく重石のぶらさがったような瞼をこじ開けて靴を履き、彼女はドアの前にまで歩いた。するとその話し声はより鮮明になっていく。

 二人の女が、廊下の先でやかましく言い争っているのが聞こえていた。彼女はドアに耳を当てて、そんな彼女たちの会話を盗み聞こうとする。

 「部屋を交換してほしいと言っているだけじゃない。冷たいわね!」

 「わがままな女だな。どの部屋だって大して変わらないのに」

 「変わるの!私の部屋の隅にどでかい支柱があるからベッド周辺が手狭になってるの!」

 「どの部屋にだって柱の一つや二つくらい・・・」

 ドアに耳を当てれば当然かもしれないが、聞こえてくるのは自分の知っている声ではない。

 ふと昨日のエルザの話が蘇る。

 彼女は、あと三人ここに引っ越してくる予定だという話をしていたが、そのうち二人が例の彼女たちなのかもしれない。だからその口喧嘩じみた会話の内容が一体何であるのかと気になった彼女は、さらに扉へ耳を押し付ける。

 二人はしばらくの間そんな風に言い争っていたが、突然どこからともなく二人の間に割り込むようにして聞き覚えのある声・・・エルザの声が、ドアに押し付けた彼女の耳に飛び込んでくる。昨日のソフィアとの言い争いも含めて基本的に静観を決め込むような彼女だったが、やかましく声を上げる二人の言い争いにはさすがの彼女も耐えかねたようだ。

 「サラ、実はここ以外にも上にもう一つ通常より広い部屋があるの。案内するわ」

 「ええ、ほんとに?」あからさまに嬉しそうな声が弾む。「見せてもらえるかしら?あなたはまだこの女よりも幾分話が分かるみたいで助かるわ!」

 エルザの提案に食いついたサラ・マイネリーテは、目の前の女に対して聞こえよがしに捨て台詞を吐くと彼女に連れられて階段を上っていく。甲高い声の主がいなくなった廊下が再びしんとした静寂に包まれる中、一人取り残された喧嘩相手の、疲れを隠さないため息だけがその場全体に響く。

 ナタリアは廊下の様子を伺うつもりでそっとドアを開き、わずかに顔をのぞかせる。恐る恐る部屋を出て、廊下の先にいる肩ほどまでの黒い髪の毛の女に近づくと、気配に振り向いた彼女は意外なほど笑顔で手を振った。ナタリアはたどたどしい顔で、そんな予想外に明るい彼女にぺこりとお辞儀をした。

 「おはよう。私は今日ここに引っ越してきたばかりなんだ」

 ナタリアと彼女は互いに簡単な自己紹介をする。

 彼女の名前はニノ・ヴァシュキロワという。彫りの深い顔立ちに青い瞳、黒髪というどこかエキゾチックな雰囲気を醸し出す彼女の顔を、ナタリアは物珍しそうに見つめていた。

 「ナタリー。そんなに珍しい、私の顔は?」

 「あ・・・私の住んでたところじゃ見慣れない顔だったの、えっと、ごめんなさい」

 相変わらず自分とは異なる他人の顔やパーツを、悪気がなくともじろじろと眺めてしまう自分の癖を恥じる。きっとこれを不快に思う人間もいるというのに。

 「私に慣れたら、きっとグルジア人が世界で一番綺麗な人種だと思い知ることになるよ」

 彼女はグルジア人であることを、とても大きな誇りにしている。ソ連人としての自覚はあるのかと尋ねたら、その理念に協調するどころか、ロシア人に対しては不思議な対抗心を燃やしている様子だ。だがそんな部分に、どこかナタリアは親近感を抱いてしまう。

 「良い迷惑なんだ。スターリンの出身地だとかって、いつも槍玉に挙げられる。もっと立派な偉人はいるのに・・・ほら、画家のピロスマニだってグルジア人だよ」

 「私たちだってそう、大切な文化や偉人はいつもロシア人に奪われるの。チャイコフスキーだってお父さんはウクライナ人。作家のゴーゴリだって本当はホーホリって、ウクライナ語で表記するべきなのに」

 「全く傲慢だねロシアって。全部自分たちのものか。そんな状況でソ連だ、仲良し一つの国家だ、なんて私は少しアホくさいって思っちゃうよ全く」

 二人の会話は妙に噛み合っていたが、次第に話す言葉も尽きて、二人の間には沈黙が訪れる。

 まだ初対面で、少しだけおどおどとしたナタリアをニノは真っ直ぐに・・・まるで観察するように見つめる。

 「それでナタリー、あんたはよくアイドル計画なんてものに参加したね?」

 「あ、ううん。私はソ連自体はすごく好きだから」いきなり参加した理由なんか聞かれたって困ってしまう。必死にそれらしい答えを見つけ出そうと苦慮する。「でも・・・だからこそウクライナ人の代表になって、ロシア人に負けたくないんだって思ったの。だって、ロシア人だけが威張ってるだけの国なんて私は嫌だなって・・・それじゃあ“連邦”の意味がないもの」

 どんな民族だってロシア人同様に目立つ機会を得るべきだ。ソ連=ロシアという価値観が今も世界を覆っている。

 ウクライナ人であるからこそ、彼女はそんな現状に納得できなかった。

 「つまり、その・・・あんたはアイドル活動を通じて彼らと対等の立場になりたい、ってわけか」

 「その通り!」自分がうまく言葉にすることができなかった気持ちを、彼女がいとも容易く要約してくれたことを嬉しく思うと、彼女は声を弾ませた。

 「・・・でもニノは?話を聞く限り、ニノの方こそソ連なんて嫌いなのかなって」

 ニノは周囲をじろりと伺った後、ナタリアの耳元に囁いた。

 「うん、まぁ・・・正直に言えばグルジアはいずれ一つの国として独立すべきだとは思ってる。そういう意味ではソ連なんてって・・・」

 ナタリアはソ連を愛しているが、その一方でソ連を嫌う人のことを悪く言おうとは思わない。だから彼女の意見を素直に聞き入れて、頷いた。

 しかし、彼女の言葉には続きがあるらしい。

 「・・・でもさ、あんたの話を聞いてたら、そんな手もあるんだなって感心しちゃったんだよ」

 ナタリアは首を傾げた。

 「ナタリー、あんたはアイドルなんてものになって、この国を内側から変えたいと思ってるんだろう?私はそんなこと一度も考えたことなかったんだ」ニノはいたずらっ子のような笑みを浮かべる。「深い考えなんて無かった。ただこの国で一番になりたかっただけさ」

 一昨年の夏、モスクワに出稼ぎへ出ていた彼女が見つけた、オーディション開催のチラシ。ソビエト政府公認のチラシではあったが、どうにも胡散臭くて、誰も見向きもしなかったチラシを彼女は拾い上げ、興味を抱いた。

 それまでギターを弾きながら呑気に歌うことが好きだった彼女は特にこれといった信念や理想もなく、ほんの腕試しのつもりでそのオーディションに応募したのだ。その自由奔放で恐れを知らない性格を気に入った主催者のミハイルは、そんな彼女を喜んでメンバーに引き入れたのだ。

「でも今あんたの話を聞いてると、私も・・・グルジア人とロシア人が平和にお手手繋いで歩ける世の中も案外実現できそうな気がした。それ、すごく良いね」

 彼女の言葉にはグルジア人らしい陽気さと呑気さが溢れている。そんな平和な彼女に、些細ではあるかもしれないが確かに影響を与えることができたと感じると、何にも変えられない喜びがナタリアの胸を満たしていく。

 「ちょっと!信じられないわ!どういうつもりなのよ、しっかり説明してちょうだい!エルザ!」

 階段から、先ほどの口喧嘩の相手・・・サラが、エルザの腕を掴みながら降りてくる。ナタリアは初めてその顔を見た。長い栗色の髪の毛を一つ結びにした彼女はエルザの提案の一体何が気に食わなかったのか、ひどく不満顔である。

 ナタリアは自分でも普段から無愛想な顔をしている自覚はあったが、目の前に迫る彼女は、もっと怖い顔をしていた。

 「ニノ。今日からこの子があなたのルームメイトになるの。仲良くしてくれるかしら?」

 「は・・・え、はぁ!?」

 ニノは思わず、手に提げていたトランクを床に落とす。上の階の大部屋に住むための交換条件としてエルザがサラに提示したものであった。

 確かに上の階の部屋は広かった。ツギハギだらけでも真ん中には仕切り用のカーテンもある。だが結局は仕切れば通常の部屋より狭くなるのは確実だし、かと言って部屋を仕切らなければニノとの口喧嘩が毎晩のように繰り返される恐れがある。

 「信じられない、私がレニングラードに住んでいた時の学生寮の方がずっと広くて、シャワールームもトイレもあったのに、この建物ときたらどこも共用だなんて・・・それだって耐え難いのに、こんな女とルームシェアだなんて」

 どこか怒りっぽくてプライドの高いサラはリトアニア出身で、ソ連の最高学府の一つであるレニングラード(ペテルブルク)大学に通っていたエリートだ。歳は23歳で、ナタリアより7つほど離れている。28歳のエルザよりも歳は下だが、歳の離れた彼女にだって容赦なく噛み付く荒々しい性格で、臆病なナタリアはこんな相手とも果たして上手くやっていけるのかと不安がる。

 「まあ・・・別に私はいいけどね、相部屋で。面白そうじゃん」

 「ニノ、ほんと?それは助かるわ!」

 ニノは先ほど床に落としたトランクを拾い上げると、そそくさと階段に足をかけた。そんな彼女の挙動を、サラは意外そうに目で追っている。

 「私はこのリトアニア女よりずっと大人なんだからね」

 サラより歳が4つほど下のニノは階段の手すりに手をかけてこちらを振り向くと、嘲笑うような笑みを浮かべていた。あからさまな挑発だが、対する彼女は顔を赤くして黙り込んだまま、ニノの先を追い越すように階段を駆け上がっていく。

 エルザはそんな騒々しい二人の様子を眺めて、またもや隠しきれない笑いを堪えている。

 瞬く間に二人の口喧嘩を無理やり解決させてしまったエルザとニノのやり方に、ナタリアは驚きを通り越して、むしろ感心してしまう。

 「さぁナターシャ、早くあの寝坊助さんも起こして来てちょうだい。朝食にするわよ」

 エルザはナタリアの部屋の真向かいの部屋を指差す。昨日の今日でまだロシア人である彼女のことをよく知れたわけではないから、それはまるで機嫌の悪い番犬を起こしに行くかのようなスリルがあった。 

 

 同じ頃、霧もやの霞むモスクワの公園の散歩から戻ってきたばかりのアンゲリナは、ぼやけた視界の向こう側で挙動不審にウロウロとしている見慣れない少女の姿を目撃する。自分が住まうコムナルカの前を行ったり来たりしている彼女は、この街の大半を占めるスラヴ人と異なった見た目が印象的だった。視界が開けてきて、彼女の目にはっきりと飛び込んできた黒い髪の毛に彫りの浅い顔立ちの人種は、直接目にしたことはこれまで一度もなかったが、おそらくアジア系なのだろう。その片手には地図、もう片方の手には重たそうなトランクを提げている。アンゲリナはもしや、と思い紙袋を抱えながらそっと彼女の背後に忍び寄る。

 「初めまして。あなたは何をお探し?」

 軽い気持ちで声をかけたのだが、相手はひどくおびえたように肩を揺らして、それから、子犬のような彼女の顔がゆっくりとアンゲリナの方を向く。

 物静かな雰囲気を抱く彼女は遠目に見ると小柄ではあるが、そばに寄るとアンゲリナよりも少しだけ背が高い。

 「えっと、私、今日ここらへんに引っ越す予定の・・・ご存知じゃない、ですよね?」

 待ち望んでいたその言葉を聞くと、アンゲリナは嬉しそうに微笑んだ。

 「ううん、大丈夫!付いて来て。きっとあなたの仲間だもの」

彼女は躊躇いがちな少女の手を引いて建物に入っていく。意外そうに目を丸くしていた彼女に、扉の前で種明かしをした。この建物に住んでいること、そして自分が同じ仕事仲間であること。

 少女はようやく安心したように、安堵のため息を漏らした。

 

 彼女たちが住むコムナルカの二階に作られた広々とした共用リビングには大きなテーブルが備え付けられており、台所とも隣接している。ソファーや最新式のブラウン管カラーテレビの他にレコードプレイヤーだってあり、自室に籠ることに飽きれば、ここで時間を潰せるようになっている。物不足のソ連とは思えないほど室内は充実していた。

 台所のテーブルの上に並べられた数種類のパンやたくさんの生ハム、チーズ、ベーコン、サラミ、ボイルされた白ソーセージやプレッツェルといったまるでホテルの朝食ビュッフェのような色鮮やかさとバリエーションの豊富さに皆目を奪われる。料理というより、既成の食材をただ集めてきただけのようなラインナップだが、普段朝食といえばカーシャ(蕎麦がゆ)とシチー(酸味の効いたキャベツのスープ)、そしてライ麦を使った黒パンばかりを食べて育って来た東欧の彼女たちには、今日の料理担当であるドイツ人エルザが提供する食材はどこか新鮮だった。

 「こんなにいっぱい、どこで仕入れたのさ。物不足のソ連で」

 ニノはクロワッサンを物珍しげに掴むと感動したようにその芳醇な香りを楽しんでいた。

 「国家機密よ」

 彼女たちが政府のお墨付きを得た団体であることがその大きな要因であることは、もはや言うまでもない。

 「ブルジョワ的だね、ソビエトの理念に反する」

 そうは言いつつ、もぐもぐと、果たして食べきれるのかどうかも分からない量を皿の上にどかんと盛り付けたソフィアはリビングに戻ると、さっそくコーヒーとともにそれらを食していた。

 ソフィアの他にサラやエルザもコーヒーを選んだが、一方で普段紅茶を飲む習慣がすっかり根付いている庶民出身の四人は紅茶を手放さない。

 「コーヒーって恥ずかしいけど私、これまで一度も飲んだことないの」

 「飲んでみなさいよ。これは案外美味しいわ」

 ナタリアの隣に座っている初対面のサラが意外なほどに優しく勧めて来た。自分にとっては朝、ニノと口喧嘩していたあの情景が思い浮かんできて、そんな彼女の優しさは意外なものに感じられる。ナタリアは一口だけコーヒーをすするが、どうも不思議な味だ。苦みと酸味が口の中に残って妙な感じだが、でも、香りは上品でクセになりそうでもある。

 「うーん、でもやっぱり、私は紅茶にジャムとか蜂蜜を溶かして飲むのが一番落ち着くよ」

 「いやいや・・・こんな美味しいコーヒーをソ連で飲めるなんて、一体どういうわけだい?」

 一方で、それまで紅茶を飲んでいたニノが驚いたようにサラのコーヒーカップを奪い取って口にすると、勝手に一人で感動している。

 「ちょっと何!あんたの分はないわよ!自分で淹れなさいよ」

 「だってグルジアで飲んだのはこんなに美味しくなかった。美味しいと噂のブラジルコーヒーはみんなが欲しがってたけど、高いし、そもそも滅多に入荷しなくて、いくら並んだって手に入らなかったし」

 「ふん、あんたでもコーヒーの味くらいは分かるのね」

 父親がリトアニア共産党の幹部であり、上流階級出身であることを自慢するようなサラは彼女をどこか見下すように呟いた。それからすぐに自分がこれまでに飲んだコーヒーの自慢が始まって、ニノはあからさまに嫌な顔をする。

 そんな二人の間に挟まれたナタリアは、もっと微妙な表情になって萎縮していた。自分の斜め前に腰掛けるエルザも助け舟を出す気配がない。

 「コーヒーなんて苦いだけだな、やっぱり紅茶の方が美味しい」

 そんな時、ナタリアの真正面に座っていたソフィアが突然割り込むように呟いて、予期せぬ反撃にサラは、威嚇の対象をニノからソフィアに変えて睨みつけるが、目の前の彼女は相手にする様子もない。そんな彼女はコーヒーをすすっている・・・。相変わらず、それが本音なのかどうかも分からないミステリアスな発言をする彼女を、ナタリアは意外そうに見つめていた。

 「ロシア人だからって私に喧嘩売るつもり?そのコーヒーの本当の味も分からない庶民は黙っていてくれないかしら?」

 「やめときなよ、サラ。そのロシア人のお父さんは共産党政治局員だよ。あんまり馬鹿にするとあんたのお父様の首が飛ぶんじゃないか?」

 ニノが呆れたように言うと、サラは目を丸くしてニノを見つめた。その場には、苦いと言いつつも手元のカップになみなみ注がれたコーヒーを飲み干すソフィアの、すする音だけが響いている。

 「そうね。彼女のお父様の資金提供のおかげで、うちは成り立ってるんだから」

 ソフィアの隣に座るエルザもようやくコーヒーを飲みながら呟いた。

 「な・・・っ!?政治・・・えっ、クレムリン・・・」

 それっきりサラは戦意を喪失するように黙り込んで、それ以上は何も言えなくなってしまうのだった。

 

 五人がテーブルで食事を楽しんでいる頃、隣の台所では戻って来たばかりのアンゲリナが、散歩の帰り道に連れて帰ってきた新人の少女と一緒に朝食を皿に盛り付けているところだった。ナタリアが興味津々に台所を遠目に眺めていると、その少女の皿に盛られたものにはパンやチーズが多く、肉類が一切盛られていないことに気づく。

 その少女の名前はクララ・スユンシャリナといった。中央アジアにある構成国の一つ、カザフスタン共和国出身で歳は14歳と、このメンバーの中では最年少なのだ。アンゲリナとはすでに打ち解けている様子だったが、彼女が聞き耳を立てていると、それは会話が弾んでいるというよりは、むしろアンゲリナの言葉の一方通行のような気がしないこともなかった。




 

 ナタリアたち七人が朝食を終えた後、迎えに来た仰々しいリムジンでモスクワのクレムリンへと向かうことになる。ここにはソビエト政治の全てが詰め込まれているのだ。豪華なシートに深々と腰を埋めて、皆誰も乗ったことがなかった高級車に胸をときめかせていたが、とは言ってもやはり政治を動かす大物と対面することには恐怖心を抱いているし、何よりも緊張感で、手に冷や汗を滲ませている。

クレムリンとは城壁という意味で、その昔、異民族からの侵入を退けるための砦として建設されたのが起源だ。ロシア中のあちこちに今もなおクレムリンと呼ばれるものが現存しているが、モスクワのクレムリンだけは重要性が他とは異なる。その城壁の内側に帝政ロシア時代に築かれた荘厳なクレムリン宮殿や政府庁舎、黄金のドームを備えた美しい教会が立ち並ぶ。

 彼女たちを乗せたリムジンはクレムリンの前に広がる広大な赤の広場を横切って、城壁の内側へと進む。そして車を降りた後は普段庶民が決して立ち入ることのできないクレムリン宮殿の中へと歩いた。

 宮殿の来賓室に通された彼女たちは、大きな机に向かい合うようにして腰掛ける。調度品から天井や壁の装飾、シャンデリア、何から何まで立派だ。そんな美しさに目を奪われていると来賓室の扉が軋む音を立てて開く。彼女たちは一斉に椅子を立つ。扉の向こうにはスーツを着た男性・・・ゴルバチョフ政治局員がニコニコとした笑みを浮かべて立っているのだ。

 これから彼が一体自分たちに何を話すのだろう。そのように身構えていたメンバーが大半を占めていたから、ほんの一時間程度の談笑に終わってしまい、すぐさま来賓室を出ていく彼の後ろ姿に、皆が拍子抜けした。

 国の中枢にいる人物とはとても思えないほど物腰柔らかな、どこにでもいそうなユーモアあふれた親しみ深い彼を目にすると呆気にとられたが、それでも緊張のあまり、それ以外の記憶なんてほとんどなくしている。

 その場にはソフィアの父で、ゴルバチョフと同等の権力者である政治局員アレクサンドル・クルニコフも同席していたし、リヴォフで会ったきりだったミハイル・トカレーヴィチもその場にいた。ところがミハイルも、ゴルバチョフとともに部屋を出ると慌ただしく会議に戻ってしまい、ほとんど会話を交わす時間を得ることもできなかった。

 それまでは目にする機会もなかった政治家としての彼の忙しさが垣間見れた時、彼女はようやくそんな彼にスカウトされたこと・・・自分たちの仕事の重要性を認識し始めた。そして自分たちのこれからの仕事に強い誇りを抱くことができそうだった。

 「ミハイルさん、忙しそうだったね」

 彼の背中を見つめたアンゲリナが隣で呟いたのが印象的で、その様子はナタリアの脳裏にはっきり焼き付いていた。

 「そういえばアンゲリナは、どうやってミハイルさんと出会ったの?」

 ナタリアは、自分以外のメンバーがここに集った経緯をほぼ知らない。アンゲリナは少し答えに窮するようにはにかんだ笑みを浮かべた後、ぼそりと、自分の昔からの恩人だよ、とだけ呟いた。それ以上の詳しいことは口数の多い彼女にしては不思議なくらい何も話さなかった。

 彼との会談が終わり、緊張感から解放されて城壁を外に出たばかりの彼女たちは、しばしの自由行動の時間を与えられることになる。

 赤の広場どころかモスクワにすら、これまでの人生の中で一度も足を踏み入れる機会がなかった彼女たちにとって、その景観や文化に直接触れることは大いなる刺激になるだろうというエルザの考えであった。


 クレムリンの正面に広がる巨大な赤の広場にはカラフルな玉ねぎ型のドームを持つ聖ヴァシリィ大聖堂の他、様々な革命を記念する建造物や博物館がそびえていた。その中でも目立つ存在の一つであるレーニン廟は、とりわけ多くの観光客の耳目を惹きつけてやまない。この日も多くの国内外の観光客によって行列ができており、彼女たちの中でも特に共産党の思想に熱心なサラが気乗りのしないニノを連れてその列の中に並んでいた。

 中央にそびえるレーニン廟の目玉は、ソ連の高い技術力と個人崇拝が密接に結びついたことによって生まれたエンバーミング手術によって永久保存された、偉大な指導者レーニンの遺体である。今も何年おきかに防腐処理を行う手の込んだ展示物は、ある意味では悪趣味かもしれないが、それでも数多くの人々を引き寄せるのはレーニンが偉大なカリスマ性を持つソ連人民から強く愛される指導者なのだからだろう。

 ナタリアはそんな偉大な祖国の創始者を誇らしく思う一方で、レーニン廟の手前まで足を運んでも、他のメンバーのようには列に並ぶ気になれなかった。しばらく建物の前で足踏みするように躊躇した挙句、ナタリアはそそくさと広場の片隅に設置されたベンチに座って、反対側の遠くにそびえる聖ワシリィ大聖堂をじっくり眺めることにした。

 「でかいなぁ・・・」

 ソビエト連邦では宗教の信仰は事実上、禁止されていた。

 無論全面的な禁止に踏み込めば国民の大きな反発を招く恐れがあるために限定的な信仰は認められているが、もし仮に政府に反抗的な態度をとるならば即KGBに宗教指導者が逮捕されてしまうのは事実である。スターリンが政権を掌握した1920年代、30年代には数多くの聖職者が実際に処刑され、多くの教会が爆破、もしくは囚人の牢獄として使用された歴史がある。

 その歴史の渦の中で、このワシリィ聖堂もまた一時はスターリンによる爆破の危機に瀕したことがあった。しかし彼は、信仰心の篤いロシア人・スラヴ人の憤慨を恐れて爆破に踏み込むことはできなかった。それほど、この教会はロシア人にとっての心の拠り所であり、シンボルである。ロシア人ではなく、どちらかというとウクライナカトリックを信じている彼女でもその信仰心はよく理解できた。

 「あの教会好きなの?」

 くせ毛気味な赤髪が、突然彼女の視界を遮る。驚いて思わず声をあげそうになったが、逆光気味の彼女の顔をよく見れば自分のよく知っている顔だと気づく。

 ソフィアはなんの断りも遠慮もなくナタリアの隣に腰掛けた。


 二人の間には何もない時間がしばし流れる。隣に座るロシア人が何を思っているか、どのような考えを抱いているかなど一日経った今だって分からないが、ナタリアは気まずい感情を抱えたまま、どんな言葉をかければ無難なのかという考えを一生懸命張り巡らせている。

 「分かっちゃったよ、私さ」

 ソフィアがじっと、隣に座ったナタリアの顔を真剣に見つめる。一体どのような意図が込められているのか。彼女は僅かな怯えを覗かせた。

 「あんたって死体とか、そういうの見るのは苦手なんだ」

 ・・・想像していたのとは全く真逆の言葉が、ナタリアに向けられた。まさか自分がレーニン廟の前で足踏みしていたことを彼女はどこからか見ていたとでもいうのか?

彼女の言う通りで、ナタリアは死体や血を見るのは得意ではない。一度本で読んだことのあるエジプトのミイラの話が小さい時のトラウマであるくらいだ。

 「私も、死体は苦手」

 「え」

 ナタリアははっとして、ソフィアの顔を思わず覗き込む。

 思い返せば、博物館を出た直後にメンバー全員の足は一様にレーニン廟に向いていたが、ソフィア一人だけが自分と同じように別の方向に向いていた。ナタリアはそんな彼女の行動が少し気にかかったが、一人でいることの方がきっと好きなんだろうと思うとそれ以上疑問に思うこともなかった。

 しかしそれが自分と同じような動機であったなんて、とても意外だ。

 「ソフィアにも怖いものなんて、あったの?」

 「あるよ。私だって人間だ」

 真顔で返した彼女の反応を可笑しそうに笑うナタリアに対して、どこか不満そうなソフィアの声がこだまのように返される。

 「私のこと、初対面で美味しそうだなんて言う人が?」

 「本当に美味しそうなんだ、間違いないよ。綺麗な亜麻色の髪・・・キャラメルみたいで」

 ようやく、そういうことなのかと思えた。

 ナタリアは今やそんな独特の言い回しを、彼女なりの褒め言葉として受け止めることができている。アンゲリナの言った通りで、ロシア人は案外悪い人間ばかりじゃないのかもしれない。

 彼女の中に自分と似た部分があったことがとても嬉しかった。

 それから二人の間には再び微妙な静寂が訪れてしまう。せっかくソフィアの性格を一つ掴めたと思ったのに、他の部分だけは、まだまだ掴めなていないのだ。

 たったの一日で彼女のことを全て知った気になっている方が間違いなのかもしれない。

 ナタリアはどこか必死になり、会話を続けようと懸命に言葉を絞り出す。

 「・・・でもレーニンって、そんなにすごい人なの?自分の遺体を永久に保存する理由は?」

 話題に困るようにナタリアはふと、そんな疑問を口にした。

 「さぁ」

 彼女の何事に対しても無関心そうな様子には今も何の変化もなさそうだ。ぴくりともしない表情を見せられ、やはり彼女と普通に会話を続けるのは難しいのかとやや心が折れそうになりながら、しかしそんな弱気な心には負けずに言葉を捻り出す。

 「学校で先生から教わったの。キリスト教やイスラム教、そういう宗教があると特定の権力者を作り出してしまい、世の中を聖職者が牛耳るようになるから労働者は彼らの言いなりになっていく・・・それが原因の一つになって、西側世界では格差が生み出されてしまっているんだって」

 ソフィアは、まだ黙り込んでいた。

 何の気なしに口にした疑問だが、今ではむしろナタリア自身がその疑問について深く考えていた。

 「でも・・・不思議だよね。宗教をそんな風に否定しちゃうのに、ソビエト政府は永久に一人の指導者の遺体を保存する・・・まるで、神様みたいに崇めて」

 「じゃあナタリアは、カミサマを信じてる?」

 「へっ・・・」

 ナタリアの語尾に覆い被さるようにして、急にソフィアはそんな疑問を投げた。その質問にはどんな意図が含まれているのか、ナタリアは必死に考えてみたが、自分の目をしっかりと見て決して逸らさないソフィアの純粋な瞳を前にして、そんな余裕など微塵もない。

 「・・・いるかもって、思うけど・・・」

 彼女の急かすような眼差しに抗えず口にした。ナタリアの住んでいた西ウクライナには地域の共産党員から悪い目で見られながらもずっと信仰を守ってきた住民が数多くいる。ナタリアの母や祖父母もまた同じであった。そしてナタリアもそんな家族とともに、ことあるごとに十字架に祈りを捧げてきた。

 「だけど、レーニンが神様かどうかなんて、分からないよ」

 少なくとも彼女のイメージする神様とレーニンの姿は乖離しているように思える。第一、レーニンを神様だなんて言えばそれこそ共産党員に叱られるのではないか。ソビエトは偉大であることは、彼女もよく知っているし分かりきっていることだ。神レーニンはアダムとイブが幸せに暮らしていたエデンの園、つまり万人が平等に暮らすユートピア、ソビエト連邦をお与えになった・・・だから、聖書になぞらえてそんな説明もできるのではないかとも思ったのだ。

 ところが、この頃ナタリアは自分の住むこの国が、果たして万人が望んでいた理想郷であるのかどうかの確信を、以前と比べても明確には抱けなくなっている。おそらくミハイルと出会って様々な話を聞いてから・・・。

 「何を信じるのも自由だよ」ソフィアは、ようやく自分の考えを言葉にした。 「だけど自分の信じるものが本当に正しいかどうかなんて誰にも分からない。分からないから、カミサマはたくさんいるんだ、この広い世界には」   

 ソフィアは青く澄み渡った五月の空を見上げている。その綺麗な灰色の瞳には綺麗な青が溶け込み、いつの間にかナタリアはそんな彼女の瞳の中に凝縮された曇りのない世界に目を奪われていた。

 「・・・ソフィアこそ、神様を信じてるの?」

 「明日のご飯を保証してくれる人を、私はカミサマと呼ぶ」

 彼女はナタリアに顔を向けると、初めて得意げな笑みを見せる。 

 その思いもよらなかったあまりに無邪気な笑顔と、政治や倫理といった難しい話から完全に切り離されたたったそれだけの言葉に、ナタリアの胸は大きく高鳴っていた。


 



 正午、ようやく会議を終えたミハイルは人目を気にするように秘書が運転する公用車の後部座席に乗り込んだ。

 車は赤の広場の城壁を抜けてまっすぐ進み、モスクワ川にかかる橋を渡ってソフィスカヤ・ナヴェレージュナヤ通りを東へ進む。左手の窓からは川を隔てた向こう側にそびえる巨大なクレムリンの雄大な景色を一望できる。

 車はさらに南へと向かい、モスクワ郊外に差し掛かる。車を降りると、彼は秘書の車が見えなくなったのを確認してから大通りを抜けて狭い路地を歩き、そして十数分後には緑の生い茂る噴水の美しい公園にたどり着く。公園には始まったばかりの春の陽気を楽しむモスクワ市民の姿が散見された。

 公園のそばに停車している一台の白い車を見つけると、ミハイルの肩には力が入り、周囲に気を配る。この近くに、自分の目的としている車の持ち主がいるはずなのだ。

 公園の芝生の上に敷かれた遊歩道をゆっくり歩いていくと、向こう側のベンチに腰掛けてコムソモリスカヤ・プラウダ(党機関紙)に目を通した男の姿を確認する。このご時世、プラウダなんて読む人間はよほど熱心な党員か、物好きか、暇を持て余した人間しかいない。ほとんどが大して面白くもない記事の羅列だ。 

 ミハイルは改めて警戒するように周囲をよく見渡して足を進める。

 そして、男の隣に腰掛けた。

 新聞を読んでいた男の新聞を読む手にはなんら変わりがない。微かなため息をして、彼はゆっくりと口を開いた。

 「・・・ウラルの山奥にある秘密設計局に潜伏させていた内通者が捕らえられ、銃殺された。そいつは20数年間も我々が資金提供を行って手塩にかけて育てたというのに。・・・次はお前の番になるかも知れない。用心することだ」

 ミハイルは分かっているとでも言いたげに深くため息をついた後、隣に腰掛ける不機嫌そうな男の横顔を見る。黒い髪と口ひげを蓄え、大きな眼鏡をかけているが、それはつけ髭だし、髪の毛の色だって本当は茶色であることを知っている。彼はミハイルがたった今歩いてきた遊歩道を歩く一人一人の民間人の顔を、新聞を読むふりをして真剣に睨みつけていた。

 「“ゲオルギー”・・・今日の変装は一段と凝っているじゃないか。一体君にはいくつの顔があるんだ?」

 スパイとして普段から様々な人間関係に入り込んでいる以上、一体いつ、誰に見られて矛盾が生じるかも分からない。そのためゲオルギーと名乗る彼には、定期的に顔や容姿を変える必要がある。これまでにも様々な工作活動に参加して、用済みになった何人もの人間を殺してきた。常日頃からKGBに狙われる身分であるため、彼はミハイルと会話を交わす今もしきりに周囲へ目を泳がせている。

 「すまないな、このところソビエト国内のCIA職員は窮地に立たされっぱなしだ・・・有益な情報が入ってこなくなり、大変苦慮してる」

 苛々の言い訳をすると、癖であるかのように煙草に火をつけ、思い切り煙を吸い込んだ。煙草を握りしめるその指が微かに震えているところを見ると、彼は自分がいつKGBに囚われてしまうか、恐れや不安を強く抱いているらしい。

 「・・・ところで今更なんだが、君の計画書は読んだよ。長官も本気でソビエトを内側から崩壊させるつもりか、と興味津々だ」

 ゲオルギーは、果たしてそんなことをして国を壊せるのかと疑いを隠さぬように言った。

 しかし当のミハイルは自信をたっぷり含んだ様子で答える。

 「冷戦はじきに終わる。このことに疑いはないよ。西側文化の良さを知った国民は、いよいよ大きな自由を手にしたがるだろうから」

 西側文化を少々受け入れたところで国の体制は簡単に崩壊しないと思い込む改革派のゴルバチョフたちをミハイルは上手く利用し、遂に念願だったこの計画を実行に移したのだ。

 そんな彼はまるで帝政ロシアの末期、皇帝ニコライ二世に取り入った妖僧ラスプーチンのように、やがては国を崩壊へと導く存在だが、復讐のためなら喜んでラスプーチンになろうという決意なら、最初からある。

 「友の命を連中は無惨にも奪った。僕は君たちに情報提供を惜しまない」

 ミハイルは先ほど行われたばかりの会議中の音声を録音したテープを、通行人に見られないように慎重に手渡す。重要な安全保障会議であり、東ドイツやハンガリーといったソ連以外の同盟国の軍関係者も参加する東欧の戦略兵器配備に関する内容の極秘会議である。

 「・・・感謝する。我々も君のプロデュースした彼女たちをアメリカ国内で宣伝し、世界的なアイドルになるよう協力する準備がある」

 ミハイルから受け取ったカセットテープを、新聞紙の裏で隠しながら上手に懐へしまい込むと彼はそれまで読んでいた新聞を折り畳んで膝の上に置く。

 「しかし、君の可愛い娘たちがいずれ君の正体を知る時が来たら、どうするつもりなんだ?」

 そのような問いかけに彼はしばし黙り込んだ。死ぬまで自分の秘密を隠し通せるとはまさか思っていない。ソ連が崩壊した以上は遅かれ早かれ、それも避けては通れない道なのだ。

 「うん・・・きっと彼女たちは僕を憎むだろうね。それだけは間違いないよ。騙している以上許されるなんて思っちゃいない。だが、もう後戻りはできないのさ」

 彼女たちの中にはソビエトを本気で内側から変えたいと願う者もいる。ソビエトは彼女たちの活躍で確かに変わるはずだ。しかし変わるのは、文化や慣習にとどまらない。政治や経済のシステム、その全てが大きく変わってしまう。

 ・・・そして、それらが全て変貌した時、現在の巨大な連邦という形だって喪われてしまう可能性がある。自分を信じた彼女を裏切るにとどまらず、彼女たちにとって掛け替えのない存在になるはずであろう家族を奪い取ることに、ミハイルは迷いや葛藤を抱えている。

 彼自身の抱える苦悩に共感を示すように、ゲオルギーは煙をまっすぐ吐き出した。

 「ところで例の・・・東ドイツ出身の彼女はどうだ?使えそうか」

 ミハイルがその場を離れようと立ち上がると、ゲオルギーはメンバーの一人、エルザの話題を唐突に口にした。

 「・・・ああ。さすがは元シュタージだ。身体能力も抜群で、何よりアイドルという名声・・・隠れ蓑があれば、どんな相手にも警戒心を抱かせることなく・・・その懐に潜り込んでいけるだろうね」

 優しく紳士的な印象とは裏腹に、情け容赦なく一人の女をアイドルとしても、・・・そして一人の“女スパイ”としても利用しようと画策する彼の薄情さと、恨みを晴らすことだけに真っ直ぐなその信念に、ゲオルギーは思わず呆れたような笑みを浮かべる。

 「一歩間違えれば、君のグループは立派な売国奴だ。確かにもう後戻りはできまい」

 「今はそうかもしれない、だがいずれは・・・きっとソ連という国家こそがすべて過ちだったと多くの国民が気づくはずだ。僕が証明する」 

 強い決意を込めた言葉を残したミハイルは何事もなかったかのように、今歩いてきた遊歩道を進み、公園を後にした。




 

 防音壁で周囲を覆った地下のレッスンスタジオには、どこから持ち込まれたのか、外国製のスピーカーや音響機材がずらりと並んでいた。どれも国内では、ほとんどお目にかかれない代物ばかりだ。

 彼女たちの住まうコムナルカの隣の建物は一階から上が全て倉庫や空き部屋ばかりのほとんどの階が廃墟のような建物なのだが、その地下には練習や収録のための広々とした立派なスタジオが備え付けられていた。

 赤の広場から戻ってきた彼女たちのうち、出演を控える三人は早速エルザに連れられて階段を降り、巨大な地下スタジオへと足を踏み入れていた。

 「これって・・・実物のマイク!?」初めて触れる機材の数々に、ナタリアは目を輝かせていた。「このレコードの山は!?誰の曲なんだろう・・・」

 エルザは部屋に入ると誰より興奮気味なナタリアを呼び寄せるが、今の彼女にはその言葉のどれも耳には入ってこない。スタジオのガラス越しに見えるドラムやギター、そしてバラライカをはじめとして数多くの民族楽器が彼女の興奮をますます高めている。

 「とりあえず今日は歌う曲の楽譜を渡すから、残りの五日間で完璧にするわよ、いい?とにかく時間がないんだから」

 ナタリアと違ってソフィアは周囲の機材にはそれほど関心も示さなかったが、ただ唯一、部屋の隅に置かれたグランドピアノを見つけると興味を示したようにその前へと座っていた。

 「あれ、ソフィーってピアノ弾けるの?」

 「これでも昔ピアニストを目指してた」

 アンゲリナが見つめるすぐそばで、ソフィアは長くて綺麗な指を鍵盤に押し当てる。一オクターブの曲を弾くことなど、指の長い彼女にはなんの困難もない。その器用な指で、超絶技巧で非常に難しいことで知られるリストの曲を何不自由なく奏でていた。離れた位置にいるナタリアも、並べられたレコード盤の束を漁るその手を思わず止めてその普段の眠そうな様子とはまるで異なる華麗な姿に見入っている。

 そばでピアノの美しい音色を聴いていたアンゲリナも、彼女の絡まりそうで絡まらない指使いに恍惚とした表情を浮かべている。

 「さすがね。それだけ上手ならソフィーには伴奏役をお願いしても問題なさそうね?」エルザがピアノを弾く彼女に背後から一枚の譜面を手渡した。「これ、弾けるかしら?」

 ソフィアは手渡されたばかりの楽譜に一通り目を通すと、さっそく鍵盤に指を置いた。

 「何も問題ないな」

 たった今初めて見たばかりの楽譜をその通りに演奏し始めて、軽快なマーチのような音楽が部屋いっぱいに流れた。なんという曲目なのか手元にある楽譜を覗き込んでみると、そこには『Детство – это я и ты(子供時代、君と僕)』というタイトルが刻まれている。

 「ピオネールで歌われる曲なのよ」

 ピオネールとは、共産圏におけるボーイスカウトのことを指す。英国でボーイスカウトが発足すると、それは瞬く間に世界中へと広まったが、無論ソ連にもその文化は入り込んでくる。ところが一般的なボーイスカウトとピオネールが明らかに違うのは、十歳から十五歳までの、知力体力共に優れた成績優秀者である少年少女だけが選ばれ、誰しもが入団できるわけではなかったという点である。

 「私は入りたかったけど、入れなかったの。だからこの曲をここで歌えることになるなんて・・・」

 ナタリアは自身が十歳だった頃を思い返した。通っていた学校の中にも何人かピオネールに入団した生徒がいたが、彼らの首を彩る真っ赤なスカーフは、彼女を含むその他大勢の生徒たちの憧れの的であった。

 「私は東ドイツでピオネールに入団していたの。だからこの選曲は私好み」

 譜面のサブタイトルには『世界平和を望む』という一文が刻まれていた。ピオネールのモットーは世界中の人々が一つになって仲良くすること。それはソビエトの理念の一つを、まさに体現したものだった。

 ドイツとの戦争は人類史上、類を見ない規模で戦われ、一つの街を奪い合うだけでも両軍合わせて三百万人以上もの戦死者を出すこともあった。戦争全体を通じてのソビエト側の死者は民間人を含めて二千万人を越したが、それでもソ連はドイツの侵略を跳ね除けた。それがこの国の誇りであり、同時に絶対に忘れてはならない出来事だ。

だからナタリアたちも、ソ連国民の気持ちを代表して・・・平和を祈る気持ちを戦勝記念日に合わせて、この曲に込めなければならなかったのだ。


 ナタリアとアンゲリナは先ほどまでいた部屋の隣にある練習部屋に入ると、さっそく壁に横一列に寄りかかって楽譜とにらめっこをし始める。ソフィアだけは相変わらず隣の部屋で夢中にピアノの鍵盤を叩き続けているが、彼女が意外に完璧主義者・・・妙に一つの物事にこだわる職人気質であるという意外な部分に、ナタリアは驚いていた。そんな彼女が一生懸命奏でる軽快な音色はこの部屋にまで、壁を抜けて聴こえてくる。

 「ソフィア、頑張ってるんだね・・・」

 常に怠惰で眠そうな、何に対しても特にこだわりもないと思っていた彼女が、こんなに真剣な表情を見せるなんて、思っても見なかった。これだけ上手いというのにこれ以上何を練習するというのだろう。自分の耳は素人だと思っているナタリアには、音の違いなどまるで分からない。

 「意外みたいだね。ソフィーは結構頑張り屋さんなんだよ」

 楽譜に集中できず、壁に耳を傾けてばかりいた彼女の耳元にアンゲリナが囁いた。「それに、きっとソフィーは責任感も感じてる、私たちの中で一番年上なんだもん、伴奏だってするんだから」

 ・・・なんとなく意識はしていなかったが、ソフィアは一六歳である自分より四つ年上なのだと、この前エルザに聞いていた。

 兄であるアレクセイも、もうすぐ二十一になる。ほとんど兄の年齢と変わらないことに気がつくと、彼女は急にソフィアに対して、これまでとは異なった気持ちを抱いた。普段自分のことなど構わず何も考えないフリをしているけど、実は結構面倒見がいい。何故か、そんなところに兄の面影を感じていた。・・アレクセイだっていつも兄としての責任を感じて、自分のことを見えないところで気遣っていたのだろうか?

彼と一緒に暮らしていた時は、何も気づけなかったのに。

「知らなかったよ、私、ソフィアに、知らないうちに世話を焼かせていたなんて・・・」

 その言葉は彼女の想う兄に対しても向けられている。彼はもうアフガニスタンに到着したのだろうか。アフガンがどんな場所かも話に聞くだけでは分からない。砂漠ばかりじゃなく、実は緑も多い場所と聞いているものの、慣れない環境で体調を崩したりしていないだろうか。

 兄が見えないところで国のために頑張る姿と、ソフィアが今この場所で必死に頑張る姿が妙に重なり合い、彼女は考え込んでしまっていた。

 「ナターシャ、急にどうしたの?」

 目の前にアンゲリナの顔がぼんやりと浮かんで、軍服姿の兄の面影は煙のように、どこかへと消えていく。モスクワに一人でやって来たことが、時折こんなことで、ふと寂しくなる。

 ほんの少しだけ実家に帰りたかった。ウクライナの愛すべき田舎町。

 どこまでも広がる小麦畑の地平線と青い空・・・。以前はあんなにつまらないと嫌っていたはずなのに、どうしてだろう。

 「何でもないよ。練習続けようか。ごめん、集中力が切れ気味で・・・」

 「ナターシャは子供時代、どんな子供だったの?」

 ほとんど間を空けることもなくアンゲリナの口からそんな問いが投げられて、ナタリアはその質問の意図が分からずにぽかんと口を開けた。

 「気になっていたの。ナターシャがどんな子供だったのかって」

 彼女は自分が今握りしめている楽譜の曲名が『子供時代』であることを思い返すとようやく質問の意図を理解したように頷いて、そして考え込んだ。

 「私の子供時代・・・アンゲリナが思っているほど大したものじゃないよ?」

 どこにでもいる子供で、どこにでもいる平凡な田舎娘。

 西ウクライナという広大なソ連の中でのちっぽけな地域から一度も外の世界には足を踏み出したことが無く、休みの日だってジャガイモ掘りの手伝いに勤しむような泥臭い日々だった。

 だから彼女は子供時代の記憶に残っていることについて話すことなど何も無いような気がしていた。

 「だけどナターシャの家族は、幸せな家族だったんでしょ?」

 何故そんなことを聞くのかと考えると同時に、アンゲリナの表情の内側に暗い影がはっきりと刻み付けられているような気がして、ナタリアははっとする。

 ・・・しかし、それは何かの錯覚だったのか、一瞬のまばたきの間にその影は消えてしまっていた。

 気のせいか、それともただ・・・部屋の照明の当たり加減が偶然そうさせただけなのだろうか。

 人にものを聞き返すのも躊躇いがちで苦手な内気のナタリアは、そんな一瞬の表情の移り変わりに確信を持つことができず、いつものように聞けずじまいに終わっている。

 「うん・・・楽しかったな、いつも兄貴に遊んでもらえたから」

 気を許せば兄の姿、表情、そんなものが次々と頭の中に浮かんできてしまう。

 普段は彼と家の中で顔を合わせる時、ほとんど素直になれなくて、おまけに邪魔者扱いだってしてしまうのに。それでも彼女の頭の中には幼少期の、常に美しい田舎の風景と、その中に映り込む彼の姿がある。いつかは本人の目の前でそんな思い出話を語り合える日は来るのだろうかと、それだけが、彼女のちょっとした不安の種でもあった。

 「そんな表情も作れるのね!」

 アンゲリナが突然そんなことを言って笑ったが、彼女の言葉の意味は相変わらず唐突で分からない。今の自分がどんな顔をしているというのだろう。残念なことにこの部屋には鏡なんてないから確認のしようもなかったが。

 眉間にしわを寄せて、いつもの、少しばかりむっとした表情を無意識のうちにアンゲリナへと向けた。

 彼女は、またそんな顔しないで、と言った後、

 「・・・ここに来てから、どこか周囲に壁を作ったような表情ばかりで、まだ本当の笑顔を私に見せてくれなかったもの。ナターシャの素顔を見れて嬉しいわ」

 そんな風に、嬉しそうに囁いた。

 笑顔なんてこれまで意識したこともない。

 彼女に言われて、普段の自分がそんなに怖い顔をしているのかと驚いた自分がいる。笑顔は向けられれば絶対に嬉しいはずなのに、どうして自分はそれを自然に、誰に対しても作ることができないんだろう?

 せっかく作れたはずの笑顔は、既にかき消えていた。もっとこの微笑みが自分の中で長く続けばいいのに・・・。

「さっき見せてくれたナターシャの笑顔、それがナターシャにとっての子供時代だよ。その気持ちを載せたら、この歌は絶対に綺麗に歌えるはずなの」

 彼女の言葉は確信に満ち溢れている。

 アンゲリナの言う通りなのかもしれない。無表情の自分から笑顔を引き出した彼女の言うことを信じれば、この歌は間違いなく良いものになる。

 ナタリアもそんな彼女の言葉を信じて、自信を持つように拳を握りしめた。

 「ありがとうアンゲリナ。私の、こんなにもこわばって可愛くもない表情を壊してくれて・・・」

 彼女はもう一度、頭の中に兄や故郷の思い出を浮かべてみる。すると堅苦しい表情が、少しは緩んでくれたような気がする。

 だってそうすれば、目の前の彼女が嬉しそうに微笑んでくれるのだから。

「ううん。それが本来のナターシャの姿。私は見つけるお手伝いをしただけ」

 アンゲリナは何が嬉しいのか、またいつも通りにっこりと笑う。

 彼女は自分にとって写し鏡のような存在だ。でも鏡の向こう側にいる彼女の方が、こちら側にいる自分よりもずっと可愛い。いつか本当の意味で彼女が自分にとっての写し鏡になればいいなと思いながら、彼女はまた、口角を上げることを一生懸命、意識した。




 

 彼女たちの猛特訓が始まってから数日が経過した日の夜。

 戦勝記念日である5月9日は、すでに明後日に迫っていた。

 時計の針は午後6時を指している。ナタリアとエルザ、アンゲリナ、そして新たにここに入居することになったクララ、ニノ、サラの6人は、彼女たちが住まうコムナルカの二階に備え付けられた共用の広い台所で夕食の支度をしていた。

 今日の料理当番は本来クララとソフィア二人だったが、ソフィアがこの場にいないことに加えてメンバー皆が暇そうにしていたため急遽全員がこの場所に押し寄せ、一般的なコムナルカよりも改装して多少は広いはずの台所はもはや狭苦しい空間となっていた。

 こんな時間になっても練習を続けるソフィアに対しナタリアは不安や罪悪感をもやもやと抱いていた。自分たちが歌の練習を終えたのは三時間も前のことなのに、彼女だけは一人スタジオに残ると言って聞かず、結局置いて行くしかなかった。

 ジャガイモの皮や芽を丁寧に包丁で取り除きながら、彼女は和気藹々とした周囲を見渡す。誰もソフィアに対しては関心を払っていない様子で野菜を切ったり、鍋を揺らしているところなので、こんな楽しそうな空気を壊してまで彼女のことが心配だなんてことを言い出すのは躊躇われてしまう。

 「それで今日は何を作るんだって?」

 人参を丁寧にみじん切りにしていたニノが今更のように口にすると周囲は一様に笑いに包まれた。

 「最初にサリャンカだと言ったじゃない。あんたは何も知らないで人参切ってたわけ?」

 サリャンカは東欧でよく食べられる酸味のきいたスープであり、ボルシチやウハーに並び、ロシア料理に於ける三大スープ料理と謳われていた。

 毎朝食べても飽きのこない定番の料理なのだ。

 「とは言っても、さすがに晩御飯にまで出されると飽き飽きするね。ほかに何かメニューはない?」

 「わがままばっかりでいやなグルジア女」

 「わがままなのはいつだってサラの方だ。あんたには一生勝てないよ」

 「あんたには、私が美味しく具材を炒めた特製のサリャンカ食べさせてあげないわよ」

 サラはフライパンでニンニクと一緒に切った具材を炒めながら横目で彼女を睨みつける。部屋が同じであり、毎朝毎晩、嫌でも顔を突き合わせなければならないことを不満に感じている彼女だが、さすがにそれにも慣れてきたのか、単に諦めたのか・・・一週間以上が経過した今ではその文句を、近くにいるエルザにぶつけることも少なくなっていた。

 なんだかんだ言ってもニノとサラの関係は良好になりつつあることにエルザもどこか安心した様子で二人のそんないつもの口喧嘩のようなやりとりを穏やかに眺めている。

 「それにしてもソフィアさんは・・・大丈夫なんですか?」

 最年少のクララが心配するように言うと、ナタリアはジャガイモを切る手を止め、黒髪の彼女を食い入るように見つめた。

 「いよいよ本番が明後日に迫っているもの。心配ないわ、彼女は頑張り屋さんなだけだから。クララは偉いわね、仲間の心配もきちんとできるんだから」

 エルザは安心させるように言って、十以上も年の離れた彼女の肩を抱きしめた・・・ソフィアのことを心の底から信頼するように。

 肉や野菜の焼ける音がジュージューと響く横で、鍋の湯が煮立つ音も聞こえてくる台所。こんな音を聞いたらきっと、ソフィアのお腹だって共鳴するように鳴り響いて、すぐさまスタジオを飛び出してくるのに違いない。ナタリアは、そんな安心させるようなエルザの言葉を聞いても余計にモヤモヤするだけだった。

 「ほら、包丁止まってる、どうしたのさ。何かあったみたいな顔だけど」

 隣のニノがナタリアの顔を覗き込む。

 それと同時に、左隣に立つサラまで気にしたようにナタリアの顔を同じように覗き込んだ。

 この二人は、仲の悪さとは裏腹に動作など絶妙に息が合っている。

 「もしかして明後日の本番に自信がない?」

 「まあ、それも多少はあるけど・・・」

 言葉を濁すように、曖昧な返事を返す。

 「しっかりなさい。せっかくの晴れ舞台なのに最初からそんなんじゃ、国民の心はキャッチできないわ」

 サラが厳しい口調で言った。本当は初デビューを飾る三人のことが、これ以上ないほどに羨ましい彼女だから、ナタリアがそんな風になよなよとしているのが許せない。

 「大丈夫だよナターシャ、この間も言ったけど、笑顔を意識すればきっと大丈夫なんだから」

 赤パプリカを刻み終えたばかりのアンゲリナが自信満々に言う。

 「みなさい、アンゲリナちゃんの方がよっぽど大人よ。小さいのに」

 サラが背丈の小さいアンゲリナをとても可愛がるように言った。彼女は誰からも人気者に違いないが、あのいつも不機嫌なサラが、彼女にだけはどうも心を許している。

 「違うの、そうじゃなくて・・・」

 だって自信は数日前に、十分すぎるほどアンゲリナに与えてもらったのだ。だから、あとは本番・・・いかにして自分がそれを発揮することができるかどうかにかかっているだけなのだから。

 ナタリアは息を深く吸い込むと、思っていることすべてを吐き出した。

 「紛らわしくてごめんね、そうじゃない。私自身の心配じゃなくて、ここに一人いないソフィアが心配なんだよ・・・私たち、ソフィアのことを置いてきぼりにして、よかったのかな、寂しいって思ってないかな。私たち、本番でソフィアの奏でる音にうまく声を重ねられるかなって・・・」

 押し込めていた不安を一気に吐き出した。自分はソフィアに対してこれまで苦手意識を持って接していたはずなのに、なぜ今ではこんなに彼女のことを心配しているのか分からない。

 サラは深々と呆れたようにため息をつき、ナタリアの目をじろりと睨みつけた。彼女には睨みつけている自覚などないのだろうが、ナタリアは怯えるような目を向ける。

 「馬鹿ね、あんたって素直と思いきや、案外そうでもないのかも・・・。ソフィアが寂しいかどうかなんて、どうしてあんたに分かるの?彼女のことがそんなに好きなら、ただずっと彼女のそばにいてあげればいいだけなのに」

 サラの言葉でナタリアは目を丸々と大きく見開き、口をぽかんと開けたままその場に立ち尽くした。周りで二人を眺めていた皆もサラの言葉に同調するように笑うと、ナタリア一人を取り残して元通り包丁やフライパンの柄を握りしめて料理を再開している。

 結局、ナタリアは自分の考えていることなどろくに分からない。ソフィアに対して自分がどのような感情を抱いているかなど・・・ますます知りようもないことだ。サラが言う通り自分がソフィアのことを好きだと仮定しようとするも、自分がロシア人なんかに心をそう簡単に許すはずがないと首を横に振る。

 しかし否定すれば否定するほど、考えはまた振り出しに戻っていく・・・。

 「そうだ、ニノが言った通り別の料理も作ってみたら面白いんじゃないかな?」具材を切り終えて手持ち無沙汰のアンゲリナが突然、皆に提案した。「サリャンカの他にもいろんな料理をさ」

 適当なニノが提案するより、こんな風に彼女が提案すれば頑固なサラでさえ、喜んで賛同する。だから彼女に異を唱える者など存在せず、結局他の料理も作ることになった。

 ところが、何かを作ろうとなったところで何を作っていいのか、誰の頭の中にも良いアイディアなんてすぐには浮かばない。言い出しっぺのアンゲリナやニノだってちょうど良いメニューなどろくに思い浮かばず宙を見つめて考えを巡らせるばかりで、まるで使い物にならなかった。

 「・・・じゃあ、私はこれを作ろうかなぁ。知ってるかな、ラグマンという混ぜ麺なんだけど・・・さすがに一から麺を作る時間はなさそうだし、パスタで代用しようと思うの」

 メンバーの中で一人だけ、クララが誰よりも早く、せっせと準備をし始める。

 全員の目が一斉にその動作に釘付けになった。彼女は大きな冷蔵庫の中から新たに牛肉やトマト、ピーマン、玉ねぎを取り出した。調味料に使う大きい唐辛子だって忘れないように袋から取り出す。

 彼女の動きを眺めていた皆はようやく何か閃いたのか顔を見合わせ、互いに頷き合ったところで一斉に動き出すと、ごそごそと調理支度をし始める。

 違う民族同士で何かを相談し合う彼女たちの表情はまさしく真剣そのものだ。

 「よし、そういうことなら私も久々に張り切っちゃうわね・・・!」

 そう言ってエルザもまた台所の野菜を入れた木箱の中からジャガイモをいくつか拾い上げると、大きな作業机の上にゴロゴロと転がした。

 





 何度練習してもダメな子供時代の記憶を、ソフィアは頭の中で繰り返していた。

 父親がクレムリンの官僚ということもあって周囲からの評価という名の視線は厳しく、いつだって完璧を求められた。将来はソ連を代表する音楽家になりなさいと散々母親に小言のように言われ続けた。著名な作曲家プロコフィエフに学んだこともある音楽家出身の彼女は、それがあなたの到達すべき愛国者像なのよと言う。そんな彼女また、ソ連を愛する熱心な共産主義者なのだ。

 ソフィア自身、特に愛国者を目指したいと思ったことはない。何に対しても無関心で自由に生きたいと願っている彼女は、しかし娘を愛国者に育て上げたいという両親の圧力を前にして、板挟みになっていた。

 彼女がアイドルという聞き馴染みもない妙な職を志したのも父親がそれを望んだからだ。父の友人を名乗る同じ共産党員ミハイルという男が、彼女を今の職業にスカウトした。これまで将来何の役にも立たないと思っていた自分のピアノの技術や歌の技術が、どこかで活かせるのならばと思った彼女は、いつの間にか、そんなアイドルを志すことになっていたのである。

 ピアノの鍵盤を叩く音が、強まる。

 それに合わせて自分のパートをソフィアは歌い上げる。主旋律を歌う残りの二人がいないとやや調子が狂うと思いつつも、プロを目指していた自分だからこそ他の二人以上に頑張らなくてはならないのだと思い込んでいた。

 そんな時、ソフィアの鼻をつんと鋭くいい香りが刺す。懸命に時計を見ないで指を動かして頑張ってきたソフィアだったが、どう足掻いたって、美味しいものの前では人は無力なのだ・・・そう諦めてピアノを叩く指を止め、香りのする方向へ振り返ると、そこにはナタリアとアンゲリナが笑顔で立っていた。

 アンゲリナの手にはたくさんの料理の盛られた大きい皿が握られている。

 「・・・それ、私に?」

 「うん。みんなで作ったんだ、アンゲリナのアイディアだよ」

 大きな皿の上には、メンバー全員のそれぞれの出身国の伝統料理が少しずつ盛り付けられていた。ソフィアはこんな大作を目前にしてもなお相変わらず無表情のままだが、それでも彼女の目はその料理に強く惹き込まれていた。

 「正確に言うとクララのアイディアだけど・・・どうぞ!」

 アンゲリナが皿を彼女に差し出すよりも早く、ソフィアはそれを分捕るように受け取って大事そうに抱えた。

 それを見たアンゲリナはとても可笑しそうに笑う。


 レッスン室の壁際に置かれた小さな机に座るとソフィアは、その一つ一つの料理を美味しそうに頬張るが、ある時、そのフォークを止めて不思議な顔をしながらもぐもぐと咀嚼する。

 「・・・エルザって、本当は料理下手なんだね」

 誰が作ったとも言っていないはずの一部分の料理をエルザのものと断定して、彼女は呟いた。

 普段朝食に用意されるソーセージやハム、チーズといった様々なものが手作りではなくて、食材そのものばかりなのは彼女が手の込んだ料理を普段から殆どやらない立派な証拠に違いない。ごくりとそれを呑み込むと、何か人生において非常に大事なことをひとつ覚えたように、彼女はこくんと頷いた。

 「・・・それでも、ちゃんと食べるんだね」

 確かに、そのエルザお手製のジャーマンポテトは、ナタリアでも擁護しきれない味付けだった。見た目にも焦げ目が多く、それでいて味つけも塩と胡椒でごまかしたような素材の味がした。エルザの弁解では、ドイツ料理は素材の味がメインである以上仕方がない・・・ということだが、百歩譲っても焦げ目の多い料理を伝統料理とは呼ばないというサラの鋭いツッコミを前に、いつも強気なエルザは押し黙る。

 「ありがとう。とっても美味しかった」

 二人が彼女の食べっぷりに夢中になっていると時間はあっという間に流れて、気づけば最初は綺麗に盛られていたはずの大きな皿の上には、食べた後以外何も残っていなかった。

 「私、当てられる。どれが誰の料理だったか。ここにあったのはグルジア料理、ここがカザフスタン料理、これが悩んだけど・・・おそらくリーナのベラルーシ料理だ。で、こっちは分かりやすい、リトアニア料理、で、言わずもがなドイツ料理・・・」

 皿の上にかすかに残った料理の痕跡を一つ一つ指差しながら的確に答え合せをしていく彼女の腕前に、ナタリアもアンゲリナも驚きの表情を隠さない。

 「で、これは、・・・私がいなかったのに気がきくね。ロシア料理なんて」

 彼女の一言でその場が静まり返る。

 アンゲリナはそのおかしな空気感にはっとすると、少し困惑した様子を見せて、空気を読むようにそっと隣に立つナタリアの顔色を伺った。

 案の定、そこにはプライドの高い彼女の、やや眉間にしわを寄せた目が、しっかりソフィアを捉えていた。

 「ゔぁ、ヴァレーヌィクは・・・ウクライナ料理たい・・・!」

 ナタリアはもはや滲み出る不機嫌さを隠さずに、反論した。

 ソフィアは自分の言葉の何が悪かったのか分からないようで首を傾げてしまう。

 「ヴァレーニキ?・・・ああ、これ。てっきりペリメニだと思った。確かに甘かったな。チェリー味だったね」

 ヴァレーニキ(ヴァレーヌィク)とはウクライナで伝統的に食べられる餃子のような皮に具材を包んだ料理だ。ひき肉を詰めることもあるし、一般的に果物やジャム、チーズなど、甘いものを包み込んでデザートとして食べることが多い。

 しかし一方で、ロシアでよく水餃子のようにして食べられる、ヴァレーニキによく似たペリメニは、決して中の具材に甘いものを使ったりしない。

 「そうだね、あんたのヴァレーニキ・・・味はいいけど食感が違うんだ」ソフィアはナタリアのプライドを砕くつもりなのか、容赦無く指摘する。「てっきりアレンジしたペリメニだと思ったじゃないか」

 十分すぎるし、それだけで彼女の誇りだとかプライドがぐちゃぐちゃになってしまうのは明らかだ。せっかくウクライナ料理を褒めてもらえると思って、張り切って作ったのに。

 落ち込んで枯れた花みたいにしなびれてしまったナタリアはもはや何も反論することもできず、呆然と彼女が綺麗に平らげた白い皿を虚しく見つめている。

 「皮が厚かったのさ。ヴァレーニキとペリメニの最大の違いは皮の厚さくらいなんだから。・・・けど、どっちでもいいじゃないか。ロシア料理だろうとウクライナ料理だろうと。美味しいことに変わりはないよ」

 ソフィアの最後の褒め言葉はずるい。

 そんな一言のせいで、先ほどまでの自分の機嫌は、元通りになりかけているのだから。

 ナタリアはムキになって声をあげたことも、彼女が素直な感想を漏らしただけで落ち込んだことも、それら全てが恥ずかしくなってきて、今度は頰を赤々と染めている。

 彼女に対抗心を燃やす自分はなんとバカバカしいのだろう。本当に、自分でも忙しいと思うくらいに、ここに来てから喜怒哀楽が著しかった。

 二週間ほど前の初めて彼女と出会った日の夜のことを思い出す。

 たかがボルシチくらいで・・・本当はボルシチくらいでなんて今だって思いたくないのだけれど、彼女に対してムキになって言い返したこと。

 そして、それと同じようなことを今でもこうやって繰り返してしまっていること。そんな自分がどこまでも情けなくて、どこかに消えてしまいたい気持ちでいっぱいになっていた。

 「すごいんだね、ソフィーはなんでも分かっちゃうんだ」アンゲリナは彼女の博識ぶりに興奮したのか、彼女へと詰め寄った。「ソフィアがなるべきはやっぱり料理人なんじゃない?」

 「作るのは得意じゃないんだ。食べる専門だし」彼女は机から立ちあがると再びピアノに向かい、そしてまたナタリアたちの方へと振り向いた。「アイドルでよかった。だってこんなにも美味しい料理をタダで食べられるんだから」

 彼女のいつもの自由気ままな理由に、ナタリアとアンゲリナは思わず顔を見合わせて笑みを浮かべる。

 「そうだ、ソフィアの伴奏に合わせて、私たちも歌っていいかな・・・!」

 ナタリアが勇気を出して、少しだけおっかない彼女に提案してみた。

 「もう夜九時だよ、さすがに私もあと一回弾いたらここを出ようとしてたところで・・・」

 眠そうに、大きなあくびをする。

 しかし一度お願いした以上は簡単には引きさがれるわけがない。

 「その一回だけで十分なの!・・・ねえお願い、私たち今日3回も合わせたじゃない」

 「それなら尚のこと、もう合わせる必要はないんじゃ・・・」

 「でも、きっともう一回合わせたら、今までで一番の歌が歌えるはずなの!!」

 その中に、アンゲリナも加わった。

 彼女たち二人は、キラキラした表情と、その目に強い闘志を滾らせて、ソフィアの座るピアノの近くに駆け寄る。楽譜を持った二人をこれ以上、止めようも無さそうだ。

 ソフィアは仕方なく鍵盤に指を並べると、ピアノの前に並ぶ二人を見つめながら大きく息を吸う。

「準備はいい?」

「うん!」

 ソフィアの軽やかなピアノのメロディーが流れ、3人の音が綺麗に重なり合う。





 1984年5月9日の戦勝記念日当日は、青く澄み渡った青空が広がる中で始まった。

 モスクワの赤の広場ではたくさんの戦車や装甲車、ミサイルを積んだ車が隊列を成して行進する。銃を持った兵士たちもそれに続いて長い脚を高らかにあげて行進し、見守る聴衆が歓声を以ってそんな彼らを迎えるのだ。

 軍楽隊の演奏が鳴り響く。ソ連国歌に始まり、『勝利の日』と呼ばれる軍歌も演奏された。


 そんな中、モスクワ市内の国営ラジオ放送局のスタジオの前の廊下には三人の、まだまだ無名なアイドルの姿があった。

 《モスクワ中央放送局です。この時間は戦勝記念日の特集と、中継をお送りします》

 今日は戦勝記念日という特別な日であるため、いつも以上に強く、熱のこもった口調で、いかにもプロパガンダ的な内容の原稿を身振り手振りも交えながら司会者の男性はマイクの前で雄弁に語っていた。

 《我々偉大なるソビエト連邦が39年前、ナチスドイツの支配から東欧地域を悪の呪縛から解放した日はいつか。そう、まさに、今日この日、5月9日なのです!ファシストの野望は見事に打ち砕かれ、我々は自由を手に入れました。今、皆さんが自由に、そして平等に、そして平和に暮らせているのは、先人たちのあまりに多い犠牲があったからこそなのです。今こそ偉大なる先人に、ソビエトのために命を差し出した英雄たちに、哀悼の意を、そして感謝の言葉を述べようではありませんか!》

 ガラス張りの小さなスタジオの向こうからもビシビシと伝わって来る熱意に、ナタリアは興奮を覚えた。この言葉が今、同時にソ連全土に流れていると考えると、胸の動悸は抑えようにも抑えられなかった。

 「ナタリア、あまり緊張しないで。普段通りだよ」

 ソフィアが、廊下の壁に張り付くナタリアの肩にそっと手を置く。

 「ソフィアの方こそ」

 「何言ってるの、私は緊張なんて」

 「ソフィーって案外強がりだよね、分かっちゃった」アンゲリナがくすりと笑った。「だってソフィーの指、結構震えてる」

 「・・・ほんと、自分じゃ全然気づかなかったな」

 ソフィアは自分の指を見て、おお、と軽く驚きの声を漏らす。自分自身で緊張していることにも気づかない人間がいることにナタリアもアンゲリナも、おかしくなって笑い合う。そんなことをしている間にも自分が今までずっと抱えていた緊張や不安というのはどこかへと消えているような気がした。

 「みなさんお待たせしました。もうすぐで本番になります。これから収録スタジオに案内しますので、スタジオに入ってからは無言でお願いします」

 スタッフの若い女性が現れてそう告げると、三人は待ち構えたように廊下に並べられた椅子から立ち上がって互いに顔を見合わせる。

 「私たちの初デビュー、いいものにしようね」

 真ん中にいるナタリアはソフィアとアンゲリナの手を強く握る。

 「うん!素敵な笑顔で歌おうね」

 アンゲリナもまた、ソフィアの手を握った。

 「・・・えっと、二人とも。私の伴奏にしっかりついてきて」

 二人に手を握られたソフィアは、少し頼りない声で呟いた。


 《それではみなさん、次のコーナーに移りたいと思います。つづいてのコーナーは新生音楽コーラスグループによる生演奏です。このグループの名前は・・・まだありません。私の目の前には可愛らしい少女が三人見えますね。はは・・・さあ、彼女たちは一体、どんな歌を皆さんに披露してくれるのでしょうか。歌う曲名は、ピオネールでも最近歌われるようになった『Детство – это я и ты』です!さあ、子供時代の輝かしい思い出を振り返りながら、そしてこれからの世界平和を願いながら、ゆっくりとお楽しみください》



 Детство, детство,          

子供時代、子供時代

 Детство - это свет и радость,      

子供時代、それは喜びと輝き

 Это - песни, это - дружба и мечты.   

それは歌、夢と友情

 Детство, детство,           

子供時代、子供時代

 Детство - это краски радуг,      

子供時代、それは虹を描く絵の具

 Детство, детство, детство - это я и ты!

子供時代、それは君と僕!


 Все люди на большой планете  

この大きな星に住むすべての人、

 Должны всегда дружить.    

僕らはいつだって友達でいよう

 Должны всегда смеяться дети  

子供はいつだって笑っていて、

 И в мирном мире жить!  

平和な世界で生きなくちゃいけない

 Должны смеяться дети,  

僕らは笑おう

 Должны смеяться дети,  

どんなときも笑っていよう

 Должны смеяться дети   

笑い続けて、

 И в мирном мире жить!

平和な世界で生きなくちゃいけないんだ


 

・・・



 《皆さん、いかがでしたか。彼女たちは本当に素晴らしい歌声を持っています!今後も彼女たちの活躍からは目を離せません!それでは、次のコーナーに移りたいと思います・・・》


 彼女たちの初デビューはわずかに5分間という人生において非常に短い一瞬であり、決して華やかなものとは言い難いかもしれないが、それでもスタジオを出た3人の表情は遂にやりきったという、言葉にはできない大きな達成感に満ち溢れていた。

「緊張しないで歌えた!」

 アンゲリナは元気いっぱいに両手でピースを作る。

「ソフィアは?」

 ナタリアの呼びかけに、彼女だけは応じず、黙り込んだまま、どこか上の空だった。しかしナタリアは構わず、彼女の手を勢いよく握りしめる。

 「よかったよソフィア!ありがとう、私たちをこんな風に導いてくれて・・・!」

 突然のことに驚いてしまった彼女はナタリアの顔を、まるで初対面の相手を眺めるかのようにまじまじと見つめた。

 「あんたって、そんな顔もできるんだね」

 「・・・そっか、やっぱり私って、ソフィアの目から見ても全然笑顔じゃなかったんだね」

 数日前にアンゲリナに言われた言葉が実感とともに襲いかかるが、同時に、今はアンゲリナやソフィアのおかげでこんなに笑顔になれたんだと思うと、成長できたという実感が湧き上がって、嬉しさが胸いっぱいに広がった。


 収録を終えた彼女たちが向かった放送局の玄関口には、スーツの男性の姿がある。コーヒーの入った紙コップを手に持つ彼の姿に、彼女たちは思いも寄らずぎょっとする。

「ミハイルさん!?」

 3人は駆けて行くと、夢中で見慣れた彼を取り囲む。

 「君たちの初舞台、収録スタジオの外で聴かせてもらったんだ。とてもよかったよ、ついに大きな一歩を踏み出したね」

 放送局で働く事務員も皆仕事の手を止めて耳をそば立てていたのだという。放送が終わった直後も歌っていた彼女たちについて互いに話し込んでいたばかりでなく、今の出演者は一体誰なのかという電話での問い合わせが放送局に殺到して、今も職員総出で対応に追われていた。

 そんな彼女たちには知り得ないラジオの向こう側の反響の大きさを知ると、彼女たちは舞い上がるような気持ちで抱きしめ合い、成功の喜びを分かち合う。

 「リーナ、やはり君は天使という名前の通り賛美歌のような歌声だった。だけど低音域はまだまだ苦手そうだね。今後は様々な楽曲に挑戦してもらうから、レパートリーを増やすためにも重点的にその部分をカバーして欲しい」

 アンゲリナの歌声は放送局の職員からの評価が特に高く、さっそく彼女をどこかに出演させるべきとの声があちこちから聞こえていた。

 「ソフィー、君のピアノの技術には感服した。バックコーラスでも非常に上手くみんなを支えていたね。君の多才さ、器用さは本当に素晴らしい。ただ緊張気味か、声が震えがちになっていた。ほんの微かだが」

 その場にいる彼女以外の皆が、どっと笑う。

 「何が可笑しいのさ」

 「だってソフィー、始まる前から緊張はしてないって強く言い張ってたんだもん」

 「指先だけじゃなくて声まで震えてるなんて」

 「誰だって最初は緊張するもんだ。でも多分、もう震えない」

 彼女にしては珍しく、強がるように言った。

 「そして、ナターシャ」

 ミハイルの青い瞳がまっすぐに彼女を捉えると、よく慣れ親しんだ彼なのに緊張感が身体中を包み込む。

 「君の声はきっと誰からも愛される声だよ。やはり美しい声を持ってるね。歌の技術は正直なところ、まだまだかもしれない。だけど、それだけ伸びしろはある。君にはソ連の人たちを感動させる力があるんだ。僕はそれを信じている」

 ナタリアは顔を薄桃色に染めながら、その言葉を何度も何度も咀嚼しては呑み込む。

 だって、こんなにも嬉しい言葉は他にあるだろうか?

 自分の未熟さは確かに肌で感じているが、いつか目の前の彼からもっと素敵な褒め言葉を引き出したい・・・そして本当にソ連に住む全ての人たちを自分の歌声で感動させたい。

 彼女の心の中でそんな野望が、メラメラと燃え盛っていた。




     (第二章 完)

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