シャドウ~shadow~

 夜明けの四時頃に誰かがドアをノックする音が聞こえたので、開けてみると幼い頃に生き別れになっていたわたしの影でした。

 わたしは湯沸かし器でお湯を沸かし、影の好きだったエスプレッソをれてやります。

「ありがとう、ぼくがエスプレッソを好きだったのを覚えていてくれたんだね」

 影は冷え切った体を温めるように、ゆっくりとエスプレッソを飲み干しました。


 いつまでいられるのか、とわたしはたずねましたが、あまり長居はできないようです。影は影なりにいろいろあるのでしょう。

「こんなことを今さら言うのも何だけど、ぼくは好きで君から離れたわけじゃないんだ。だってぼくは何と言ったって君のたった一つの影だったからね」

 それはわかってる、とわたしは答えました。わたしだって、あなたのたった一つの本体だったのだ。

「そう言ってくれるとありがたいよ。最後にわがままを言うようだけど、ぼくがいなくても君は君のままでいて欲しい。たとえぼくという影がいなくなったとしても、君は君のままであることにかわりはないのだからね」

 わたしはうなずきました。空がしらみ始め、朝日が昇ろうとしています。

 

 それからわたしたちは最寄の駅まで、幼い日のようにぴったりと並んで歩きました。夜明け前の町並みは閑散かんさんとしていて、わたしたちを見咎みとがめる者は誰もいません。

 駅の改札をくぐると、ちょうど始発の電車が着いたところでした。別れ際、わたしは影が大事にしていた玩具おもちゃや、読みかけの雑誌や、まだ開封していないCDなどを紙袋に入れて手渡しました。影は喜んでいましたが、どことなく寂しそうな表情でもありました。


 発車のベルが鳴ります。わたしはこう言いました。

「ねえ、これからわたしはどうやって生きていけばいいの」

 影はわたしの手を握りながら、

「君なら大丈夫だよ。ぼくがいなくてもやっていけるさ」

 わたしは泣いていました。涙が止まりませんでした。

「大丈夫だよ。君は気付いていないようだけど、列車が見えなくなったら足元を見てごらん。それがぼくから君への最後のプレゼントだ」

 ドアが音を立てて閉まろうとしています。わたしたちの手が離れました。

「それじゃ、さようなら。君の淹れるエスプレッソが、ぼくは世界で一番好きだったよ」

 そう言い残して、わたしの淹れるエスプレッソを好きでいてくれた影は、列車といっしょに線路の彼方に消えて行きました。

 影がいなくなってからも、わたしは新しい朝の光の中で泣き続けました。わたしの足元の大地に、わたしの新しい影が映り始めていることにも、しばらくは気付けないほどに。

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