マッサージ~massage~

 ある朝、気がかりな夢から目を覚ますと、私が一頭の羊に変身していたのです。

「めええ」

 鏡の前で一声鳴いてみました。まごうことなき、正真正銘ガチの羊です。


 さて、困りました。実はこれから大学受験のために、受験会場までおもむかなくてはならないのです。

「めえめえ」

 うろたえた声を出しても、誰も助けてはくれません。

 窓の外では、ちらちらと小雪が降りしきっています。

 幸い、まだ時間に余裕はあるようなので、フロントに電話をして事情を話すことにしました。

 電話を掛けるまでがひと苦労です。羊のひづめとプッシュホンは相性が悪いですね。


「めええ、めええ」

「なるほど」

「めえめえ、めえめえ」

「そうですか、わかりました。ええ、ご安心ください。当ホテルでは気がかりな夢を見て羊になってしまったお客様に対しても、万全のサポート体制を取っております」


 さすが都会のホテルは違いますね。田舎の民宿ではこうは行きません。


 十分ほどすると、マッサージ会社から派遣された羊専門の按摩師あんましがやってきました。

「めええ?」

 なぜ按摩師がやって来るのか、まるで理解できません。

 按摩師はいかにも年季の入った、中年の男性でした。

「この商売も長いけど、羊からの依頼は五年ぶりだよ」

 何かの手違いでしょうか。私はただ人間に戻りたいだけなのですが。

「遠慮しないで。こう見えて羊の扱いには慣れてるんだ。見たところ学生さんのようだね。サービスしとくよ」


 それから二十分ほど経過しました。

 羊の扱いに慣れているという按摩師のげん伊達だてではありません。たちまちに体中がほぐされ、血の巡りが見る見る良くなります。

「めええ……(もふもふ)」

 こんなことをしてる場合じゃないのですが、体が言うことを聞きません。

「気持ちいいかい?学生さん、〇〇大学の受験で来たみたいだね」

 なんとなく上の空で耳に入りません。

「大分ストレスが溜まってたみたいだね。五年前もこうして学生さんのように羊になってしまったお客をマッサージしたもんだよ。あの日もこんな風に雪が降ってたな」

「めええ(もふもふ)」

「知ってるかい?六世紀の終わりに百済くだらってところから、二頭の羊がわが国に献上されたんだ。『日本書紀』に載ってるから、興味があるなら読むといい。当時の日本列島には羊がいた形跡がほとんどなかったみたいだから、推古天皇その他の人々は、その時はじめて羊を見たってわけだ。多分聖徳太子も見たんだろうな。で、その羊、それからどうなったと思う?」

 次第に眠くなってきました。

「……めええ……?」

「実は私も知らないんだよ。わはは」


 ジリジリと鳴る電話の音で目が覚めました。部屋の中にもう按摩師の姿はありません。

 ごく自然に受話器を取りました。

「もしもしフロントです。お客様、首尾よく人間に戻られたようですね。受験の時間が迫っておりますので、そろそろご準備された方がよろしいかと思いまして」


 鏡には私の姿が映っていました。もうどこにも羊の姿は見えません。。


(追記)受験はかろうじて、補欠合格でした。

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