チェリー・ブロッサム~cherry blossoms~

 満開の夜桜の下で、俺の命は今にも尽きようとしていた。

 呼吸はどんどん浅くなり、意識はどんどん薄れようとしている。けれど、瞳はなお月夜の夜桜を見つめていた。今際いまわきわまで、この美しさを脳裏のうりとどめていたい。この美しさを彼岸にまで持って行けるのならば、それはどんなに喜ばしいことだろう。


 夜桜が咲いているのは、郊外の、とある御堂みどうの庭先だった。幼い頃に一度見たきりだったが、期待を裏切らずに今日まで咲いていてくれた。あれからもう二十年も経ち、荒れ果てた御堂には誰一人いなくなっている。仏像さえもない。困窮した民が持ち去ったのだろうか。あるいは、無神論を標榜ひょうぼうする過激派が打毀うちこわしたのかも知れない。

 それもこれも、今となってはどうでもいいことだ。

 瀕死の肉体とは対照的に、俺の心は不思議な穏やかさに満ちていた。こんなに静謐せいひつな気持ちになれたのは何年ぶりだろう。それは間違いなく目の前にこの桜が咲いているからに他ならず、この桜がなければ俺の心はこれほどの安息には至れなかった。神も仏も信じる気持ちには今もってなれないが、もし存在するならば感謝しなければならないだろう。

 俺は爆風によってねじ切れた左手を見た。もう何の感覚もないが、包帯からにじむ血潮はなおもしたたっている。桜の根元の土壌に、黒い水溜りが出来上がっていた。

 桜の根は、この俺の血を吸い取るだろうか。きれぎれの意識でそんなことを考えた。

 


   〇



 思えば逃げ続けた人生だった。兵役から逃れ、血縁から逃れ、そしてしまいには自分自身からも逃れようとしていた。

 俺はふたたび頭上の桜を見る。幹に背をもたれさせ、微風に舞い落ちる花びらを眺める。

 俺は桜に恋をする者のように、我を忘れている。

 そんな俺に声を掛ける者があろうとは、露ほどにも想像しなかった。


「あの時のわらべが、ずいぶんと成長したものだな」


 それが声だと認識するまでに、十ほど呼吸を繰り返した。

「……誰、だ……」

 月明かりに照らされて、花の下に歩み出たのは若い女性のようだった。白無垢しろむくの着物に身を包んで、長い黒髪が風にそよと踊っている。

「わからないか。私だ」

 女は腰を屈めるようにして、男の顔を覗き込んだ。

「……すまないが、とんと記憶にない。あんたのような美人、ひと目見たら忘れないと、思うんだがな」

 女は苦笑しつつ、

「口が上手いのは相変わらずだな。それになかなかの男前に仕上がったようだ。さぞかし多くの女を泣かせたんだろう」

「あんたには、関係ないだろう……ごふっ……」

 女は両手の指を、男の顔に添えるようにした。その瞳はまっすぐに男を見つめている。

「……その腕の傷、爆弾から子どもを守ろうとしたのだろう」

 男は意外なものを見る目付きで、女に視線を返した。

「……見ていたのか」

「ああ、見ていた。まったく無茶をしたものだ。もう少し自分を大切にするが良い。ここ数年、自分を省みず、身を捨てるようにして民を守っていたようではないか」

 男はわからなかった。この女はいったいどこから俺のことを見ていたというのか。

 だがそうした疑問は無粋である気もした。こんなに満開の桜の下では、どんなことも起こりうるようにも思えた。そんな思いに駆られるのも、あるいは俺自信がこの世のものでなくなりつつある証拠なのかも知れない。だとするとこれは臨終寸前の幻であろうか。この女も幻なのだろうか。

「幻ではない」

 そう女は言い切った。「私は幻ではないし、お前がやってきた全てのことも然りだ。お前に命を救われたあの子どもも、名も知らぬお前に感謝し続けるに違いない」

 男の脳裏に慈母という言葉が浮かんだ。不覚にも涙が滲んだ。

 女の豊かな胸に、男は顔を埋めるようにして、泣き続けた。涙が、止まらなかった。

「よくやったな。お前は本当に立派にやった。誰もお前ほどうまく出来なかったに違いない。世界はこんなにも残酷で、くそのようなものだが、お前は本当によくやった」

 視界は散る花びらでいっぱいだった。月があまりにも明るかった。

「……だけど、救えなかった。あまりにも多くの人が……死んでしまった」

「お前が思い悩むことはない。もういいんだ。抱えているものを洗いざらい置いてしまえ。ひと時も止まずに降り続ける花びらのように、この樹の下に、置いて行くんだ」

 もう、いいんだろうか。俺は、休んでもいいのだろうか。

 今この時も、世界には銃弾が降り注いでいる。むき出しのエゴがぶつかり合い、無益に命が損なわれている。なのに、俺一人だけがこの旅を終えてもいいのだろうか。

 問いかける想いをよそに、男からは生命の匂いが刻一刻とうしなわれつつある。樹の根元に、血潮の水たまりが広がりつつある。

「なあ……、あんたが誰なのかは知らないが、俺に何か出来ることは、あるか……?」

「はは、こんな時まで人のことを心配するのか」

 女は呆れたように笑った。

「俺に出来ることだったら……、もうどうせ永くはないだろうから……」

 男の言葉はかすれて、ほとんど耳に届かない。

 女はわずかに考え、気軽な口調でこう答えた。

「なら頼もう。ずっとしたいと思っていたことがあるんだ。人間なんか信じたことはなかったが、お前になら私を預けてもいいかも知れない。なんだ、その、つまり……私と結婚してくれないか」

 男は思いも寄らないことを聞いた気分になり、笑った。もう声は出ない。

 男は微笑みながら、頷いた。女は泣きながら、唇を男に重ねた。

 散る花びらが月光にきらきらと輝き、二人を祝福していた。



   〇



 翌朝、息絶えた男の傍らに女はいなかった。桜の樹すらなかった。もう何年も前に幹がられ、切り株だけになっていた桜の根を枕にして、安らかな男の死に顔が、朝の光を受けていた。唇の端には、一枚の花びらが貼りついていた。

 

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