ホテル~hotel~

 われわれは無限ホテルの廊下をさ迷い歩いていた。部屋の扉を開けたのが、たまたま組成そせいの入れ替わる時間と重なったらしい。


「だからハネムーンの宿泊先に無限ホテルを選ぶなんて反対だったのよ」

 ぼくは神妙しんみょうにうな垂れて、彼女の愚痴を適当に受け流す。彼女が無限ホテルへの宿泊に反対だったなんて知らなかったけど、そんなことを言うと事態は悪性の腫瘍しゅようのごとくさらに悪化する。彼女はそれを望まないだろうし、ぼくはもっと望まない。


 とりあえずそこら辺の部屋を適当に見繕みつくろって適当に開けてみることにする。元来、ぼくは無限ホテルというものには懐疑的なので、そのうちぼくらの部屋を見つけることはそう難しいことではないと楽観している。この世に無限など存在するはずがない。あったとしてもホテルの部屋が無限になるはずがない。


 二〇九五号室のドアを開けてみる。内部は広大な砂漠で、キャラバンの群れからはぐれたラクダが群れをなしていた。

 一匹の饒舌じょうぜつなラクダがコカコーラを飲みながら、ぼくに話しかける。

「いやあ、こんなところで無限ホテルに出会えるとは不幸中の幸いでした。もし出会えてなかったら今頃は井戸の側でミイラになってたところです」

「ミイラ?」

 ぼくはオウム返しにそう訊いた。

「そんなことも知らないのですか。群れからはぐれたラクダはよく井戸の側でミイラになるんですよ。何しろわれわれは人間の手を借りなければ、井戸から一滴の水もめないのです。まあ今はコーラを飲んでますがね」

 ラクダは人を小馬鹿にするような目つきで笑った。ぼくは何も言わずに扉を閉めた。


 四八〇一号室のドアを開けてみると、内部は古い教会を利用した野戦病院だった。多くの負傷兵がベルトコンベアーで運び込まれ、治療され、また運び出されて行く。

 胸の辺りをアンチノミーに貫かれた兵士がぼくに問いかける。

「どうして私だけがこんな目に遭わなければいけなかったのでしょうか。ああ、胸に突き刺さったアンチノミーが痛みます。あなたはいいですね、少なくとも鋭いアンチノミーに体を貫かれていないのだから」

 確かにぼくはアンチノミーに体のどこかを貫かれた経験はない。ぼくは頷きながら扉を閉めた。


 もういいかげんにして欲しいと思いながら、一〇三七六号室のドアを開けてみた。荒涼とした月面が広がっており、タキシード姿のウサギがうすきねを用いて古典的な餅をいていた。

「お疲れのようですね。月の欠片かけらを砕いて作った特製きなこ餅をどうぞ。もちろんタダです」

 ぼくと彼女は遠慮なくその特製きなこ餅を頂いた。こんなに美味しいきなこ餅は食べたことがない。仏頂面だった彼女から満面の笑みがこぼれる。

「無限ホテルの一室を間借りして商売を始めようかと考えてるんですが、このきなこ餅は売れると思いますか?」

 そう訊かれたので、ぼくはきっと大丈夫だとうけあった。

「そう言ってもらえるとありがたいです。ところでお客さんは新婚さんですか? そうですかそりゃめでたい。これが本当のハネムーンというわけですね」

 ぼくと彼女は顔を見合わせて笑いあった。

 渋めの緑茶を飲み干してから、われわれはそっと扉を閉めた。


 それからほどなくして、ようやくわれわれは元の部屋を見つけることが出来た。

 シャワーを浴び終える頃には、もうぼくの頭から無限ホテルの存在を疑う気持ちはほとんどなくなっているようだった。われわれは吸い込まれるようにベッドに倒れ込み、朝日がのぼるまで泥のように眠った。

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