第1話 『守護天使』(前編)
1984年4月。
それはいつもと何一つ変わらない冬の寒さがわずかに残る静かな夜だった。夕食を終えて部屋に戻ってくるなり、彼女は真っ先にベッドのそばに駆け寄る。閉め忘れたカーテンを、外の様子を何気なく確かめながらゆっくり閉じるとベッドに寝転り、枕元の小さな戸棚に置かれたラジオのスイッチを入れる。一つ一つの動作に慎重になるのには理由があった。彼女はラジオのダイヤルに手を伸ばし、昼間に聞いていた国内向けの退屈なラジオ番組の周波数をいじると、最近知ったお気に入りの周波数に切り替える。一年前に闇市で見かけて苦労して手に入れた性能の良い西側製のラジオだから、海外からの電波を捉えることは容易かった。
ラジオは甲高いノイズを発しながら、ようやくどこかの放送を受信する。ワクワクしながら音に耳を澄ませる。聞こえてくる音声は全て生の英語だ。名前も知らない司会者二人の対談が賑やかに聞こえてくる。
学校でも一応習うことになっている英語の授業で覚えた微かな英語力を駆使しても、彼女がその放送内容全てを聞き取るのは難しい。ただし毎晩聞いているこの放送はどうやらイギリスにあるBBCという放送局のもの、ということだけはおぼろげに理解できていた。
そんなイギリスという国と彼女の住むソビエト連邦との間には見えない巨大な壁がそびえ立っている。東西ドイツを境にヨーロッパを真二つに分断する見えない壁だ。かつてイギリスの首相チャーチルはその巨大な壁を“鉄のカーテン”と表現し、その壁によって、イギリスを含め西側の文化は決して東側には流入してこないはずだった。
ところがラジオというものは偉大だ。人類が勝手に引いたそんな国境線を放送局が流す電波は易々と超え、彼らの文化は今やこの国に流入しつつある。
彼女が耳を傾けていたBBC放送が、ようやく音楽を流し始める。ドラムロールの音が鳴り響き、エレキギターの音やピアノの音が美しく重なる。ベースの重低音が心臓を激しくノックする。そして何と言っても、ボーカルの歌声が堪らない。どうやらこのバンドは西側でも絶大な人気を誇っているらしかった。その後も彼女を興奮させる音楽がいくつも続く。…しかし、これらの音楽を聴くことは、この国じゃ違法なのだ。もし誰かに密告でもされたらラジオはすぐにでも没収されるだろう。頭ではそれくらい分かっているはずなのに、どうしても時々うっかりしていて忘れそうになる。臆病なはずの彼女が抱いていた強い警戒心も、聴き始めた当初に比べれば、ずっと薄れていた。
そんな音楽が大好きな少女であるナタリア・リヴォフスカヤは、素晴らしい音楽との出会いによって、ますます自分にとって未知の世界である西側に対して強い憧れと興味を抱いていた。
自分の背中に白く輝く大きな羽根が生え、いつか見た教会の壁一面に描かれていた大天使ミカエルのように紺碧の空を自由に舞い、人間が好き勝手定めた国境線などない陸続きの大陸をこの目で確かめたいと夢の中で願っていた。
ところが何故か、この途方もなく大きな国には移動の自由というものがない。
ソビエト連邦を構成する一つの共和国であるウクライナ共和国西部にあるリヴォフ州の小さな町ムィコラーイウ(ニコラエフ)に生まれ、そこに育った彼女には将来も集団農場で芋掘りをする毎日が待っているだろうし、二十歳そこらで結婚して子供を作り、その子供を人民の理想的な英雄に育て上げることがきっとソビエト女性の、宿命づけられた本来あるべき姿に違いないのだから。
そんな毎日は平凡であるものの幸せであることは理解していた。西側の世界には貧富の格差が存在していて、食べるものにも困る人々が大勢いる。その現実に比べれば、全員平等を謳う共産主義を軸にするソビエト連邦はなんと偉大で、自分たちは恵まれているか。そのことに疑いを抱いたことは一度もなかった。
だが仮にそうだとしても、好奇心いっぱいのナタリアを満足させるにはソビエトという国家の、田舎の日常というのはあまりに平凡すぎる。だから音楽というのは歌詞の意味まで分からなくとも世界共通の言語のように、たとえ自分がどんな場所に住んでいようとも心の内側にすっと潜り込んできて感情を激しく揺さぶる。平凡な日常がもたらす退屈さを和らげてくれるような、気軽に世界を旅できるツールに違いなかったのだ。
しかし何故このように素晴らしい音楽が、この国ではいつまで経っても広まらないのか。彼女はそんな常に疑問に思っていることを改めて頭の片隅に思い浮かべてみた。けれども、それらしい答えは出ない。考え事をしているとまた新たな別の曲が、いつの間にか心地よく彼女の耳に注ぎ込まれていく。
「またそんなものを聴いてんのか」
そんな時突然耳に飛び込んできた聞き覚えのある声は、ナタリアを魔法の旅から無理やり科学と労働者に彩られたソビエト連邦という現実へと引き戻す。
「アリョーシャ…!?」
慌ててベッドから起き上がってラジオの音量調整のつまみを聞こえなくなるくらい反時計回りに回して振り返ると、彼女のいるランプの明かりだけの薄暗い部屋の戸口に、廊下の明かりをバックに逆光で表情がよく見えない兄、アレクセイの姿があった。
「…もう帰ってきたと?」
ノックくらいして欲しいという抗議の気持ちを押し殺しながら、聞いた。
「長期休暇さ。アフガニスタンへ行くことになった。帰ってこれるのはこれ以降、しばらくないんだ」
襟元に曹長の階級章を付けたソ連軍の制服を身に纏うアレクセイは、部屋の中へ無神経にもズカズカと入って来る。膝近くまである長いロングブーツが一歩一歩、歩むたびに彼女の狭い部屋の床板を軋ませる。
ウクライナ語訛りの強いロシア語しか話せない彼女とは違い、軍隊生活が二年を迎えロシア語も堪能で何よりも熱心なソ連の信奉者である兄は、きっと自分が西側の音楽を聴いていることも快く思っていないはずだと心のどこかで分かっていたつもりでいたから、彼女は固唾を呑むようにアレクセイの一挙手一投足を不安げな目で追う。
ベッドの脇までやって来ると、彼は先ほどナタリアが下げた音量調節のつまみを元どおり時計回りに回し上げる。そして今度は周波数を別の放送局に切り替えた。すると再び部屋の中には洋楽が流れ始める。先ほどの格好いいロック音楽とは打って変わって、明るくて賑やかなダンスミュージックになった。歌っているのも、二人組の女性ボーカルだ。
ナタリアは薄暗い部屋の中で目を丸くする。目をこらすが、兄の表情はランプの明かりでうっすらとは見えても、はっきりとは分からなかった。
「僕はこっちの方が好きだ」
その言葉で、彼の口元は笑っているのだと確信する。
先ほどまで洋楽を楽しんでいた自分のように。
「これって、なんていう人たちの曲…?」
「ABBA(アバ)っていうスウェーデンのグループの『Dancing Queen』って曲さ。世界でも有名な音楽グループなのに、まだ知らないなんて遅れているな」
その曲はすでに10年以上も前の曲だ。しかも歌っているグループ自体、もう4年ほど前にはとっくに解散していると言って、兄は何も知らない彼女をからかう。
「前から知ってると言うんなら、どうしてもっと早く教えてくれなかったと!?意地悪な兄貴!」
思わず手元にあったクッションをアレクセイ目掛けて投げつける。そこには自分を、これまで散々不安に陥れてきた恨みだって、確かに込められている。
彼女の複雑な想いの込もったクッションを受け止めると、彼は優しくそれを投げ返した。
「お前を叱ったり、それを誰かに密告したりするとでも思ったのか」
「ソ連では、親や兄弟は所詮生物学上のつながりでしかない、同志こそが兄弟であり祖国こそが親なのだから、血の繋がった家族がファシスト、資本主義者ならば容赦無く密告、糾弾すべきだって…学校で、先生も言いよったばい」
「ふん、学校もまだまだ変な言葉を吹き込むもんだな。俺はナターシャを裏切るような真似だけは絶対にやらない。それどころか自分自身、すっかり西側音楽の虜になっているよ」
初めて聞く兄の嘘偽りない正直な言葉に、彼女はしばらくの間きょとんとして黙り込んだ。相手がどのような考えを抱いているのかも分からない以上、この国で本音を打ち明けるのは勇気がいることだし、そのことによって生じるリスクを考えると、どうしても一歩踏み出すことができない。だからこんな形で兄の考えを知ることができたのはとても幸運だった。それと同時に、やはり自分たちは血の繋がった兄弟だ、という何にも代えがたい喜びが警戒心を取り除き、彼女の頰はようやく緩む。
彼はベッドに腰掛ける彼女と向かい合うように一人用のソファに腰掛けると相変わらず流れるABBAの曲に耳を傾け、時折リズムを刻むように首を振っていた。音楽を聴く時のその仕草はナタリアだって変わらない。彼と同じような仕草をしている自分が可笑しかったし、この時間がどこまでも幸せだった。何故もっと早く兄と秘密を共有することができなかったのか。兄はもうすぐアフガニスタンという遠い異国へ旅立ってしまうのに…。
そこで彼女はふと思うことがあったのか我に返り、いつの間にか音楽に没頭して瞳を閉じている兄の顔を凝視していた。
せっかくの名曲も、こんな兄のせいで…今は耳に入ってこなかった。
「…アリョーシャ、兄貴は、アフガンで人を殺すの?」
彼女は思わず突拍子も無い疑問を口にした。そんなこと、ストレートに聞くつもりもなかったのに。それまで音楽に夢中になっていた彼の視線はようやくナタリアに向けられる。
「ううん、…アフガンに行っても兄貴はちゃんと、ここに帰ってこれると?」
言葉のニュアンスを変えて言い直した。
だが、アレクセイは彼女の瞳をまっすぐに見つめると微笑むだけで、何も言ってはくれない。
Dancing Queenが流れ終わる頃にはソファを立ち上がり、彼はナタリアの肩にそっと手を置くなり、真っ直ぐに部屋を出て行く。彼女は呼び止める事もなく、彼の背中を黙って見送る。
彼の背中は彼女が思っていたよりずっと大きく見えた。いつだって自分のそばに寄り添ってくれた頼り甲斐のあるたくましい背中だ。面と向かってありがとうと言うのは気恥ずかしいから、彼女はそんな最近はまじまじと見ることも少なくなった大きな背中に、こっそり囁くような声で感謝の言葉を呟いてみる。…彼のおかげで、また一つ洋楽を聴く楽しみを得ることができたのだから。
アフガニスタンで敵を多く殺すか。もしくは戦死すれば、彼は祖国に凱旋して英雄として祭り上げられるのだろうが、ナタリアはどちらをとっても嫌だった。
死ぬよりは生きて帰ってきてほしいと願うのは当然である。しかし彼が万人の英雄になるのではなく、我儘なことを言っているのは百も承知だが…幼い頃に溺れかけた自分を懸命に救い出してくれたあの時のように、いつまでも自分を助けてくれる心優しい英雄のままでいて欲しかったのだ。
◇
翌朝、暖かな日差しが窓から差し込む部屋の中でナタリアは眠たい目をこすりながら学校に行く支度を整えるため姿鏡の前に立っていた。丁寧に結んで前に垂らした二つの三つ編みの根元にはそれぞれ白いレースの蝶々型の髪飾りが白く輝く。
そんな彼女の着る制服は、白い袖口や襟元に細やかな刺繍の施された紺色のドレスに白い前掛けのエプロン、そして白のハイソックスという、まさに絵に描いたメイド服のようなデザインだが、このような制服はソビエトでは帝政ロシアの昔からとても一般的なものだった。それでも近年デザインの刷新は著しく、より近代的な紺色のブレザーという学校も増えてきているが、ナタリアの通う学校では今も昔と変わらない制服を維持していた。彼女も、今自分が着ている制服の方が気に入っている。
そして女子たちは、もともとが長めの制服のスカートをミニに改造しては可愛く着飾ろうとする。
ナタリアは世界のことをあまり知らないが、これは万国共通の女の子の行動だと心のうちに確信していた。だから彼女もその例に漏れない。ソ連の大人たちはミニスカートを資本主義的だ、退廃的だと罵るが、そんな言葉は今の時代の若い女性たちが抱く反骨精神には通用しなかった。
姿鏡の前で彼女は後ろ向きになってみたり、ポーズを決めてみたり、下手な笑顔を作ってみたりを繰り返す。そんな風に、自分の制服や髪型は可愛いのだと確信できるまでに時計の針は大きく三十分も進み、何故毎日余裕を持って朝早く起きているのに、こんな風に結局は時間ギリギリになってしまうのだろうかと自分の無計画ぶりに呆れながら、彼女は慌ただしく家を飛び出していく。
ウクライナの伝統的な茅葺き屋根の家の前に広がる広い庭には、初夏になるとたくさんの植物や花が咲き誇る。まだまだ春は近づいてきたばかりで、どれもようやく芽を出し始めたばかりだが、これからの季節が楽しみで仕方がなかった。
雪解けですっかりぬかるんだ枯れ草が生い茂る狭い田舎道を、小川に沿ってタイヤを時折食い込ませながら自転車で駆け抜ける。
スカートの裾に泥が跳ねないかと気掛かりになりながらも急ぎ足で漕いで、彼女はいつものように学校へ辿り着く。すると木造校舎の前に停車している一台のボルガが彼女の目に鮮明に飛び込んできた。町ではほとんど目にすることもない立派な公用車だ。こんな真っ黒な車に乗っているのは、おそらく地元の党の役人くらいだろう。それにしたって、この車の持ち主は学校に一体何の用事があるというのか。彼女は教室へ急ぐ他の生徒の群れに混じりつつ、その車を物珍しそうにまじまじと遠目に見つめながら建物の中へと入る。
「おはよう、ナタリア・ニコラエヴナ」
階段を登る手前で、突然声が近くから響く。
身体をびくりと微かに震わせたのち、その声がした方向を振り向くと、そばの壁側には見慣れた一人の教師が立っていた。
「おはようございます先生…まだ、遅刻では無い、ですよね?」
ナタリアは不安げな表情を隠さず、それを目の前の英語教師、ユリアに向ける。
ソ連の学校は“3-6-2”制で合計11年間(義務教育は9年生まで)であり、大学に進学するまで同じ学校に通い続けるのだが、2月に誕生日を迎えたばかりの彼女はもう16歳で、もうすぐ上級学年の10年生だった。上級生は年下に手本を見せる立場にある以上、情けない姿はあまり見せられない。特にこんな人通りの多い階段の手前で面倒な教師に何かと注意を受けるのはとても気恥ずかしかった。自分とは十も歳の離れた小さな男の子たちが彼女の背中を指差して何か言っているのが彼女の耳に飛び込んでくる。
「ええ、まだあと10分あるわ。いつもギリギリね、もう少しくらい早く来れるんじゃないかしら?毎日髪の毛を小ぎれいに整える必要だってないのに」
年配だが歳を感じさせない、典型的なソビエト女性らしい威厳のあるユリアは随所に棘のある喋り方で、少し含み笑いを浮かべて言った。
「それにこんなに短い。今日最初の授業はなんですか?」
彼女は、今度は何の意図があってかナタリアのスカートの裾をじろりと睨みつけている。
「音楽の授業、…ですが」
普段ならいくらスカートの丈が短くとも見て見ぬ振りをされるのがお約束のはずなのに、今日の彼女は異常なほどナタリアの粗探しを繰り返す。
「その音楽の授業を見学したい、とおっしゃるお客様がお見えになっているんです。何でも、あなたに対して用があるんだとか…」
それまでじっとナタリアの足元を入念に見つめていたユリアが、突如険しい表情の刻まれた顔を上げる。
「えっ、私に…!?」
「共産党中央委員の方です。はるばるモスクワからあなたを訪ねて来たんだとか。あなたのような勉強の出来も良くない生徒なんかに一体何の用があるのかは知りませんが…くれぐれも失礼が無いように。そのみっともないスカートはもちろんのこと、泥が跳ねた革靴も後からよく磨いておくことですね」
彼女はぶつくさと、それまでの溜まりに溜まったナタリアに対する不満や愚痴をここぞとばかりに吐きつつ、それだけを言い残すとようやく踵を返しかける。
当然後に一人ぽつんと取り残されていたナタリアは、言葉の意味をまだ半分だって理解できていない。
「ま…、待ってください先生!?私、何か悪いことでもしたっていうんですか…?」
心配性な彼女の頭に真っ先に浮かんだのは、自分が本来なら違法である外国の音楽を日常的にラジオで聴いているという事実だ。
ソビエト国内に張り巡らされた秘密警察の監視の耳が自分の家も盗聴していて…なんてことも考えられなくもない。心配事が次々に頭に浮かび上がって来ると、彼女の表情は瞬く間に青ざめた。しかしそんな違法行為を働いているのは彼女以外の知り合いに数多くいるのは事実であり、そんな中、なぜ自分だけが、わざわざクレムリンの役人に目をつけられてしまったのか…という気持ちの方が、今は強かった。
「私だって何も聞いていませんから。それにアポイントも何もなしに今朝突然訪ねて来たのです。何にせよ、党本部からやって来た政府の高官に、無礼な姿など見せられますか?」
再びナタリアに向き直ったユリアは先ほどよりもずっと囁くような早口で言った。
どうやら彼女もまた人生で一度、会うか会わないかというほどの人物を前にしてひどく緊張し、神経を尖らせている様子であった。
ソビエト政府の理念を細やかな部分まで、徹底してナタリアに守らせようとする今日の奇妙な彼女の様子や言動から、ようやく事の重大さが現実味を帯びてナタリアの元へ押し寄せて来るのだった。
音楽室に入ってきた生徒がそれぞれの席に着き隣近所の生徒同士で談笑し合う普段通りの喧騒の中、音楽の教員ヒョードルが入ってきた。若く気弱そうな男性教員で、いがぐり頭とその小動物的な仕草から、生徒たちからはヨージク(ハリネズミ)という愛称で呼ばれている彼だったが、普段よりますますぎこちないその姿を見ても、やはり彼もまた突然の訪問者にどこか動揺している様子であった。
「えぇっと、みなさん、では今日は先日の続きではなく、別の曲で…」
平静を装っているが、黒板に刻む一文字目から白いチョークが折れて床に落ちる。慌てて折れた半分を拾い上げると同時に、音楽室の扉ががらりと開いた。
緊張感に包まれた生徒たちの視線が一斉に音楽室の扉の方に向かって注がれる。
「も、もうお見えになられたんですか?」
ナタリアはその場にいた誰よりも固唾を呑んで彼を見つめる。自分に会うという目的でこの場所にやって来た彼は、どのような容姿をしているのだろうか。
小ぎれいなスーツが印象的な彼は、さほど身長が高いというわけでもなかった。170前後の身長で、年齢三十〜四十歳前後に見えるが、実はもっと歳上かもしれない。掻き上げて後ろに流した自分よりも少し暗めの亜麻色の毛髪に部屋の照明が当たり、微かに光沢を放っている。
「気にせずに、続けてくれ」
彼は音楽室の壁に寄りかかるとにこやかに微笑み、授業の再開を促した。地方の役人には愛想の悪い人間も多いが、モスクワからやって来た彼の愛想の良さはというと、不思議と心奪われそうになる魅力があるほどだ。
ヒョードルはよそよそしくぺこりとお辞儀をしたのち、二十数名の生徒たちを全員窓際に集めて合唱の体形に並ばせ、黒板にチョークで歌う曲名を、観客であるその男にも分かるように大きく書き込む。
『Москва Златоглавая(モスクワの黄金ドーム)』
ヒョードルの伴奏に合わせ、生徒たちは声を重ねて歌い上げる。ナタリアは最前列で歌っている間にも、音楽室の壁に寄りかかり腕を組みながら集団の一人一人に目を配っている彼を、つぶさに観察する。彼女に用があると言ってやって来たという彼はさすがにナタリアの方をじっくり観察している様子で、何度も視線がぶつかる。彼は謎めいた穏やかな笑みを終始崩さないが、そんな表情を向けられたナタリアは当然、どのような表情を作ればいいものかとしきりに悩んでしまい、歌っている自分はきっと可愛くない表情をしているのだろうと、よく分からない不安に駆られて、今すぐにでも鏡を見て安心したい気持ちになった。
「素晴らしい歌声だね」
歌い終えた時、たった一人の観客である彼から拍手が上がり、その場にいた生徒たちはようやく緊張から解き放たれたように周囲と顔を見合わせ、教室全体にはどよめきが起こる。
ヒョードルもそんな様子に安堵したらしく、小さなため息をつく。
その後も生徒たちはヒョードルの指示で何曲か歌い、授業の後半には全員で輪になり有名なロシア民謡である『カリンカ』を、簡単な踊りも交えて歌う。そして終業の鐘は、もうすぐというところにまで迫っていた。
共産党員を名乗る壁際の彼は一体何の目的があって見学しに来たのかと、この教室でただ一人、ナタリアの頭に残る疑問は全く解消されず、むしろその疑念は授業が終盤に近づくに連れて、ますますと深まっていた。
「本日は素晴らしい歌をありがとう。これだけの歌声をソビエト国内の、しかもこの地域だけに留めておくなんて、もったいないくらいだ、いずれ君たちをモスクワにも招待しよう」
クラスの生徒たちがわっという大きな歓声をあげる。この場にいる生徒のほとんどが、ウクライナ共和国から遠く離れた首都のモスクワには一度も足を運んだことがなかったのだ。
そして彼は改めて、ナタリアにさりげない視線を送る。
彼女はふいを突かれたように、びくりと姿勢を正した。彼の視線は穏やかな表情の中でもひときわ尖っており、心の奥底まで見透かすような鋭さがある。
「それでは本日最後にはなりますが、生徒を代表し、このクラスで音楽の成績評価がトップであるナタリアに、友愛と感謝の気持ちを込め、ソビエト連邦国歌の独唱をお願いしたいと思います」
ヒョードルはピアノの椅子から立ち上がると、あらかじめ準備していたような説明ゼリフを口にする。まさか一人で歌うことになるなんて事前に聞かされていなかったから、彼女はクラスメイトの中でただ一人、ひどく困惑した。党員の彼が歌うように頼んだのか、ヒョードルが勝手に決めたことなのか…どっちにしろ、党員の彼が自分の歌声を聴きたがっているのは間違いなさそうだ。
自分は今試されているのだと、怖気付いていた。
国歌をどのように歌うかでソビエトに対する忠誠心を推し量るつもりなのだろう…。
重圧に負けぬように、両手の拳を強く握りしめて大きく深呼吸する。
「いやヒョードル、申し訳ないが、国歌はいい」
ナタリアの緊張の糸は、共産党員の彼のそんな言葉でぷつりと切れる。彼は手元に抱えていた革のカバンから一枚の譜面を取り出すとナタリアのそばにやって来る。彼女の胸の鼓動は激しく脈を打ち、緊張感は高まる。そして微かに震える手で、譜面を受け取る。
「君にはこれを歌ってもらいたい。歌えるかな?」
彼女は手渡された譜面を覗き込むと、ますます驚愕した。五線譜の上に並んだ音符をなぞるだけである程度音を取れてしまう彼女は、今だけはその特技を恨んだ。だって、その曲調はソビエトには存在しないものだから…。
「私に歌ってほしいとは、どういう意味で…?」
「そのままの意味さ。英語の発音も良い君なら、きっと歌えると思うんだ」
なぜ彼は自分の英語の発音の良し悪しなど知っているのか…きっと、教師の誰かが去年の成績表を彼に見せたのだろう。そうなると、ますます彼をがっかりさせるわけにはいかなくなる。
楽譜の冒頭には『Yesterday Once More』という英語のタイトルが刻まれている。メロディと歌詞を照らし合わせていくと、ふと彼女はその曲を以前聴いたことを思い出した。間違いない。それはいつもの夜、こっそり西側のラジオを聴いていた時のこと。それがいつだったかは思い出せない。英語の意味はそこまで理解できるわけじゃないからあの時は聴き流していたが、確かにこんなタイトルで、こんな歌詞だったはずだ。
「難しいなら歌わなくてもいい」
楽譜を握りしめて固まってしまった彼女を、目の前の彼は優しく気遣ってくれる。その言葉で彼女は我に返った。首筋は悪い汗に濡れている。もし、自分がこの歌を歌えば、彼はどんな反応を見せるのだろう?
実は、これは踏み絵なのかもしれない。完璧に歌えば歌うほど、自分の立場が危うくなることだってあり得る…。
しかしそんな時に彼女の頭に浮かんできたのは、先日兄との間で交わされた会話だった。ずっと根拠もなく警戒してきた兄だって、自分が洋楽を聴いていることを悪くは言わなかったし、むしろ好き好んでいたじゃないか。
きっと目の前の彼だってこんな楽譜を持っている以上、この手の音楽が好きに違いない…!
そう思うと少しだけ安心したのか、気づくとナタリアはいつにもなく強気な視線を周囲へ向けている。
彼女を囲む生徒からの期待の視線は相変わらず強かった。少し離れてピアノの椅子に座ったヒョードルの表情にも、どうにか歌ってほしい、という焦りの表情がはっきり刻まれている。そんな彼にも同様の楽譜が手渡されていて、伴奏の準備はとうに整っていた。
人一倍警戒心が強く、常に石橋を叩いて、叩きすぎて前に進めないような部分が、ナタリアは自分の短所だと認識していた。そのせいか、いつだって掴みかけていたチャンスを逃してしまう。もしも自分がこの田舎を飛び出してモスクワで歌うチャンスを得ることになったら・・・?
そんな大きな期待感に包まれた時ようやく全ての迷いが吹っ切れ、決意したように正面を真っ直ぐに見つめると、それまで待ってくれていた彼の穏やかな視線とぶつかる。
「好きなタイミングで始めてくれ」
彼女は一度大きく深呼吸して、後ろのピアノに合図を送る。
彼女と同様に緊張気味の彼は、ぎこちなくゆっくりと頷いた。
ピアノの前奏がゆっくりと流れ始めると、彼女は音楽室の空気を再び大きく吸い込む。
そして彼女は人生で一度も歌ったことがない英語の歌を、たどたどしく歌い始めるのだった。
◇
歌い終えると、彼女は周囲からの拍手喝采に包まれる。全身汗まみれだが、これ以上ないほどの爽快感。生まれて初めて言葉にした英語の歌は、いくら感想を求められても上手く言葉にするのは難しい。全身が心ごと風船のように宙へと舞い上がっていくような、不思議で心地よい感覚としか言いようがなかった。歌詞の意味なんかよく分からないのに、歌詞に込められた言霊が心の内側にすっと溶け込んでくる。
歌った後、下手くそなのかもしれないが、もっと歌いたいと願っている自分がいた。
そして彼女は、政府がこんなにも美しく繊細な曲を規制する理由が、やっぱり分からなくなってしまっていた。
そんな素晴らしくて夢のような体験を終えてすぐ、チャイムの音が鳴り響く。
授業の後、ナタリアは職員室の隣にある来客用の立派な小部屋に通され、件の彼と面談することになった。彼女はソファに深々と腰を埋めながら、立派な木のテーブルを挟んで初対面の彼を前に、先刻から不安げな表情でおし黙っている。
いくらあの授業が夢のような時間だったとしても、本当に自分はあのような歌を歌ってよかったのか…何か厄介ごとに巻き込まれたりしないか、といった心配事は、頭からまるで離れなかった。
「綺麗な歌声だったよ、ナターシャ」
彼女の気持ちを察してくれているように、優しく囁いた。その言葉で彼女はようやく、それまで俯き気味だった顔を上げる。
「君の歌声で僕も若い頃、ラジオにしがみついていたことを思い出したよ。あの頃はフルシチョフが政権を握っていた時でね、…キューバ危機の時代さ。少し周波数をいじるとラジオからはビートルズが流れてくる。その頃から熱心な共産党支持者だった僕だが一瞬で心を鷲掴みにされてしまった。反戦的、平和主義的な歌詞だと言われて、ソ連当局の締め付けは今よりもずっと厳しかったがね」
共産党員とは思えない正直で赤裸々な言葉に、ナタリアは引き込まれるように聞き入っていた。
「申し遅れた。僕の名前はミハイル・トカレーヴィチ。見ての通りの共産党の最高機関のひとつである、中央委員会の文化省に属している。気づいているかもしれないが、僕は君と同じウクライナ出身の、ウクライナ人だ」
彼が差し出した手のひらを握る。
「・・・ロシア人とばかり思ってました」
「ロシア人は怖いかい?」
「・・・少しだけ」
「かなり、だろう。顔色を見ていれば分かるよ」
「す、すみません、そんなつもりじゃ!」
彼女は慌てて否定するものの、ミハイルは全てを見透かしたように笑った。
「西側の音楽を違法に聴いていることがバレて、モスクワから駆けつけた僕に摘発される…、君はもしや、ついさっきまでそう思っていたんじゃないかな」
彼女は個室であるものの、窓の外や廊下といった周囲に一応視線を投げる。
先ほどの話で、彼が自分に危害を加える恐れのない人物であることはよく理解できたのだが、彼以外に自分たちの会話を盗み聴いている人間はいないだろうかと念のために確認してから、常日頃から慎重な彼女は黙ったまま頷いた。
「君みたいな人間を逮捕したい輩は共産党内部にも多くいる。しかしこんなことでいちいち逮捕していたらソ連国内の刑務所は囚人で膨れ上がってしまう。土地がいくらあっても看守が足りてない。そもそも看守が西側の音楽を、囚人から取り上げたレコードで聴いているような有様さ。…肋骨レコードって知っているかい?」
肋骨レコードとは、フルシチョフやブレジネフの時代に庶民の間で流通した粗悪なコピー品の俗称だ。病院に行った際に貰えるレントゲン写真を円形に切り抜いてレコード盤の材料にしたことから、このような名称が付けられた。当然手作り品であるため本物のレコードに比べたら音質が良いとは言えない。それでもソビエトではそれらのレコードを聴く人は絶えなかった。ジャズやロックを聴くため、民衆は警察に逮捕されるというリスクを冒してでも、そのようなレコードに焼いた音楽を聴き続けたのだ。
ミハイルはそのようなソビエトの現状を面白可笑しく笑うが、ナタリア自身ははいまいちその状況が呑めずに困惑した表情を一向に崩せない。
「よし、単刀直入に言おう。ナタリア…君の力が欲しい。君の力が偉大なソビエトを復活させるんだ」
「どういう、ことですか…?」
予想通りのきょとんとしたナタリアの反応を待たずに、ミハイルはさっそく世界地図を机の上に広げる。
「ソビエトという国は決してロシアだけで出来ているんじゃない。ご存知、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニア、グルジア、カザフスタン、タジキスタン、…その他多くの異なった民族が住む共和国を組み合わせて、連邦という形で構成されているんだよ」
社会科の授業でも幾度となく目にしている祖国ソビエト連邦の国土は、やはり、とてつもなく巨大だ。大国と呼ばれるあのアメリカよりも遥かに巨大な国土を持っていると知った時は、自分たちの国家の偉大さに感動したものだ。世界では民族同士の衝突は日常的なのに、ソビエトでは民族同士のいがみ合いはほとんど存在しない。これだけ多くの民族が上手に共存しあっているこの国は、きっと世界的に見ても極めて優秀なのだ。
世界で初めての有人宇宙飛行を成し遂げたのもアメリカではなくソビエト連邦だ。ガガーリンはソ連が世界に誇る英雄である。その誇りがあるからこそ、ナタリアはこの国を、自信を持って好きだと言える。
「君は本当に、この国が好きか?」
彼は巨大なソビエトの地図を指差して、言った。
「もちろん私はソビエト連邦を、誇りを持って愛しています!」
だからそんな彼の問いに対しては、いつでも返事をする用意ができていた。
「本当に、そう思えるかい?」
彼女の答えを聞いたら、今度は試すような口調になった。
「君も聴いただろう、西側世界ではあんなに優れた音楽が生み出されているのに、ソビエトでは未だに様々な規制が緩和されなていない。音楽以外でもそうだ。西側の文明、というだけで、どこか忌避する傾向がある。“退廃的だ”なんて言って…君は本当に、ソビエトの全てが好きと言い切れるかい?それは“井の中の蛙”で終わってはいないか?」
「ええっと、それは…」
すぐさま反論するのが難しかった。世間知らずと言われたら多分それまでの、いくら実際にこの目で確かめてみたいと願っても海外には決して足を踏み出すことのできない彼女は所詮、ソビエト連邦の一庶民に過ぎない。それは事実なのだから、だからこそ、ミハイルの問いは卑怯に感じられた。
それが、負けず嫌いなナタリアの闘争心に火を灯す。
「…私はアメリカをよく知りません。素晴らしい音楽文化が花開いていることはよく知ってますが、一生のうちに絶対に行くこともできない国です、知らないのは仕方がない事ですよ。けれども、ソビエトの素晴らしさには、決して敵いません。ソビエトの人たちは資本主義の世界とは違って、格差も差別もありませんから。そして、まったくの赤の他人でも、必ず大切にするんですから!」
授業で教師たちが盛んに口にしていた言葉を反芻しながら一生懸命に反論した。資本主義というシステムは悪なのだ、という確証はある。肥え太った資本家が労働者を酷使する、崖っぷちに立つような悪夢の世界だ。ミハイルは彼女の真剣な言葉に逐一頷きながら、真剣に耳を傾けていた。
「具体的に、どういう場面で?」
「ソ連人は困っている人を決して見捨てません。駅のホームで困っているおばあさんを見かければ必ず重い荷物を代わりに持ちます。ベビーカーを押していて長い階段を登れなくて困ってるご婦人を見かけたら、数人で一緒になって持ち上げてあげます。ご近所同士の付き合いだって資本主義の国と比べればずっと盛んで、誰も日常的に孤独に感じることはありません。また、それは個々人の関係にとどまらず、国同士の関係に関しても、そうです。ソビエトの同盟国が経済的に困っていれば絶対に支援する。アメリカ率いる西側の軍隊の脅威に晒されれば、絶対にソビエト軍が、その同盟国を守る。決して見捨てる事なく…」
そこまで言い切ったのち、彼女は最後に一言付け加えた。
「だ、誰にだって愛するものに対して好かん部分は絶対にありますよ!好かんところが1個や2個あってん、好きなところが10個でもあったら、それでよか、って思いませんか…?私は、他人との結びつきがのうなった社会なんて嫌ばい!私は、誰もが平和に暮らするソビエトば、ただ、愛しとるんです!」
彼女の熱い言葉を聞いたミハイルは感心するように頷き、なるほど、と言っただけで沈黙した。
ナタリアはまさか自分の口からこんなにも言葉が溢れ出してしまうとは思ってもいなくて、それまで意識した事もなかったソビエトという祖国に対する自分の想いを今頃になって思い知る。それに、感情的になればなるほど自分の言葉にはウクライナ語が多く混じる。本当はロシア人に負けないくらい綺麗で立派なロシア語を意識せずとも話したいと思っているのに、なかなかウクライナ訛りは取れなかった。
「じゃあ…、君が単に知らないだけで嫌いな部分が他にも沢山あればどうする?」ミハイルはようやく沈黙を破る。「君は今、ソビエトには好きなところが10個あると言った。しかし、それに対して、もし嫌いなところが、1個や2個どころではなく、10個も20個も次から次に…ぼろぼろと増えていったら?」
「そんなこと、あるわけ…」
反論の言葉を必死に探る間にも彼の追撃は容赦なく続いた。
「残念なことに、この国はまだまだ沢山の悪い部分を抱えている。それは君が知らないだけさ。無理もない、政府は国民の目が向かないようにそれを必死で隠しているんだから。もし今後そのことを知ることになれば、君はソビエトを好きだと、今のように自信を持って言うことはできなくなるだろうね。…そして今、僕らがその悪い腫瘍を取り除かない限り、この国は近いうちに確実に崩壊する」
目の前にいる人物が、ふと霞んで見えなくなってしまう。彼は本当にソビエト連邦の権力の中枢にいる人間なのだろうか?こんな風に、国家に迫る危機を赤裸々に、権力とはなんの関連もない自分のような一庶民に対して語っているのは、彼女にとって違和感しかなかった。
彼は一体何者なのか?
国を憂いて行動するのは確かに政治家が持つ本来の役割なのかもしれない。しかし彼女がこれまでテレビ等で目にしてきた政治家というのは、いつだって意気揚々と、自慢げにソビエト連邦の成果を公表していたのだ。とある工業製品の生産量は昨年に比べて何パーセントも向上しただとか、アフガニスタンでの作戦は順調だとか。それらの演説は非常に頼もしかったが、時々嘘くさいと思う事もある。しかし彼女はソビエトが偉大だと言うことに疑念を抱いた事もなかった。…自分では、祖国は偉大であり間違いなんてほとんど無いのだと、いつまでも信じていたかったから。
でもこんな話を聞いてしまった後じゃ、一体どちらの言うことを信じれば良いのだろう…!?
彼女の頭の中の混乱は、収まる気配もない。
「残念だが今のアメリカや西側諸国の経済はソ連をはるかに凌いでいる。これが現実なんだ。一方で、ソ連では経済がますます停滞、衰退を辿っている。軍事力や科学ばかりに注力し過ぎた結果がこれだ。これで崩壊しないと思う方が、おかしいと思わないか?」彼の顔が、一段と険しくなった。「そして暴走した軍事力や手に負えない強大な科学技術が、やがて君の身近な人、大切な人の命を様々な形で奪うことにもなるだろう…」
これまで信じてきた国家が消滅するというのは、一体何を意味するのだろう。
自分が住んでいるこの場所は、ソビエトという大きな体制が崩れたらどうなってしまうのか。いくら一生懸命考えたって、それは想像の限界を超えているから、彼女の頭の中は余計真っ白になっていくだけだ。永遠など存在しないことはこれまで生きてきてうっすら理解できていた。だがその永遠が目の前で崩れ去るなんてことが、自分が生きている間に起こるとは全く思っていなかった。自分の大切な人の命が喪われるということも…永遠が喪われるのと同じくらい、想像もつかない事だ。
さきほどの気迫から一転して彼はまた、最初と同様の柔らかい口調に戻ると再び彼女を安心させるような微笑を口元に浮かべるのだった。
「でも。君がソビエトを愛しているのはよく伝わったよ。ありがとう…僕も君と同意見さ。この国が持つ、赤の他者を思いやる気持ちを残したい。それは西側、資本主義社会で多くの人が見失った考え方だ。だからこそ、僕は君が持つ純粋で真っ直ぐな考え方や、荒削りだが美しい歌声が必ずソビエトを崩壊から救い出し、より良い方向へと変革することができると確信したんだ」
そして彼は一枚の紙を革製の書類ケースから取り出して、机に広げる。彼女はその紙を取り上げて紙面によく目を通すが、文中に登場する見慣れない単語を前にして、読み進めるのを止めてしまった。
「これは・・・」
彼女は紙面の、発音することはできるが意味がよく分からない単語を指差す。
「айдолってのは、その、どんな意味になるとですか…?」
彼女はその単語を“アイドル”と発音する。そんな単語はきっとロシア語の辞書には載っていない。
「идол(イードル)という言葉があるだろう。偶像とかいう意味だが」ミハイルはソファを立ち、左手の窓から中庭を眺める。「君にはソビエト国民から愛される偶像、すなわちイコンになってもらいたい。アイドルとはそういうものだ。たとえば…ほら、あの花々のように」
中庭に咲く、星の形のように開いた花々を見て呟いた。共産主義社会では個性なんてものは常に蔑ろにされてしまう。他者との協調性が強く求められる。大衆の中では突き出る杭は打たれてしまうのだ。しかし、そんな社会に画一性を求める共産主義を謳う地上のユートピアにも、必死で色や形で個性を主張する草花が咲き乱れている。この草花は当局の圧力には屈しない存在だ。
「君はウクライナに咲く花だよ、ナターシャ。他にもベラルーシに咲く花、ロシアに咲く花、…様々な花々を集める。かき集めて、僕は一つの花束にしたい。それを、ソ連の人たちに届ける。それが、きっとソビエトの社会を大きく変えるはずなんだ」
「私がウクライナの花…ですか?」
「僕は君の美しさ、華やかさに惚れ込んだよ。歌だって上手い。ナターシャ、君なら絶対に国民から愛される存在になれる。約束するよ」
知らない人が聞けば大げさな口説き文句にも聞こえるような言葉を、ミハイルはナタリアの目を見て真剣に言った。彼女の双眸は大きく見開かれ、頰は薄桃色に染まる。
「西側の風を取り入れた歌や踊り、そして君だけが持つ個性で一緒にソ連を変革しよう。僕が今日、ここに来た目的は、それが全てなんだ」
ソファに座る彼女は、今まで言われたこともないような胸を熱くする言葉に心を躍らせていた。
「…私はソビエトを愛していますし、ソビエトに尽くしたい気持ちは強いです。ですが…紙に書かれたアイドル?ってものになるとしたら、私は、この田舎から離れることになるんでしょうか?」
彼からの提案は、自分がずっと待ち望んでいた夢のような話には違いなかった。
偉大なる憧れの街モスクワ…自分の住む村からは遠く離れた、ソビエト連邦の首都だ。手元にある一枚の紙を握る指の力が興奮で強まっていくことを感じていた。この紙は、夢のような旅のチケットなのだ。
モスクワに行けるだけでもたまらないのに、憧れていたラジオにも出演して、しかも多くの人に感動を与えられると想像すれば、その微かな指先の震えは止まらなくなりそうだ。
しかしながら祖父母や母、兄は、自分がアイドルという見たことも聞いたこともない職業に就くことを、一体どのように思うだろうか?
彼女が生まれる前に父は離婚して家を出た。残された母は兄アレクセイと妹の彼女の二人を祖父母の手も借りながらも大事に育ててきたのだ。兄は軍隊生活でたまにしか帰って来ることができず、その上母はたった一人で祖父母の面倒も見なければならならずに、寂しい思いをさせてしまうのではないか。
そう思うと自分だけがいい思いをして都会に出ることは非常に躊躇われてしまう。自分は母親や祖父母に対して、なんの恩返しもできていないのに…せめて側にいることが、恩返しであるようにも思っていたのだから。
「すみませんミハイルさん。私、今すぐには、決心がつかない…」
他人からも優柔不断だと言われる自分の性格に、またもや嫌気がさしてくる。
自分はいつだって臆病者なのだ。せっかくのチャンスを余計な心配ごとで失ってしまうのか?今後、こんなチャンスは二度と巡ってこないのに。
強く握りしめかけた紙をそっと机の上に置くと、再び、ミハイルの手元にそれを押し返す。
「せっかくのお言葉なんですが、私にはやはり荷が重すぎます…ソビエトの未来を背負うだけの勇気は、私にはまだ無いんです…、ごめんなさい」
ミハイルは何も言わず、黙って彼女から紙を受け取った。
こんなにも煮え切らない態度の自分に彼も心底呆れているだろうと思うと情けなくなる彼女だったが、目の前の彼は、最初から穏やかな表情を少しも崩さない。
「気にすることはない。いきなり難しい判断を迫って申し訳ないね。でも、もし気が変わることがあればこの番号に電話してほしい」
彼は電話番号の書かれたメモを彼女にそっと手渡すと立ち上がって、部屋の戸を開く。彼が居なくなった部屋でナタリアだけがその小部屋に一人取り残される。
ソビエトの広範な地図も片付けられてしまった何もない真っさらな来客机の上に、彼女はただぽつねんと、寂しげな視線をいつまでも落としていた。
◇
日の暮れかけて美しい夕日が西に沈もうとしている頃合いに、それとは対照的な、真っ暗な表情のナタリアはようやく家に帰り着く。庭先に自転車を止めていると片隅にある納屋の中がやけに騒々しい。鶏の叫び声が庭全体に響き渡っていた。
納屋の扉を開けて中の様子を伺うと案の定、祖母が鶏を追っかけ回してようやく捕まえ、必死に暴れて断末魔をあげるその首元に向かって、まさに鉈を大きく振りかざそうとしているところだった。
「おばあちゃん、ただいま…ってごめん、えっと、邪魔しちゃった?」
「あら、ナターシェンカ!どうしたと、そぎゃん顔ばして!」
薄暗い納屋の中でもはっきりと分かってしまうほど、自分の今の表情は酷いのかと驚いた。納屋の中では祖母に首根っこを掴まれた鶏が相変わらず苦しそうな叫び声を上げている。
「…何でもなか。えっと、手伝おうか?」
祖母に余計な心配などかけたくないという気持ちからか、意図せずついそんなことを口走ったはいいものの、この家族の中では誰よりも血を見るのが苦手だったことを思い出すと、彼女は手伝うと言ったことをすぐに後悔する。
「ほんと!そいつは助かるたい!!こいつの脚、押さえてくれん!?」
ウクライナ語で話す、やたら元気のいい祖母に言われるがまま、ナタリアは暴れて羽を撒き散らす鶏の脚を嫌々ながらに押さえる。小さい頃にも一度手伝ったことがあったが、鶏の頭が吹き飛ぶ瞬間は相変わらず大きなトラウマだ。彼女はなるべく見ないようにと、頭を壁の方に向ける。
「今夜はとびっきりん、チキンキエフばこしらえるたい!」
祖母のアンナは嬉しそうに言いながら鉈を容赦なく振り下ろす。その瞬間鶏の鮮血が飛び散り、ナタリアの頰にも降りかかる。やはり鶏のものとはいえ血は苦手だ。生臭い厭な匂いに耐えながら正面を向き、目を瞑る。祖母が首のない胴体を袋にねじ込むが、そうしている間にも首のない鶏はジタバタと暴れまわる。羽毛が宙を舞う。早く頰に付着した血を拭い取りたいという気持ちに耐えつつも、彼女は不気味に暴れる両脚を握りしめて血抜きを手伝った。
「アリョーシカがあと三日でここば発つけんね!今のうちに精一杯なご馳走ば振る舞うとかにゃん!」
「そっか、あと三日…」
アフガンに発つ前、二週間の休暇を与えられた兄だが、時間が経つのは早く、しばらく会えなくなるのだと思うと急に寂しさが襲ってくる。こんな気持ちを抱くのは初めてのことだ。
一緒にいた時にはそんなことなど決して感じたことがないのに…今日学校に現れた共産党員ミハイルと出会い、話したことを思い起こすと、心がざわついた。もしかしたら彼は鉛の棺に入ってこの家に帰ってくるのではないか・・・?
一緒にいることが当たり前になりすぎるとそれが永遠のように感じてしまうが、永遠など決してありえないと、今日は十分に理解させられたのだ。
「あのね、おばあちゃん、もし、この家からアリョーシャがいなくなって、私までいなくなったら…」
「ん!ナターシェンカ、今なんて言うたんと!?」
「あっ、なんでもなか!ああ、…血抜きは、もうこんぐらいでよか?」
祖母に今日の出来事を正直に打ち明けようと思ったものの、聞こえていなかったのをいいことに、結局自分の心のうちに押し込めてしまう。
手元で懸命に抑えていた鶏は、今ではすっかりと動かなくなっていた。
彼女は夕食中も家族の談笑にはなかなかついていけずに一人ぼんやりしながら、いつ、どのタイミングで、誰に、この悩みを打ち明ければいいかと何度も機会を伺っていた。
かつてのスターリン時代に、レニングラードの共産党幹部常連の料理店でシェフをやっていたという、実は華々しい経歴を持つ祖父が腕を振るったチキンキエフも非常に美味しかったことだけは覚えているのだが、味はよく思い出せない。
夕食後に部屋へ戻ってベッドに腰を下ろした彼女はいつものようにラジオの電源を入れようとしたが、スイッチに触れようとしたところでその手を止めてしまった。
何故だか今日はあまり聴く気にはなれなかったのだ。
今、彼女の頭の中には授業で歌ったカーペンターズの『Yesterday Once More』が滔々と流れている。あの出来事はまるで遠い昔に見た夢のように感じられたが、決して夢などではない。確かに今日あった出来事なのだ。
机の上に置かれていた通学カバンの中身を慌ただしく漁ると、案の定、そこには今日ミハイルから渡された楽譜が見つかった。そんな動かぬ証拠を見つめていると、声に出して歌いたい衝動に駆られてしまう…。無論、声を出そうとしたところで理性やプライドが食い止めてくるのだが。
–––––ああ、やっぱり、今日ミハイルさんから託された依頼をおとなしく引き受ければよかったんだ…!
彼女は押し寄せてくる途方も無い後悔に大きくため息をつき、肩を落とした。今更彼に電話をしようにも、何と言えばいいのか分からない。自分の優柔不断さを謝罪すればいいのか?
そんな勇気なんて最初からなかった。
今後も農家でこの一生を終える方が自分のためになるし、その方が余計な心配ごとを産まなくて済むと、自分を偽って平静さを保とうとしていたが、それは所詮ただの強がりに過ぎない。
結局はいつもと何一つ変わらなかった。ソビエトを、広い世界を知れる大きなチャンスが目の前に到来したのに、慎重すぎる性格がそれを無駄にしてしまっていた。
そんな風に一人で落ち込んでいると、突然部屋の戸がノックされる。
「ナターシャ、…なんだ、ラジオを聴いてるんじゃないのか」
アレクセイは断りもなく入って来て早々、意外そうに呟いた。この頃、彼女は部屋で兄と二人一緒に、ラジオから流れる洋楽に耳を傾ける機会が増えていた。
「勝手に入ってこないでよ…」
不機嫌そうな顔を隠そうともせずに彼女は言った。
「ノックしただろ、何を怒ってる?」彼女の傍にまで来ると、彼は手元にある楽譜の存在にすぐ気がついた。「見せてみろ、なんだそれ」
虚ろな目をして隙だらけだった彼女の手からすぐさま楽譜は奪い取られて、彼は薄明かりの下でそれをまじまじと見つめる。
「か、返して…!」
「お前、こんなものを…、どこで手に入れたんだ?」
言うべきか言わないべきか悩んでいた。しかし言わなかったら、たった一つの楽譜は絶対に手元には返ってこないだろう。彼が自分と同等かそれ以上に負けず嫌いであり、納得するまでなかなか譲らない性格であることを、彼女は日頃の経験から嫌という程知っている。
結局は兄の問い詰める強い視線に抗うこともできず、ナタリアは観念したように今日の出来事を正直に打ち明けた。アイドルという聞き覚えのない単語を交えた不思議な計画が、現在ソビエト政府の一部で進行していることをどのように分かりやすく伝えるべきか悩んだが、最終的には兄が教えてくれたような西洋のポップミュージックグループなどを例に挙げて説明する。
「お前がか?よしてくれ、お前の歌なんてラジオで聞いた日には、恥ずかしくて街を出歩くこともできやしない。冗談だろう」
アレクセイは彼女の必死の説明を前にしても笑うばかりで、真剣に取り合おうとしない。
「本当ばい!信じて、モスクワから来た共産党員なの!…私の歌ば聴きに、わざわざ、こぎゃん、辺鄙(へんぴ)な村にまで来てくれたの!」
そんな、いつもとは様子の異なった彼女の言葉で、アレクセイは改めて真剣にその楽譜を見つめた。
一般的なソ連の人間がここまで精巧に作られた英語の楽譜を印刷し、所持できるはずもない。アレクセイは疑問に感じて、その楽譜を改めて真剣に観察する。楽譜はきちんと原本があるコピーなのか、下にはASCAPのロゴが、やや掠れてはいるが確かに刻まれていた。アメリカにおける音楽著作権協会の略称だ。無論生まれも育ちもソ連である彼にはASCAPがなんであるかなど分からなかったが、そんな英語のロゴを見た瞬間、彼はそれがただの楽譜では無いことも、彼女が決して冗談を言っているわけでは無いことも、ようやくどこかで悟る。
「…その共産党員、本当に共産党員なのか?」
彼は初めて、真剣な顔で聞いた。
「どうしてそんなこと、聞くと?」
「近頃は西側のスパイもどこに潜んでいるか分からない、何事にも警戒を怠っちゃならないよ」
「ミハイルさんは、そんな人じゃなか…!」
あそこまでソビエトの将来や、今後のあり方を真剣に考えている人間が、アメリカや西側のスパイだなんて考えは、絶対に持ちたくはない。
それよりも彼女自身が驚いたのは、ただ一度会っただけの彼をすっかり信用してしまっている自分がいるということだった。一緒にいるだけの兄よりも何故、よく知りもしない彼のことを信用しきっているのだろう。慎重深くて疑り深い、普段の自分らしくないところにナタリアはひどく困惑していた。きっと今の自分の頭は、押し寄せる憧れのせいで、冷静ではないのだ。
「…いい人だから信じたいだけ。それに私、好きな歌が歌いたい」
思い切り深呼吸をして少しばかり冷静になった彼女は、ようやく心に抱え続けている素直な気持ちを口にした。「私の歌でソビエトを変えられるの…こんな夢みたいな話あり得ないし、そんなにうまい話があるかって思うかもしれない。ばってん、私は、わずかなチャンスにでも賭けてみよごたる!そして、自分自身ん目で、この広か世界ば、見てみよごたるったい!それが私の、ずっと抱いてきた夢やったけん…!!」
アレクセイは妹の熱い言葉と真剣な表情に、驚くばかりだった。
普段は夢など決して語らず、運命に成り行き任せの彼女の様子とは、まるで別人のようにかけ離れていた。ここまで彼女を本気にさせる彼の存在がますます気になってしまうのと同時に、彼女にはどうかその希望を叶えて欲しいという気持ちも、もちろん無いわけではなかった。
「…分かった、その話が本当だとしよう。しかしお前が行くことになるのはモスクワだぞ?周囲に頼れる人間は誰もいない。いるのは、ここに住むウクライナ人とは違うロシア人だ。ロシア人に田舎者だと、異民族だとバカにされても、それでもお前は強い気持ちでやっていけるか?」
「…それは」
「生半可な覚悟で行こうとするのは許さない。国にその身を捧げる心意気だけは素直に尊敬できるが、国家のために何かをするというのは簡単じゃないんだ」
ナタリアの身を案じているのか、アレクセイの言葉には熱がこもる。軍隊で国家のために訓練を積んできただけに、その言葉には重みがあった。戦地へ向かうことが決まってからというもの、彼は愛国心がなんであるか…国にその身を捧げるのはどういうことなのかと日々、自分なりに考えていた。
「ロシア人なんて、怖くない!」
「本当にそうか?お前たちがこれからやること為すことを資本主義的だと、共産主義を信奉する奴らは罵り、石を投げて迎えるかもしれない。悪ければ逮捕されるかもな…、そんな圧力にお前は耐えきれるか?」
ナタリアは何も言うことができなかった。そのような境遇に耐えられるかどうかなどまだ分からない。実際にやってみないことには、何も分からないのだから。
田舎に住む彼女にとって、それは想像力の限界を超えていた。
「決断を焦って、一生を棒に振ることはない」
アレクセイは楽譜を彼女に返さずに、それを脇に抱えたまま立ち上がると部屋を出て行こうとする。
「待ってよ!」戸口の前で彼を呼び止める。「兄貴は…私がモスクワに行くことは、反対なの?」
「…反対だ」
そっけなく一言呟いたアレクセイは再び踵を返すと、足早に自分の部屋に戻ってしまう。惨めな思いをして取り残された彼女は、カーテンの閉め忘れた窓の外の暗闇を茫然自失の表情でただじっと見つめた。
◇
翌朝、彼女はいつものように学校へと向かう。昨日の出来事が相変わらずもやもやと頭の中にあって、一向に振り払われない。そのせいか今日の彼女はいつもより早起きして、身だしなみも普段に比べてそこまで丁寧に整えないまま家を飛び出した。
学校に到着して駐輪場に自転車を停めると、目の中には、またもや不釣り合いなボルガが飛び込んでくる。…まさか今日もこの場所に来ているとは思っていなかった。
彼もまだ、自分のことを諦めきれてなかったのだろうか?
何にせよ、これはきっと神様が、わがままで優柔不断な自分に与えてくれた最後のチャンスに違いない。
彼女は件の彼の所在を確信して拳を強く握りしめ、今日こそは絶対彼に会い覚悟を決めてやると意気込み、大きく息を吸い込んで校舎の入り口に踏み入れる。
「本日も、共産党員の方がお見えになっています」
まだ人気の少ない校舎の中に入り階段を上がっていこうとしたところ、彼女は昨日と同じようにユリアと鉢合わせる。彼女は階段の手前の壁に寄りかかり、どこか落ち着かない様子でナタリアが来るのを今か今かと待ち構えていた。
昨日よりもそわそわとした彼女の様子に、何故かナタリアは違和感を覚える。
「先生って…どうして今日はそんなに早くから、ここで待っていたんですか?」
ナタリアはほぼ毎日、遅刻ギリギリの時間で学校に到着する。彼女の登校時間なんて、彼女との付き合いが長いユリアにとっては当たり前に把握できているはずなのだ。彼女のそのような鋭い指摘に、目の前の英語教師は、またしても妙な言動を繰り返す。
「別に、あなたを待っていたわけじゃありません、毎日こうして早くから、生徒一人一人に挨拶するため、立っているんですよ…」
彼女が他の生徒に挨拶するためだけに、この場所に立っている様子なんかとても想像がつかなかった。今日だけじゃなく、以前にも早い時間に登校したことがあったが、その時に彼女がここに立っていたという記憶もない。もし彼女の言っていることが嘘だとして、一体何が彼女に嘘をつかせたのだろうか?
ナタリアの頭には妙な不安がつきまとう。少し考え過ぎかもしれないが、いつだって警戒心の強い彼女は、それだけのことで違和感を抱いてしまうのだった。
「本日お見えになっている党員が、あなたにすぐお話があると。こっちへ来なさい」
ユリアは彼女を職員室まで付いて来るように促す。彼女は不審に思いながらも後に続く。しかし彼女の足は、職員室に近づくにつれ、のし掛かる不安のせいか次第に重々しくなっていく。
そして職員室の前の廊下の長椅子に腰掛ける二人のスーツ姿の男の姿が見えた瞬間、彼女は強烈な恐怖を背筋に感じる。何の目的があって二人組の男たちは自分をここに呼びつけたのか。
その中に当然、ミハイルの姿はない。おそらく二人はミハイルとは全く無関係の人間だろう。
「あの二人が…?」
「ええ、そうおっしゃっていました」
何故かこの場から逃げなければならないと心が訴えていた。頰には悪い汗が流れ、膝もわずかながらに震えている。男二人がナタリアの存在に気づいたように長椅子からゆっくり立ち上がる。彼らは怪しまれないように笑顔を浮かべていたが、勘のいい彼女はそれが作り物の笑顔であることを悟る。
「先生、ちょっと、…自転車の前カゴに忘れ物を…」
「なんですって?」
ゆっくり気づかれぬように先ほどから後ずさりを始めていたナタリアは、とっくにユリアとはある程度の距離を保っていた。そして男の笑顔が一瞬だけ獲物を狙い澄ます危険な表情に移り変わった瞬間、彼女の頭の中には逃げろ、というような脅迫じみた号令が鋭く反響していた。
彼女はほとんど生きた心地もしないまま踵を返すと、その瞬間、なりふり構わず一目散に走り出した。
「待ちなさい!誰か!彼女を捕まえて!」
背後ではユリアの奇声がけたたましく鳴り響いている。
やっぱり、彼女は自分をあいつらに差し出したのだ…!
ナタリアはとても信頼していた教師に裏切られたショックに心を痛めていたが、そんなことを考える余裕もなく、今はただがむしゃらに逃げ惑う。背後からは自分を追いかける靴音が激しく鳴り響いている。学校は早い時間ということもあってか人影がほとんどない。誰かに取り押さえられる心配もなく、追っ手から上手く姿を隠すと、彼女は一階の女子トイレに転がり込み、その窓から外へ飛び出し、駐輪場に躍り出た。
自分の自転車に飛び乗った彼女は、整備されているとはとても言えないボロボロのアスファルトの上を全速力で駆ける。
これからどこへ向かおうか…。
追っ手はきっと車に乗り込んでいることだろう。追跡が困難になるように彼女はわざと茂みの中を走ったり、時折どこかの家の納屋に自転車ごと隠れたりしながら、追いつかれないように必死で逃げ回った。
家に逃げ帰ろうという考えもふと頭に浮かんでくるが、きっと自分の住む家の場所くらい、すぐバレるに違いなかった。
もしかしたら他の仲間がすでに先回りしているかもしれない。
…せめて何が起こったのかだけでも知りたいが、無論知るすべもなく。
どうして?何故…?
自分はこのような目に遭っているのか?
とめどなく頭には疑問符が浮かび上がり、彼女の目には恐怖と不安で涙がにじんでいる。
もう誰も信用することはできなかった。どうすることもできなくなって自転車を乗り捨て、今となっては徒歩で逃げ惑っていた彼女がようやくたどり着いたのは、一つのバス停だ。
–––––そうだ、バスで逃げよう。
小さな道路に面する、ぽつりと佇んだ奇妙な屋根を持つ独特なデザインのバス停には、ちょうど一台のバスが停車している。
『リヴォフ行き』と表示されたバスに彼女は何の躊躇いもなく乗り込む。バスの車内は平日のこの時間でも多くの乗客に埋め尽くされている。彼女が後方に空いていた窓側の座席に腰を落ち着かせるとバスには初老の男性客が乗ってきて、彼女の隣に腰掛ける。
「お嬢さん、学生さんか。どうしたんだ、こんな時間に」
ぎょっとして彼女は彼の顔を恐る恐る見つめた。まさか自分を追ってきたのではないのだろうかと警戒するように、とっさに言い訳を練り上げる。
「あ…、いえ、その…リヴォフにいる親戚が病気になってしまい、お見舞いに行けと、突然言われたもので…」
「そうか、それは一大事だ」
彼女が吐き出した嘘を疑った様子もない彼は、何事もなかったように顔を真正面に向けて目を閉じた。彼が自分を密告する恐れはないとは思いつつ、やはりどうしても安心はできない。しかし逃げ惑っていた疲れには敵わず、気づくと彼女はすっかり眠りこけていた。
「お客さん、終点ですよ」
運転手に肩を揺らされた時、ようやく目が覚めて、彼女ははっと飛び上がるように目を開けた。冷や汗で首筋はすっかり濡れていた。運転手はそんな彼女の体調を気遣うが、ナタリアは何事もなかったようにバスを駆け下りる。
リヴォフは西ウクライナ最大の都市だ。ウクライナ語ではリヴィウと発音するため、近年では地図などでもウクライナ語名で併記される機会が次第に増えつつある。ロシア人による民族懐柔政策の一環だった。
小さな町ムィコラーイウに比べても当然ながら、それは別の国にやってきたのかと錯覚するくらいに美しい建物が多く残る歴史も長い古都だが、そこではロシアの文化の影響をほとんど受けず、ウクライナ人の民族的アイデンティティが保たれていた。
観光で何度か訪れたこともあるが普段はあまり行く用事もなかった。そんな近いのに意外にも馴染みの薄い街に辿り着いたナタリアは、まず手持ちのお金がないことに衝撃を受ける。持っていたわずかなルーブル紙幣はここに来る運賃だけでほとんどが無くなっていたのだ。手元に残ったのはわずかなコペイカ硬貨だけ。
追っ手はもう、この街にまでやってくるかもしれない。そもそも自分だっていつまでもここにいるわけにはいかなかった。
かと言って、警察に助けを求めても助けてくれるかどうかは分からない。党の言いなりである以上、自分を助けるふりをして突き出す可能性は十分考えられる。
旧市街の広場の傍に置かれたベンチに腰掛ける彼女は間違いなく周囲からの好奇な視線を集めている。学校の制服のまま飛び出してきたのだから、もし追っ手がこの街にやって来ようものなら、目立つ格好の彼女は一発で見つかってしまうだろう。だからこそ、何としても急いで解決策を見出さなければならなかったのだ。
そんな時、彼女はカバンの中に昨日彼から手渡された電話番号のメモが残されていることをふと思い出す。
–––––気が変わったら電話してほしい。
去り際に彼が残した言葉を思い起こした。今こそ彼の力を借りるしか他に逃げ道もないと悟った彼女は、迷いのない足取りで近くの横一列に6台並んでいるうちの一番端にある公衆電話の前へとやってくる。
今自分がリヴォフに逃げているなんて言えば彼は驚くだろうか。震える手でコペイカを投入しようとするものの、コインは上手く入らずに地面に落下する。少し焦りすぎているのか…。拾い上げて入れ直す直前、一度深呼吸をして彼女はふと何気なく周囲を見渡す。その瞬間、彼女の視界には恐ろしい光景が飛び込んできて…先ほどから握りしめていた受話器が彼女の手を離れ、コードごと垂れ下がる。
50mほど離れた人混みの中にいる二人組が彼女の目の中に鮮烈に飛び込んできたのだ。スーツを着替えたためか、今は目立たない地味な私服姿で自分のことを探している。彼らの顔の特徴はいくらその服装が変わろうとも、鮮明に脳裏に刻み込まれていた。
震え上がった彼女は垂れ下がったままの受話器を持ち上げ、そっと元どおりに置くと、すぐさまその場を離れようとする。
二人組はそばを歩く人々に、制服を着た少女の居場所を尋ねて回っていた。尋ねられた一人の観光客は少女が追われている立場であることも知らず、親切に彼女のいた公衆電話の方向を指差す。男たちがその周囲に目を配ると、逃げ惑うナタリアの姿がようやく映り込んで、彼らは人混みをかき分けながら進んでいく。
人混みの中を必死に逃げながらも、彼女は、彼らがすでに自分を見つけ出したことを背中で感じ取っている。ここまで来るともはや自分が彼らに捕まってしまうのは時間の問題であるように思えた。一体どうしたら彼らからの追跡を逃れられるのか?
しかし、ここまで逃げてきたところで彼女の体力も既に限界に迫っていた。
徐々に歩く速度は落ちていき、彼女の頭の中では、もし自分が彼らに捕まってしまったらどのような罪状を掛けられてしまうのだろうかというような考えが、ぐるぐると回り始めている。もういっそのこと彼らに捕まってしまっても、大した罪になることはないだろう…すぐに疑いは晴れて釈放されるに違いない。
諦めかけた彼女と追っ手との距離とが徐々に近づこうとしたその時、彼女の右手は、人混みから突然飛び出してきた何者かによって力強く掴み取られる。
その瞬間、彼女は恐れに慄いた形相で、手を掴んだ相手をゆっくりと凝視した。
「えっ…!?」
彼女のか細い手を握りしめた手の主は、待ち望んだ大天使ムィハーイロ(ミカエル)の名の通り颯爽と舞い降りた、ミハイル・トカレーヴィチ…その人であった。
第一章(前編) 完
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