第八章
八月二十九日。毎年開催される田陀川花火大会に町は盛っていた。昼下がりになると、浴衣姿の男女がどこからともなく現れて、完全に日が沈んだ頃にはもう町はそうゆう人でひしめき合っていた。そういう人とは、例えば家族連れや初々しいカップル、お元気な老夫婦にヤンキーっぽくて少し怖い男の人など。観覧に集まる人たちはみな色々。でもみんな、年に一度の催しに胸を踊らせているという事に変わりはない。
屋台から立ち昇る甘辛い湯気、幸せそうに膨らんだ真っ赤な提灯、どこからか聞こえてくる横笛と小太鼓の愉快な音に町のボルテージは最上級まで高まった。舞台は整ったと言わんばかりの熱気が、花火の予定時刻を今か今かと待ち侘びる。
大抵の人は田陀川に沿った、広大な河川敷にレジャーシートを敷いて構える。その後ろで屋台が永遠に立ち並んでいて、まるでこの広大な河川敷で花火を見るのが当たり前かのように、人々は皆ここに集まる。
だけど、僕は毎年そこには行かない。そこではなく、家から徒歩十分くらいのところにある『鎌田倉庫』という倉庫の屋上に行く。あの河川敷に行ってしまうと、あそこの押しつけがましい雰囲気に飲まれてしまいそうだから。あと、鎌田倉庫の屋上は僕が人生で初めて花火を見た場所だから。
十四年前、父さんと一緒に。
催しは19時30分~20時30分まで。
父さんとの待ち合わせは鎌田倉庫の屋上。そこは学校の屋上よりも少し広くて、清潔とは言えないが、花火をより近くで一望できる開放的な場所だ。特に時間は決めていなかったけど、僕は何となく19時15分にはそこに到着しておいた。そこは毎年誰もいなくて、この時も屋上にはまだ僕だけだった。毎年ここは誰も来ないから、この後もう一人ここに加わるというのはなんとも新鮮で緊張した。さらに、そのもう一人が幼い頃から何年もの間別居している実の父親であるということを考えたら首の周りがそわそわして落ち着かない。
しばらく待った気がした。でも父さんはまだ来ない。
スマホの電源ボタンに指を触れ、液晶に映る現在時刻を確認しては、さっき確認した時とまだ数字が変わっていないことに驚き、さっとスマホをしまう。でもちょっとしたら、やっぱり気になってもう一度確認してしまったりした。その度に同じリアクションをしてはスマホをしまう。そんな動作を二十回ぐらいして、もう父さんは来ないんじゃないかなんて思った予定時刻ギリギリ、とうとう、この動作に終止符が打たれた。
下から屋上に繋がる鉄の螺旋階段が、銃声の如く慌ただしい音を立てた。振り返ると、
父さんが相変わらずの汚れた作業着姿でそこに立っていた。立っていたと言っても、走ってきたせいで息が切れていて、両手を膝について体全身で呼吸をしている状態だ。丸まった背中が起伏している様は、子供みたいで必死さが伝わってきた。ここもそれなりに広い所だから、階段を上りきってその場で足が止まってしまった父さんと、屋上の縁にいる僕との距離はまだ30メートルくらいあって、どんな顔をしているかまでは認識できない。
まだ息切れしている父さんがすぐさまこっちに向かってきた。さっきまでは、別居中の父さんとどんな会話をしたらいいのか、という事で頭がいっぱいだったけど、目の前の必死な父さんの姿を見ているとなんだか面白くて
「大丈夫? 時間なかったの?」
と素直に話しかけることが出来た。
「いや、どこのコンビニにもこれ売ってなくてよ。祐介、ちっちゃい時これ好きだっただろ。」
まだ息切れしている父さんが差し出したのは、あのフルーツ牛乳だった。
受け取ると、そのペットボトルの表面が結露した水滴に覆われていて、目の前の必死な父さんみたいで思わず笑ってしまった。
そして、この人がようやく息を整えて顔を上げると、僕は驚いた。この人は、口から上に包帯を巻き付けていて、髭の生えたミイラみたいになっていた。聞くと、どうやら仕事中に顔を怪我したらしい。
どう労えば良いのか分からず戸惑っていると、突如、その包帯が明るく照らされて、そのすぐ後に背中の方から町中を包み込む爆発音が鳴った。慌てて振り返ると、絢爛豪華な大輪がもうすでに夜空を鮮やかに覆いつくしていて、一瞬にして僕は心を鷲掴みにされた。
純粋無垢で最大限の情熱を表現する赤。繊細で淑やかに、でも確かな輝きを放つ青。
その後も連発して次々と花火が打ち上げられ、その度に何度も夜空の色が変わっていく。黒色は何色にも染められない、とかって聞いたことがあるけれど、そんなのは間違いだと思った。今、田陀川の上空では黒のキャンバスが赤から黄色、青から緑にと絶えず色を変えて輝いている。それから、ピカリっと光った後に遅れて聞こえてくるあの爆発音は耳で聴くというより、心臓で感じるものがある。
満開の状態は麗しく、散った後に残された黒の余韻は儚い。そしてその掛け合いが僕をあのキャンバスへと惹き寄せた。
やっぱり僕は花火が好きだ。
華が輝くその下ではレジャーシートに腰掛ける人々が照らされていて、その人々の歓声も遅れてここまで届いてきた。
しかし屋上では無言が続いていた。色鮮やかな花火に見とれていて黙っていると言っても間違いではないし、やっぱりまだこの二人の間には緊張が残っていて黙っていると言っても間違いではない。
「花火は好きか?」
この無言の空気をどうにかしようとでも思ったのだろうか、こちらの顔色を窺うようにして、意味のない質問を投げかけてきた。
「別にもう気遣わなくていいよ。」
少し迷ってけど、あえて質問には答えず思っている事をそのままぶつけてみた。
「祐介は大人だなあ。」
一本取られた、みたいな顔でそう言うと、ゆっくり口角があがって、その後ゆっくり下がった。
でもこの会話のおかげで徐々に話が弾みだして、この人は時折冗談を交えたりもした。十四年間経験できなかったこんな時間が楽しくなってきたその時、向こうも完全に緊張が解けたようで、話は女性の話題で盛り上がった。
「好きな女優とかいんのか? アイドルとか?(笑)」
「別にいないよ。(笑)」
「ほんとか? (笑)いるだろほんとは」
「だからいないってば。」
「なんだ怒ってんのかよ(笑)。でもあれだろ? 学校とかで可愛いなぁって思う子ぐらいはいるだろ?」
「いない。」
「嘘つけよ。(笑)・・・・・・
なあ祐介、あのかき氷の黄色い屋台見えるだろ。それでその横の浴衣着た姉ちゃん二人見えるか? あの二人だったらどっちだ?」
「・・・・・・ショートの方。」
「あれか? あの青い浴衣の方か? んんー、お前ああゆうのが好きなんだなぁ。」
女性の話をしたりするのは苦手だったから顔が強張ってしまったけど、会話がそれなりに弾み、嬉し気なこの人の顔はやっぱりいろんな色に照らされていて面白かった。また、自分の顔も同じように光っていると思うと、少しだけ僕らが繋がっているような気持ちになった。
午後八時十分。もうそろそろ花火も見慣れてきて、スマホの液晶に目をやると母さんからメッセージが届いていた。母さんは僕に帰宅の時間を尋ねていて、ごく普通の内容だった。でも母さんの顔を思い浮かべたら、横にいるはずの男が、過去に母さんを苦しめた元凶であるということを思い出した。
実は母さんには嘘をついてここに来た。父さんと花火を見るなんて怖くて言えなかったから「小学五年生来の友人に誘われた」なんて言って来た。その時の嬉しそうな母さんの顔を思い出したら罪悪感が湧いてきて、ちっとも花火が綺麗じゃなくなった。
横を見たらこの人の口元で、花火に反射した銀歯が笑っている。複雑な気持ちになって目線をもう一度花火に切り替えると
「母さんか。家は大丈夫か? こんなこと言える立場じゃないけど、困ってることあったら今何でも言ってくれよ?」
たまたま液晶の文字が見えたらしく、心配そうに言った。その時の声は優しかった。
でも、その内容自体は全く優しくない。
それは単親家庭を勝手に労わってくる冷たい世間の言葉とまるで同じだった。さっきまでの会話を全て忘れ、横の人間が憎い世間の一欠片に思えた。それに母さんへの罪悪感が混ざり、急に頭痛に近い混乱が僕を襲った。
何も言えず黙ったまま屋上の柵を握りしめ歯を食いしばっていると、次第に柵を握る手が震えを覚え、ついには悲しみや罪悪感が完全に怒りへとすり替わった。
そもそも、あのクソ親父は世間と同じ目線で労わることすら許されないはずだ。長谷川家が母一人、子一人になったのは間違えなくあのクソ親父のせい。なのに今更どの口がこんなことほざいてやがる。ちくしょう。どいつもこいつも。・・・・・・
僕の中ですべてが吹っ切れた。
「お前だろうが。お前のせいで今は母さんが一人で何から何までやってんだろうが。まだギリギリ家族だと思ってたのに、そんな余計な心配お前にだけはされたくなかったよ。イカれたテレビ番組がシングルマザーの家庭を厚かましく労わって、それ見た視聴者が感動して泣いて、はい終わり。今の世の中は終わってるよ。でもお前もそのうちの一人だよもう。最低だよ。ていうか今更どの面下げて家族の心配とかしてんだよ。どうせ今だけなんだろ。そうやって今だけ心配してるふりして家族の事なんか何にも考えてないくせに。それも今の世間と全く同じだよ。
俺の事なんか何にも考えてないくせに。
運動会とか授業参観日とかで『祐介君のパパはー?』ってみんなに訊かれた時に子供ながらに言葉に詰まったりするあの屈辱的な気持ちが理解できんのかよ。家の電球取り替えてる母さんを見て当時小三のガキが『こうゆうのは男のしごとだから僕がやる』って言った時にこっそり泣きそうになる母さんの前でどうしたら良いか分からなくなって『やっぱりおなか痛いからトイレいってくるー』とか嘘ついて逃げた時のあの切ない気持ちが理解できんのかよ。出来ねえだろうなあ。そりゃあこの十四年間俺には顔すら見せやがらなかったんだから俺の気持ちなんか理解できるわけもねえよなあこのクソ野郎。消えちまえこの馬鹿。最後だから言ってやるよバーカ。チッ。なんで黙ってんだよ。もういいよ、こんなとこに誘った俺が馬鹿だったよ。くそ。」
この時、怒りと悔しさで配合された拳の中の汗は、最悪だった。
普段は心にしまっている赤や青のグロテスクな気持ちを、こんなに思いっきり外に出したのは初めてで、少し清々しくもあった。
でも、もう取り返しのつかなくなってしまったこの空気を、僕もこの人も、どうすることも出来なかった。だから、惨めな気持ちになる前に僕は走ってその場から逃げた。動転していたから走り出した瞬間にプラスチック製の何かを蹴飛ばした感覚が足にあったけど、気にせず走った。螺旋階段はこの人が上ってきた時よりも乱雑な音を立てていた。
その後、鎌田倉庫が見えなくなっても僕は走り続けた。花火を見終えたカップルとすれ違う瞬間は必死で顔を伏せた。走っている最中、蝉の抜け殻を見つけたらわざと踏んづけてやったりもした。
とにかく思いっきり走った・・・・・・
こうして、高校二年の夏が終わった。
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