第2話 『守護天使』(後編)


「ミハイルさん…!?」

 人混みの中で突如、右腕を掴まれたナタリアは目を大きく見開いて、まっすぐに彼を見つめた。

 諦めかけてもつれかかっていた彼女の足はやや強引に手を引っ張られるだけでも不思議なことに少しずつ元気を取り戻していく。

 …けれども、決して電話で呼んだわけでもない彼はどうしてこの場所にやって来て、そして、人ごみの中から自分を見つけ出し、強く手を引いてくれているのか?

 怪しげな二人組に追いかけられている理由もまた何一つ分からないが、しかし今は何も考えられなかった。ただ嬉しくて安堵して、彼女の目にはまたもや涙が滲む。どうかずっと…このまま自分の手を離さないでいて欲しいと願っていた。

 私服姿の彼はこの街に土地勘があるのか、慣れた足取りで人混みを器用に掻き分けながら街路を進んで行く。そこら中にいるソ連人男性のような服装の彼は、周囲に溶け込んで目立たない。

 それを利用してか、時折彼が目立つ服装の彼女の背中に覆いかぶさるようにして街角のショーウィンドウなどに張り付いては、追跡の目を何度も欺く。身体を押し付けられたガラス張りの向こうに飾られる美しい陶磁器が彼女の目に飛び込んでくるが、息を殺して沈黙しているせいで、その美しさは頭に入ってこない。

 もし今、背中から覆いかぶさってくれているミハイルが自分のそばを離れてしまえば、きっと自分は見つかってしまうのだろう。

 二人組の姿がとうとう見えなくなるのを確認すると、ミハイルとナタリアは小さな路地の奥まで入り込んで行った。

 

 「疲れたろう、少し休むといい」

 人気のない路地を歩く途中、ナタリアはこれまでずっと張り詰めていた糸がぷつりと切れるように、とうとうその場にしゃがみ込んでしまった。

「…あの人たち、結局何者なんですか?」

 息を荒くしながら、彼女はミハイルの横顔を見上げて今最も聞きたかったことを尋ねる。どうして追われているのか、今だって全く理解できない。彼は少し躊躇いながらも少しの沈黙の後、言葉を発する。

 「どうやら余計なことに、君を巻き込んでしまったらしい」言葉を慎重に選ぶような、ゆっくりとした口調だった。「今の僕らには…国家反逆罪で逮捕状が出ている」

 国家反逆罪という馴染みのない…或いは、このような田舎に住んでいれば一生自分には縁もゆかりもないであろうと思っていた罪状を、まさか突きつけられるとは思ってもみなかったのだ…!

 驚きとショックで言葉を失う彼女の背中にミハイルが宥めるように優しく手を置こうとすると、その力の無い手を彼女は勢いよく振り払う。

 「…やっぱりミハイルさんは、アメリカのスパイなんですね…」

 言葉が堰を切ったように溢れてきた。彼女の中で、それまで抱いていた、あらゆる疑いが確信へと変わる。今朝から今の今までずっと溜め込んできたどうしようもない不安や恐怖が、安堵が訪れた瞬間に突然、怒りへと変わっていく。

 「そうやとしか思えんもん…!だって普通ん人が、私のいる場所ば突き止めて来れるはずなんかなかとです!きっとこん街にもどこかに仲間がおるったい、私のこと、ずっと監視しとったんや…私に夢や希望ば与えときながら、結局は私を誘拐して共犯者に…スパイに仕立て上げようとしとったんですね!」

 ミハイルは黙り込んで、ぴくりともしない表情をこちらに向けるだけだ。

 「なして何も言うてくれんのですか!?」

 こんなにも信じていたのだ。裏切られたと感じれば感じるほど、ナタリアの目には涙が溢れてくる。

 「私、ミハイルさんからの真剣なスカウト、本当はとってもとっても嬉しかったばい…!だって、夢やったんやけん…世界やソビエトば、こん目で見ろごたると、どれだけ願うたか!」

 彼の表情は相変わらず、動かない。一体何を考えているのだろうか…まるで人形のような不気味に動かない表情を前にして、ナタリアの言葉にはますます強い感情がこもっていく。

 「…結局、昨日はあぎゃんこつ言うて断ってしもうたけど、ばってん、改めて自分ん頭でよう考えてみたんばい…何度も思い悩んでみたんばい!そしたらやっぱり私は、そん、アイドルってものになろごたる、…なってみたいんです!…ミハイルさん、ばってん、昨日ミハイルさんがかけてくれた言葉は、すらごつやったんと…(嘘だったんですか)?」

 ミハイルはまだ何も、答えない。

 「答えてください!私はただ、夢ば、願うただけです!一体何ばしたっていうとですか!?」

 ふと、彼の視線の先に自分の姿は存在しないと感じた。

 彼がそれまでナタリアの背中に差し出していた手を引っ込めたかと思うと、その代わりにジャケットの内側から突然拳銃を引き抜く。

 青黒く光る金属の光沢。彼が名乗っている聞きなれない姓・トカレーヴィチが意味する銃、トカレフだ。

 スラヴ人の名字の語尾につけられる〜ヴィチという語尾には、”〜の息子”という意味がある。父親の名前から取られる父称、いわゆるミドルネームに使用されることが多いものの、それは姓としても用いられることがあるため、彼の場合においてもその意味は、噛み砕くなら“トカレフの申し子”となる。いわばペンネームであった。

 ソビエト拳銃らしい無骨で飾り気のない特徴を持つ、手袋の上からでも十分握りやすい大きめな銃は彼の右手に綺麗に収まっていて、彼ほどこの銃を上手く扱える人間はいないのだと主張している。

 「君のその言葉を待っていた」

 彼女の口元は紫色に染まって震え、今となっては言葉もろくに発することができなかった。彼女の瞳には天使の姿などなく、今はようやく正体を現した悪魔の姿だけが映り込む。

 –––––私はここで死んでしまうのか?

 夢を叶えられないまま、ソ連という国の現実を何一つとして知らされないまま、叶うはずのない夢を見たことを後悔し、絶望したまま死ぬことを悔しがりながら、彼女は感情を押し殺したように静かに俯いた。

 そして一発の銃声が、路地裏全体に響き渡る。

 彼女の頰には、銃から排出されたばかりの熱い薬莢が触れ、それはカラン、と綺麗な音を立てて彼女のすぐ横の地面に落下した。死への覚悟を決めていた彼女はただ額に伝う一滴の汗だけを感じる。

 ところが痛みらしい痛みだけは何も感じない。 

 そして次の瞬間、彼女の体には突然宙へ舞うような感覚が襲う。

 「逃げるぞ、こっちだ!」

 彼はナタリアの左腕を脇から抱え上げて身体の後ろに引き寄せると、さらに数発、路地の先に向かって発砲する。二人組がこちらに向かってやって来ていたが…そのうちの一人は血を流して地面に倒れ、悶え苦しんでいるのがこの位置からでもはっきりと確認できる。

 慌てて自分の身体を確認すると、どこにも撃たれた形跡はない。

 突然、彼女の近くのレンガの壁の一部が弾け飛び、破片が彼女の頰を掠める。

 相手も盛んに応戦して路地裏では小規模な銃撃戦が展開されていた。彼女は、銃弾が当たらないように怯えながらも懸命に、せめて頭を低くかがめることに専念する。

 弾切れになるまで撃ち終えて、ミハイルはナタリアの脇を抱えて再び走り出す。

 彼女の心臓は、新たに訪れた死への恐怖でバクバクと高鳴っていた。

 「あの連中は僕ら改革派の計画を事前に察知し、潰そうとする保守強硬派が差し向けた手下だ。あの二人もKGBの連中さ」

 ミハイルは時折後ろを確認しながら慣れた手つきでポケットから新たに弾丸が詰められたマガジンを取り出し、トカレフに装填する。

 冷静さをようやく取り戻しつつあったナタリアは、今はただ、必死に疑念を抱いていたはずのミハイルの腕にしがみついて離さない。

 「僕らは無実だよ、安心して欲しい。・・・信じてくれるか?」

 完全に信用しているわけではなかったが、たとえ確信がなくとも彼のことを誰よりも信用したいという気持ちから、彼女はしがみつくその腕の力をより強めることで返した。

 

 ソ連の警察組織でありスパイ摘発、対外諜報、国内の治安維持に努めるKGBは本来、国家の最高権力機関である共産党の命令なしに動くことはできない。それが今、こうして共産党員であるミハイルを攻撃しているということは党内部にも二つの派閥が存在することを意味していた。

 ミハイルも属する改革(ペレストロイカ)を主張するゴルバチョフ政治局員を始めとする派閥に対し、その改革を阻止しようとする政敵、保守的なグループが共産党内部およびKGBの一部には存在していた。

 …ミハイルは、そんな彼らこそが今回の妨害工作の主犯ではないかと睨んでいる。

 「君の名前は、ナタリア・リヴィウシカだね」

 走りながら、唐突にミハイルは彼女の名前を呼ぶ。彼女は思わず”リヴォフスカヤだ”と訂正しそうになるが、よく考えてみるとリヴォフスカヤというのはロシア語読みであって、彼の言う通り、ウクライナ語で名乗るのなら“リヴィウシカ”の方が正しかった。…実生活では自分の名前を名乗る際、ロシア語で名乗る機会の方が圧倒的に多いとはいえ、自分の本当の名前の読み方を忘れていたことに彼女は驚いている。

 「君の先祖はきっとこの街に愛着を持っていたことだろう。ウクライナ人にとって誇りの詰まった名字だ、これからも大切にして欲しい」

 それは今まで殆ど意にも介さないことだったが、確かにこの街の名前リヴィウは、自分の名字の中にはっきりと刻まれている。それは大して特別なことでもないと思っていたのだが、美しいこの街の景観を眺めた時、非常に特別なことであると同時に嬉しいと思えた瞬間、彼女の中でのウクライナに対する思いが、ますますと強まっていくのを感じた。

 

 二人が狭い路地を駆け抜けていくと視界は一気に開け、大きな広場に出る。

 「そこまでだ!」

 しかし広場に出たところで、今度は別の路地から複数人の警官が広場に駆けつけて激しく笛を鳴らし、銃を構えつつ走りこんで来た二人を瞬時に取り囲む。

 あっという間の出来事で、四方八方から迫り来る警官たちを前にして、彼女たち二人は為す術もなかった。今となっては、どこにも逃げ道など存在しない。

 「銃を捨てろ」

 5人の警官が銃を構えて威嚇しつつ徐々に歩み寄り、二人との距離を縮めていく。

 「ミハイルさん…」 

 不安げな彼女に彼は少しだけ微笑むだけで、もはや抵抗する素振りも見せず、これまでの逃避行がなんであったのかと思う程あっさりと、手にしていたトカレフから弾倉を引き抜き、それらを地面に置く。

 「もう逃げられんぞ、トカレーヴィチ!観念しろ!」

 先ほどから彼を追いかけていたKGBの男の一人が、ミハイルの銃弾を受けた右腕を抑えながらようやく追いついて二人の背後に立つ。ミハイルに迫った彼は痛みに耐えながらも左手に拳を作ると、思い切り彼の顔面を殴りつける。殴られた彼はレンガの敷き詰められた地面に力なく座り込んだ。

 「ミハイルさん!…あんた、なんてことすると!!?」

 彼はすぐさま起き上がったが、口の端からはわずかに血が滴っていた。男は、今度はナタリアを威嚇するように睨みつける。

 「おい小娘、お前があの学校で大人しく捕まっていれば俺の同僚がこいつに殺されることもなかったんだ。お前は人殺しの片棒担ぎだ!最低な女め」

 「…あんたたちだって、私を殺そうとした、それなのに人殺しだなんて!」

 ナタリアは目に涙を溜め込みながら、必死に訴える。しかし目の前の男にそんな彼女の悲痛な訴えなど通用するはずもない。男の怒りはまだ収まらず、座り込んだミハイルを蹴り飛ばそうと試みた。

 「やめろ、そこまでだ!」

 感情的になった男を後ろから一人の警官がようやく羽交い締めにする。

 その間、別の警官がナタリアとミハイルの腕を後ろに回して手錠を掛け、二人は用意された囚人車両の後部座席に詰め込まれることになった。カーテンの掛けられた、鉄格子がはめ込まれた窓。左右の窓際に二人は向かい合うように座らせられ、その隣には一人ずつ警官が座る。恐怖と不安に押しつぶされそうな薄暗い車内に詰め込まれた二人は行き先も告げられず、外の景色を見ることも私語をすることも禁じられ、長々と車に揺られることになる。

 …それはとても果てしない時間のように思えた。



 ◇



 「貴様のせいで、どれだけ地域住民の政府や警察に対する不審が高まったことか!」

 ミハイルは椅子に両手を縛られた状態で襟首を掴まれ、罵声を浴びせられていた。

 彼を荒々しく尋問していたのは、このリヴォフ地区共産党の第一書記セルゲイ・ガシチャフだった。小太りで酒飲み特有の人相の悪い顔つき。部下を怒鳴るためだけに支部長を務めているような男だったが、モスクワのクレムリンからようやく長年のソ連と党に対する献身的な貢献が認められ、残り数週間もすればウクライナ共和国の首都であるキエフ地区共産党に転属されることが決まっていたのだ。

 「貴様は、国家転覆罪に加えて国家侮辱罪だ。共産主義の崇高な理念を汚した罪は重い」

 ガシチャフは苛立っていた。

 昨夜、同じナタリアという名前だけで、ムィコラーイウ村の、彼女の数件違いの家に住む“ナタリア・ニコラエヴナ・マリノフスカヤ”という全く無関係の少女をよく確認もせずに逮捕、拷問してしまったことがリヴォフ地区共産党内での責任問題に発展していたからだ。

 彼は自身のキエフ行きが怪しくなることを恐れていた。証拠を隠蔽し、中央政府にはこの一件に関する報告はしたくないというのが彼の本音だ。とりわけ反ロシアの気風が根強い西ウクライナで、ロシア人や共産党の信頼を損ねる行為はその地域の独立運動の機運を高める恐れがあり、タブー視されていたのだ。

 「お前には党中央委員としてのプライドは無いのか?それだけのキャリアを積んでおきながら、家族はさぞ悲しんでいることだろう」

 自身よりもキャリアが格上の人間を罵ることは、彼にとってはこの上のない快感である。

 「僕には家族も両親もいない」

 「それは気の毒なことだ。お前が死ぬことになっても、誰も悲しんではくれんな!」

 嘲るように笑うと椅子の脚を蹴飛ばし、ミハイルは冷たいコンクリートの床に両腕を縛られたまま倒れこんだ。

 「君たちの尋問は不当だ。僕は党の許可を受けて、この計画に従事している」

 「じゃあ、共産党が二つも三つも存在するとでも言いたいのか?上からの命令は、いつだって一つだ!私だって党の命令を受けている!」

 「党とはいえ一枚岩ではない…その内部には、様々な派閥が存在している。君のような中央政治に疎い地方の役人でも、そのくらいは理解しているだろう?」

 咳き込みながら、しかしあくまで毅然とした態度で地下室のコンクリートによく響く、重々しい声で言った。その上、それはガシチャフの機嫌をますます損ねるような嫌味を含んだ言葉であった。

 「そこまで言うのなら聞いてやろう。では、一体誰から許可を得て、ここまでやってきた!?」

 「とある政治局員だ。名前は、ゴルバチョフ」

 ミハイルの口から飛び出した名前に、尋問室にいた党員や KGBの職員たちは全員顔を見合わせ、嘲るような笑い声を上げた。

 「あの政治局員のゴルビーか!彼がお前のような末端の中央委員ごときに許可など与えるはずもない!確かに彼もソビエトの改革を唱えてはいるがね、お前とは身分が違う」

 心底可笑しそうに、しゃがみこんで椅子ごと倒されたミハイルの髪の毛を掴みあげた。

 「僕が勤務するのはクレムリンの中央委員会だ。君のような、あちこちをたらい回しにされている党員とは立場が違う。僕にはゴルバチョフだけでなくチェルネンコ党最高書記長と直に面会する権限だってある。もっと敬意を示したらどうなんだ?」

 「黙れ!小僧、この私を侮辱する気か!モスクワにいるからといい気になりおって!!」

 彼の顔は瞬く間に紅潮し、ミハイルが事実上犯罪者であることをいいことに散々と罵った挙句、床に倒れこんだまま脇腹を容赦なく蹴りつける。

 セルゲイ・ガシチャフはもともとロシア南部カフカスの工業地帯出身で、これまで党のために人生を捧げてきたという強い自覚があったが、40を過ぎた今でも自分とは無関係な、このようなモスクワから遠い辺境に勤務させられていることをどこか腹立たしく感じていた。だからこそ目の前にいる同世代のミハイルがすでに党の信頼を勝ち得て、のちの共産党政治局員、党書記としての将来を期待されるエリート街道を突き進んでいる事実を知れば知るほど、彼に対しての個人的な妬みは強まる。

 「戯言を言うのは結構だが、お前を逮捕しろという命令は、そのクレムリンから直々に来ているのだ!」

 ガシチャフが要求すると、部下がファイルを手渡した。彼はミハイルの周りをゆっくり歩きまわり、見せびらかすようにその命令書を読み上げる。

「『改革派の党中央委員ミハイル・トカレーヴィチがウクライナ西部で扇動行為を働く恐れがある。政治局はこの不穏な動きに懸念を抱いており、一刻も早い解決が望まれる…直ちに彼を拘束し、企みを阻止せよ。』命令書の内容はこうだ。地下牢に繋がれているあのナタリアとかいう少女を利用することが貴様の目的か?もし容疑を認めるのなら、彼女の釈放を約束しよう。認めなければ二人揃ってモスクワに移送する…羨ましい限りだな、私も行きたいよ」

 ガシチャフは彼に罪を認めさせるため、椅子に縛り付けられたミハイルの顔にその命令書を押し付けるようにしてじっくりと見せるが、彼は敵意をむき出しにして言い返す。

 「その命令書のサインには違和感を感じるね。KGB議長の署名は以前にも目にしたことがある。だがその筆跡はおかしいな。彼のサインなら、もっと下線をはみ出す」

 「この私が命令書を偽造したとでも言いたいのか!?どこに、その証拠がある!」

 ガシチャフは、ミハイルを椅子に座らせると、又しても椅子ごと思い切り蹴り飛ばす。

「…そもそも、その命令はチェルネンコ書記長の承認を得ているのか?得ていると言うのなら、君の方こそ証拠を提示しろ」

 それでも、ミハイルは怯むことなくガシチャフに反論した。確かに、命令書のどこにもチェルネンコ書記長のサインなど見当たらない。ガシチャフは許可をもらうだけの余裕のない緊急逮捕の案件につき、書記長の許可なしにKGB単独で命令書を発行したのだと、その場で思いついた言い訳を加え、床に倒れこんだミハイルの腹に向かって複数回蹴りを加える。しかしガシチャフ自身もKGBから黙って命令書を渡されただけであって、本当は誰の意向なのか…これがチェルネンコ書記長の意向によるものなのかなど一切分からない。

 先ほどから一貫して態度を曲げようとしないミハイルに対し、中には違和感を抱き始めている者もいた。

 「この男の言うことが事実なら、一度彼に確認を取った方が良いのではないか?もし彼が本当にゴルビーの許可を得て動いているとすれば、我々は中央の派閥争いに巻き込まれてしまう」

 不安に感じていた一人のKGB職員の男が、恐る恐る不機嫌そうなガシチャフに進言する。

 「君は党ばかりか、自身の所属する組織のトップの方針に対しても、そのような疑念を抱くのかね!?」

 KGBに対して個人的な恨みでもあるのか、彼は職員の胸ぐらを掴みながら強い口調で叫んだ。

 「その必要はない!ゴルビーはご多忙だ、お手を煩わせるようなことがあってはならない!」

 ガシチャフはそのように言い切るが、実のところ彼のような地方の下級官吏にはチェルネンコ書記長どころか、ソビエト最高権力者である十数名の政治局員の誰一人とも、直接コンタクトを取るだけの権限など無いに等しかった。何のアポイントもなくソビエトのナンバー2と電話でコンタクトが取れる、クレムリン中央委員ミハイルの目前で、それは許容しがたい屈辱であった。



 ◇



 コンクリートに覆われた薄暗い地下の廊下を、ナタリアは両脇を二人の警官に抱えられながら進んだ。廊下に三人分の靴音が響く。すでにこの無機質な廊下を先ほどから何度も行き来している。次に連れていかれるのはどんな部屋だろう。先ほどまでいた小部屋では執拗な尋問が行われ、怖い顔をしたKGB捜査官と向かい合い、狭くて粗末な机の上で熱い照明を何度も顔に当てられた。

 ナタリアは、威圧的な尋問に対して必死に抵抗した。国家反逆罪なんて罪状をかけられても納得できない以上、認めるわけにはいかなかった。ソビエト連邦を良くしようというミハイルの思惑にただ良かれと思って共感しただけなのだ。他にも洋楽を歌ったり、聴いたりしたことも罪状として追及される。確かにそれは事実だが、しかしそもそも一体、そのことの何が悪いというのか?

 そんな度重なる尋問ですでに憔悴しきっていたナタリアは、いよいよ長い廊下の奥に差し掛かる。周囲の檻からは、自分と同じ運命を辿ったのか、様々な罪状をかけられて拘束された人々の喚き声が聞こえていた。廊下に並ぶ囚人部屋の覗き窓は外からしか開けられず、彼女がこの廊下を歩いていることなんて、誰も知らない。

 奥から三番目の部屋の前でようやく立ち止まる。警官が部屋の戸をゆっくり開くと、重い金属の扉は軋む音を立てて開いた。彼女は警官に押し込められるようにして部屋に通されるが、その暗い独房の中に彼女は別の人影を発見し、ぎょっとする。そして今まで必死にこらえていた恐怖心が、一気に噴き出す。

 「離して!家に帰してよ!」

 「この、大人しくすることもできんのか、この田舎娘が!」

 「あんただって…あんただって、私と同じ田舎者たい!」

 彼女のそんな叫び声が廊下全体に鋭く反響した。

「私と同じウクライナ人のくせに、恥ずかしゅうなかと!?あんたんロシア語だって自分じゃ完璧やて思うとるやろうけど、私のと同じくらい十分、なまっとる!!!」

 地下室はしんと、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。それは禁句だったのか、気づけば先ほど以上に恐ろしい表情をした警官が左右から睨んでいた。彼らは拳銃も警棒も持っていて、逆らえばいつだって命を簡単に奪い取ることができるのだ。彼女はそんな自分の置かれた立場を理解するとようやく冷静になって黙り込み、ゆっくりと目をそらして俯いた。

 「わ、悪かった…です、ほんなこつ…」

 権力に抗えない自分という存在はひどくちっぽけで惨めで、とても情けなかった。悔し涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえるように唇を噛んだ無抵抗の彼女は、先ほどよりも激しく背中を押され、その目の前の小部屋へと押し込まれる。

 独房には扉の方から見て左右の壁際に二つの硬いベッドが置かれていた。独房の先客は、そのうち右の方のベッドに腰掛けてこちらを不安げに見つめている。悔し涙を流したナタリアは袖口でその涙を拭うと、黙って左側のベッドに上がり、両膝を抱えて座って、落ち込んだように顔を俯かせた。

 しばらくして、ナタリアはゆっくりと顔をあげる。薄暗い部屋の中で目の前の少女がいつの間にか向かい合うように腰掛け、ナタリアのことを気遣っているのか黙り込んだままじっと見つめていた。

 彼女はどうしてこの場所にいるのだろうか。

 自分と同じように、あらぬ疑いをかけられてこの場所に拘留されているのか?

 彼女は、どこからどう見たって犯罪者には見えなかった。

 「どうして、あなた、こんなところにいるの…?」

 ナタリアの問いに、少女は最初しばらくの間黙り込んでいたが、ようやく、沈黙を破る。

 「私がナタリアという名前だから…。国家反逆罪。聞いているのはそれだけ。私の名前は、ナタリア・ニコラエヴナ・マリノフスカヤよ」

 彼女が口にした名前に、ナタリアはぎょっとした。まるでドッペルゲンガーにでも出くわしたような衝撃だ。

 「…わ、私だってナタリア…ニコラエヴナよ!ナタリア・ニコラエヴナ・リヴィウシカ!あなたと違うのは、最後の名字だけ…」

 目の前にいたのは、もう一人のナタリアだ。ロシア語圏において名前のバリエーションが少ない以上、同じ名前の人間なんて一つの街にいくらでもいるものだが、父称まで一緒となると、さすがに絞られてくる。その時ナタリアの頭には、出来ればあまり考えたくもないような想像が膨らんだ。もしかすると自分があらぬ疑いをかけられたせいで、本件とはそれこそ全く無関係の少女が、名前がそっくりだからという理由だけで囚われたのかもしれない。

 「もしかして、あなた、怪我してるの…?」

 薄暗い中で囚人用のジャージ姿の彼女を見つめると、頰に青いアザや赤い腫れがある。一体誰が彼女をこんな姿にしたのだろうか。先ほどの警官か?彼女の頭の中には怒りの感情ばかりが込み上げる。

 目から溢れる涙を止めることができなかった。華奢な少女は突如訳もわからぬまま真夜中に連行され、厳しく尋問され、拷問され…もう一人のナタリア、自分という存在が判明するまでに、このようにアザだらけになってしまったのだ。彼女自身、どんな悪いことをしたのかも全く分かっていないのに!

 「どうして、泣いているの?」

 もう一人のナタリアは困惑する様に首を傾げた。

 「だって、私は…あなたみたいに、ボロボロじゃないんだもの!」

 あなたは何も悪くないと言おうとしたのに、しかし、自分だって悪くないのに、という気持ちが渦巻くと口ごもってしまって、そんな自分が、彼女はますます嫌いになる。だから、全てはロシア人のせいなのだと思い込んでしまった。自分たちをこんな目に遭わせるロシア人が…許せない。

 ミハイルの言っていた言葉がまたもや明確に思い起こされる。

 ソビエトが抱える悪い腫瘍、きっとこれも、その一つなのかと考えた。



 ◇



 日もすっかりと暮れた外では小雨が降り始めて気温は瞬く間に下がり、吐く息も白くなる。着古した革コートを羽織った初老の男とその部下が、雨に濡れて黒い光沢を放つ公用車を降りた時、支部の建物の前では数人の警備兵が敬礼をもって彼を迎えた。

 やや遅れて、建物の中から様子を見計らって慌ただしく出てきた職員たちもそんな彼らを出迎えた。

 「まさかモスクワからはるばるいらっしゃるとは…、同志アレクサンドル・クルニコフ!」

 ガシチャフは彼の来訪をさぞ心待ちにしていたかの様に、彼を笑顔で出迎える。

 「突然押しかけてすまないな。リヴォフに来るのはいつぶりだろうな。ポーランドからソビエト領になった直後以来かもしれん。…今ではすっかりウクライナ的になったものだ」

 アレクサンドルという男は昔を懐かしむ様に目を細めた。リヴォフは歴史的にみればウクライナの領土だが、中世の時代には強大なポーランド王国に支配されてきた。第二次世界大戦後はポーランドからソビエト領へと移り変わり、そこに住んでいたポーランド人たちは退去を余儀無くされる。ウクライナ人によるポーランド人の大量殺戮といった事件も多発していたためだ。

 付き添いの部下は彼に雨傘を勧めるが、その中には入らずに足早に建物の内部へと向かう。

「私がここに来たのはモスクワから来た党員が、この地で厄介事を起こしかねないとう報告を耳にしたからだ。クレムリンでも懸念の声が上がっている」

 「その通りだとも」ガシチャフは胸を張って自信げに答える。「“党政治局の命令通り”、素早く実行したんだ。全く、改革派の連中はろくでなしばかりだ。あんたもそう思わんかね?」

 ガシチャフはクレムリンにおいて次期行われる政治局選挙を意識するように言った。現在政治局のトップ、最高書記の座に君臨するチェルネンコ書記長は就任してまだ間もないというのにも関わらず、既に病気の悪化が噂されていた。次の最高書記として有力な候補となっているのは保守強硬派のグリシンと、改革派のゴルバチョフである。アンドロポフ、チェルネンコと保守派が続き、次の選挙でもおそらくは保守派が勝利するだろうと予測するなら、今のうちに保守派の人間に対して何かしらの恩義を売っておくことは、彼にとって得策であるように思えたのだ。

 目の前のアレクサンドル・クルニコフという政治局員だって、表立って派閥を表明していないが、保守派の人間であることには違いないとガシチャフは踏んでいた。

 「とりあえず彼のもとに通してくれ。話はそれからだ」

 手柄を誇らしげに自慢するガシチャフに対してあまり興味を示さずにその真横を素通りし、どこか急ぎ足の政治局員であるアレクサンドルは職員たちも置き去りにするように、部下二名を伴って建物の中に入る。

 地下の狭くて息の詰まりそうな尋問室の閉塞された空間に足を踏み入れた彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、部屋の真ん中に置かれたパイプ椅子と、そこに両手を縛られた状態で座っているミハイルの姿であった。彼の頰や手首は青紫色に腫れていて、拷問の形跡は明らかである。

 「おや、こんなところで再会とは思わなかったな、ミハイル。君が常日頃から仕事熱心なことは重々承知しているが、しかし、厄介ごとは良くないな」

 彼が縛り付けられているパイプ椅子の前に腰をかがめると、男は穏やかな笑みを浮かべた。二人の間には以前から長い付き合いがあるかのように。

 「さて君は今の自身が置かれている立場を分かっているかね。KGBの職員一名をリヴォフの旧市街で銃撃戦の末に射殺、もう一名も負傷させた。あまり騒ぎを起こさないでほしいものだな。住民に対する情報統制も簡単じゃない。それに、君にはウクライナ西部で国家反逆罪を働こうとした嫌疑がある。KGB議長はお怒りだぞ?」

 「僕はこの国を良い方向に変えようと考えているだけさ。それを妨害したのは彼らの方だ。国家反逆罪の罪状は、僕では無く、むしろ良心的な行為を阻もうとした彼らにこそ掛けられるべきだ」

 自分よりも身分がずっと上であるアレクサンドルに対しても、彼は決して怖気付くこともなく、鋭い眼光を伴って言い返した。周囲の職員たちは、一切意志を曲げることのないミハイルに対して苛立ちを募らせている。

 アレクサンドルは黙って頷くと、今度はミハイルの身体中に刻み付けられた痣を指でなぞり、時々その指に力を込める。しかし彼は顔色一つ変えず、変わらない強気の眼差しを男に注ぎ続けた。

 「痛まないのか?君が命令書に記載された容疑を認めない限り、もっとひどい痛みが待っている。私は君の一人の知人として、忠告している。なるべく痛い目に遭って欲しくないんだ。大人しく認めるのなら、罪を軽くしてやることもできるぞ」

 「あの命令書かい?同志クルニコフ、あれは議長直々の命令によるものではないよ。KGB内部の・・・議長の名を借りた、何者かによる工作に違いない。僕のような改革派をよく思わない人間によるものだ。だから、僕は意地でも容疑を認めるわけにはいかないし、尋問にも応じられないね」

 「いい加減黙らないか!!」

 そんなミハイルの態度に憤ったガシチャフは彼に殴りかかろうとした。政治局員の来訪直前に少しでも自分たちの尋問の成果を見せつけておきたかっただけに、彼はまたもやプライドを傷つけられたのだから。しかし殴りかかろうとした彼は、アレクサンドルの部下によって制止される。

 そのような周囲の喧騒など御構い無しに、アレクサンドルは続けた。

 「そうか…。ところで、君が実行しようとしていた計画だが、これはまさしく荒唐無稽そのものといったところだな」 

 彼は一体どこでそれを入手したのか、書類カバンから一つの資料を取り出す。ミハイルが手にしていたものと同じアイドル計画を詳細に記述した文書であった。その文面を覗き込もうと、建物内の職員たちは興味深そうに各々首を伸ばしている。

 「読ませてもらったよミハイル、この計画は非常に興味深い。君がソビエトを憂いた結果がこれなのだろう。しかし、これでは反逆罪を疑われても仕方があるまい。この様に、あまりに資本主義的で退廃的な計画が…、この国で本気で実現できるとでも思っていたのかね?」

 アレクサンドルの言葉には周囲の人間たちも同調するように声をあげて笑う。

 「君たちは、ソビエトを再び偉大にしたいとは思わないのか?」ミハイルは迷いもなく言った。「僕ならそれができる。いや…彼女たちなら、それができるんだ!君たちだって世界に影響を与える偉大なソビエト連邦を目指したいと思う気持ちがあるだろう?僕は目指したい。ブレジネフの時代に経済は停滞し、今も長引くアフガン戦争でこの国はすっかり疲弊した。多くの若者が将来を悲観し始めている。アメリカが世界の覇権を握ってしまう前に我々が手を打たなければこの国は滅亡する。そしてバラバラになるだろう…僕は、そのような運命には絶対に負けたくない。そのためにはたとえ資本主義的だと罵られようとも、あらゆる芸術や文化を利用してでも…僕は、この国を再び偉大にする。それなのに君たちは、この計画を妨害する。一体、このことの何が間違いだと言うんだ!?愚かなのは君たちの方だ!」

 ミハイルの演説に、その場にいた皆は黙り込む。言い返そうにも、返す言葉が見つけられなかった。

 「…ふん、そのような戯言で我々を説き伏せられると思うのか、小僧め。その程度のことで国を変えられるわけがない!」ガシチャフだけは、ミハイルを嘲笑った。「同志クルニコフ、この男は末期だ。薬でもやっているのだろう。何を言ったって時間の無駄だ、会話も成り立たん。とっととルビャンカ(モスクワのKGB本部)へ送っていただきたい」

 しかしアレクサンドルはミハイルにまた一歩近づくと、その肩に優しく手のひらを乗せた。

 「…君の計画の中に、私の娘もいずれ加わるというわけか。実に面白い。さすがはゴルビーが見込んだだけのことはある、若き期待の党員だよ」アレクサンドルは周囲の予想に反して、大げさに拍手をしてみせる。「実はね、今からでも楽しみなんだ。私の娘がステージの上に立つなんて夢みたいな話じゃないか…。君の力で、彼女をぜひ西側も羨む様な歌手、女優にして欲しい。同じ改革派として、君の今後の活躍を応援すると誓おう」

 「今何とおっしゃって!?」

 その場にいた党の役人たちは驚きのあまり、悲鳴のような声をあげる。アレクサンドルはこれまでの態度を一変させると、今度はミハイルを庇うかのように、周囲に対して敵意に満ちた表情を向けた。

 「彼…ミハイル・トカレーヴィチ党中央委員は、ゴルバチョフ第二書記の信任を直に受け、このアイドル計画に従事していた。ところがKGBを含む、党内の改革を阻止しようとする保守派の連中が、改革派のミハイル・トカレーヴィチを密かに妨害するべく、諸君に偽りの命令書を送付したのだ!」

 その言葉を合図に、軍服を着た彼の部下二人は素早くマカロフ拳銃を腰のホルスターから引き抜いて天井に向けて発砲し、近くで気の抜けたように立っていたガシチャフは地下室の硬い床に押さえつけられる。

 周囲の職員たちも一瞬の出来事を前にただ呆然としていたが、ようやく状況を呑み込むと、慌ただしく銃を引き抜いてアレクサンドルたち四人に対してその銃口を向けた。

 「諸君、銃を捨てろ。さもなくは君たちに逮捕状が出るだろう。罪状は、国家反逆罪だ。反逆者にでもなりたいのかね?」

 数の上ではガシチャフたちの方が上だった。向こうには警備兵だって控えている。しかしアレクサンドルは怖気付く様子も見せない。彼らよりも権力では遥か上の立場なのだ。反抗して損をするのは、ガシチャフたち地方の党員に過ぎない。銃をアレクサンドルたちに向ける職員たちは誰の命令に従うべきなのか分からずに視線を部屋の中でしきりに泳がせていた。

 「規則に従順な彼らに武装解除を命令してやってくれないか。君同様に頭の固い連中だが、上司である君の言うことなら何だって聞くだろう」

 アレクサンドルはしゃがみこんで、ガシチャフの耳元に囁く。

 「わ、私が何をしたと言うのだ!?党の命令に忠実に従ったまでだ!罰せられるのは私じゃない!虚偽の命令書を送付した連中にこそ非がある!そうだ、バリシニコフ少佐だ!あの男が、私に例の命令書を手渡した…!」

 彼の口からバリシニコフ少佐という名前が出ると、アレクサンドルと、椅子に縛り付けられたままのミハイルは顔を見合わせる。ミハイルは以前にもその人物の名前を耳にしたことがあった。謎多き人物だがKGB内部でスパイ摘発の専門部署に属しており、これまでにも何人かのCIA協力者をあぶり出しているという噂がある。おそらく彼は、ミハイルの動きを警戒して今回もこの様な行為に及んだに違いない。そしてこのガシチャフという目の前の哀れな男は、姿を見せない彼の、いわば捨て駒のような存在だった。ガシチャフを尋問したところで、これ以上有益な情報が得られることもないだろう。

 「そっちはおまけに過ぎん。君の罪状は他にもある」アレクサンドルは脅すように言った。「ナタリア・マリノフスカヤという無関係な少女の逮捕・拷問。ウクライナ人とロシア人の関係悪化の懸念材料だ。まさかこのことを、民族紛争の火消しに常に神経質なクレムリンが黙っているとでも?我々は人種が違えども兄弟だ。その関係を崩しかけた君にこそ、国家反逆罪が適用されるだろう」

 ガシチャフの顔色は血の気を失い見るからに青ざめていく。今頃になって、無関係の少女に暴行を加えたことの重大さを理解し始めていた。

 「君のキエフ行きは残念ながら見送られる。残念だが、今後数年間は労働キャンプで働いてもらうことになる」

 「まっ…待ってくれ!」

 「裁くのは私じゃない。だが今我々に銃を向けている彼らを説得すれば、君の弁護を上に依頼してやってもいい」

 「わ、分かった!おい、聞こえたか!?皆、銃を降ろせ!」

 「拘留されている彼と、二人のナタリアの身柄は我々が預かる。全員両手を頭の後ろに回し、壁に向かって跪くんだ!」

 アレクサンドルの目論見通り、部屋にいた党員やKGBの職員たちはガシチャフの命令通り渋々と銃を下ろし、それを部屋の隅に置かれたテーブルの上に並べ、壁に向かって跪いた。

 「助かったサーシャ。まさか君が助けに来るとはね、思いもしなかった」

 「気にするな、君とは長い付き合いだろう。私の娘も君に会いたがっている。こんなところでつまらん連中に捕まるのは勿体ない。君の邪魔をする連中は、私の敵でもある。親友のよしみだ」

 アレクサンドルはミハイルの手首をきつく縛っていたロープを手際よくナイフで切る。

 「事後処理のことは我々に任せて、君は、あのお嬢さんたちを早く迎えに行け。ひどく怯えていることだろう」

 自由の身となった彼は親友であるアレクサンドルに改めて感謝したのち、痛みに耐えて身体をよろめかせながらも椅子から立ち上がって、その足で地下牢へと続く階段に向かう。

 彼が部屋を出た直後、その後ろで銃声が響いた。ミハイルが振り返ると、アレクサンドルを背後から襲うべく、くるぶしに隠していた小型銃で攻撃しようとしたKGB職員の男が、動きを察知したアレクサンドルの部下に脚を撃ち抜かれて床を這いずり、うめき声をあげていた。リヴォフ市内で自分を追い回していた男だ。ミハイルは再び視線を薄暗い階段に向けると、一段ずつ、踏み外さないよう慎重に歩く。


 二人のナタリアのやつれた顔を小さなのぞき窓越しに見た時、ミハイルは独房の鍵を開けようとするその手を一瞬だけ止めたまま見入っていた。少女たちをこのような目に遭わせたという罪悪感に、今頃になって胸を痛めた。

 軋む音を立ててようやく独房の扉を開くと、二人は力なく顔を上げる。

 「ミハイルさん…どうして、そんなにボロボロの身体になっているの?」

 独房に閉じ込められていたナタリアは、彼の痣だらけの風貌にひどく驚いて、反射的に立ち上がった。

 「すまない、また遅くなってしまったよ。怪我はないかい?」

 彼女の弱々しい姿を見て、申し訳なさそうに言った。

 「どうして謝るんです?ごめんなさい、私だって…ミハイルさんが話してくれたこと、本気で信じることができなかった」 

 我慢していたのに、泣き虫の彼女は涙を流さずにはいられなかった。素早く彼の元に駆け寄ると、彼の胸の中で喚き声をあげて泣きじゃくる。彼はただ黙って彼女の涙を自分のシャツに染み込ませ、震えるその背中を優しく撫でた。

 「そこにいる、ナタリア・ニコラエヴナ…マリノフスカヤ。君もそんな暗いところにいつまでも居ないで、早くここを出るんだ」

 ミハイルが言うと、もう一人のナタリアは軽く頷いて、硬いベッドから立ち上がった。

 「家に帰ることが、できますか?」

 解放されたことによる安堵感は依然として感じられない、どこまでも不安げな表情を滲ませていた。

 「できるよ。僕が責任を持って必ず君を、お母さんが待つ家に送り届けると約束する」

 ミハイルは、その言葉にようやく安堵したのか笑みを浮かべた彼女の柔らかい表情に心底ほっとする一方で、無実の少女を拉致した上に自白を強要した、出世のためなら手段を選ばないセルゲイ・ガシチャフのような卑劣な党員に対して大きな怒りを覚え、益々、この国を根底から変えねばならないという決意を心のうちに抱くのだった。

 

 ナタリアを後部座席に座らせたミハイルの公用車はリヴォフを離れて南に下り、夜十時頃にはムィコラーイウに到着する。全身傷だらけだったナタリア・マリノフスカヤはひとまずリヴォフ市内の病院に預けられ、一週間ほど検査入院することになり、帰りは一緒ではなかった。

 アレクサンドルによると今回の一件でセルゲイ・ガシチャフのウラル工業地帯への更迭、および党員資格の剥奪は免れないという。政府当局は、地域住民の間に共産党への怒りや悪い噂が蔓延ることを恐れていたのだ。

 しかし結局、ガシチャフに偽りの命令書を送付したとされるバリシニコフ少佐という人物が何者なのかは、ほとんど明かされることがなかった。

 

 車は町の暗い道路を進み、ようやく見慣れた家が点在する田舎道の途中に停車するが、バックミラーに映り込むナタリアは硬い表情のままでシートに身体を深々と埋め、まるで動き出す気配がない。

 「降りないのかい?」

 ミハイルが問いかけると、彼女は窓の外に一度視線を投げたあと、意を決したように今度は力のこもった真剣な目を、運転席の彼に向けた。彼女のそんな決意の眼差しに応えるように、彼は黙ったまま彼女の言葉を待つ。

「今日の出来事で決心がついたんです。確かにソビエト連邦には…いくら隠そうにも決して隠し通すことのできない闇があるんだってことを、ようやく身を以て知ることができました」

 知ることができたのはそればかりではない。独房に放り込まれたおかげで自分という人間をもう一度見つめ直すことができたのだ。

 「私、なんて無力なんだろうって思ったんです。ミハイルさんに守られた時も、独房で私と同じ名前の女の子が傷ついているのに何ひとつ励ましてあげられなかった時も…いつだってこんな感じです。私は自分で何かを決める意思が弱いし、行動することだってできない。でも、だからこそ私はそんな弱い自分ば変えたかとです!私は絶対、絶対に…自分自身には負けよごたなか!そして、私たちんこと田舎者呼ばわりするようなロシア人には、絶対に負けよごたなかんばい!!」

 ナタリアは、車外にも聞こえそうな声で叫んだ。本来恥ずかしがり屋の彼女だが、今はそんなことどうでもいいと思えるくらいに、吹っ切れている。

 「どうかお願いします。こんな私を世界中の人たちが羨む、強くて格好良くて可愛い…最高のアイドルにしてください!」

 ミハイルは黙ったまま、数秒間ほど彼女の澄んだ青い目を見つめる。彼女にとってもそれは非常に長い沈黙のように感じられたが、ようやく、ミハイルがゆっくりと彼女に手を差し伸べた。

 「おめでとう。ナタリアという名前には元来、“誕生”という意味が込められているが…まさに今日からの君には新しい人生が待っている。ソビエトが誇る一つの花、アイドルとしての人生だ」

 ナタリアは満面の笑みを浮かべて、ミハイルの傷だらけの手を両手で包み込むようにして握りしめる。

 …それは、どこか懐かしい手のように感じられた。自分には物心ついた頃から父親という誰にでも本来当たり前にいるはずの存在はそばに無かったから、優しい彼の手をこんな風に握りしめていると、もし目の前にいる彼が自分の父親だったらどんなによかっただろうか、と思ってしまうのだった。

 新しい女を作り、母の目前で口づけまで交わした挙句モスクワに逃げた父親のことをナタリアは心底嫌っていた。それを直接見たわけではなく、あとで兄から聞かされただけなのに、こうも嫌うことができるものなのかと感心していた。それでもやっぱり父親に対する憧れだけは決して消えることはなかった。どう取り繕ったって、寂しいものは寂しいのだ。

 二人は車を降り、枯れ草が茂る狭い小道を肩を寄せながら並んで歩く。まだまだ小雨が降り続いていて、二人が吐き出す息は白かった。

 「ねぇ…ミハイルさんのトカレーヴィチって名字は、父称なんかじゃないんでしょう?それが、ミハイルさんの本当の名字?」

 彼女は思わず、気になって仕方のなかった疑問を口にしていた。

 「…まさか。ペンネームだよ」

 彼は妖しげに微笑む。どういう経緯で彼がペンネームなど名乗っているのか気になってしまうが、そもそもスターリン(本名・ジュガシヴィリ)やレーニン(本名・ウリヤノフ)だって、ペンネームなのだ。ひょっとするとソビエト共産党にはそう名乗る習慣があるのかもしれない、と勝手に思い込む。

 「そっか。…どうせなら私と同じように、ミハイルさんの本当の名字がリヴォフスカヤ…リヴォフスキーって名字だったらよかったのにな、と思っただけ。ミハイル・リヴォフスキー。響き自体はそこまで悪くない、って思うんだけど…」

 しかし彼女に与えられた父称はニコラエヴナ(ニコライの娘)で、これが消えることはない。ナタリアが少しだけ照れ臭そうに、そして、うっすらと寂しそうに吐き出した言葉に彼は、今度は愛おしそうに微笑んだ。

 「君の父親を演じるくらい容易いさ。ナタリア・“ミハイロヴナ”」

 そう言ってミハイルは彼女の亜麻色の髪の毛をそっと撫でる。父親が恋しくてたまらなかった彼女はそんな風に呼ばれるだけでも舞い上がってしまうくらい、嬉しかった。しかし彼女は突然はっとするように冷静になると、彼の目を真っ直ぐに見つめる。

「ミハイルさんは私のこと、裏切ったりしない?」 慎重な彼女は、その質問が無意味であることくらい分かっていたのに、尋ねないわけにはいかなかった。「本当に…スパイじゃない?」

 ミハイルは彼女の質問にはすぐには答えず、宙を見上げる。そしてほっと一息ついたあと彼は不思議な表情を作って、隣を歩く彼女を見つめる。

「スパイかどうかを決めるのは君次第だ。君の目に、僕はどう映る?」

 ナタリアは少し考えた後、黙って首を横に振る。

「変なこと聞いてごめんなさい…私の目には、スパイになんてとても見えなくて」

「じゃあ、それが答えだ」

 相変わらず、彼は人を心から安心させる微笑を浮かべるのだった。

 いつの間にか二人は家の前の広い庭の中にいた。ナタリアはお茶の一杯でもと彼を自宅に誘うが、明日の朝早くにモスクワに戻らなきゃいけないということで彼女の提案を断る。そして彼はその場で簡潔に今後のことを説明し、家族の了承が得られるのなら一週間後、モスクワに向かう列車に乗るように言った。その列車に乗り込むということは、彼女が当分故郷ムィコラーイウに戻ってくることはできないことを意味していて…だから今更なのに、そのことに対する不安は大きい。しかし、それでも今の彼女にはどのような不安だって跳ね返せる勇気が芽生えていた。

 「どんなに過酷な運命が待ち受けていても耐えてみせる。しばらくこの街に戻ってこれなくたって構わない。私はずっと憧れていた世界を、この目で見たいんですから…。その夢が叶うのなら、どんな場所だって飛び出していけます!」

 頼もしい彼女の姿にすっかり安心したのか、ミハイルはそれ以上何も言わず彼女に背中を向け、今来た道を戻るように闇の中に消えていく。彼の姿が見えなっても、彼女は手を振り続けた。次に彼と再会できるのは自分がモスクワに到着した時なのだろう。たった今別れたばかりなのに、そのことが今からすでに待ち遠しくて仕方なかった。


 広い庭の中を歩いていくと、家の玄関の灯りがぱっと付き、扉が開いた。家の中から一体誰が出てくるのだろうか。ナタリアは身構えるように道の途中で足を止める。

 「ナターシャか?帰ってきたんだな…今まで、一体どこをほっつき歩いていた?」

 玄関から不機嫌そうな顔を覗かせたのは兄のアレクセイだった。昨日の彼との出来事もあってか、彼と言葉を交わすのは、どこか少し気まずい。

 だから、そんな二人の間には自然と沈黙が生じる。そうしている間にも彼は玄関を出て庭に飛び出し、彼女のもとに駆け寄ったかと思うと、肌寒そうにしている彼女の背中に薄手の毛布をかけた。自分でも寒いということを忘れていたのか、彼女はそんな彼の優しさに、きょとんとした表情を浮かべる。

 ずっと、自分の帰りを待っていてくれたのだ。

 「結局、お前はモスクワに行くのか?」

 彼女の肩に両手を添えて、アレクセイは問いただす。

 「…止めたって無駄だよ、私、絶対にモスクワに行くもん。絶対に、…ソビエトのアイドルになってみせるんだから!」

 反対されるに違いないと思ったのか、彼女はアレクセイが何かを言おうとする前に、早口で決意の言葉を発する。アレクセイはそんな必死な彼女の様子に、もはや呆れた表情を隠さない。

 「…ああ、そうか。お前のせいで、今日はKGBを名乗る連中に散々な目に遭わされたんだぞ。まずは母さんに顔を見せて、そして、お前の口から直接話すんだ。みんな、お前のことを心配してたんだから」

 ナタリアの腕を強引に引っ張ると、彼は玄関へ向かって歩き始める。

 自分の家族が彼らの捜査の対象になっていたことを、彼女は今更思い知った。

 それと同時に、家族にさぞ不安な思いをさせたという罪悪感までもが、波のように押し寄せてくる。自分のせいで一体何人の人間を巻き込んでしまったのか…そのことを無駄にしないためにも、彼女のモスクワへ行かねばならないという決心はより強固なものとなった。

 「ちなみに母さんは、別に反対してなかった」

 「えっ…」彼女は家の中に入ろうとする直前になって、兄のそんな言葉に足を止める。「兄貴は、私がモスクワに行くのは反対、なんじゃ?」

 だからこそ兄が自分がいないところで話をつけてくれたという事実がどうしても呑み込めず、頭の中はパニック状態だ。

 「中途半端な覚悟で行くことを反対したんだよ。でも、昨日よりますます真剣な目を見れば反対なんてできそうにもない。…どうせ頑固なお前の意思を曲げるのも難しい」

 彼はナタリアの方に振り返ることもなく家の中に入っていく。きっと今、彼は優しい表情を湛えているに違いないと、彼女は見えない表情を勝手に想像した。いつもは素直になれないのに今だけは…どういうわけか彼に甘えたくなっている。

 「アリョーシャ…ありがとう。私、兄貴が大好きだよ」

 ナタリアは彼の背後にそっと近づくと彼を背中から抱きしめる。近頃は昔のように甘えることも少なくなった妹がこんな風に慕ってくるのはどこか非常に照れ臭く思えたが、しかし無下に彼女を振り払うこともできずに、彼は頰を赤くするのだった。



 ◇

 

 

 二日後の夕方、町を出てバスでリヴォフ駅に到着したナタリアは駅のホームの真ん中に立っていた。

 あらゆる荷物を詰め込んで大きく膨らんだトランクには夏用の服ばかりでなく、冬用の、厚手のコートだって詰め込まれている。この場所にはしばらく戻ってこられないということを、手元のトランクの重みを感じるたびに改めて噛みしめてしまう。

 「お見送りありがとう。この辺で大丈夫!」

 一緒に来ていたアレクセイはカーキ色の軍の制服に身を包んでいた。今日で休暇も終わり、アフガニスタンへと出発すべく一度軍の駐屯地に向かうため、同じようにリヴォフまで来ていたのだ。そんな彼自身も重たい荷物を抱えているのに、ほとんど最後までナタリアのトランクを手放そうとはしなかった。

 ホームへ降りる階段の手前でようやく彼女が自分で持つと言い切り、お節介な兄からトランクを奪い返す。紳士的な部分は誇らしい兄だが、彼女にしてみれば、もっと自分の身体をいたわって欲しかった。

 「身体にはくれぐれも気をつけるんだぞ」

 「分かってるよ、でもそれはアリョーシャこそ…」ナタリアの方こそ、兄の身体が心配でたまらない。「…その、ちゃんと、生きて帰って来てね?」

 「何だ、まだ心配してくれていたのか」

 彼女をからかうように笑った。

 「だって!兄貴が生きて帰って来られなかったら、お母さん悲しむんだよ!?おじいちゃんも、おばあちゃんだって…!」

 一番悲しむのは自分だ、なんてこんな大事な時なのに…その言葉だけは口が裂けても言えなくて。

 「そうだ。必ず再会できるために、お前にこれを貸してやる」

 アレクセイはカバンの中から、何やら謎めいた機械を取り出す。手のひらにギリギリ収まるくらいの少し大きめの四角形の金属の箱にはヘッドフォンが繋がれていた。彼女は兄が握りしめるそれを物珍しそうに眺める。

 「手に入れるのに苦労したんだぞ。絶対に失くすなよ」

 手渡されたヘッドフォンを両耳に装着すると、彼は繋がれた箱のスイッチを押す。ザー、という何かが巻かれる音がしたかと思ったら今度は軽快な音楽が流れてきて彼女の耳を包み込み、思わずヘッドホンを両手で抑えつけた。それからゆっくりと両手を離して音楽に耳を傾ける。夢か現実かを確かめるように、彼女は兄をまじまじと見つめた。目の前にいるアレクセイは、いたずらっ子のような笑みを浮かべて自分の隣に立っている。

 それは決して夢じゃないのに、まるで夢みたいだ。

 「ウォークマンさ。この機械は西側で流行ってる。東ドイツに行っていた友人が持っていたもんで、それを無理を言って買い取った。このカセットテープ一つで両面一曲ずつしか聴けないんだが」

 そんな兄の説明も、今はまるで耳に入らない。いつか兄と一緒にラジオの前で聴いたビートルズの、格好いいエレキギターの軽やかなメロディに心奪われそうになっていて…このウォークマンを大事に握りしめていれば、これから自分がどんな場所に行くことになっても、孤独に打ちのめされて寂しい思いをしても、ずっと兄と一緒にいることができるのだ。

 そう思うと、彼女の頭はすでに幸せでいっぱいになっている。

 「…これ、本当に貸してくれると!?」

 「ああ、貸すとも。次会う時には返してくれよ」

 ナタリアはその言葉が、必ずアフガンからこの国へ無事に帰って来るという約束と同じ意味を持つことに気づき、嬉しそうに頷く。

 そんな二人の会話を打ち消すように汽笛を鳴らした列車がゆっくりとホームの中に入ってくる。ナタリアはアレクセイと最後のハグを交わすと、重たいトランクを両手でゆっくり持ち上げた。

 「必ず、また会えますように!」

 「ああ、行って来い」

 彼に背中を押されながら、勢い良く列車に飛び乗った。座席の間の通路を進み、あらかじめ乗車券に打刻されていた番号の座席に座ると、彼女は早速それまで首に掛けていたヘッドフォンを耳に当てる。ウクライナ共和国の首都キエフまでは、ここから10時間以上もある。2曲しか聴けなくとも、退屈しのぎにウォークマンはまさしく最適だった。

 先ほどの兄の説明をぼんやり思い出し両面一曲ずつだったことを思い出すと、彼女は慣れない手つきで箱をいじってみる。あれこれボタンを触ると壊してしまいそうだから慎重にならざるを得なかったが、やっとのことでカセットテープが収められた蓋を開き、中身を取り出すことに成功する。取り出したテープの表面に貼られたラベルにはマジックで『I want hold your hand』と書かれている。聴いたことはあっても知らなかった曲名をしっかり頭に刻み込むと、今度はそれを裏返して蓋を閉め、側面に取り付けられた再生ボタンを押す。テープが巻かれて、ヘッドホンからは先ほどとは違う曲が再生され始めた。

 ビートルズの『Ticket to Ride』が、彼女の耳に心地よく流れてくる。車窓から先ほどのプラットホームを覗くと、アレクセイがこちらに向かって盛んに手を振っていることに気づいた。彼女は満面の笑みを浮かべて手を振り返し、彼の無事を祈るとともに…次はいつ帰ってこれるか分からない故郷にも、そっとお別れを告げる。

 手を振りながら、次にこの場所へ戻ってくる時までにはもっと想像できないくらい強くて可愛い自分になってやると…彼女は心の中で、強く誓うのだった。


 ◇


         Ticket to Ride (涙の乗車券)


 I think I'm gonna be sad とても寂しい気持ちになるよ

 I think it's today, yeah 記憶が正しければ今日だった筈さ

 The girl that's driving me mad 僕を夢中にさせたあの娘が

 Is going away 遠くに行ってしまう

 She's got a ticket to ride 彼女はこの街を離れる乗車券を手に入れた

 She's got a ticket to ride 僕から離れる為の乗車券を手に入れた

 She's got a ticket to ride 彼女は乗車券を手に入れた

 But she don't care... それなのに彼女は寂しいなんて思っちゃいない 


                              第一章・完

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