第3話 『ソ連人』(前編)

 ミハイル・トカレーヴィチは中央委員会での会議を終えると真っ先に、クレムリンにいる十数人の最高権力者の一人である政治局員アレクサンドル・クルニコフの執務室へと立ち寄った。

 秘書に名前を告げると事前のアポイントも無くすぐさま部屋に通されることとなり、彼はエレベーターでクレムリン宮殿の上階に上がる。天井の高く長い廊下を進み、その重厚な木の扉の前までやってくる。ここにオフィスを構えることができるのはソ連国内の極めて限られた人間だけなのだ。

 扉を開けて中に入ると、広く豪華な調度品の並んだ部屋の真ん中には、革張りの立派なソファに腰掛けるやけに上機嫌なアレクサンドルの姿がある。

 「いよいよ君の計画が始動するようだな」

 上機嫌の理由は、どうやらテーブルの上に置かれた写真にあるらしい。そこに写っているのは彼の一人娘であるソフィアであった。彼女がミハイルによる計画を担うメンバーの一人に指名されたきっかけは無論、当初は友人の娘としてだったが、ただの親の七光りでは終わらない才能を彼女がその内側に秘めていることをミハイルは念のために実施したオーディションの段階で確信していた。

 「順調にいけば来月の戦勝記念日には間に合わせたいと思っているんだ」

 ミハイルは自身が国営放送局と交渉中である旨を説明する。

 5月9日の大祖国戦争の戦勝記念日はソ連のみならず、東側…東欧にとって特別な祝日であった。彼女たちのデビューを飾るには何かと好都合な日に違いない。 

 しかし国営の放送局は常にソ連政府の言いなりだ。党のお墨付きを得られなければ出演は難しい。

 現在の党最高権力者であるチェルネンコ書記長はアレクサンドルの説明に対して良い顔をしなかったようだが、改革派の先鋒に立つ同僚の政治局員ゴルバチョフはその計画に対し非常に好意的であり、彼の説得もあって党の公認団体としての承認を得ることができたという。

 ミハイルの奔走はまだ始まったばかりの段階だった。

 「とにかく・・・どこか無愛想なところもある娘だが、是非ともよろしく頼みたい」

 ミハイルはアレクサンドルから多額の資金提供を約束されていた。党内でのアイドル計画が一部の保守派の反対を押し切り、かろうじて成立に漕ぎ着けたのも、そんな彼の政治力、発言力あってこそのものだった。

 「こちらこそ・・・サーシャの橋渡しがなければ、僕のこんな野望はおそらく実現することもなかったよ」

 ミハイルは深い感謝を込めてアレクサンドルと固い握手を交わす。アレクサンドルが目指すものは経済の停滞しきった昨今の悪い現状を打破して再びソ連を西側の超大国・アメリカを凌ぐ国家にすることに他ならなかった。

 その目標の実現には、党内部にいる保守派の老人たちを悉く一掃し、積極的な改革を片っ端から行うこと以外にない。

 ミハイルの計画はまさに、ソ連にとっての新しい時代を切り開く上で重要な計画であるように思える。アレクサンドルにとっても利害が一致していた。そのためにも、彼はミハイルに対しての支援を惜しまなかったのだ。


 執務室を出ると、ミハイルはずっと圧迫されていた空気から逃れるように深いため息をつく。

 手のひらがわずかに汗ばんで、心拍数が高まっていた。

 もはや後には引けない段階にまで来ている・・・動き出した列車は誰にも止めることはできないのだから。

 しかし、アレクサンドルのような良き理解者である親友や純粋無垢な少女たちを騙すという、これほど嫌なことも、この世にはなかった。


 ・・・彼には誰にも言えない秘密がある。

 その秘密を守るため、自分は故郷にいる大切な家族もかなぐり捨ててきたのだ。生半可な覚悟で今この場所にいるのではない。

 そう思えば、彼はますます強い決意を抱くことができる。

 ・・・本当の自分は、ソビエト連邦の経済を今よりもっと良くしようなどとは微塵も思っていない。

 真っ直ぐな彼女たちを使い、西側の大衆文化をこの国に流入させて自身が成し遂げようとしているのは、ソビエト連邦を内側から叩き壊すことなのだから。





 

 ナタリア・リヴォフスカヤが西ウクライナのムィコラーイウ村を飛び出してから早くも三日目に突入しかけていた頃。

 「ナターシャ、ナターシャ、…起きてよ!」

 耳元で誰かの呼ぶ声がした。

 「…うん」

 ナタリアは硬い電車の窓枠に頭を押し付けながら眠っている。夢の中にはカラフルな色合いを持つユニークな玉ねぎ型のドームの、モスクワのシンボルともいうべきヴァシリー大聖堂が大きくそびえ立つ。彼女は今、赤の広場に立っている。周囲にはロシア人に始まって、ソ連中のいろいろな肌の色、ルーツを持つ人種の人間がいる。しかし何故かウクライナ人というルーツを抱く自分はたった一人、ポツンとその場所に立っていた。

 遠くに兄の姿を見つける。すっかり安堵したのか彼の元に駆け寄ろうとするが、その瞬間彼は黒々とした大きな汽車に乗りこんで、見知らぬ土地へと去っていく。彼が手を振る。行かないで、と駅のプラットフォームが終わるまで追いかけても、彼の姿は徐々に遠ざかっていく。駅員に止められて自分がこの国にたった一人取り残されたウクライナ人であることを再び悟ると、眠っている彼女の頰には、一筋の冷や汗が伝った。

 「ねぇ、ナターシャ、起きてってばぁ」

 「わ…わわわ!?」

 突如肩を大きく揺さぶられた彼女が目覚めたところにいたのは、銀色の髪の毛を持つ小柄な少女だ。彼女は黒い毛皮帽子をかぶり、その透き通るような青い瞳でナタリアの双眸を、じっと見つめている。

 「うわ…ロシア人!?」

 「ううん、ベラルーシだよ」

 「あ…そっか」 

 ナタリアは彼女が自分と初対面ではないことをすっかり忘れていた。初対面じゃないとは言っても、あくまで彼女との出会いはまだ1日程度だ。

 「そんなことより、着いたの!モスクワに!」

 「え、ウソ…ほんと!?」

 彼女は無我夢中で窓の外を眺めた。駅のプラットフォームに掲げられたモスクワ駅へようこそ、という横断幕が、彼女の興奮を高める。同じ国の首都なのに、ここに来るまでに要した時間を考えるとまるで別の国のようだ。

 「…遠かったね」

 これから始まる新たな生活に心躍らせる反面、先ほどの夢のような不安もあった。自分はこの見知らぬ土地にたった一人置き去りにされた可哀想なウクライナ人なのだ。自分はアイドルになりたいと高らかに宣言したが、果たして本当にやっていけるのだろうか。今になって、とめどなく不安が押し寄せてくる。

 「ナターシャ、緊張しているの?」

 「うん…そ、う、なのかも?」

 「大丈夫だよ。だって私がいるんだから」

 にっこりと笑った彼女の笑顔に見とれていると、二人の横を客が荷物を提げて続々と通り過ぎて行き、皆出口からプラットフォームに降り立っていく。今、ナタリアの中だけで確かに時間が止まっていた。

 「さ、私たちも行こう」

 少女は荷物棚から要領よく大きな荷物を二人分下ろすと彼女に一つ手渡し、少し前を歩く。少しの間呆気に取られていた彼女は慌てて荷物を抱えながら少女の後に続いてプラットフォームへと降りる。列車の到着を知らせるソビエト連邦国歌のメロディーが先ほどからずっと流れていた。

 「ねぇ、アンゲリナは、寂しくないの?」

 大きな荷物と不釣り合いな小さな少女は相変わらず挙動不審に不安がるナタリアに振り返った。

 「さぁ。寂しさよりも楽しみの方が勝っちゃって、どうしてもそんな気になれないよ」

 こんな笑顔を以前にも見たことがある。

彼女の笑顔はこれまで見た人間の中でも一番にキラキラと輝いており、畑に咲いたひまわり、と喩える方がどこかしっくりくるような気がした。

 

 彼女、アンゲリナ・カミンスカヤとの出会いはつい昨日のことで、それも本当に単なる偶然のことだった。モスクワ行きの列車に乗り換えるため、リヴィウ駅から途中見知らぬ街に寄り道して、結局翌日の早朝ウクライナ共和国の首都キエフに到着したナタリアは停車中の列車の中で大きな荷物をいとも容易く持ち上げる彼女に出会う。初めて出会うベラルーシの女の子は、自分よりもずっと小さくて歳も二つしか離れていない。それなのに自分よりもずっと前向きで、広い心を持っていた。

 ベラルーシはウクライナの北にあるソ連の重要な構成国の一つだ。彼女はその首都ミンスクからやってきたのだという。ミンスクからモスクワまで直行の寝台列車があるというのにわざわざ遠回りになるキエフを訪れたのは、彼女自身一人でキエフを訪れたことがなかったから、ついでに寄っておきたかった、という旺盛な好奇心によるものだった。 

 キエフからモスクワへ向かう列車の予定発車時刻は20時だから、まだ何時間も時間がある。せっかくだからと、彼女たちは到着したばかりのキエフ中央駅を飛び出して市内を散策することになったのだ。人見知りで臆病なナタリアを小柄な彼女はぐいぐいと引っ張っていく。キエフがまだどんなところなのかも全く理解できていないのに飛び出していくので、案の定、二人は街のあちこちで迷子になっては幾度となく警察官の世話になる。キエフ自体はこじんまりした街だし、そこらじゅうの目立つ教会のおかげで自分のいる場所くらいは掴めるのだが、なにせ丘の上に作られた都市であり郊外に行けば行くほど坂道も多く、実は通れなかったりする道もある。

 貰った地図を入念に眺めてから行動したいナタリアだからこそ、行き当たりばったりなアンゲリナと一緒にいるのは楽しい反面、うまく言い表せないストレスが溜まっていく。第一まだ出会ってから二時間と経っていない。誰かと一緒にいることが時に苦痛になることもある神経質な彼女が待ってほしいと言っても快活な彼女の背中は止められなかった。そもそも彼女は人に強くものを頼むことだって得意ではないのだから…。

やや人を振り回し気味の無邪気な彼女に対して流石に文句の一つでも言ってやろうと凄んだ矢先のことである。


「ねぇナターシャ!あれ、見てよ!すごい!」

アンドレイ坂を下っていく途中にそびえ立っていた、おとぎ話に出てくるような真っ青なドームを持つ壮麗な聖アンドレイ教会は、空の透き通った青色にすっかり同化して、輪郭を失ったように溶け込んでいた。

「すごい…教会の屋根って、こんなに青くしてもいいんだ」

彼女の旅の疲れや抱えるストレスは一気にどこかへと消えてしまった。同じウクライナなのにポーランドやリトアニアといった周辺国に強い影響を受けてきたリヴィウの建築様式とはここまで違うのかと、まるで感心するように見とれている。しかし無機質なソ連の物々しい、画一化されたコンクリートの個性と呼べるものがまるでないような集合住宅も市内にはそれとなく見受けられ、そんなコンクリートの海の中で時代に取り残された教会だけが、どういうわけか置いてけぼりになっているような気がして、少し可哀想な気もした。

 アンドレイ坂には観光客のために様々な伝統工芸品や土産物を売る露店が立ち並び、そこにはロシア人も数多く行き交っている。リヴィウでは少ないロシア人も、ここでは決して珍しい存在ではなかった。


 キエフの美しい夜景を十分に堪能した彼女たちは打ち解け、すっかりと仲良しになっており、モスクワに着いたらまた互いに会おうという約束まで交わしていた。

 「ねぇ、ナターシャはどうしてモスクワに行くの?」

 ようやく乗り込んだ寝台列車のベッドに腰を落ち着かせると彼女はそんなことを聞く。すっかり忘れていたが、互いにモスクワまでの旅の目的を何も知らなかった。

 「私は・・・その・・・、人に会う用事があって、そっから先は、まだ何も」

 正直に言おうとも考えたが、アイドルという聞き馴染みのない単語をうまく説明できる自信などなかったために彼女は言葉を濁した。

 「そっか。私はね、今度からモスクワで音楽の仕事をするの。まだ具体的な話は何も知らないんだけどね」

 音楽の仕事と聞いて、自分もそうだ、と言いかけたが先ほど知り合いと会うと言ったばかりで今更言い直すのもどこが気が引けたので、彼女はそうなんだ、とだけ返す。まさか自分と一緒の仕事をやるのではないか…と思ったが、それはきっとただの思い過ごしに違いない。この国には非常に多くの人間がいるのだ。あまりに偶然すぎる出会いや奇跡など信じられない。ミハイルからのスカウトすらまだ信じられないでいる彼女は、自分の素直じゃない気持ちに少しだけ嫌気が差した。

 

 列車は二人を乗せて夜の草原を走る。窓の外は真っ暗で街灯以外には何も見えない。一個隣の寝台室からは賑やかな声が漏れていた。皆お酒を持ち寄って家族や、または友人たちと一晩中騒がしくするのだろう。時には周囲の寝台室の乗客も巻き込み一晩の付き合いとはいえ、あっという間に仲良しになる。

 二人はそんな喧騒とはかけ離れた世界で無言のまま寝床に座り、時々見えてくる闇にぽつんと浮かび上がってくる街の灯りを見つめていた。距離感はまるで掴めない。比べる周囲の景色は全て闇に塗りたくられているから、その街は彼方にあるのかもしれないし、ひょっとすればすぐ近くにあるのかもしれない。

そんな景色に飽きて、ふと目線を向かい側の寝床に腰掛けたアンゲリナに移した時、やや薄暗いオレンジ色の車内灯が彼女の黒い帽子の隙間から覗かれる長い白銀の髪の毛を黄金色のような鮮やかさに染め上げていることに気づいた。

まるで昔見た夕暮れ時の小麦畑のようだ。溢れてくるノスタルジーを抱えながら、思いもよらずについうっとり見つめていると、そんなナタリアの視線に気づいた彼女はわざとらしく髪の毛を手で覆った。

 「いやだ、ナターシャったら。鏡で自分のを見たら?」

 彼女は両肩に垂れた亜麻色の三つ編みを指差した。

 「私の髪の毛は、あなたのように綺麗じゃない」

 アンゲリナは歌の仕事をすると言った。見た目もさることながら、きっと歌の技術も信じられないくらい高いのだろう・・・。

 アンゲリナはすっかり黙り込んだまま、まるで仕返しでもするかのように口元をキュッと締めて、笑顔でナタリアを見つめた。こうなるとほとんどにらめっこだ。人形のような愛らしい目鼻立ちに見つめられると、なんだか自分の愛想のない表情をこれ以上相手に見せるのも嫌になってくる。気恥ずかしさで目線を逸らし気味になった。どうやらにらめっこは自分の負けらしい。

 「今日一緒に歩いていて思ったの。あなたって、ことごとく自信がないのね」

 「へ…」

 「ダメだよ、自分のことを好きにならなくちゃ、きっとこれからモスクワで何をやってもうまくいかないよ。だからこれから私の髪の毛を見つめるのは禁止にします」

 アンゲリナは意地悪く笑うと、黒い毛皮帽子の真上の蝶結びを解いて大きな耳あてを垂らし、その内側に長い髪の毛を隠す。

 そんな彼女の様子に見とれてナタリアも変な笑いを隠せなかった・・・気恥ずかしさを打ち消す笑い。出会って間もない少女にそんな風に諭されてしまうなんて、少しも思わなかった。

 「自分のことを…もしも好きになることができれば、世界は変わるのかな」

 どうしてそんな疑問を口にしていたのだろう。今とは違う世界なんか想像もつかないし、そんなに簡単に世の中が変わるとも思えない。

 「絶対に変わる。人生はあなただけのものなのよ?もちろん自分だけじゃなくて、あなたがロシア人のことを好きになれれば、もっと変わるんだけど」

 ナタリアは頬を真っ赤に染めた。たった1日過ごしただけで、彼女にロシア人を苦手としていることはバレバレであった。

 この時のアンゲリナとの出会いが、のちの自分の人生においてかけがえのないものになるとはナタリアは予想もしていなかった。こんなのは、他人を思いやり、助け合うソ連ではどこにでもありふれた出会いの一つであり、ドラマティックには程遠いと思い込んでいたのだから。






 翌日の昼下がり。

 ナタリアは古めかしい床板を軋ませる音を立てながらゆっくりと階段を上がっていた。

 階段の踊り場の窓からは、周囲を取り囲むようにそびえ立つコンクリートの建物の外壁が眼に飛び込んでくる。太陽の明かりは、そんな無機質な構造物の影に隠されていた。そんな何の面白みもない景色を呆然と眺めていると、彼女の口からは自然とため息が溢れ出る。しばらくは美しさとのどかさが自慢の、故郷の村には帰ることはできないのかと。まるでウクライナの旗のような、大地に広がる小麦畑と青空のコントラストが今となっては懐かしかった。今日から一人でこの街になじんでいけるのだろうかという不安が波になって次々に押し寄せてくる。


 心配事は彼女が今朝モスクワ駅に到着した時から始まっていた。

 モスクワ駅に降り、キエフ駅で出会った少女・アンゲリナと一度別れてから、どういうわけか、彼女はロシア人の駅員や警官に散々な扱いを受けたのである。

 駅の構内を記念にフィルムカメラで撮影しようとしたところスパイの疑いをかけられ、交番で疲れるほどの取り調べを受けたのだが、その取り調べは約2時間にも渡る。

 ウクライナ人、それも独立意識の高い西ウクライナ出身であることが分かると、これまた言葉のイントネーションがおかしいと差別的な言葉を容赦なく、幾度も投げられる。

 反論しようものなら彼らはさらに厳しい睨みを返す。駅構内でのカメラ撮影が禁止であることを再三注意されたのち、ようやく疑いが晴れて交番を出た頃にはとっくに正午となっていた。

 

 憧れのモスクワという淡い幻想は早々に彼女の中から消え去り、赤の広場を歩く彼女の足の一歩一歩には少しの怒りが滲んでいる。撮影禁止の立て札を見なかった自分が悪いにせよ、ロシア人と接するだけで何故あそこまで気分を悪くしてしまうのだろうと、彼女は誰にも相談できない悩みを悶々と抱えてしまう。

自分でもそれが大きな偏見であることは分かっていた。年寄りは右も左もわからない彼女に道を丁寧に道を教えてくれるし、皆優しかった。ところがロシア語の隅々から偏見を感じると、ついウクライナに誇りを抱く彼女は少しだけむっとする。例えば、〜出身と表現したい際、通常国を表す前置詞にはв を用いるのだが、ウクライナ出身の彼女がいくら意識して〜в Украине(ウクライナに住んでいた)と言っても、駅や広場といった場所を表す前置詞наを用いて”на “Украине?(ウクライナに?)と訂正されてしまう具合だ。

そんな些細な部分ではあるのだが、所詮自分は他所者なんだと気付かされてしまう。

 出発前にミハイルから手渡された書類一式を手元に抱えて不動産を管理する政府職員の元へと赴き、再び厳つい表情を湛えたロシア人の役人とちぐはぐな手続きと会話を交わし、それでようやく部屋の鍵を受け取った彼女は逃げるように新たな自分の住処…モスクワ郊外にある寂れた共同住宅へと、やって来たのだ。

 

 モスクワ市内には建築された時代の異なる様式の建物が混在している。

 1950年代、スターリンが政権を担っていた時代に建築された様式の建物は、スターリンの名を取って“スターリンカ”と呼ばれる。

 この様式の建物は他の建物と比べて非常に厳つく、頑丈で巨大、室内も広々としており、装飾が施されることも多い。モスクワ大学の巨大な校舎などがスターリンカの代表的な例であった。

 もちろんスターリンカと単に言っても、そびえ立つ荘厳な建物だけがスターリンカであるとも限らない。そのような豪華な建物に住まうことができたのは警察や官僚といった特権階級(ノーメンクラトゥーラ)と呼ばれる一部の階層の人々のみであった。都市部に住む工場働きの一般的な労働者に与えられる同年代の住宅もまたスターリンカと呼ばれるのだが豪華さとは程遠く、四角いコンクリート製の無機質な、いわゆるアパートの類であった。特権階級用のスターリンカと区別する意味で“コムナルカ(共同住宅)”とも呼ばれるそれは必要十分に快適であり、共同のトイレや台所、浴槽を備える全く無駄のないものであった。

 そのコムナルカも時代によってフルシチョフカ、ブレジネフカと区分されるが、この二つにさほど大きな差もない。

 表向きには平等を謳うソ連のユートピア思想とは完全に乖離したものであるこれらの様式であるが、ソ連市民にとっての憧れの住まいの原点、モスクワやペテルブルクといった都市への憧れを抱かせる役割を十分に果たしたのである。

 彼女が住まうことになったのは、そんなブレジネフカが増えてきたモスクワの中でも一世代前の様式となったフルシチョフカの、コムナルカであった。

 

 人口過密都市であるモスクワにおいては住宅不足が非常に深刻であり、住まうことさえ困難な状況は今も相変わらずだった。物不足が深刻なソ連では普通の商品を買うだけでも長蛇の列を作ると言われるが、アパートもまた例外ではない。モスクワやレニングラードといった大都市に住みたいがために、粗末なバラックにすら労働者は住み着いた。そのような状況下で大変恵まれたアパートに、いわば“政府のコネ”で住まうことができるというだけでも感謝せねば、という気持ちをナタリアは抱き、浮かんでくる不満全てを揉み消そうと努力する。

 (隣に住む人、どんな人だろう・・・)

 家族以外の人間と顔を突き合わせての生活などあまり想像できなかった。風呂もトイレも共同で、となるとほぼ毎日誰かと顔を合わせるわけだから、人見知りであることを自覚しているナタリアは肩身の狭い思いを感じずにはいられない。


 重たいトランクを抱えたまま一階のロビーから階段を上がり、三階の廊下にたどり着いた彼女は廊下を歩く。こんな景色の街でも、せめて部屋の中だけは自分の理想通りであってほしいというささやかな願いを抱きながら、廊下の突き当たり、自分に割り振られた部屋の戸を開いた。

 「うわぁ」

 部屋に入った瞬間に彼女が口にした第一声は、そんな呆れ返るような言葉。カビ臭い匂いが鼻につき、当たり前だが住み慣れた実家の一軒家とは大きく違っている。

 呆然とする気持ちで近くの壁を指で撫でると壁に塗られた塗料の粉が付着した。他の部分に目をやればひび割れたコンクリートがむき出しになっており、職員の言葉通りリフォームをしたとはいえ築年数が20年という時間の経過による老朽化だけは決して誤魔化せない。

 トランクを部屋の隅に投げ出したまま、彼女はすでに備え付けられている窓際のベッドに横たわる。硬いマットレスの上で、天井を見つめながら虚無感をうち消そうと躍起になり、アイドルの仕事が始まってステージの上に立ち、色鮮やかな照明が当てられた自分の姿を想像してみる。そんな夢を叶えるためにここへやって来たのだから、この程度の試練は神様が自分を成長させるために与えてくれたものなのだと懸命に言い聞かせた。

 そうこうしているうちに、やがてどれくらいの時間が経っただろうか、ウトウトと疲れで眠りかけていた頃、廊下から賑やかな話し声が急に耳に飛び込んできて、妄想の世界から現実の世界へと彼女を強引に引き戻す。

 声はどんどんと近くなり、しまいに自分の部屋の前にまで訪れた時、ナタリアは息を押し殺すように身動き一つ取らずベッドの上で固まった。

 部屋の戸がノックされると覚悟したようにゆっくりと立ち上がって部屋の戸を恐る恐る開く。同じアパートに住む人なのだろうか?

 ドアを開いた先には、一人の女性が立っていた。

 「こんにちは。あなたが今日引っ越してきた子ね」

 背の高くて綺麗なブロンドの髪の毛をおしゃれにパーマしている女性は目元に笑みをうっすらと浮かべ、唇に塗られた赤いルージュの下に白くて整った綺麗な歯を見せる。全体の雰囲気もそうだが、顔つきからしてロシア人とは違う。甘い香水を漂わせる彼女のロシア語には、厳つい訛りがある。

 「は、はじめまして・・・私の名前は、ナタリア」

 「知ってるわ。ナタリア・リヴォフスカヤちゃんね。ナターシャと呼ぶわ」

 背の高い女性とゆっくり握手をしようと手を伸ばすと、彼女の後ろにこっそり隠れていた少女が、見覚えのある美しい白銀の髪の毛を揺らして、愛らしげな顔をひょっこりのぞかせた。

 「ナターシャ、ごきげんいかが?」

 ナタリアは驚きのあまり口を大きく開け、黙り込んでしまった。

 「あなたのことは、リーナから聞いてるわ。それにミーシャからも」

 ドイツ系の彼女はミハイルとはすでに知り合いらしい。彼女がアンゲリナに、今日ここに入居するウクライナ人の話をすると、アンゲリナは驚いた顔をして、行きの電車でまさにそのウクライナ人と出会った話をした。

当然そんな偶然はなかなか信じてもらえるものでもない。ドイツ女性とアンゲリナは、ナタリアのいないところで賭けをしていた。

 「疑ってごめんなさいね、リーナ。この賭けはあなたの勝ち」

 「やった!これで最初の掃除当番はエルザさんだよ」

 彼女エルザ・ディートリヒは東ドイツの出身で、そこは決してソビエト連邦の構成国ではないのだが、同じ東側に属する重要な同盟国である。そして西ドイツという西側の国家と壁一枚隔てた、東西に分断された悲しい国家でもある。国が民族ごと真っ二つに割られてしまうというのは一体どのような感情なのだろうか。ナタリアには想像もつかなかった。

 「国が二つになるってのは悪いことばかり。友達が西側にいれば、こっちには決して帰って来れないんだもの」

 友達だけならまだしも、家族も、誰も彼もが、ベルリンにそびえ立つ大きな壁によって引き裂かれたのだという。

 「どうしてそんなひどいこと…元はと言えば、アメリカや西ドイツが悪いんですよね。東ドイツの優秀な技術者や学者を騙して西ドイツに連行したせいで国の経済が悪化してしまった。だから壁を作るしかなかった・・・そんなの、許せないな、その人たちにだって家族はいたのに」

 エルザは勢いよく出たナタリアの純粋な言葉に一瞬きょとんとする。

 「ううん、ナターシャ。それはね、お互い様。大きな声じゃ言えないけど、ソ連にも責任があるの。でも私は、いつかドイツが一つになることを望んでいる」

 「いつか必ずソ連が動いて、東ドイツが一つの国家として統一を果たすはずですよね。だって、ソ連は同盟国を助けるんですもん」

 「…そうね」

 どこか含みを持った言い方で呟いたあと、まるでタブーの話題であるかのようにエルザはそれ以上そのことに関しては何も口にしない。自分の言ったことを褒めてくれると思っていただけに、そんなエルザの反応はナタリアにとってとても意外だったし、拍子抜けだった。

 「もう分かっているとは思うけれど、このアパートに住まうことになった子たち、みんなあなたと同じ計画の参加者なの」

 彼女は今更大事なことに気がついたように目を丸くする。アンゲリナが行きの電車で、モスクワでこれから始めようとしている歌の仕事は何の因果か、本当に奇跡のような偶然で、自分がこれから目指そうとしている仕事と一緒なのだ。

 「私たち、ただの友達から仕事仲間になったんだね」

 人懐っこいアンゲリナは突然の展開に戸惑っているナタリアを安心させるかのように彼女の緊張してこわばった手を白く柔らかい指で包み込む。

 思えばこの少女もベラルーシ人。

 その瞬間、ミハイルの言っていた言葉が鮮やかにナタリアの頭の中に蘇る。ソビエトや共産圏の様々なところから一つ一つの花を集め花束にするという、胸を高鳴らせるあの言葉。

 彼女の中に自分はウクライナを代表する花だという、何度心の中で唱えようとも想像のつかなかった非現実的な言葉が…いよいよ現実味を帯びて目の前に訪れる。

 ところが自分はまだまだ芽も出ていない状態なのではないか、本当にこれから花を咲かせることはできるのか…?

 といった不安な気持ちが、一方では反発するように彼女の胸に押し寄せてくる。目の前の彼女たちは鏡を覗いた時に映り込んだ自分自身の姿よりもずっと美しく華やかで可愛らしい容姿なのだから、すでに立派な花を咲かせているではないか?野暮ったい三つ編みなんてダサいだけ。自分に自信がなくて、すぐに他人と比べてしまいがちな彼女は当たり前のようにそんなことを思った。

 「ナターシャ。心配することないわ。…あなたの目の色、髪の色は抜群に美しいんだから」

 エルザはナタリアの耳元でそっと囁いた。

 咄嗟のことで呆然と、困惑とするナタリアに、今度は追い討ちをかけるようにウインクを投げる。

 「これからアパートの中を案内してあげる。付いて来て」

 ナタリアが抱えていた不安や迷いを真正面から打ち消すように、エルザは彼女の腕を強く引く。初対面とはとても思えないような強引さだが、ナタリアはそれに全く抗うことができなかった。

 「行こうよ、ナターシャ!ほら」

 無邪気なアンゲリナはそんな戸惑うナタリアの背中を強く押す。


 エルザの案内で、共同アパートの建物内に備えられたキッチンや風呂場などを確認する。どれもナタリアが思っていた以上に掃除が行き届いており、なんとかやっていけそうだと大げさに胸をなでおろした。

 「掃除や料理は当番制よ。今日でアパートに住んでいる子はあなたたちの三人。あとの三人は明日越して来る予定だから、それからちゃんとした役割分担を決めるわね」

 徐々に、秘密のベールに包まれていたアイドル計画の骨格部分が、わずかながらにも見えてきたような気がした。

 七人。それがこのアイドルグループのメンバーの数なのだろうか、他にどんなメンバーがいるのだろうかと、ナタリアはあれこれと頭の中に思い浮かべてみる。ソ連の構成国は10以上あった。その中にロシア人は含まれているのか?しかし考えてみればソ連の盟主ロシアの人間が含まれていないはずはない。少々の不安が滲む。

 「ナターシャ、ここにはいないけどね、あなたの向かいのお部屋に今日引っ越してきた子がもう一人いるのよ。さっきノックした時はお昼寝中だったみたい」

 アンゲリナはナタリアの服の袖を引っ張って、今歩いて来た廊下の先を指差す。

 「エルザさん、その人はどこの国の人ですか」

 「何言ってるのナターシャ、“ソ連人”よ」

 「あ…」

 「ソ連に住む子はみんなソ連人。いくら各々の民族的なアイデンティティが違っていてもね」

 エルザは笑って言ったが、目元は笑っていない。その微かな表情の変化も、他者の気持ちに敏感なナタリアは見逃さなかった。

 「ごめんなさい、エルザさん、私、そんなつもりじゃ…」

 申し訳なく呟くと、エルザの目元は急に和らいだ。

 「私こそ。少し厳しめの言い方になったわね。誰が、どんな民族なのか知ることは大事なこと。だからあなたがそれを聞いたことは良いことよ。でもね、私たちはどんなに出自や宗教、思想が違っても、絶対に同じ国民であるってことは常に頭の片隅に置いていて欲しいから、こんなことを言ったの」

 ナタリアを引き連れたエルザは例の隣人の部屋の前で立ち止まる。

 「じゃあ、一応言うけど。…この子はロシア人よ」

 彼女がロシア人に対して偏見じみた苦手意識を抱いていることを知っているかのように、エルザは呟く。ナタリアの顔はわずかに曇った。

 人種だけで判断することはよくないと分かってはいるものの、やはりどんな人間か気になって仕方がない以上、人見知りで小心者な彼女の胸は相変わらず不安でいっぱいになっていた。

 「開けてみてよナターシャ、ソフィーはすっごくいい子だよ?きっと大丈夫」

 アンゲリナは笑顔でそう微笑むが、きっと誰に対しても人懐っこくて愛される存在であるはずの彼女だから、そのような感想が自ずと出てくるのだと、ナタリアはアンゲリナの言葉などあまり参考にならないといった気持ちを抱く。しかしソフィア…そんな名前の彼女は一体どんな顔をしていて、どんな性格をしているのだろうかという謎めいた好奇心も、一方では彼女の脳裏に浮かんできている。それ以上に彼女を突き動かすのは、これから嫌でも絶対に顔を突き合わせていかなければならないという、逃れることのできない運命だった。

 

 心臓が高鳴るのを抑えて意を決した彼女が部屋の戸を叩くと、ゆっくりとドアが開き…眠そうな赤髪がふらりと向こうから現れる。

 その眠そうな目はナタリアよりも少し高い位置にあり、彼女がロシア人という心理的な大きさもさることながら、背の高さという物理的な大きさまでもが自分以上であることにひどく怯えてしまっていた。

 「…おはようございま…」

 「…は、は、はじめまし、て!」

 緊張しながら凝り固まった手を差し出すナタリアの手を見て、彼女はそれをただ無関心そうに眺めた。

 「…」

 「…」

 互いに見つめ合うだけの無言の時間が続く。ナタリアは平静さを欠き、冷や汗がどっと吹き出しているが、見下ろす彼女は一体何を思っているのか。

 完全に思考が停止しているナタリアは果たしてこの沈黙をかき消すためには何を言うのが正解なのか分からずに、いつの間にか口よりも先に右手がまっすぐ彼女の前に差し出されている。

 そんな彼女の突然差し出された右手をソフィアはやはり無言のまま黙って見つめた。ナタリアの背後からはエルザが笑いを押し殺す声がする。

 「…ああ、握手。ほい」

 しばらくして、ようやく目の前の赤髪はぽんと両手を叩くと彼女の手を握る。互いの細い指がようやく触れ合う。…綺麗な赤髪、わずかに高い身長。そして大きな胸。そしてこの国で一番偉いロシア人。

 本当にこんな自分のコンプレックスが化けて出たような人間と、劣等感を抱きがちな自分などが仲良くなれるのだろうかと、ますます不安がった。

 「で、あんたは誰」

 「え、え、!私は…ナタリア…」

 ソフィアはナタリアをジロジロとつぶさに観察している。その無表情は、どんな感情を抱いているのかヒントさえくれないほど冷たい。

 「へぇ…ナタリア。あんたの亜麻色のおさげ、美味しそうだよ」

 「はぁ!?」

 思わず彼女の手を握っていた右手を勢いよく引っ込め、警戒の姿勢をとった。

 「もうソフィーったら、また食べ物のこと考えてるの?」

 後ろでアンゲリナが可笑しそうに笑った。

 「だってほら、もう夕ご飯の時間」

 ソフィアは眠そうな目をこすりながら言う。

 アンゲリナに対しても無表情だが、彼女はナタリア以上に、ソフィアとうまく打ち解けているらしい。こんな自分といきなり仲良くしてこようとするのだから当然と言えば当然だ、と思った。自分もあのようになりたいとは思うけど、何を考えているかわからない上に、話のテンポが噛み合わない相手と一体どのように接したらいいか、なんて全く分からない。誰とでもすぐ打ち解けるアンゲリナの性格が、彼女は今とても羨ましかった。

 そんな時、誰かのお腹が勢い良く鳴り響く。

 「…」

 全員の視線はソフィアではなく、ナタリアに注がれている。

彼女は恥じらいの気持ちを少しでも紛らわそうと視線を泳がせた。すると廊下の端に掛かっている時計が彼女の目に飛び込んでくる。17時半を指している時計の針を見た瞬間、自分が朝から何も食べていないのだということに気づき、ますます空腹感は強まった。

 「お腹空いてるんだね、誰かこの中にいるのかな?」

 アンゲリナは面白おかしくナタリアのお腹を指でつついた。

 「は、恥ずかしいよアンゲリナ、やめて!」

 「ほんと、あなたって面白いのね!気に入ったわナターシャ」

 エルザとアンゲリナは腹を抱えて笑い合っているが、そんな中でもソフィアだけは無表情にぽかんと虚空を眺めている。せめて相手の感情がもっと分かりやすいものだったら、ずっと良かったのに。

 エルザは一度彼女たちに一度外へ出る支度をするために部屋へ戻るように促した。数十分後、揃った皆に彼女はこれからレストランでロシア料理をご馳走してくれるという話をした。

 

 通行人や車が多く行き交う夕闇に染まったモスクワの大通りを前後に2人ずつ、後ろでアンゲリナと2人並んで歩きながら、ナタリアは前を歩くソフィアの背中を警戒するように見つめていた。背の高い二人が並んだ姿は圧巻だ。エルザの方が少し高いが、どちらも170cmを優に超えている。隣を歩くアンゲリナは150cmには届いていると主張したが、どうにも怪しい。

 一方の自分も会う人会う人に160cmと主張しているが、測り方によっては158cmで、少し足りないことも多々ある。

どのみち前を歩く二人に比べれば自分たちが小動物であることになんら変わりはなかった。

 「私、ロシア人に食べられちゃうのかなぁ」

 「あんなおかしな事言うのはソフィーだけだよ」

 ソフィアはエルザと何気なく話しているが、彼女たちが一体どんな会話をしているか、前を歩く二人組とは前後に大きく距離が開いているため内容ははっきりと聞き取れない。

 「ナターシャは頑張ってソフィーと仲良くなろうとしてるんだね」必死な彼女の様子をアンゲリナは横からまじまじと眺めている。「でも焦ったら、きっとソフィーもびっくりして、ますます殻に閉じこもっちゃうと思うの」

 「だって…アンゲリナの、その誰とでも仲良くなれるコツを教えて欲しい」

 こんなにも誰かが羨ましいと思うのは、彼女の人生できっとこれが初めてのことだ。誰かを羨まなくとも、平等に物が手に入るこの国では生きていけると信じていたのだが、それは所詮小さな田舎のコミュニティという小さな世界の中だけの話で、モスクワいという大都会で芸術という方面に進む以上、物質的なモノ以上に能力や才能だとか、そんな目に見えないモノが必要になる。それは共産主義国家でも平等に手に入らないし、簡単には手に入らない。どんな才能でもお金で買えたら、楽なのに。

 「無理に仲良くなろうとするんじゃないんだよ。相手のことを好きになる。相手の好きなところをたくさん見つける。それが誰かと仲良くする一番の方法」

 アンゲリナは相変わらず、いとも簡単であるかのようにそんなことを言うが、相手の好きな部分を見つける行為自体がとにかく苦手なのに一体どうすればいいのか、とナタリアは不満そうに口を尖らせた。

自分のことだって好きになれないのに。

  

 「あなたたちには3人組のグループを組んで今月9日の戦勝記念日に、ラジオ番組の中で曲を歌ってもらうの」

 赤いカーペットが敷き詰められたレストランの窓際、白いテーブルクロスを引いた長方形のテーブルを囲む三人は、そんなエルザの言葉に釘付けになっていた。9日といえば今からわずか一週間後である。実家にいる時から頻繁に聴いていたラジオに、まさかこんなにも早いタイミングで自分たちが出演する機会が舞い込んでくるとは考えてもいなかったのだ。

 ナタリアにとってはずっと憧れていた夢のようなオファーだが、すぐに呑み込むことができずに驚いてぽかんと口を開けていると、給仕が彼女たちの目の前にガルショーク(つぼ焼きシチュー)を運んでくる。

「あ、そのガルショークはね…容器の上にかぶせてあるキノコの傘みたいに膨らんだパンをちぎって、中のシチューにつけて食べるの」

 かぶさった焼きたてのパンの芳醇な香りが食欲をそそった。

 「美味しい」

 ソフィアはエルザの説明をろくに聞くこともなく、すでに慣れた手つきでパンをその大口に放り込み、もぐもぐと盛んに動かしている。

 モスクワ育ちの裕福なロシア人である彼女には非常に馴染みの深い料理であった。

 容器にパンの生地をそのまま被せてオーブンで焼き上げるガルショークは当然上に乗ったパンが高温であり、アンゲリナはちぎるのにも苦労している様子だった。

 彼女たちが皆一様にせわしなく口と手を動かしている中でもナタリアの頭の中には目の前のシチューなどまるで存在しないかのように、先ほどのエルザの話ばかりが何度も繰り返されていた。

 誰よりも空腹であったはずの彼女は、しばらく料理の前で黙り込んだまま何か考え事をしていたが突然ふとあることに気づいたように驚いた顔を上げる。

 「…ってことは、練習時間はたった一週間ってことですか!?」

その場にいた全員が食事をする手をぴたりと止め、一人だけ場違いな彼女を見つめていた。

「食べないのかしらナターシャ、あなたが一番お腹空いてるんでしょう?」

 さきほど彼女が鳴らしたお腹の音を思い出したように、エルザはまたクスリと笑みを浮かべた。

 「冷めちゃったらもったいないよ」

 彼女の右隣に座るアンゲリナは両手で可愛らしくパンをかじっている。

 その一方で、左隣に座るソフィアはちょうどそれを完食したところらしく、上品に紙ナプキンで口元をぬぐっている。

 自分1人だけ周りの空気から取り残されていることにようやく気づかされた彼女は恥ずかしそうに手元の熱いパンをちぎり、つぼ型の陶器に入ったきのこ入りのシチューにつけ、ゆっくり口に放り込んだ。朝から何も食べていなかっただけに彼女の目はその瞬間、キラキラと輝く。

「お、おいひい、れす!」

 舌を火傷しそうになるくらいの熱々のパンを放り込んでゆっくり味わっていると、彼女たちの目の前にはさっそく次の料理が運ばれてくる。

 「あれ、これがボルシチ…?」

 それはナタリアがよく知っているボルシチとは程遠く感じた。

 普段食べているスープというよりもそれはまるでシチューだ。使っている具材だって、まるで違う。怪訝な顔で見つめて、これはボルシチではない、といつの間にかぼやいていた。

 「へぇ。私の知ってるボルシチは、これだけど」

 突然左隣に座るソフィアがそんなことを、まるで言葉を返すように呟いた。やはり美味しそうにスプーンですくっては、素早い手つきで口に放り込んでいる。

 「…ぼ、ボルシチはウクライナ料理ばい、ロシアのものじゃなか…!」

 ナタリアはどういうわけかむきになって、ソフィアのそんなさりげない言葉に噛みついている。自分の祖母から教わったレシピともかけ離れていたため、その思い出を踏みにじられたような気持ちになり、どうしても抗いたい気持ちが芽生える。

 「どっちでもいいじゃん、そんなことはさ」とても無関心そうにソフィアは口をモゴモゴと動かしながら言った。「食べてみてよ。ボルシチ“もどき”も、あんたが思っている以上に美味しいんだよ」

 とうとう半信半疑のまま、彼女はソフィアが美味しそうに食べるのを横目で眺めながらそれをスプーンですくい上げた。しかしながら、思った以上にとろけた牛肉の香りが鼻腔を刺激し、それはナタリアの食欲を誘う。

 「・・・お、美味しい・・・」

 ウクライナのボルシチは基本的にビーツなどの野菜を中心に煮込んで作るスープのような食感のものが多いが、ロシアなど一部の地域ではビーツの他に牛肉やトマトも加えてじっくり煮込んで作るため、具材も味わいも地域によって異なってくる。東欧だけで40以上ものバリエーションのある料理だが、ずっとウクライナの田舎から出たこともなく一種類のボルシチしか知らないナタリアには、違う種類のボルシチがこの世に存在することなどまるで想像もつかないことだった。

 「ね。料理に国境なんか無いんだ」

 ソフィアはナタリアと顔も合わせずに、相変わらずの無表情で呟いた。ナタリアは自分が何故こんなにムキになってしまったのか分からずに、押し寄せてくる恥ずかしさで頰を赤くしたまま黙々とそれを味わうことにした。

 「…ば、ばってん、やっぱりボルシチは、ウクライナが発祥ばい、こりゃ別ん料理で!」

 「ふぅん」

 やはり納得がいかないのかウクライナ語をむき出しにするほどの彼女を、しかしソフィアはさほど相手にすることもなく素早く手元の皿を空っぽにしている。

 エルザはそんな2人の言い争いを黙ったまま楽しげに傍観していた。

 「ちなみに、リーナのところのボルシチはどんな感じかしら?」

 「私のベラルーシの実家も、やっぱりナターシャのところみたいな透き通った色のをよく食べますけど…でも、このシチューみたいなボルシチも、初めて食べたけどすごく美味しいです。エルザさん、今日は本当に誘ってくれてありがとう」

 彼女の相変わらず無邪気で可愛らしいまっすぐな笑顔に、エルザの頰は楽しげに緩んだ。

 

 料理を完食した後、全員の前にはジャムを添えた紅茶が出される。

 エルザが先ほど途中まで口にした話の続きを始めた。ナタリアは誰よりも彼女に釘付けになって、その言葉を一言一句漏らすまいと懸命に聞いていた。

 「戦勝記念日を祝福する国営放送のラジオで夕方にひとつだけ放送枠が空いたから、そこであなたたちが歌うのよ」

 戦勝記念日とは、第二次世界大戦でナチスドイツからの厳しい侵略を受けたソ連が1945年5月、ドイツの降伏に伴って戦いに打ち勝った日であり、侵略を受けた東欧諸国では最も重要な記念日とされていた。ウクライナに住む多くの人々もその戦争を経験しており、彼女にとっても大きな祭りとして馴染みの深い行事であった。

 ソ連政府にとってもこのような記念日にこそスラヴ民族を鼓舞したいという意図があり、『民族の融和・友好』をモットーに掲げて活動する彼女たちの番組への出演は好都合で、即座に出演許可が降りたのである。

 「そういえばエルザさんは出演しないんですか?同じアイドルなのに」

 「今回はあくまでもお試し出演だから、三人で十分なのよ。他の子達にも言ってあるわ。いくらソ連とは言えウクライナ・ベラルーシ、そしてロシアがこの国の中心なんだもの、先陣くらい譲ってあげなくちゃ」

 反響次第では今後彼女たちの活動の指針が決まるのだという。もし国民からの問い合わせが殺到すれば、頻繁にラジオ番組への出演のオファーが来るし、劇場でのコンサートが開かれる機会というのも十分にあり得る。

 …もちろん失敗すれば、それから何ヶ月、何年と仕事は無くなってしまう恐れだってある。まだ顔も知らない他のメンバーのためにも、何かと責任の重い初舞台であることには違いなかった。

 「明後日からは特訓よ。アパートに隣接するスタジオでレッスンを受けてもらうわ」

 いよいよ始まる自分のアイドルとしての道。

 ナタリアは手元の紅茶を、ジャムを舐めながら勢いよく飲み干すと初めてのラジオ出演に淡い期待を抱くとともに、うまくやっていけるかという不安も、やはり、より強く抱いた。

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