第2話ダビット=オイストラフ
「ハハハハ、あいつらしいな。トロンボーンとトランペットを間違えるなんて、音も少し違うだろうに」
僕と吹奏楽部顧問の先生との話に、担任の先生が加わってそう言った。
「そうですね、でもヘンダーソンのトロンボーンは音が明確で、ちょっと聞いただけではどちらかが判断しづらいとは思いますがね」
さすがに顧問の先生だけあって、音楽のことはよく知っているようだった。すると少し離れた所から近づいてくる先生がいた。
「私はジャズはほとんど聞かなかったんだけど、今度のことで彼らの、クルセイダーズの音楽を初めて聴いてね、良かったよ、素晴らしかった。クラシカルは好きで高校の時から聞いていたけど。まあ、面白い話だから聞いてもらうかな。実は私はバイオリンが好きじゃなくてね」
「バイオリンが、嫌いなのにクラシックですか? 」女性の先生も加わった。
「小さい頃家の近くにバイオリン教室があって、子供たちの音でね・・・」
「ハハハハハ!トラウマってやつですね」
「そうそう、だからピアノ協奏曲はいいけど、バイオリン協奏曲は聴かなかった、聴けなかった。でもダビット=オイストラフを聞いてからは、ああ、若い君は知らないかい? 」
「いえ、知っています」
「知っているの! 驚き! で、どう思った! 」
「正直僕も先生と同じで、あまりバイオリンが好きではありません、でも彼の演奏は別です。きっと音源が残っているバイオリニストの中でも頂点に位置する人の一人でしょう」
「そう! 君わかっているね! 私もそうだった! オイストラフを聴いてから彼の演奏のすべてを聴いて、それから他の演奏者も聞くようになった。でもオイストラフがやはり好きだ。で、思ったんだよ、なぜこんなにいいのかって。
よくよく聴いてみると彼の演奏にはバイオリン特有の引っかき音がほとんど聞こえない。チェロのような安定感があるような気がする」
「そう言えばそうですね、名手と言われている人には完全に二タイプ、両極にいるような気がします。一方はその楽器の特徴を最大限に生かす、もう一方はオイストラフやヘンダーソンのように、その楽器の特徴ではあるけれども、人によっては不快な雑音的なものを全く排除しての演奏をする」
「さすが顧問だね! 私も実は前の学校では吹奏楽部の顧問だったんだけど今は先生がいるから辞退できる」
「いえいえ、いつでも可能ですよ」僕のことはそっちのけで話していたのに先生たちはやっと気付いて
「ああ、ごめん、君との話だったね」と席に戻っていった。
大型連休が終わり、日差しも強くなり始めるころに、僕はやっと吹奏楽部に入部することを決めた。
「なあ、一緒に入ろうよ! 音楽好きなんだろう? 部長とか他のみんなから言われているんだ「彼も誘って、男手が欲しいんだ」って。でも女の子の目が違うから別目的とは思うんだけど」
クルセイダーズを聴いてトランペット担当になったクラスメートから、毎日のように言われた。だがそれをずっと断ってきた、家や他の所でのんびりしたいと思ったからだった。
でも、そうできないことが起こった。彼が入部してすぐに、帰宅部で情報が少ないはずの僕の耳にすら入ってきた。
「あの子、全くの未経験者なのに結構すぐに音が出て、それがいい音なのよね」
クラスで聞いたわけではない、廊下で聞いた話だった。それからさらに数日後、連休の合間の日、吹奏楽部の練習が始まってすぐだった。
「ヘンダーソン? 」
トロンボーン特有のやわらかい音、でもはっきりとした輪郭を持った音色に
「まさか」
と思って僕は帰り支度のカバンを誰かの机にボンと置いて、学校中を駆け回った。
いろいろな所から音がする。フルート、サックス、クラリネット、トランペット、トロンボーン、ホルン。その中から自分の目的の音を聞き分けるのは、僕にとってはそう難しくはなかった。
「いや、これじゃない」
誰もいなくなった教室で練習している人間を、悪いと思いながら通り過ぎ、目的の音の教室にたどり着いた。そっと戸を少しだけ開けた。
逆光の中、その生徒は練習していた。ロングトーンだがそれは楽しそうに。
彼の音がまるでムソルグスキーの「禿山の一夜」の、最後のフルートソロ、その一番最後の音のように、美しく長く続いていた。僕はその音が終わるのを聴いて、戸を閉めずにその場を去った。
「まだ、出会って十日の楽器・・・」
自分が結び付けたものが、逆に怖いほどに感じられた。
「聞いたか? お前、あいつがトロンボーン持った時の話」
「ハイ、聞きました」
「あいつがすぐにトランペット渡されて、さすがに最初は音が出なくてさ、でも次の日には結構出るようになって「ヘンダーソンはトロンボーンだ!」って笑われて吹かしてみたら」
「スライドの途中で固まったったんでしょう? 正直だから本人から聞いたんですよ。先輩が写真を撮ってて、確かにすごく面白い顔してましたね」
「目が点! ってなあ。トロンボーンはまあ、加減があるから、あいつにはトランペットが合っているんだろう。だが、お前はチューバで大丈夫か?背は案外高いが、細身だし」
「仕方がないです、余っているのはそれしかなかったし、トランペットはやりたくはない」
「確かにな・・・」職員室にもトランペットの音が届いてきた。
「本当に上手よね・・・今までいた生徒で音大を目指して小さな頃からって子はいたし、今もいるけど。まったくの素人からって言うのは・・・君もすぐ上達しそうね、クルセイダーズのように高校の同級生で世界的なグループが結成できたりして。
私ピアノしてたからジョーサンプル大好き! スティックスフーパ―のドラムも好き」女の先生が言った。
「そうですね、クルセイダーズは奇跡だと思ってましたが」
その先僕はどう言ったらいいかわからなかったので、頭を下げて職員室を出た。
「いい子ね・・・イケメンで」
「先生、狙ってるなんて言わないでくださいね」
「見ているだけで満足できる年になったのよ」
「そうですか」しばらく笑いが続いたが、数人の先生はちらりと思った。
「あの子どこかで・・・でも違うか、苗字が違うもんな・・・でも・・・」
部室へ戻りながら僕は思い返した。
「そうだ、奇跡に近いことが起こるのかもしれない、僕はそれを見てみたい、彼の側で。彼はトランペットを始めて、「僕のおかげだ」って、すごく喜んでくれたけど、だましているようでちょっと心苦しい。でもそれでも、クルセイダーズが起こした奇跡なら、僕は見届けなければいけない」
高校一年生、その年にしては可哀そうなくらいのしっかりとした決意だった。
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